-紫翼-
二章:星に願いを 57.同じでいられない ざわりと肌が粟立ち、血流が早まるのを自覚する。俺は暫くの間、そこに横たわった少年を見下ろしたままだった。 見たことのある顔をしている。一年前の記憶にある子供だ。ぶつけられた憎悪や絶望の塊は未だ鮮明に覚えている。しかし、この姿はどうしたことだろう。抑えられない感情に燃えていた瞳が、今は硬く閉じられ、僅かに開いた口から苦しげな呼気が漏れている。生気のない子供が伏す様は出来の悪い人形を見ているようで、背筋がざわめくのを感じながら、俺は膝をついて肩に手をかけた。 「……おい」 小さく呼びかけるが、深く閉ざされた意識は荒い呼吸音を返すだけだ。それはまるで燃え尽きる命の最後の叫びのようで、ぞっと胃の辺りが冷えた。悲しみの渦の元は、今にも消入りそうなこの少年だったというのか。 触れる指先に体温が感じられず、俺は力なく横たわる灰色の少年を見つめた。一度は純粋な殺意を向けてきた相手だ。しかし今は恐怖も怒りも湧き起こらず、何故あのときに死ねなかったのかな、と、そんな問いだけが胸に去来した。そして、この少年が言ったことを思い出した。 お前なんか、いなければ良かったんだ。 思い出すと、心が痛い。 ここにあるのは、俺の罪の証だろうか。 この現実は、全て――俺のせいなのだろうか。 そうなのだろう。きっとそうなのだろう。 横向きに倒れた少年の額に指を当てる。きっと、こいつの尽き行く命を繋ぎ止めることは出来ないに違いなかったけれど、俺はそこに魔力を込めた。――少年を、助けるために。 それは罪滅ぼしというには笑ってしまうほど滑稽な行いで。むしろ、この結果で少年が目覚めれれば、更なる憎悪を受けるかもしれない。だが、今更関係のないことだと心の奥が哂っていた。この少年が終わりをくれるならそれで良いではないか――。 「――う」 灰色の少年が、苦しげな呻きを漏らす。流し込まれる魔力に呼応しているのだ。触れた部分を伝って流れ込んでくるものを反芻する。次第にそこが溶けるように境を無くし、俺と少年の存在が重なり合う。少年に何が起きているのか、そうやって察知した俺は、必要な処置を無感動に下した。身体に直接魔術を行使している為、燐光すら生まれない。ただ、僅かに髪や服の裾が動くだけ。何もない世界。悲しいけれど、それが受けるべき業苦なのだろう。 処置が終わると、ぴくりと少年の睫毛が震えた。境界線をたゆたっているのか、身じろぎをして――目覚める。 それを黙って見つめる俺の存在に、暫く少年は気付かないようだった。眠たげに眼をこすり、体を起こそうとして、痛みを覚えたのか顔を歪める。そして、少年はぽつりと呼びかけた。 「シェンナ……?」 まるで子供が母を求めるような、純粋な感情の発露。心が予想以上に波立って、俺は息を呑んだ。その思いの推移が、少年にも伝わったらしい。少年はゆっくりと現実を取り戻し、俺を見て目を瞠った。 「お前」 暗がりの中で、俺たちは互いを見詰め合った。空気がぴんと緊張し、少年は身を硬くする。そして、手負いの獣のように後ずさった。 「よ、寄るなッ!」 錯乱した様子で俺の手を振り払う。魔術を行使しすぎたせいか、――それとも先ほどの言葉の影響か、頭の中が痺れたようになって、うまく動けない。だが、物理的な衝撃は確かに俺の手を打って、鈍色の感情が胸を支配した。 「どうして、お前が――!」 痛い。苦しい。悲しい。それは、この少年の心の叫びだ。魔力を通じて、叫び声は全て聞こえていた。一つの心が抱えきれないほどの感情の渦が、この小さな体の何処に秘められていたのだろう。 部屋の外から足音が聞こえてきたのは、そのときだった。物音を聞きつけたのかもしれない。しかし混乱の渦中にある少年は気付かずに叫び続ける。 「シェンナを何処にやった! シェンナは――!」 呼応するように、足音が駆け足に変わる。全身から血の気が退く思いで、俺は立ち上がった。先ほどの魔力の疎通で、この前の爆発に目の前の少年が関わっていることは分かっていた。ここにいるのを人に見つかれば、警視官を呼ばれるに違いない。連れていかれたら――。 気がついたときには、体が動いていた。理屈を越えたところで、少年の至近距離に迫り、その体を無理矢理抱きかかえる。少年は暴れようとしたが、起きたばかりで動きが鈍いのが幸いした。詠唱する暇もなく、頭の中に光を思い描くようにして瞬時に魔術を行使する。 目の奥で凝縮された光の粒が熱く輝き、耳元で風が唸った。一瞬にして重力から解き放たれた体は、カーテンを突き抜け、窓ガラスを破って外に飛び出した。 意味をなさなくなった鍵を見て蒼白になり、荒々しく扉を開いたミューラが医務室に踏み込んだとき、そこには既に誰もいなかった。奥に駆け込んだ彼女は、灰色の人間たちが横たわっていた筈の壁を見た。開いたカーテンが、無残に砕けた窓から吹き込む風を受けて寂しげに揺れている。 激しく混乱する己を自覚しながら、ミューラは破られた窓に取り付き、外を窺った。しかし、そこには既に歪みの一つもなく。 ガラスが割れる音を聞きつけたのか、駆けつける職員たちの足音を遠くで聞きながら、ミューラは呆然と外の闇夜を凝視し続けた。 空には、願えば届きそうなほどの星空が広がっている。まるで、いつかの日のように。 *** 俺たちは、都市からやや離れた荒野に投げ出された。逃げられる場所までと思ったのだが、魔術を乱暴に行使しすぎた為か、全身が痺れたように動けなくなったのだ。肩から体を打って、鈍い痛みが骨身を侵食する。しかしそれすら霞むような眩暈と吐き気のために、俺は己の胸倉を掴むようにして蹲った。詠唱や印を切る動作を介さない魔術行使は、通常の幾倍もの負担がかかる。 体が痛い。痛みはきっと、生きている証だ。そんなことを感じる心など壊れてしまえば良かったのに、それが出来なかった。光を知ってしまったから。暖かさを知ってしまったから。生きることを望んでしまった。 ――始まりの歪みは、一体何処にある? 人の営みから離れた地で、砂を握り締めながら堰を繰り返す。呼吸が苦しく、涙が視界を滲ませる。 「……お前」 暗闇の中で、背中に声が当たって落ちる。戸惑いと怒りをないまぜにした音色だ。血の味のする唇を拭って、俺は振り向いた。 「どうして」 助けた理由と、自分のある状況と、仲間の安否への不安が全て込められた問いかけだ。ぎこちなく立ち上がった少年は、地に伏す俺を見下ろして、迷子のように感情を揺らした。 「どういうことだよ――シェンナは、何処にいるんだ。お前がどうして」 「なあ」 何気なく呼びかけた声が、自分でも驚くほどに低い。少年もまた、首筋に触れられたかのように後ずさった。 俺は、戸惑いに歪む灰色の瞳と見詰め合ったまま、深く息を吸い込む。言わなければいけない。自分は悪くないと、無理矢理塗りつぶした記憶のことを。 「……悪かった」 ああ、憶えている。暗い記憶の果ての果て。こちらに憎悪を向けていたのは、この視線だ。 俺たちは、たった一つの弾丸の元に運命を分かたれた。神の手にも等しいそれは残酷にも無作為に、こいつでなく俺を選び取った。もしもそれがあと少し違っていたら。別の偶然が重なりあっていたとしたら――色を失うのは俺の方だったのだ。 「俺じゃない方が良かった。俺には無理だったんだ。あそこから逃げ出して、人間と一緒に暮らすなんて」 失った記憶の渦から拾い上げた、思惟の断片。思い出せ、思い出せ――。 「出来るわけがなかった。都合よく何もかも忘れているなんて。見えないところで犠牲になった人たちのことを忘れて生きるなんて」 青い双眸。向けられた殺意と黒い穴。しかし引き金は引かれなかった。青い双眸を持った男は俺を撃ち損なった。そして、熱い感情で塗り潰された争闘と迷いと怒りと。彼は誤って拳銃を暴発させた。この心臓に向けて放たれるはずであった銃弾は、代わりに別の場所に飲み込まれたのだ。 俺は見ていた。それを全て、俺は見ていたのに。 なのに――。 そう、だから俺に取り分けられる光なんて、なかった筈で。俺は、地の奥底に飲み込まれているべきだったのだろう。 逃げ場所がないままに見上げると、幼い肩が震えていた。 「そうだよ。お前なんか、いなければ良かった」 弱々しい声だ。絶望にまみれたその言葉は、胸を奥底から抉り取るような質量を持っている。 「でも、もうどうしようもないんだ。お前が生きようが死のうが、僕は、もう」 長くは生きられないんだ。 言葉にならない囁きが、強い風にかき消される。それは、感情に呼応して呼び出された魔力の流れ。収束して、幼い手に集う。人外の力たる凶暴な力は、今の俺など簡単に消し去ることが出来るのだろう。 それでいいと思った。 もう、いいと思った。 目を閉じる。言葉を紡ぐことをやめる。懐かしい感覚だ。臆病者だった俺が、唯一できたこと。力を抜いて、世界を受け入れる。 そう。遠い昔から、俺はこうして――。 ユラス。 誰かに呼ばれた気がした。 胸の奥に熱い水が染みたように、心が跳ね上がる。 誰からも見放されたと思っていた、暗闇の此処に、――知っている気配。 ――まさか。 背筋が痺れて、俺は振り向いた。膨れ上がる予感に体中の皮膚が粟立つ。 ぞっとするような光景がそこにあった。 「――」 どうして、どうして。 知った顔が、こちらに向けて駆けてくる。人の営みから離れた暗がりに。どうしてここが分かったんだ。まさか俺が放った魔力の尾を見ていた? こんなところに来るべき奴らじゃないのに。ここにいるべきは、俺だけなのに。 警鐘が甲高く耳元で鳴り響いた。目の前の少年が、再び魔力を暴走させかけている。このままでは、俺以外のものが巻き込まれる。 守らなければいけない。衝動が、肺腑から脳裏まで突き抜けた。守りたい。俺に、僅かな暖かさをくれたもの。俺がこうして朽ちていくのだとしても、そこにある光だけはずっと瞬いていて欲しい。闇が深いからこそ、光は眩くあって欲しい。それは、たったひとつ、俺の確かな願いで。 「やめろ……っ!」 髪を弄ぶ奔流の中で、身を声にして叫ぶ。もう、見ているだけにはいかなかった。 頭の中心に意識を集中させると、足元から水に飛び込んだように、空気がどろりと重くなる。魔力の流れを体が読み取ったのだ。そして、その流れが痛みに満ちたものだと肌が感じとった。 どうしようもない感情の渦。それは例え全てが俺に向けられたものでないにしても、受け止めなければいけない。開いた右腕の指先から、感覚が霧散していく。襲い掛かる冷たい怒りに体温を奪われ、生身の体が悲鳴をあげる。 「ユラス!!」 耳朶を叩く、優しい言葉。一人では出来なかったことが、出来る気がした。それがいつか失われてしまうのだとしても、俺はそれに縋って生きてきたんだ。 びしびしと空気が割れて、不可視の塊が膨れ上がる。それを押さえ込むように、圧力を高める。体が砕けるような魔力の流れが全身を駆け抜けた。それでも、これを抜かれれば色に溢れた世界は白に染まってしまう。 そのとき、別の場所から空気が震えるのを感じた。空から来る気配は、俺の力と呼応するように瞬いて、同じように膨らむ魔力を押さえ込みにかかる。拮抗していた力と力のぶつかりが次第に崩されていく。 何もかも抱え込んで無に帰して。雷鳴のごとく駆け抜ける筈だった魔力の奔流は食い止められ、嘘のように霧散していく。そうして最後に巨大な泡球が弾けるような淡い破裂音がして、場には静寂が戻ってきた。そう思った瞬間、膝が折れて再び地に手をついた。 「……」 きつい。体が半分以上こそげ落ちてしまったかのようだ。ぼろきれのような気力を振り絞って俺が顔をあげたとき、灰色の少年は膝をついてむせこんでおり、それを抱きかかえる同じ色の女がそこにいた。 「ユラス」 黙っている俺の背後からの呼びかけに、やっと振り向く。青い双眸が、ひたむきにこちらを見つめていた。他の奴らも。なんで来てくれたんだろう。また、俺を光のある方向に引っ張り出そうというのか。 しかし同時に、心がどうしようもない感情を滾々と湧き出していた。人と共にあることの温かみ。知らなかった光。いけないと知っているのに、手はそれを求めて彷徨い出す。 「お前」 セライムが、俺の様子を見て足を踏み出した。だから俺は、薄く笑った。諦めで笑ったのではなく、ただ、来てくれたという事実が嬉しかった。しかし、言葉を紡ぐ前に、耳朶を叩く掠れた音が、俺の意識を素早く反転させた。 「僕も死ぬの?」 少年が、自らを抱く女に掴みかかるようにしていた。むずがる子供としてはあまりに壮絶な表情を貼り付けた少年は、血を吐くように糾弾を叩きつける。 「本当に、僕――死ぬの? どうして言ってくれなかったの?」 決して叫ぶわけでもなく。音もなく涙を伝わせて、灰色の少年は問う。女は、憔悴した顔でそれを受け止めていた。 「ドミニク。私は――」 「大嫌いだ、皆」 「ドミニク」 刃を受けたように、女は唇を歪ませる。吹き抜ける風は生まれた熱を冷ます力を持たず、少年は嫌悪するように体を離した。その体が宙に浮かび上がるのも、たった一瞬だった。月夜に踊る人影は幻想を思わせて、儚く哀しい。闇に消え行く幼い体を追いかけようと、女も立ち上がろうとした。しかし、力を使い果たしてしまったのか、瞬時の魔術行使は叶わず、再び崩れ落ちる。 それら全てを見ていた俺は、残された者の元へと唾を飲み込んで歩き出した。足が棒となり、自分の体が自分のものでないような頼りなさがある。しかし、女はこちらを見上げ、そして気力を振り絞るようにして立ち上がった。 俺たちは、見詰め合った。 *** 俺とその人は、真正面から向き合ってお互いの顔を見据えた。その人の今にも砂となって砕け散ってしまいそうな体はやや前屈みになり、短い髪がはたはたと夜風に揺れている。 一息に詰められそうなその距離が、なのに一度たりとも詰められなかったその距離が、俺とその人の限界だった。俺たちはいつだって、互いを遠目に見ることしか出来なかったのだ。 どうしてだったっけ――それは霞んで思い出せない。 「……あなたを殺せることが出来たなら、どれほど楽だったろう」 シェンナは、空虚な言葉を打ち出した。それは鏡となって俺の喉元から跳ね返る。 「俺も、誰かに殺されていれば、こんな思いはしなかった」 「ユラス」 後ろから短く、焦燥を孕んだ呼びかけ。俺は僅かに目をやってそれを黙らせると、拳に爪を食い込ませた。 「でも、そうはならなかった。俺は生き続けて」 「私たちは消えていく」 互いに刃を交し合うような言葉が共鳴する。これは消耗戦だ。狂者の鬱屈と切望によって生まれ、どうしようもない運命の流れに逆らえずにここまで辿り着いて、それぞれの絶望を抱えて。息も絶え絶えに互いの傷を抉り続けていては、共倒れとなる。全ては無に帰してしまう。 そのことに、向こうも気付いていたのだろう。しかし俺は何も言わなかった。言えなかった。何もかも忘れて生きていた俺に出来る、それが唯一の贖罪だった。 受け入れるしかない、共に倒れるのだとしても。 本物の辿り着くべき終焉に向けて――。 ――ごぽごぽごぽ。 シェンナは、こちらを見て何かを諦めた笑みを浮かべた。 「あなたは記憶を失ったと。――その記憶は戻ったの」 「……全部じゃないけど、ある程度は」 哀れなものを見る瞳で、いびつな人は薄く笑う。 「あなたがあそこで何をしていたか、思い出したの」 かぶりを振ると、憐憫の眼差しは更に深いものになった。青白い唇が何かを呟いた気がしたが、それは言葉にならずに時に押し流されていく。 「――あなたは最後まで疑わないのね、あなたの根本にある瑕を」 あまりに小さな呟きが聞き取れず、その意味を質そうとすると、唐突にシェンナは体を折ってむせこんだ。星空に照らされるまま、黒いものを口から溢れさせる。それを見つめながら、俺は心から溢れだす記憶の破片を抑えきれずにいた。 青い双眸。渦を巻く金髪。娘の名を、祈るように呼んだ薄い唇。 助けることも、滅することも出来なかった。 黒い穴――拳銃をこちらに向けた、灰色の男。苦しげにこちらを見つめていた、灰色の女。 声をかけることも、心を閉ざすことも出来なかった。 そして、俺の名前を呼んだ人。許しを請うた人。その人は。その人の名は――。 思い出せない。暗闇が広がっている。 何故だ。目の前に、罪の証があるのに。いくつかのことは、確かに思い出せるのに。 どうして――。 「あなたは見ていたんでしょう、私のことを」 「ああ、見ていた」 半ば自動的に、そう紡ぐ。 「けれど、あなたは何もしなかった」 シェンナの言の葉は、剣となって胸を突き刺す。 痛みは感じなかった。ただ、胸も頭も指先も。何もかもが痺れて冷たかった。 悲しそうな瞳で、濡れた唇をシェンナは歪ませる。 「ルガの気持ちがよく分かる。真実を知らずに苦しみ悶えながら、それでも人として生きる。それが、あなたに科せられた罰であり、私たちの救いなのだと。あなたが消えれば、私たちは誰からも忘れられる。闇から生まれて、闇に消えていく私たちが、存在を残すにはこうするしかないのだと」 そう言ったシェンナは星空を仰いだ。俺は己の中に目を向け続けていた。だから、宝石を散らしたような空の色も知らなかった。何も、何も知らなかった。けれど代わりに、小さく口の中で呟きを漏らしていた。 「真実を知れば、きっとあなたは生きられない。ならば、あなたがどれほど切望しようと、真実を与えないことこそ、報復足りえるのかもしれない」 「違う」 唇にそう乗せてから、自分が何を言ったのかを知った。 シェンナがこちらに視線を戻す。まるで、台本から外れた台詞に驚く役者のように。 そう。俺たちは舞台に放り出されたんだ。台本の続きなんて存在しないのに。観客なんて何処にもいないのに。誰も見てくれない、誰も知らないところで、踊り続けることを強制された。壊れて当然の存在だ。だから、俺も受けるべき罰は受けようと思っていた。でも、思う。この人がいうことは、きっと無意味だ。 存在なんてどうやったって残るわけがない。想いなんて残せるわけがあない。俺が真実を知ろうと知るまいと、俺の存在は永遠ではなく、いつか消えることに変わりはないのだ。世界は記憶を忘れていく。そして、人も。自分でさえ、同じ想いを永遠に抱えてはいられないのに、そこにいた人の想いも嘆きも何もかも、他人に背負わせられるわけがない。時が経てば忘れられる。――当たり前じゃないか、誰もが自分が生きるので精一杯なんだ、なんで人の記憶まで背負って生きていける? どうして俺が、他人の想いを背負って生きていける? 背後には、きっと俺に与えられたささやかな日常に出会った者たちがいるのだろう。それぞれにいびつなものを抱えた者たち。けれど、それらも、そして俺が抱えた歪みも。長い時の磨耗には耐えられない。暗がりで生きる筈だった俺がそこにいて、暖かさを得てしまったように。そしてまた、永遠にそこに浸かっていることが出来なかったように。 なんて哀しいことだろう、悔しいことだろう。同じでいられなかったなんて。一つの意志にすがりついていられないなんて。 「忘れられていくんだ、俺も、お前たちも、何もかも」 俺がここで絶えようと生きようと、今こうやって抱いた想いが残ることなどないのだろう。絶えず変移を続ける世界に飲み込まれて葬られた無数のそれらを、後の誰が振り返るのだろう。 「何をやったって、それは変わらない。想いを他人に託して消えるなんて、そんなのは無意味だ」 ――でも、逃げるのはもっと無意味だ。 心の中で、叫ぶ声があった。目を瞠る灰色の影よりも、俺の心の奥底が震えていた。再び逃げ出そうと言い訳を重ね、苦しい哀しいと叫びだしていた。 うるさい。 だって、仕方ないじゃないか。いくら他人のせいで生み出された存在だとしても、他人によって歪められた存在なのだとしても、自分の始末は自分でつけるしかないんだ。身を委ねて消えるも、何かを託して消えるも同じ。けれど、消えてしまう前に、あるいは断罪の後に、いつか光があるのなら。 人から何を背負わされようが、どんな想いを委ねられようが。俺の目で判断して、俺の心で動くしかないんだ。 「俺に真実を教えるも教えないも、自由にすればいい。俺は俺のことを、自分で思い出す――だからっ!」 情けないくらいに震えた声で、それでも抗った。膝をついて屈してしまえば楽だったろう。けれど、――俺には、守りたいものがある。この身が壊れるのだとしても、残していきたい世界がある。届かなくとも、夢見た世界が確かにある。 「復讐するなら勝手にしろ、俺に何を願ってもらったって結構だ、どんな罰だって受けてやる。でもそれで俺の守りたいものを壊すなら、こっちだって容赦しない。全力で逆らってやる」 やけに目元が熱いと思ったら、我を忘れた子供のように涙が溢れ出していた。 心がちくちくと痛い。でもそれは、生きている証だ。痛いのは、光を知っている証拠。ならば、悲しいことなど何もない。 喉の奥底から振り絞るようにして、俺は手を伸べる闇に向けて刃を突き出していた。 「失せろッ!!」 ちかちかと、目蓋の裏で光輝く何か。 何かが流れる音。永遠を思わせる、一瞬の出来事。 あたたかいもの。額に触れる。聞いたことのある音色で囁かれる、秘密がまた一つ。 ――あなたはきっと、これから――。 「……ユラス」 誰かが腕に触れて、俺は我を取り戻した。肩が勝手に上下して、心臓が破裂しそうなほどに波打っている。 そして、網膜に映る、とろけた黄金を流したような長い髪。夜風にそれらをはためかせ、セライムが隣にいた。青い双眸が揺るがぬ光と共に、静かにこちらを捉えていた。 幾度か目を瞬いて、でも何も考えられず、俺は他の奴らに視線をやった。それぞれ、半ば呆然とこちらを見つめている。少しだけ胸がざわめいて俯いた俺は、銅像のように動かない灰色の影に向き直った。 セライムも、俺の腕を放さないまま、顔をそちらに向けた。月夜に照らされた横顔は、はっとするほどの凛とした輝きと憂いを同時に秘めていた。 顔を伏せた灰色の女は、一歩、二歩と足を下げた。まるで、見られることが苦痛だというように。 すると、何かを思い立ったふうにセライムが口を開く。 「シェンナ」 灰色の影が、びくりと肩を震わせる。何故その名を知っているのか。俺は、騎士のように凛々しい、冴え冴えとした輪郭を見つめた。 セライムは、何かを言いかけて、そして口を噤んだ。逡巡の間に浮かんだ迷いは、刹那の時間となって過ぎ去って、腕を掴む力が強くなる。それ以上、セライムは何も言わなかった。 沈黙を守って動かないシェンナは、まるで泣いているようだった。これで真実を紡がれたら、どうなっていたか分からない。しかし、シェンナは語らなかった。無言で踵を返し、ゆったりと宙に浮かび上がった。 「――何処へ?」 思わずといった風に、セライムが呼びかける。 「死に場所くらいは、自分で選ぶ」 返る言葉に、感情はない。同時に足で空を蹴り、灰色の影は夜空に消えた。俺が生を受けた代償として女に押し付けられた、限られた時間。それはもう、残り僅かなのだ。 俺は見続けた。その姿が星空の果てに見えなくなっても。憐憫も後悔も、そして真実を語らずに去ったことへの憤怒もなく。ただ、目の前の現実を受けてじんわりと熱を放つ胸を抱えていた。 別のものを踏みしだくことで生きる自分。屍の果てに立つ自分。決して、許されることではないのだろう。でも、光を求めずにはいられなかった。 腕にかけられた指先の感覚が、俺をここに繋ぎ止めている。 だから、歩いていこうと思った。例え最後、朽ちて果てて、業火に焼かれるのだとしても。 *** 「やめておけ」 ローブの裾をさばいて踏み出そうとしていた足が、止まる。しかし、男は焦燥のそぶりどころか、振り向きもしなかった。立ち止まった彼は、人形のように動かない。 「お主が行ったところで何も変わるまい。全能を気取る哀れな者よ。お主の手は風を起こさぬ。淀むことしか知らぬ手の内の虚無を知っておくといい」 声と男の合間を、夜風が無表情に吹き抜ける。 「――礼を言わせて下さい」 はたはたと裾を遊ばせた男は、そう静かに呟いて返した。まるで温もりも感情もない、透明な呟きだった。ダルマンは、思いがけない返答に鼻白んで口を閉ざす。 「あの子を導いて下さったこと。あの子に魔術師としての十分な技量を身につけさせるには、私では無理だった」 「ふん。そんなことか。しかし、もうあれはどうしようもないぞ。己の真の歪みに気付き始めておる。自分で自分を滅ぼすのも時間の問題だ」 暗がりに隠れるように、目深に被った黒いローブの裾を引っ張りながら、ダルマンは薄く笑う。 「当たり前の結末だがな。賢者の知恵で騙そうと、真実から永劫に逃げ出すことなど出来はせん。逃げれば逃げるほど、恐怖は増していく。立ち行かなくなって当然というもの」 後姿の男の表情は伺えない。夜風を受けた男は、都市の端から黙って荒野を見渡している。 「それが分からなかったお主ではあるまい? 腐ってもそのような地位まで上り詰めた者が、何故そのような愚かな手段を用いた。彼奴を救いたければ、もう僅かとも利口な手があったものを」 ダルマンは僅かに覗いた瞳で、男の肩ごしに広がる世界を見た。遠いところに、いびつな影。紫の少年と対峙する、異形の者たち。全てが闇によって形を歪め、絶望を抱えてしまったものたち。 「それとも、お主も崩壊を望んでいたのか?」 突然、唸るような風が吹き抜けた。しかし、どちらも動じることなく闇に紛れて佇むだけだった。月夜に描き出された男の水色の髪は銀に輝き、まるで色を失った人間のようだ。哀しい男だ、とダルマンは喉の奥で呟いた。舞台を仕立て上げ、神経を研ぎ澄ませて崩壊を食い止め、しかしその胸の奥で誰よりも終焉を予感していたのだろう。光の中に身を置きながら、きっとその心が満たされることはなかったのだろう。そして、今も。 紫の少年を助け出した男。――否、闇から引きずり出した男。なのに紫の少年が再び闇に引きずりこまれようとしているのを、ただ時を引き伸ばしながら眺めている。まるで決まりきった結果を弾き出す実験でもするような冷徹さで。 男の肩が、僅かに揺れた。 「望みはいつも一つですよ」 声の音色で、笑っているのだと、ダルマンは遅れて気付いた。 「私の行ったことは全て、私がこの足で立っていられるため。私の手で私を救うため。だから、元よりあの子を救う為に手を伸べたわけではないのです」 「馬鹿め。そんなことは当たり前だ。人は皆、己の為に生きているのだからな。そうでなくては心が引きちぎれる」 「わからないのですよ」 ダルマンは、つと言葉を止めて顔をあげた。後姿の男は、暗がりにまみれて孤高に立ち尽くしている。 「今まで、痛みというものが感じられなかったのです。自分が一体、何を思っているのか。嬉しいのか、悲しいのか、よくわからない。それがわかりたくて、立っているつもりだった。人の振る舞いを真似ていれば、いつか分かると思っていた」 そう男は、左腕をもたげ、その手首に目を落とした。 「でも、何故でしょう。あの子を見ていると、ほんの少しだけ。ほんの少しだけ――そんな自分のことなどどうでも良くなるときがあるのですよ。彼のことを救いたいと思うのです。おかしいですね。私は自らの利のために生きているのに」 「……」 ――この男は。 この男は、空っぽだ。 人間ではない、という表現は、紫の少年よりも彼の方がよほど当てはまるとダルマンは思う。 彼は人に擬態しているだけなのだ。人である為に必要な知恵を身につけ、心を言葉で塗り固めて。だからこそ、その佇まいが人形のように思えるのだろう。 しかし、人形は人であることを切望する。己の狂いも歪みも知っているからこそ。喜びも苦しみも何もかも、他人と同じように取り繕って、同じように振舞いながら、彼はそれらを理解しようとしていた。機械のように動く頭で。機械のようにしか動かない頭で。 そうして、一つの標に向けてひた走った先に、初めて突き当たる戸惑いに、男のローブは揺らめいて位置が定まらない。 温度のない体に潜む鼓動が、青白い肌の下に確かに通う血が。きっと彼を迷夢へ誘い、そしてその体を突き動かしているのだろう。 「――手遅れかもしれんぞ。救い出すには、既にあれは傷つきすぎた」 「そうかもしれません」 絶望を易々と受け入れた男は、腕を下ろして遠くを見るように顎をあげた。 「けれど、彼は人ですから。絶望に打たれたとて、人であれば再び立つことも出来ましょう。時は想いを風化させる。けれどそれは、悲しいことであると同時に、とても優しいことなのですから。――彼は一人ではありません。私の小さな力で守る内に、きっといつか空を舞うでしょう」 「だがお主は孤独だ」 「ええ」 闇に消えていく影が一つ二つ。男はそれを見届けて、ゆるりと振り向いた。自分が出向く必要はないと判断したのだろう。月夜に照らされた男の白い頬に髪が揺れる様は、まるで音もなく泣いているようだった。疲れた体を休める場所を探して、彼はどれほど彷徨ったのだろう。 「あなたが言ったように。……終わりを望んでいたのは、私の方かもしれませんね」 男はそう呟いて、また。 一人、闇の中へ。 Back |