-紫翼-
二章:星に願いを

55.明るくて暗い場所



 スアローグが実家への帰省を選択したとき、俺は何も言えずに見送るしかなかった。こんな事件まで起きているのに、こいつが無理をして学園に残る理由など何一つないのだ。心がまた一つ欠けるような喪失感と、それを受け入れようとする諦観を一巡させて、俺は見えないところで苦く笑った。スアローグもまた、迷いを孕んだままの選択だったらしく、晴れない顔つきだった。だから、ほとんど機械的に明るく振舞った。辛くない。そう、己に言い聞かせて。
 スアローグがいなくなった寮には、俺とエディオが残った。エディオは俺と同じように帰省するにも帰る場所がないのだ。選択の余地もなく、グラーシアに居残ることになった。
 学園が長期休業の措置を発表してから、俺たちの他に残った人間は半分もいなかった。卒業生を受け入れる機関はグラーシアの状況を鑑み、受け入れ時期の引き伸ばしを承知するところが多かったのだ。

 未だに卒業後どうするか定まらない俺はその夜、スアローグの代わりにテーブルについて、ぼんやりと論文を書いていた。これがないとそもそも卒業が出来ない。
「駄目だなあ」
 なんとなしに呟いて、飴を噛み砕く。口内に広がる生ぬるい甘さが、頭を遅鈍にするようだ。少し前までは甘いものが思考を鋭利にしていたのに、どうしてだろう。
 扉が開いたのはそのときだった。顔をあげれば、入ってきたエディオと視線がかち合う。
「よう。早かったな」
「――ああ」
 何気なく振舞え、と意識して、俺は短い応酬を交わした。そしてすぐに自分の書いているものに戻る。心が弱くなっているときの人との接触は、胸を必要以上に波打たせてしまっていけない。ここ最近の出来事でそれを学んだ俺は、溜息と共にそんな鬱屈を飲み込んだ。
 普段から無口なエディオは何も言わずに目の前を通り過ぎてくれる。安堵すると同時に、ちくりと鈍い痛みが鳩尾の辺りを刺激したが、それだけだった。
 生徒の消えた学園は熱を失って乾いている。隣の部屋など見えるわけもないのに、寮全体の重みが消滅してしまったようで、現実感を剥ぎ取られる。その頼りなさに舌打ちしたくなる気分で、俺は新しい飴の包みを剥がそうとして、――ふと異変を嗅ぎ取った。
 にわかに耳鳴りが強くなり、空気が重みを持ち始めるのを知覚する。反射的に顔を窓に向けた俺は、そこにあった光景に心臓を握りつぶされた気分で凍りついた。
 エディオが変わらぬ仕草で脱いだ上着を、無造作に壁にかけるところだった。その向こうにあるベランダに、ある筈のない影が降り立って――。
「エディオっ!」
 叫ぶと同時に、椅子を蹴り倒すようにして立ち上がっていた。エディオは目を剥いてこちらを見た後、背後の異変に気付いて身構える。――って、おい!
「逃げろっ」
 闇夜に現れたそいつはきっと俺に用があって来たに違いない。それがすぐに分かるはずなのに、どうして逃げようとしないんだ――こめかみに冷たい痺れを覚えながら、俺はエディオを庇う為に駆け出した。
 だがエディオの半歩前にでたとき、はっとして立ち止まる。揺らめきながら降り立った人影は地に足をつけた瞬間、まるで支えを失ったように崩れ落ちたのだ。
 立ち尽くした一瞬、どうするか迷った。しかし何よりもまずは襲来したモノを見極めなければと、闇夜に目をこらす。
 すると、生まれたての小鹿めいた弱々しさで、その影が立ち上がろうとするのが分かった。そこで初めて異様なものを感じ取って、恐る恐る手を伸ばす。
「ユラス」
 後ろからの呼びかけが、とても遠い。引き戸を開けて、外気と闇を部屋に取り込む。その先で、薄汚れたローブに身を包んだ何かが、ゆるゆると顔をあげてこちらを見た。
「……あ」
 抜き放った刃のような眼差しに貫かれて、俺は思考を停止させられた。俺と『その人』は視線を交わす。灰色の瞳。こちらを見つめていた瞳だ。今も――昔も。

 ――どんな気分なの。

 意識の深層部が乱暴に揺すぶられて、投じられた声を鮮明に描き出す。心がじわりと闇に溶けるのを感じて、足が勝手に後退る。握り締めた掌が汗でぬるついて、まるで他人のもののようだ。
「――う、あぁ」
 引きつった喉が声にならない悲鳴を搾り出し、視界が明滅を始めた。
「ユラス・アティルド」
 背後に満月を背負った人影は、逆光に表情を隠すままに立ち上がる。色という色を全て剥ぎ落とした肢体は、虚無の深淵を覗き込んだかのよう。おぞましさを感じると同時に、全身から体温が消し飛んでいく。灰色の髪を夜風になびかせた『その人』は、こちらを探るように硬質な瞳を細めた。
「……私のことを覚えているの?」
 歪むように笑う。無機質で、それでいて悲しい音色。
「誰だ、テメエ」
 じっとりと汗ばんだ背中の向こうから、誰かが質した。彼らに挟まれて、息苦しさに胸を掴んで喘ぐ。
 知りたくない。知らなくてはいけない。罪を認めなければいけない。認めたくない。
 運命を受け入れて、裁かれなくては。
 ――嫌だ。
「共に来て欲しい。あなたのよく知る子が、――このままでは死んでしまう」
 一体俺は何者なのか、知りたかったことがそこにある。
 同時に、放っておいてくれと、耳を塞いで叫びたい衝動がここにある。
 何も失いたくなかったのに。ゆるやかに壊れながらも日常は続くと思っていたのに。そう。そこでゆっくり、ゆっくりと。

 最後の時の中で、朽ちていけたら、と。
 優しさに包まれて、いっそ何もかも終わってしまえば。

「……行かない」
「あなたでなくてはならないの」
 どうして、俺でなければならない。
「……嫌だ」
 どうして、誰も彼も、与えては奪うことを続けるんだ。
 顔を伏せたままでいたけれども、向こうが苛立つのは感じられた。今にも潰えてしまいそうな命を抱えて、慟哭がほとばしる。
「何故ドミニクがああなったのか、分かっているのでしょう!?」
 鈍器で殴られたような気がして、頭に手をやる。
「あなたの代わりに、あの子は力を失って――!」
 やめてくれ、と叫んだ筈が、声がでなかった。
 記憶の破片が硝子のように、一つ一つ胸に刺さる。
 明るくて暗い場所の記憶。さび付いた鎖がついに朽ちて崩壊に向かう。
 乱暴な音を立てて扉が開き、噴出したどす黒いものが全身を汚染していく。

 ああ。こんなことになるのなら、目覚めなければ良かったんだ、永遠に。
 否、違う――もっと、根本から間違っていたのだ。

 ――世界などお主がいなくとも勝手に廻る。

 そう。こんな存在、元から生まれなければ。
 居場所がないのなら、光など得なければ。

「――」
 足が勝手に動いた。視界が白んで何も見えぬまま、何処かに向けて駆け出していた。
 何かの音が聞こえたが、それは崩壊の一つでしかない。
 そう、かの地で生まれた者たちに、救いなどは初めから与えられておらず。光を求めようと、朽ちていくことに変わりはなく。
 向けられた銃口。けれど決して放たれなかったそれは、生きる痛みを胸に刻み付ける。
 知っていたんだ、――俺は、知っていた。
 灰色の人間が向ける眼差し。唯一の成功体であったものに向けられた、憎悪と憐憫と戸惑いと。けれど朝は来ない。永久の闇の中をくるくると廻り続ける、その筈だったのに。
 脳髄が白く焼けるのを感じながら、気が付けば寮を飛び出していた。


 ***


「――っはぁ、はぁ」
 血液が逆行するような不快感の中、呼吸が引きちぎれて堰が混じる。どこまで走ってきたのだろう。人工都市グラーシアの通りは同じような景色ばかり続くため、仰いだ時計塔の方角で、やっと大体の現在地が認識できるくらいだ。
 だが、と止まる。自分の居場所を知ったところでどうするのだろう。異形に蹂躙された夜の都市は、今やひっそりと息を潜めている。生の気配はまるでなく、当たる風が酷く冷たかった。
 行き場所を失った視界は、右に左に揺れて、とうとう足元を映し出す。低い風の音は悪夢を思わせて、そのままぎゅっと目を瞑る。視界が闇に閉ざされると、空洞を思わせる空の下、じわじわと体と外界の境界線が消えていく。
「――う」
 そうしている内に、一人で夜空の下に立つ心細さとおぞましさに、俺は思わず頭を抱えた。何処にも許しなどないと知っていながら、無様なものだ。
 消えてしまいたい、と唇が呟いた。この体は、数多の犠牲をもって生み出された。そして犠牲となった者たちは、この手足を掴んで闇に引きずり込もうとする。お前に光など似合わない――と憤怒を込めて。
 きっと、それが正しいあり方なのだ。いびつな者が手を伸ばそうとするから、歪みは連鎖していく。ならば元から全て闇に帰してしまえばよかったのに。
 誰なのだろう――俺をこの地に呼び寄せたのは。光を与えたのは。与えてしまったのは。
 心臓がひとつ、大きく波打つ。思考の末に行き当たった先、まだ頭で理解していない筈のものを見てしまった気がして。ひび割れた心に最後の杭を打ち込むその事実が、輪郭をゆっくりと浮かび上がらせて――。
 空気がぶれる音と共に、大気が水で満たされたように濃度を増したのは、その瞬間だった。




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