-紫翼-
二章:星に願いを

56.一世一代の戦い



「……なんだ?」
 半ば強制的に思考を停止させられた俺は、奇妙な感覚の根源を探して空を仰いだ。風がないのに、空気が質量を持って体に吹き付ける――それは、何度となく味わった魔力の波動そのものだ。
 だが、それは今までに経験したような、即発的に霧散するものではなかった。どんよりと濁った魔力が圧倒的な重みを孕んで、水が染むように大気を汚染していく――そんな感覚を持たせて、肌が粟立つ。
 おかしい、と感じる部分を麻痺させたまま、俺はただただそれらの侵食を前に佇立するばかりだった。魔力によって吸い上げられた雑音が空に響き、跳ね返っては更に濃度を上げる。何十、何百という囁き声が木霊する様は、不気味な音律で鼓膜にこびりつく。
 ぞっとしながらも、端の方ではこの事象を説明しようと言葉が紡がれ始めていた。頭の中にある膨大な知識が、外界の様相を取り込んで解答を弾き出す。
「……魔力が満ちてる……」
 古の時代、そこには未来を読む人間がいたという。彼らは空間を魔力で満たし、命の発するあらゆる叫びを聞くことが出来た。
 しかし、そんな芸当を、しかもこんな広範囲に渡って行使するなど――。
 身を振り絞るような慟哭の叫びが体を突き抜けたのはそのときだった。
「――えっ?」
 五感を介さずに心臓を直撃した嘆きに、反射的に振り向く。その方角には、闇夜に沈み行く世界に薄っすらと浮かび上がる白亜の学園。そこに不可視の思惟が、目に見える形となって渦巻く。首を締め付けられるほどの痛みは、そこから止まらない血のように溢れ続けていた。
 あまりの鋭利な感情に、こちらの心までもが絡め取られてしまいそうになった瞬間、風が吹き去るように世界に満ちた魔力は消失していく。濁りが取れた聴覚に、風の音が戻ってくる。
「なんだ、これ……」
 硬直から解放された俺はゆるゆると周囲を見回したが、先ほどの異変の正体を掴むことは出来なかった。だが、殴られた後のような悲しみの感情だけが、事実として心にくっきりと残っていた。
「学園……中央棟の辺りか?」
 何もかもを塗り潰すような痛みの根源が目に焼きついて離れず、足がそちらに動く。大通りに出ると、空気が騒がしくなっていた。先ほどの体験をしたのは俺だけではないようだ。今のは一体何事かと、学者風の男たちが騒然とした様子でたむろしている。気分を悪くしたのか、蹲ってしまっている人もいた。
「――なんだってんだ」
 口の中で呟いて、俺は学園までの道のりを急いだ。周囲の異様な様子を視界に納めたくないが故に、自然と体が走り出す。
 死んだ貝のように開いた正門を潜って、ウェリエルの銅像を横目に中央棟へ。職員室の方は人の気配があったので、反対側に回り込んで壁に背をつける。乱れる呼気を整えながら、俺は意識をこらして先ほどの痛みの根源を探った。既に満ちていた魔力は消えてしまったから、代わりに――感覚を研ぎ澄ませ、己の魔力を放つ。流石に大気全体に魔術を行使することは叶わないが、検知器のように辺りの気配を探ることならできる。
 外界に向けてさらけ出した神経に人の気配が引っかかって、俺はそちらに顔を向けた。既に照明の消えた廊下の奥、その扉の向こう――。
「医務室か」
 そう判断した俺は、廊下の奥へそろそろと足を向ける。だが、扉を開こうとして鍵がかかっていることに気付いた。
「鍵を開ける魔術とか――ないよなぁ」
 いつかダルマン先生にそんなことを問うた記憶が蘇って、途方に暮れる。あのときも散々馬鹿にされたのだったっけ。

 ――ふん。姑息よの。扉の一枚や二枚、破壊してしまえばいいではないか。
 ――臆病者めが。平和的に解決するとでも思っているのか。

 なんだか、とても遠く懐かしい記憶だ。あの先生の言う通り、俺はいつだって臆病だった。この力があることを恐れ、途切れそうな日常を守るのに必死で――。
 でも、もうなんだか。
「……どうでもいいや」
 呟きながら、鍵のある位置に指をあてる。ここまで必死で走ってきたけれど、考えることに疲れてしまった。この日常は、多分もうすぐ壊れる。だから、きっと何をしたところで変わることなど何もない。
 そっと魔力を込めると、金属部分がみるみる腐食して朽ちていく。不思議と胸は波打たず、ただ、冷たい平静を保っていた。そのまま、扉を開いて暗がりに踏み込む。
 医務室の中はひんやりとした空気に包まれていた。窓の外は既に夜を迎え、すっかり昼間と表情を違えている。念の為に扉を閉めて奥の方に行ってみると、そこに灰色の少年が倒れていた。


 ***


 自分は一体、何をしているのだ。
 塀をよじ登りながら、エディオは自分のしようとしていることを全力で忘れようと念じていた。否。忘れなければならない、と断じていた。はっきりいって、これはまともな神経で成せることではない。
 学者の聖域、学術都市グラーシア。かの地に堂々と聳えるは、世界中から天才の卵たちが集う聖なる学び舎グラーシア学園。そこでも一握りの生徒しか受講できない医学を専攻し、輝かしい未来を約束されている彼は、今。

 グラーシア学園女子寮の塀を、その身一つで越えるところであった。

 ちなみに彼の名誉の為に断っておくが、彼は決して浅ましい理由でその行為に及んでいるのではない。見つかれば社会的抹殺は免れぬであろう暴挙に彼を駆り立てたのには、きちんとした理由がある。目がやたら血走っているのも焦りのせいだし、息切れしているのも塀を越えるという労働のせいだ、――多分、恐らく。
 茂みの中で呼気を整えたエディオは、最悪な気分で周囲を探った。とりあえず周りに人影が見当たらないことを確認すると腹の底から息を吐き出す。全生徒の門限が早められている為、誰もが部屋の中に閉じこもっているのが幸いした。女生徒に見つかって悲鳴でもあげられたら目も当てられない。
 しかし、事は一刻を争う事態なのだ。既に最上級の生徒しかいない為、部屋の灯りはぽつぽつと見えるだけだった。乾く唇を噛み締めて、エディオは焦燥の眼差しを背の高い宿舎に向けた。実験動物の解剖でも眉一つ動かさないその額に、脂汗を浮かせながら。

 寮を飛び出していった紫の少年を追って、灰色の女は再び姿を夜の空へと消した。一人残されたエディオがとにかく紫の少年を追うと決めたとき、彼は途方に暮れた。相手は都市内で魔術を扱う少年である。一人で探せるとも思えない。しかし探さなければ、二度と戻ってこないのではという予感に駆られて、男子寮を抜け出した彼の足は唯一協力してくれそうな人物の元に向かったのである。
 しかし、女子寮を取り囲む塀を前に彼は躊躇した。正面から行ったところで、教員に見つかるだけだ。他の女生徒に呼んできてもらうにも、既に門限は過ぎている上、そもそもエディオにそんなことが頼める女の友人など存在しない。
 八方塞の状況に眉を潜めたそのとき、『それ』を彼は感じ取った。
 空気がどろりと粘度を増し、視界が歪みに犯される。都市中を侵食した波の中で、瞬時の混乱に誘われたエディオは空を見上げ、南からやってきたその塊が北へ抜けていくのを見た。そして、自分の心が酷く曖昧なものとなり、心で呟いたはずの声が空に響くのも。
 それらが魔力の干渉によるものだと、頭では理解していた。だが、知っていることと受け入れることは全く違う。結界を突破して都市中を魔力で覆うなど、それこそ人の力では出来ないこと。先ほどの件といい、言いようのない不安が膨れ上がったエディオの頭に、その刹那ひらめきが生まれた。それの是非を問うている時間はないと判断した彼は、反射的に動いていた。印を切り、魔術を行使したのである。普段なら結界に阻まれる筈の魔術は形を結び、大気に満ちた魔力に後押しされて今までにない効果を生んだ。

 人の体は魔力に覆われたとき、酷く脆いものとなる。精神術が大いなる魔力を持ってして人の心に取り入る技であるように、魔力の干渉は人としての覆いを剥ぐ力を持っているのだ。そして扱える魔力が大きければ大きい人間ほど、魔力は内部まで干渉する。故に、生身の人間であるエディオに紫の少年ほどの『声』が聞こえたわけではなかった。だが、周囲の気配を察知する魔術を行使したことで、少なくとも近くにある『声』を彼は『見た』のである。
 有と無の境界が薄れ、全てが流転する一つの大河になった瞬間、聞き覚えのある声がある方向を彼は目に焼き付けた。満ちていた魔力が去る瞬間のことだった。

 こうして彼女たちが住まう部屋の位置を知るに至った彼は、茨の道を進まざるを得なくなったのである。
 先ほど起きた超常現象については頭の隅に置いておくことにして、エディオは暫くその場で建物に大きな混乱が起きていないことを確認した。出来ることなら一刻も早くここから去りたい。そんな焦燥と共に、彼は再び部屋の位置を確認して、二階に向かって壁沿いに伸びるパイプを見つけた。おぞましく勇気の要る行為であったが、ここまで来ればもう逃げられない。一呼吸おいた彼は草むらから駆け出し、壁を伝うパイプに取り付いた。
 口の中で『ありえない』の文字とぶつぶつ呟き続けながら一息にそこを昇りきり、ベランダに下りる。カーテンがかかっている為に中は伺えないが、ガラスごしに少女たちの会話が聞こえてきて心の底から死にたくなりつつ、彼はそのガラスを叩くことで、中の少女たちへの呼びかけとしたのだった。


 ***


「――で?」
「ま、待てキルナ。ちゃんと人の話を――こらチノ、フライパンを構えるなっ!」
 段々と焦点を結ばなくなってくる瞳を瞬き、これで意識を失えればどれほど楽かと思う。女子寮の一室。殺意の篭った二つの視線に囲まれて、エディオの思考は早くも現実からの乖離を始めていた。
 女子寮の部屋の作りは、男子寮のそれと全く変わりがない。しかし、やはり住む人種の違いなのだろうか――そこには殺伐とした男部屋にはない家庭的な温かみと華やかさがある。最も、部屋の隅に正座をさせられた哀れな男子生徒には、そんな様子を楽しむ余裕など微塵もなかったのだが。
「アンタ……まさかそういう趣味があるとは思ってなかったけど」
 冷徹な観察者の顔をしたキルナは、腕組みをしながら言い放った。隣ではチノが微笑みながら手に物騒なものをぶら下げている。下手に動けば本気で殺されかねない手合いだ。横でセライムが場を取り成してくれるのが唯一の救いだった。
「い、いや、エディオ。何か訳があるんだろう? 一体どうしたんだ」
 エディオが部屋を訪れたとき、即座に人を呼ばれなかったのも彼女の功績だ。そして、彼が事を伝えたい相手もまた、この金髪の少女であった。
 エディオ・ギルカウ。恐怖の二文字を顔に張り付かせた彼の、一世一代の戦いが今始まろうとしていた。


「――で」
 期末試験でも彼はここまで本気にならなかったろう。その成果が小さな実りをつけたのか。彼がここまでやってくる経緯を話したとき、キルナはやや眼光を緩め、むしろ呆れを前面に押し出した表情をしていた。
「なんで警視院に連絡しないでここに来たのよ」
「――」
 冷静なキルナは、流石に鋭いところを突いてくる。エディオは顎を引いて、話すべきか悩んだ。――紫の少年は、魔術結界を突破でき得る力を隠し持っている。彼の秘密を守ったまま事を解決するには、これしか方法が思いつかなかったのだ。
「何か事情があるのか」
 黙りこんだエディオに助け舟をだしたのはセライムだった。薄く頷いたエディオに、セライムは不安げに表情を揺らめかせた。
「だが、少なくとも――まずはフェレイ先生に相談した方がいいだろう。先生ならなんとか――」
「いや」
 エディオはセライムの申し出を短く否定した。
「先生は、……あまり信用出来ない」
 低く通った声だった。それを聞いた三人はそれぞれ瞳を見開いてエディオを見つめる。
「どういうこと、それ」
 真意を探るようにキルナが眼光を鋭くする。いかなる時も生徒を庇う学園長に対する評価がそれか、と、視線には軽蔑すら含まれていた。だが、エディオは屈することなくそれを見返した。彼とて、学園長の人柄は尊敬している。しかし――しかし。
「ヤツは記憶を失っている。二年前の春、記憶を失ったヤツは、レイユ川の湖畔で先生に会ったと言っていた」
「え?」
 その事実を知らなかった双子の姉妹は、不意をつかれて目を丸くした。セライムだけが、頷いて肯定する。
「ああ、私もそれは聞いている。ここに来るまでの記憶が全くないんだ、ユラスには。それで、フェレイ先生に保護されて――」
「おかしくねえか」
 鋭利な一言に気圧されて、セライムは言葉を詰まらせた。

「なんで先生に保護されたんだ」

 それは、エディオが紫の少年の身の上を知ってから、ずっと気にかかっていたことだ。
「ヤツは散歩中だった先生に偶然会ったと言いやがった」
「フェレイ先生が散歩?」
 胸の中で渦巻いていた疑念が、ゆるゆると輪郭を明らかにする。濁った海にたゆたう怪物が、眠りから解き放たれて水面に向かうように。
「ちょ、ちょっと待って。あの先生、用もないのに都市を出ることなんてまずないわよ? なのに森に偶然行って、ユラスと偶然会った?」
 キルナが混乱したようにかぶりを振る。チノは深刻そうな面持ちで声を潜めた。
「つまり、先生は初めからユラスに会うつもりで行ったってこと? おかしいよ、それ。ユラスは偶然って言ってるんでしょ? それじゃまるで――」

 紫の少年を、騙しているみたいじゃないか。

 それを言葉に出来ず、チノは口ごもって姉に視線を向けた。助けを請う妹を見返して、キルナが煮え切らない溜息をつく。顔色を蒼白にさせたセライムも、迷子のように顔を向ける先を定められずにいる。エディオはそんな少女たちを前に、重たい口を開いた。
「……奴の話を聞く限り、どうも先生は奴に記憶を取り戻さなくてもいいと吹き込んでいたらしい」
「どうりで。だから能天気に学生なんてやってたのね」
「い、いや。でもそれは先生の心配りではないか? ――あまりに悲しい記憶なのだったら、思い出すのは辛いかもしれない」
 学園長を擁護するセライムの言葉を受け止めて、エディオは僅かな罪悪感を握りつぶした。紫の少年の真実を暴くことは、己の母の真実を掴むことでもある。己の期待の為にこの提案をしていることを、エディオは自分で認めていた。だが、彼の思いはそれだけではない。
「あんな姿を見ても、まだ記憶から目を逸らせと言うか」
 セライムは、はっと言葉を噤んで唇を噛み締めた。だが、エディオは追撃をやめない。
「最近の奴を見てるだろう。元から怪しい奴だったが、――あの様子は尋常じゃねえ。今だって、何をしでかしてるか」
 言いながら、自分は何をしているのかと思う。昔は他人に興味などなかった筈だ。否、興味を持ってはいけないと思っていた。なのに、体を突き動かす衝動を無視することが出来ない。
 紫の少年は、初めて出会ったとき、中身のない笑みを浮かべていた。外界のものを映しこみ、次第に彼は考え込むことが多くなった。それでも彼は笑っていた。そうあることを己に課したかのように。そこに危うさを覚えたのは、――エディオにとって紛れもない事実だ。
「とにかく、先生が何をしたいのかはわからない。だが、奴を一人にしておくのは危険だ。探し出して――」
 探し出して、どうするのか。エディオは迷いに囚われ、一度息を吸った。
 真実がどれだけ残酷だったとしても、彼を救いだすには、これしか方法がない。そう心で念じて、エディオは重たく粘つく喉で、はっきりと言い切った。

「奴の記憶を取り戻させる」




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