-紫翼-
二章:星に願いを

54.安い体なのですよ、これは



「やあ、可愛らしいお客さんだ」
 ソファーに寝そべったまま気楽に笑うレンデバーを見て、セシリアは息を呑んだ。切れ長の瞳の片方は相変わらずの光が宿っていたが、もう片方に同じ光はない。しかし、その点については追求せず、少女は鋭い眼差しで色褪せた片目を睨んだ。
「先日の爆発は、あなたたちの仕業ですの?」
「やだなあ、そんなこと言われるなんて心外だ。でも僕たちの仕業だったらどうするつもりだったの?」

 ――何だ、これは。
 一体どういうことだ。何が起きている。

 二人の会話を遠巻きに聞きながら、グレイヘイズは指を額にあてていた。
 まさに青天の霹靂のごとく現れたセシリアは、憤然と胸を張って主人と向き合っている。記憶ではもう少し大人しかった筈の娘が、今やどうしたことだろう。全身を火の玉のようにした少女の勇ましさに、口を挟むことも出来ないグレイヘイズである。
 むさ苦しい部屋の空気を切り裂いた少女は、宝玉のような眼をしっかりと開いていた。幼い年齢に見合わぬ、強かな眼差しだ。グレイヘイズは未だにこの少女が一度成人した女性の成れの果てだという事実を信じることが出来ない。しかし、その横顔に浮かぶ焦燥と苦悩は、子供のそれというにはあまりに複雑であった。
「何故そのようなことになったのか、理由を問います」
「どうして君に教えなくてはいけないの?」
「言わないなら結構です。この場所を警視院に教えますから」
 さらりと返した少女に、グレイヘイズは表情を険しくさせた。拉致されたときは恐怖に歪んでいた表情が、今や獲物を追い詰めるような笑みを刻んでいる。表情一つで人とはここまで変わるものかと思いながら、グレイヘイズは拳銃を引き抜いた。
 レンデバーは、そんな従者に待機を命じる視線を投げ、くつろいだ様子で少女を見上げる。
「あはは。その前に君の可愛い命が持つと思う? 君の後ろの番犬はもう牙を剥いているよ」
 挑発めいた笑みに、しかしセシリアは動揺するどころか振り向きもしなかった。代わりに、可憐な鼻から小さく息を抜いて、頬にかかる髪を払う。
「戯言を仰いますのね。あなたに私を殺すことなどできなくてよ」
 鈴が鳴るような声を聞いたレンデバーは、くつくつと笑って先を促した。少女の変わりようを楽しんでいるのだろう。
「あなた方が知りたいのはユラスさんの正体。そしてユラスさんと私は同じ――人の手によって創られたもの。ならば、私の体を傷つけるわけにはいかないのでしょう? 私は大切な証拠であり検体なのだから。この前だって、あなた方は私を殺す気など毛頭なかったのですわ」
 あの人は優しいから騙されたけれど――と、自嘲するようにセシリアは微笑む。するとレンデバーも哄笑して、琥珀色の片目をぎらりと光らせた。
「ふふ。よく分かったね。そうだよ、この件が終わったら君の身柄は預かろうと思っていた。君も人外のものに変わりない。僕らの使命は歪みの破壊。君という歪みも取り除かなければいけないのだよ」
 講義するようなレンデバーの説明をつまらなそうに聞いていたセシリアは、腰に手をやって昂然と言い放った。
「ならば私を殺すことはできません。ええ。私がここを警視院に教えたところで、あなたたちなら余裕で逃げてしまうことも知っていましてよ。けれど、考えてみては如何かしら? あなたたちは酷い怪我をしています。きっと逃げるのも一苦労でしょう。そんな労を背負うか、それとも私に洗いざらい話して味方に引き入れるか。どちらが賢くって?」
「取引しようって言ってるの? 君と僕が?」
「それに――先ほど、軍の方から出頭命令を受けましたの」
 この発言には、レンデバーもぴくりと頬を動かした。そんな様子に、セシリアは満足げに笑う。
「私などを捕まえて、解剖でもする気でしょうか。詳しくは知りませんけれど、彼らの手の中で燻っているよりはあなた方の下にいた方がましですわ。あなた方もそうでなくて? 私、軍の中で何を喋るかわからなくてよ」
「――」
 レンデバーは暫く沈黙を守ったままそれを聞いていると、もう我慢できないという風に苦笑した。そうして、ふっと目を細めて声を低くする。

「気丈だな。――そんなに足が震えているのに」

 瞬間、セシリアの表情から余裕が消えた。糸に引かれたように、小さな体は強張った。今にも折れてしまいそうな足が、危うげな均衡を必死で保っている。その事実を自分でも気付いてしまったのだろう。
 こんな場所に単身で乗り込んできて、恐怖を覚えぬ筈がない。しかも相手は一度己に死の矛先を向けた男だ。気丈を保つにしても、限度というものがある。そのまま崩れ落ちなかったのは大したものだとグレイヘイズは心から思った。
 セシリアは少しの間、自分を抱きしめるように腕を回し、俯いて唇を噛んでいた。けれど、それでも逃げ出すことをしなかった。弱音の代わりに紡がれるそれは、消え入りそうな、しかし強かな想いを孕んだ少女の切望だ。
「……もう、私は待つだけの存在でありたくないのです」
「怖くないの?」
「怖い」
 間をおかない返答は、錆びた部屋の淀んだ空気に染み渡る。風が唸り、立て付けの悪い窓の枠を揺らせた。
「自分が何故生まれてしまったのか――何があの方を狂わせてしまったのか。知ってしまうことは怖い。知ったが最後、私には何もなくなってしまう。拠り所が消えてしまう。求めるものがなくなってしまうのは、とても怖い」
「知ることが怖いの? こんな場所にやってくることよりも?」
「失ってしまうことよりも、空っぽになる方が恐ろしいのですわ、心というものは。命が尽きようと、何を恐れることがあるのです。所詮は一度捨てた命ですわ。とても、とても、安い体なのですよ、これは」
 割れ物のような指を胸に当て、口元を歪ませる。子供というにはあまりにいびつな表情に、グレイヘイズは何と声をかけて良いのか分からなかった。少女は女の体から魂を植えつけられたものだという。それは、不老を約束されたということだ。しかし、同時に残酷なことだグレイヘイズは思う。人生を繰り返すことが可能だとしたら、一体それぞれの生に何の意味が生まれるというのだろうか。人はその日をその体で二度と繰り返せぬと知っているから、この体が持つ内にと前に進むことが出来るのに。それを繰り返せると知ってしまった者に、限りない時を与えられてしまった者に、どうして己の命が尊いなどと紡がせられるだろうか。
「……私は真実を知りたいのです。あの石は何であったのか、どうしてあの方にそれがもたらされたのか」
「ユラス君についてった方が手っ取り早いかもしれないよ」
「ユラスさんでは、きっと真実に辿り付けません」
 毅然と言い切って、セシリアは頬を豊かな髪で隠す。
「いいえ――あの方にとっては、真実から逃げ出すことこそが安寧なのですわ」
 幼い顔を彩る寂しげな呟きは、やり場のない苦しみを秘めている。美しい面立ちだからこそ悲壮な表情は際立って、まるで少女は遠い世界の物語を語るようにそう紡いだ。
 ――歪みだ。グレイヘイズはそう思う。この物語はいくつもの歪みを内包している。この少女がその一部であるように。あの紫の少年がその一部であるように。一体、あとどれほどの歪みを見ることになるのだろうか。そう考えると、腹の底がどんよりと暗くなる。
 ソファーに寝そべったままのレンデバーは、そこまで聞くと小さく相槌を打ち、突然指令を下した。
「グレイヘイズ、後は頼んだよ」
 突然話をふられて、思考にふけっていたグレイヘイズは思わず間抜けな声で応じた。
「は?」
「まかせた。僕は寝る」
 目を剥くグレイヘイズを他所に、休息の体勢に入った主人はもう喋る気もないようだ。初めはセシリアも沈黙してしまった主人を前に唖然としていたが、数拍おいてこちらに振り向いた。グレイヘイズは、うっと詰まって一歩足を下げかける。その少女の瞳に、『テメエで話になるのか』と言わんばかりの疑念の感情が見え隠れしていたからだ。愛らしさすらかき消すような眼光は、子供と呼ぶには相応しくない気迫を少女に与えている。

 主人が少女を追い出さなかったということは、つまり少女の身柄を受け入れるのだろう。では、その少女のお守りは誰がするのか。
 あまりに答えの見えきった問いを自分に投げ、グレイヘイズは内心でがっくりと項垂れた。


 ***


 時の流れが酷く淀んでいた。進んでいるのか戻っているのか。そこにあるのは過去なのか未来なのか。けぶる空気は白く灼けて、今という時間がうまく捉えられない。
「――なんだか、夢を見ているみたいだ」
 セライムは、額に手をやりながら口の中でごちた。朝起きて授業を受け、夕方は喫茶店で働いて帰って眠る。そうやって続く時の中で、突然足場がなくなったような不安定な世界。それが今のセライムの目の前に広がる現実だ。
 確かに軋みは物騒な事件などを通して聞こえていた筈だった。しかしそれは日常という名の怠慢によって見過ごされ、取り返しのつかない事態となって襲い掛かる。牙を剥かれた幼子は、失ってから始めて途方に暮れるしかない。
 日常から突然弾き出されて、呆然としているのは彼女だけではなかった。まるで病魔に冒されたように、学園中が動きを鈍らせているようだった。
 顔を向けると、見慣れた寮の自室で双子の姉妹が思い思いの時間を過ごしている。表情が冴えないのは、ここ数日の間、部屋に事実上軟禁されている為だろう。セライムも日差しが恋しかった。ベランダなどで受ける僅かな光ではなく、大通りに飛び出していって体一杯に陽光を浴びたかった。
 学問の聖域と呼ばれ、その閉鎖性を忌避する者も多い学術都市グラーシア。しかし、そこにも風があり、友があり、優しい日常があるのだ。セライムは、掛け替えのない思い出をいくつもくれたグラーシアを、心から愛していた。そして自分がこの地を去るその日までに、一杯の優しい記憶と、生きる標を見つけようと考えていた。
 しかし、日常は躓き、地響きと共にやってきた事件は雷鳴の如く生活を激震させた。学園側は生徒の安全を最優先とし、臨時で長期休業の措置をとることを決めた。全校で教育内容を丸半年分遅らせることが決定したのだ。
 その決定の煽りを最も激しく受けたのは、セライムたち高等院の上級学年に所属する生徒たちだった。彼らは卒業を春に控えており、既に多くが卒業後の受け入れ先も決まっていた。しかし、卒業が半年遅れたのではそれもふいになってしまう。そこで説明された苦肉の策が、卒業を控えた学生の希望者のみに学園に留まることを許し、過程を終了した者には予定通り卒業させるといったものだった。
 グラーシア学園の卒業生たちは、その多くが都市の研究機関に配属される。受け入れ先によっては学園の状況を汲み取って半年後の受け入れを許可したが、都市外の機関になるとそれを渋るところも多かった。双子は卒業した後、故郷に戻って働こうと考えていたらしく、その為に都市に残るそうだ。
 自分はどうなのだろう。ベッドの上で膝を抱えながら、セライムはそんな問いを心に投げ、そして決まりきった答えを唇を噛み締めることで反芻した。
 休校を受け入れて実家に戻ったところで、半年後にはキルナやチノはいなくなっている。紫の少年も、きっと学園に残って春に卒業する道を選ぶだろう。彼らのいないグラーシアなど、実家にいるのと変わりない。ならばどうして帰るなどという選択が出来るだろうか。
 しかし、セライムの胸の内には異物となって濁るものがあった。
 警視院の見解によれば先の爆発の原因は、違法な研究を執り行った研究員たちに拠るものということだ。だが、噂はいまや尾鰭背鰭をつけて飛び交っていた。反政府団体の強硬派の仕業だとか、はたまた国家の転覆を狙う隣国の工作員の行為だとか――。
 どれも荒唐無稽な話であり、とても信じる気になれない。否、信じるの可否を問う前に、そこに現実味が感じられないのである。セライムには、そう思う心が普通なのか異常なのか、よく分からなかった。血に濡れた11年を経てこの大陸に訪れた平穏が、セライムやそこに住まう人間たちから危機感を奪ったのだろうか。セライムは未だに現実の出来事をうまく処理できずにいる。――実家に電話をかけてからは尚更。
 実家に戻らない旨を伝えたとき、電話には思いがけぬ人物が会話を申し出てきたのだ。ヴィシュガー・ユルスィート、セライムの戸籍上の父親であり、国で知らぬ者のいないユルスィート財閥の現会長である。
『――セライム、よく聞きなさい』
 多忙で家にほとんど戻らない父親からの不意打ちに、セライムは息を詰まらせながら内容を聞いた。父親の声は緊張で強張っており、じっとりとした不安を孕んでいた。
『その都市は危険だから、すぐに帰ってきなさい。どうも嫌な話ばかりが耳に入ってくるのだ』
 口ぶりは得体の知れない危惧を思わせて重苦しい。セライムは戸惑いを隠せず、息苦しさを覚えながら理由を正した。
『国はグラーシアで起きている事件を揉み消そうと躍起になっている。魔術規制の結界中で魔術を使う者は本当に存在しているらしい。今回の爆発事件もその件が絡んでいるそうなのだ』
 魔術規制の中で魔術を使う人間。それを聞いた瞬間、はっとしてセライムは受話器を握り締めた。その人物なら、夏にこの目で見ている。しかしその事実を父親に伝えていないことに気付き、そして今は伝えるべきでないとも思った。何があっても、このグラーシアから帰るつもりはなかったからだ。
 父親はその立場上、国の裏の動向も聞き及んでいるのだろう。物憂げに低い声で忠告を続ける。
『そちらで今後どのようなことが起こるかは皆目わからない。国が動いているが、万が一ということもある。暫くこちらにいる方が安全だろう』
 幾年も前のこと、父親は血の繋がらない娘を嫌な顔一つせずに迎えてくれた。もしかしたら内心では複雑な心境を抱えていたのかもしれないが、それが表面化するほどセライムは父親と共に時間を過ごしたことがない。セライムが父親の存在を遠ざけたからだ。そして父親もまた、セライムの意志を汲んでグラーシア学園に入りたいと申し出たときも反対しなかった。
 そんな父親の忠告だ。聞き入れなければならなかった。もう自分は新聞記者の娘ではないのだ。ユルスィート家の息女として父親の意にそぐう振る舞いをせねばならない。そう、心では分かっていたつもりだった。
 だが、同時に胸の底から、壁を砕こうとするかのごとく衝動が突き上げる。座して運命を受け入れるだけの人間にはなりたくないと。過去に取り憑かれて生きているのは、前に進んでいないことと同じ。だが、未来を受け止めるだけで生きているのでは、死んでいるのと同じことだ。そんな沸騰する感情が、次に聞こえた父親の台詞で爆発した。
『シルティーナも広い家で退屈をしているだろう。付き添ってやってくれ』
 一拍の間、思考を止めたセライムの網膜に、顔を背ける母の姿が瞬いた。どうしようもない切なさが堰をきって溢れ出し、娘と母の間に横たわる微妙な関係に気付かぬ父親に間髪いれず口を開いていた。

「帰るつもりはありません。私はグラーシアから帰りません」

 思考にたゆたうセライムの意識は、シーツのわだかまるベッドの上を所在なく彷徨う。
 幼い頃に見た父や母、そして今の母、父を殺めたのだと告白した女性――彼らの表情が、脳裏に浮かんで消えていく。既に答えはそこにある。己の行かねばならぬ道は決まっている。
 しかし、胸の奥で燃えるこの灯火は何だろう。
 咄嗟のこととはいえ、父に歯向かった己の口からほとばしった想いは、まるで炎のようだった。枠の中に納まりきらない衝動だった。
 私は一体どちらを選ぶべきだろう――膝を抱えなおして、セライムは目を閉じた。


 ***


 見慣れた医務室の扉の前で、ミューラは油断なく左右に視線を向けた。閑散としたグラーシア学園には重たい静寂が落ち、耳に痛いほどの静けさを訴えかけてくる。そこに不穏な気配がないことを確認してから、彼女は背筋を伸ばして扉を潜った。
 緊張した足元は、普段向くはずの執務机を越えた簡易ベッドの方向へ。カーテンで仕切られたそこの前で、ミューラは伺うように口を開いた。
「私よ。入るわ」
 返事を待たず、薄布を隔てた先へと足を踏み出す。そうしてミューラはそこにあるものを痛ましげに見下ろした。
 窓から降り注ぐ陽光は、カーテンのせいで淡くぼやけて薄い闇を堆積させる。白い布に囲まれているせいか、それらの片隅にあるものはどこか現実感がない。むしろ時を止めた一枚の絵画のように見える。
 壁にもたれかかるシェンナは、力なく落ち窪んだ瞳をこちらに向ける。腕には、ぐったりとして動かない同じ色の少年を抱いて――。
「落ち着いた?」
 ミューラは努めて静かに尋ね、少年の具合を確かめるようにシェンナの傍で膝をついた。やや不可解そうな視線を向けたシェンナは、警戒するように少年を抱きなおす。
「見せて」
 短く、それでいて強い語気を持ってして、ミューラの腕が伸びる。シェンナはためらいながらも、最後はそれに従った。
 少年の様子を見るミューラは、シェンナが始めてこの部屋を訪れたとき平静を失いかけていたのが嘘のようだ。

 あの晩、強大な魔力を操ることも出来ず発散させたドミニクを抱えて、シェンナはその場を逃げ出した。しかし、離れてみてから恐ろしいことに気付いたのである。
 彼らは体の正常を保つ為に、定期的な薬の服用を必要としていた。しかし、それを保管していた家が消し飛んでしまったのだ。服用をやめれば彼らは立ち上がることも出来ないほどに消耗する。その上、シェンナは死の足音が聞こえ始めている体だ。薬がなければたった数日で、体の端から壊死が始まるだろう。
 それを防ぐ為に、薬剤が揃う場所に行く必要があった。故に警備が最も甘い学園の医務室を狙ったのだが、そこから起きる出来事は予想外のことばかりだった。必要なものを得ればすぐにでも逃げ出すつもりだったのである。だが、シェンナが抱いた少年を見た瞬間、目の色を変えたミューラは思ってもみない行動にでたのだ。
 ミューラは、何も言わずにシェンナが求めた物品を揃え、これが欲しければ手当てをさせろと言った。銃を突きつけたところでその眼光が揺るぐことはなかった。
『私に手当てをさせて』
 必要なものを渡せば危害は加えないと言ったのにも耳も貸さず、長い年月を生きた瞳は真っ直ぐにシェンナを見据えた。灰色の彼らが闇に生きる人間なのだとミューラは瞬時に理解し、その上で助力を申し出たのである。
 たかが何も知らない女、とミューラを見くびっていたシェンナは、瞳の奥で酷く狼狽し、そして力尽きた。元より、あの場所から死ぬ物狂いで逃げ出してから、ぎりぎりのところで立っていたのである。死期を間近に迎えたシェンナの体は、先の件でずたずただった。
 何もかも終わったと思いながら意識を失ったシェンナは、次目覚めたときは警視院の手に引き渡されているのだと考えた。だが、数日経った今も、薄れる意識を繋ぎとめると、そこは白く区切られたカーテンの中。ミューラは、灰色の人間たちを医務室に匿ったのである。
「……何故」
 意識を失ったままの少年を労しげに介抱するミューラを見つめて、シェンナはぽつりと呟いた。
「何故、人を呼ばない」
「呼ばれたくないんでしょう。見ればそれくらい分かるわ」
 眠る少年の顔色は青褪め、嫌な夢を見ているのか苦しげに浅い呼気を重ねている。肉体の許容を超えた魔力を放ってしまった為だ。あれから灰色の少年は、うなされては死んだように眠るという繰り返しを続けている。
 そんな少年が、先の事件を引き起こしたのだと、ミューラは薄々気付いているのだろうか。
「あなたは、私が人を呼べば逃げるでしょう。けれど、そうなればこの子はどうなると思ってるの? 重度の魔中毒に侵されているわ。これ以上動かせば――」
 ミューラは言葉を詰まらせ、顔をしかめた。
「――この子と同じくらいの息子がいるの。放ってなんかおけないわ」
 シェンナは、ほつれた髪を頬に張り付かせたまま、言葉を忘れてミューラの顔を見つめた。ただの医務室の主とは思えない、むき出しの感情が若くない女性の表情を彩って、峻烈な光彩を生んでいる。
「……ドミニクは、助かるの」
「分からない――あなた、魔中毒のことは知っている?」
「強大な魔術を行使した為に起こる症状で、身体への恒久的な障害や昏睡状態を引き起こす」
「そうよ。そしてこの症状に有効な手段を人は持たない。――外部からの刺激を最小限にして、見守ることしか出来ないの」
 外に会話が漏れることを恐れてか、俯きがちに、しかし体の芯まで届く音色で、ミューラは言った。
「警視院に連絡して病院に連れていくのは最後の手段にするから、お願い。ここにいて」
 少年を診て瞬時に魔中毒と判断したミューラである。ただの医務室の女という認識を改めなければならない。そんな思いにかられたシェンナは、裏表があるように見えないミューラに、戸惑いの視線を注いだ。
「何故、そこまでする。ドミニクはあなたの息子ではない」
 こちらを向いたミューラは、ふと眼光を緩め、そっとドミニクの柔らかな髪を撫で付ける。
「……なら、あなたはこんな風に苦しむ子供がいても放っておく?」
「匿う理由が分からない。分かっているのでしょう、私たちが何に関わっているのか」
「そうね、本当は警視院に連絡しなくてはいけないのだわ。でもね、――あなた。名前は何というの?」
 口篭りつつ名を告げると、ミューラは淡く微笑んだ。
「シェンナ。あなた、何か訳があって逃げているのでしょう。あなたの目はとても真剣だった。とても悪いことをしてきたようには見えないわ」
「――」
 不意に心を直接触られた気がして、シェンナは出会って間もない筈の医務室の女性と見詰め合った。ドミニクを抱く腕に力が入り、喉が熱くなった。しかし、何を言えば良いのか分からない。人の暖かな思いを、どう受け取れば良いのか。闇を生きたシェンナには、よく分からなかった。
「とにかく、今はその子に付き添っていてあげて。ベッドを使わせてあげられなくて、本当にごめんなさい。後に人の気配を残してしまうから――」
 平和そうな顔をして、妙に頭の回転の良い女性である。あのローブを着た男と同じ程の年齢だろうか。しかしそこには、彼のような全能的で透徹な眼差しではなく、目の前にあるものをしっかりと見据え、思考の末に道を選択する力強さがある。心の底を見透かすのではない。ありのままを見つめる瞳に晒されて、シェンナは己の現状を持て余した。
 ミューラが出ていった後も、シェンナは暫くドミニクの頭を膝の上に乗せたまま、頼りない体温を感じていた。ミューラはドミニクが無理な魔術行使による中毒症状を起こしていることは見抜いたが、それ以上を看破することは出来なかったようだ。つまり、シェンナやドミニクの持つ体の特異性に。人に扱えぬ筈の魔力を秘めた彼らの体には、人の常識は通用しない。
 意識が戻らないドミニクの横顔を、シェンナは顔を歪めながら見つめた。灰色の髪が散った頬は憔悴して丸みを失い、急速に命の形を失っている。『失敗作』の、失敗作たる所以だ。人よりも扱える力は大きいが、それを扱うことの危険と常に隣り合わせでいる。成功体である紫の少年と違って、無理な魔力の行使は彼らにとって命と引き換えの行為となる。
 このままではいけない――、そう焦る想いと、所詮散っていく命なのだと諦観を呟く想いが、胸の内でぶつかって飛沫を散らした。だが、行動を起こすとして今の彼女に何が出来るだろう。既に死の足音は彼女の体を蝕み、僅かな魔術行使でさえ苦痛となっていた。
 視線を彷徨わせると、カーテンが陽光を受けて白く輝いていた。きっと、外は青天が広がっているのだろう。自分にあともう少しの魔術が使えれば、ドミニクの体を診ることが出来るのに。
 そうぼんやりと考えたシェンナが、ふと『もう少しの魔術』が使える人間に思い当たったのはそのときだった。




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