-紫翼-
二章:星に願いを

58.白い光



 白い光とは、不思議なもので。ただの景色が心を揺り動かすように、見ているだけで手を伸ばしたくなるような優しさがある。そんなことを考えながら、俺は椅子に座っていた。
「全く、あんたに関わると毎回大変な目に遭うものだわ」
 冗談めかしたキルナの呟きが、白い光と同じように耳に当たる。
「――ああ、そうだな」
 がらんとした食堂の窓際。それぞれが頬杖をついたり背もたれに寄りかかりながら、こちらをなんとなしに眺めている。
 あの事件から一夜明けて。俺は、ここで洗いざらいを口にした。記憶のことも、自分の正体のことも、何もかも。
 記憶を全てを思い出したわけではなかったけれど、それらの断片を拠り合わせて物語ることは出来た。あまりに荒唐無稽な物語を、こいつらは誰も口を挟まずに聞いてくれた。
「というわけで、俺は神秘の存在なのでした」
 フェレイ先生に事態を報告するのとは違う、心を波立たせる告白。でも、反応は思っていたものと全く違っていた。
「――これからどうする」
 エディオが静かに口をもたげる。何か物言いたげな顔だったが、それ以上は何も訊いてこない。俺はちょっと考え込んで、窓の外に視線をやった。
「記憶が全部戻ったってわけじゃないからさ。もう少し思い出せないか考えてみる。多分、思い出すまであと一歩だと思うんだ」
 そう。あと紐を一本引けば、見えそうで見えなかったものが手に落ちてくる気がするのだけれど。それから、灰色の子供――ドミニクについても気がかりだった。探し出さないと、取り返しのつかないことになるような予感がある。
 でも、それらを考える前に、俺は言葉にすべきことがあった。
「ありがとうな」
 腕に顎を乗せていたチノがぴんと瞳をあげ、キルナが僅かに目を見開く。エディオは不思議そうに瞬いて、セライムはじっとこちらを見つめた。それらを一つ一つ確認して、俺は俯いた。
「あそこで来てくれてなかったら、多分俺は戻ってこれなかったと思うから」
 ほんの少し面映い気持ちにかられながら頬をかく。でも、心はこれ以上なく穏やかだった。
「……らしくないこと言って。セライムの性格でもうつった?」
 チノが笑って首を傾げる。そうかもしれない、と呟くと、セライム本人が憮然と眉を吊り上げた。
「何を言うんだ、私は――」
 言葉が途切れて、ふとセライムが遠くを見たのはそのときだった。双眸が見開かれ、唇が僅かに震える。
「うん?」
 俺もなんとなしにそちらに目をやって、そして絶句した。
「……スアローグ?」
 セライムの呟きが奏でる名を、信じられない心地で聞く。丁度今しがた食堂に足を踏み入れたスアローグは、こちらを捉え、ばつが悪そうに目を逸らした。しかし、その姿は一歩また一歩とこちらに近づいてくる。
「ちょっと、アンタどうしたのよ?」
 スアローグが口を開く前に、キルナが問いかける。ほんの数日前に別れたばかりのスアローグは、午後の白い光を浴びて、口元を歪ませるように笑った。
「別に。その、帰ってきただけだよ」
 大勢の視線に浴びるのに慣れていないのか、ぎこちなく頭に手をやる。
「なんか、実家にいてもつまらないし。さっさと卒業して働こうって思い直したんだよ」
「……や、お前。ここ結構ヤバいんだぞ」
 その原因の一端は俺にあるわけなんだが。
 すると、スアローグは皮肉な笑みを浮かべて、席についた。あいているのはエディオの隣だけだったが、躊躇した様子はなかった。
「あのね。ここは法治国家かつ世界最先端の軍を備えたリーナディア合州国だよ。こんな事件が起きたところで、すぐに収束するだろうさ。時間を無駄にするのが嫌なんだよ、僕は。それに」
 眉根を寄せて頬杖をついたスアローグは、ちらりとこちらに一瞥をくれる。
「君がまた倒れたり何かやらかしたら、誰が始末をつけるんだい。夢見が悪いんだよ、君を野に放っておくのは」
 それを無防備なままに聞いてしまって、少し泣きそうになった。ああ、ちょっと待ってくれ。こいつ、俺のことを何も知らないのに。なんでこうも気にかけてくれるんだろう。
 熱を放つ心を抱え、何か言わなければと思って、短く呟いた。
「――感謝するぜ、友よ」
「気色悪いこと言うんじゃないよ。大体君ね、そう思うんだったら、さっさと自立したまえ」
 全くだ。自分でも笑う。
 すると、チノがテーブルの上で組んだ腕に頬をつけて、からかうように言った。
「あはは。スアローグも友達思いだねえ」
「そうね、なんか調子が狂うわ。昨日もだれかさんが女子寮に忍び込んだし」
 腕組みしたキルナが、その視線をエディオに向ける。うん、女子寮に忍び込んだ?
 ……。
 ……。

 ちょっと待て。

「……エディオ?」
 氷結する空気の中、隣に座ったエディオの体が不自然に強張って、その目が焦点を失う。俺はそれを信じられない気持ちで見つめた。いや、だって。
「エディオ、お前――」
 あんなに真面目な奴だったのに。そんな気持ちを込めて呟いた俺に、エディオは般若のような視線を返してくれた……が、顔面が蒼白である。
「ほ、本当に? まさか……そんな」
 反対側からはスアローグが心なしか椅子をちょっと離しつつ、非難の眼差しを向ける。
「ち、ちが」
「そうだよお、ほんとに突然押しかけてきてさあ」
「確かに驚いたな。窓から入ってくるし」
 口を尖らせるチノと、うんうん頷くセライム。ああ、エディオ。俺が悩んでいる間にお前はそういう方面に目覚めてしまったというのか。これは友人としてとるべき行動をとらねばなるまい。
「エディオ」
 肩に手を置いて、俺は頷いた。
「今からでも遅くない、警視院に行こう」
「違え! 誰の為に行ったと――」
「エディオ。短い付き合いだったね、僕はそういう人とはちょっと」
 ニヤついていたキルナが、こらえきれない笑い声を漏らす。事実を全力で否認するエディオから陰険な視線が送られたが、当人の顔が赤らんでいては迫力も薄れるというものだ。
 それから誤解が解けるまで小一時間、エディオは地獄を味わうことになるのであった。


 ***


「セライム、話がある」

 食堂から解散したとき、俺がそう呼びかけると、セライムはおとなしくついてきた。多分、俺が話すことに薄々感づいていたんだと思う。
 秋の匂いが深まる風を受けながら、俺たちは静かな白亜の学園を中庭の方に歩いていった。合間に流れる言葉もなく。互いに無言のまま、陽のあたる芝生の上に俺は腰を降ろした。学園が一部を除いて休校中であるため、中庭は閑散として人気がない。隣に座ったセライムも、所在なげに無人の中庭を眺めた。
「……寂しくなってしまったな」
「そうだな」
 俺は膝を抱えて、何処となく光彩を失った木々を見上げる。まるで、世界がこのまま暮れていってしまうような景色だった。
 先ほど、俺は自分の記憶について知っていることを全て話した。しかし、一つだけ話していないことがあったのだ。それは、こいつの父親のことだった。
「思い出したよ。お前の親父さんのこと。――アラン・デジェム、俺が作られた場所に、真実を掴むためにやってきた人のこと」
 隣のセライムは、一点を見つめたまま唇を噛み締めた。こちらに視線が向くことはない。けれど俺は、とつとつと語り続けた。俺に出来る、僅かな購いとして。
「その人は、その研究が許されないことだと分かっていた。だから、そのとき既に検体として成功していた俺を殺そうとしたんだ」
 語る舌が苦く、でも心は穏やかだった。どんな罰も受け入れようと、そんな気持ちがあったからかもしれない。セライムは瞳の色を揺らしたが、それ以上の反応を見せなかった。
「まあ、当たり前の判断だと思う。常識から考えて、人の手で生み出された、人の形を持つ化け物を、外界に放つわけにはいかない」
「やめてくれ」
 不意に鞭のような否定をくらって、俺は詰まった。セライムは表情を歪め、膝の上に置いた手を握り締めた。
「――そんな風に言うな。自分を否定しないで欲しい」
 俺はそれを眺めて、小さく息を吐き出す。こいつは優しい奴なんだ、いつだって。
「悪い。――先、続けていいか」
 セライムは膝元を見つめながら、こくりと頷いた。
「ん。……その人は、俺に銃口を向けて――でも結局撃たなかったんだよ。理由は分からないけど。結果的に忍び込んでいたのが発見されて、それで」
 殺されてしまった。
 事実を紡ぐ唇は空虚で、言葉というものはなんと軽々しく意味を伝えてしまうのかと思う。こいつにとっては、人生を左右した事実だというのに、言葉はそれを僅かな音の羅列で表現する。
 セライムは顔をあげなかった。暫くすると、しゃくりあげる音が聞こえてくる。その音は耳にじんと染みて、心に波紋を呼んだ。俺は、目を閉じて耳を傾けた。そこにある罰を聞き漏らさぬように。
「……かった」
 嗚咽に混じって、意味のある言葉が連なる。必死で耳を澄ましている内に、それが確かなものになる。
「良かった」
 それは、罰というにはあまりに哀しい言葉。

「お父さんが人殺しにならなくて良かったし――お前が死ななくて、本当に良かった」

 俺は言葉を見失って、口を引き縛った。
 否定があるはずの場所に、あったのは白い光。あの地にいた頃には知らなかったもの。戸惑い、立ち尽くすしかない。
 何もしなければ、どのようなものも朽ちるのは同じ。だから全てのものが光を求めて喘ぐのだ。そうして、最後には受け入れる。切なる幸福を。許されぬと知っていながらも。
「セライム」
 名を呼んで、俺は。
 そっと、そこに手を伸ばす。
 震える肩は、人の感触。とろけた黄金が渦を巻いて散っている。
 顔を両手で覆ったセライムは、次第に声をあげて泣き出す。父が死んだと言われても信じられなかった幼子が、遺体を見て初めてその悲しさを知るように。
 だから俺も同じように、幼子にするのと同じに頭を撫でてやる。泣きじゃくる少女は嵐の日と変わらず小さく頼りない。それでいて、火の玉のようだった。
 そのまま暫くセライムは泣いていた。俺は、自分の心の震えを感じながら、それを見つめていた。涙は流れることなく。でも、もう、胸は空っぽではなかった。


 一頻り涙を流したセライムは、最後に袖で目元を拭って、大きく息を吸った。濡れた瞳が光を吸い込んで、そこに白い色彩を生んでいる。何かを振り切った、晴れ晴れとした目だった。
「ああ。泣いたらすっきりしたな」
 かと思うと、そのまま体を仰向けに倒す。陽光に煌く金髪が芝生に投げ出され、ちらちらと網膜を刺激した。眩しかったので、俺も同じように寝転がることにする。
 身を倒すと、首筋に芝生が触れてくっすぐったい。視界には一杯の青空が広がって、俺は目を細めた。陽光を浴びた体が優しい暖かさに包まれる。体の線が、みるみるぼやけていくようだ。
「なあ、ユラス」
「うん?」
「私は、一度実家に戻ろうと思う」
 夢見心地でそれを聞いた俺は、その意味を理解するのに暫くかけて、そして顔を向けた。仰臥したセライムの横顔は、まだ泣き顔の名残を受けて少しだけ紅い。しかし、その瞳には燦然とした意志が宿っていた。
「両親に会って言おうと決めたんだ。私は――卒業しても、あの家に戻らない」
 風の中に、凛と響く。
 決意の音色は耳朶を強く叩き、空気をも貫いた。
「お前の話を聞いて決心した。養子の縁組も消してもらおうと思う。あの家の人間としてではなく、お父さんの娘として、私は生きていきたいんだ」
 そこまで言い切ったセライムは、ふとこちらに視線を合わせて微笑んだ。
「……身勝手な娘だと思うか?」
 俺は、ゆるゆると首を振って、同じように苦笑する。
「人のこと言えないからな、俺も」
「お前は卒業したらどうするんだ」
 何故だろう。体から力が抜けていく。みるみる視界が明瞭さを失っていく。
「ん。決めてないよ」
「……似たもの同士だな、私たちは」
「そうだな」
 目蓋を閉じると、急速に意識が霧散していくのを感じた。起きていなくてはいけないと分かっているのに、心地良さに身を委ねてしまう。
「明日の汽車で帰ろうと思ってる。両親と話をして――数日で戻ってくるつもりだから」
「――ん」
 暖かい闇に手を伸べられていては、頷くのが精一杯だった。
「なあ、ユラス」
 草の匂いがする。風の匂いも。束の間の静寂は、優しい声に彩られて。
 静かに、静かに、意識が閉じていく。
「私はな――」
 その先のことはもう、よく覚えていない――。




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