-紫翼-
二章:星に願いを

53.破れかぶれの記憶



 紫色の夢を見た。
 いつからその夢を見ているのか、定かではない。
 そしてこの夢に終焉は訪れないのだと、心の何処かで理解していた。
 誰かがこちらを見つめていた。儚いほどにひたむきな眼差しだった。
 願いを呟いたのに、その人は叶えてくれない。
 何かを唇に乗せて、青い双眸は消えていった。
 代わりにやってきたは憎悪の感情。
 言葉は時に刃となる。腐った果実のように、ぶつけられたそれは心にこびりついて染み込んで。
 逃げたいと思ったのに、誰も叶えてくれない。
 そして、さ迷う人がやってきた。否。その人は夢が始まってからずっと、こちらを見つめていたのだ。
 透徹な瞳だった。ぎらぎらと輝く眼差しだった。脇見を知らないその人は、闇の底の創造者。
 生の脈動を忘れた腕は、狂ったように新たな歪みを生み出し続ける。道すがら、それらの歪みを重ねていく。まるで壊れてしまった機械仕掛けのように。
 擦り切れぬ筈がなかった。磨耗しない筈がなかったのだ。
 きっと、疲れたのだろう。生み出し続けることに。戦い続けることに。
 糸が切れたように、その人は膝をついた。いびつな心の何処かでその人は、きっと、いつだって喘いでいたのだろう。

 ――許してくれ。

 その手に握られた、黒い穴。
 惨劇が始まった。
 一つの破裂音に、散っていく命がまた一つ。まるで花が花弁を落とすよう。
 賢者の叡智が、腐敗によって朽ちていく。
 悲鳴も怒号も憎悪も絶望も、何もかも衰退は避けられず。
 一つ、また一つと消えていく。
 音がやんだ。それで、静寂を知った。

 囁くように呼ばれている。あらゆるものが終焉を迎えた、黄昏の中で。

 ――起きなさい。

 ――起きなさい、ユラス。

 そして、降りしきる豪雨の中を。
 春の到来を告げる嵐の中を――。

 ああ。
 紫色の鳥が、空を切って飛んでいる。
 それでこれが現実ではないのだと知った。
 だって、セトはもういないのだから。
 紫色の翼を翻した鳥は、悠然と高みを舞い、こちらを睥睨する。
 哀れな人の営みを見て、哂っているのかもしれない。
 水に沈んだ紫水晶のような瞳が、こちらを探るように見つめていた。
 こちらの拙く愚かな姿を、興味深げに眺めているのだ。
 けれど闇へと沈み行く中では、何も出来ずに――。


 ***


「ユラス、いい加減起きたらどうだい。遅刻するよ」
 覚醒の合図が耳朶を叩く。体が瞬時の硬直の後、自由を取り戻す。
「――う」
 朝か、と思った瞬間、鈍く頭が痛んで額を押さえた。
「大丈夫かい? 気分が悪いなら休んでてもいいけれど」
「うー」
 呻く喉はからからで、干乾びた声しか漏れてこない。目を開くと、制服姿のスアローグと視線がかちあう。本に目を落としていたエディオも向かいのベッドの方から顔をあげ、こちらを伺っているようだった。
 どうやら今日も朝がやって来たらしい。全く体が休まった気がしないのだけれど。
「んー、起きる、起きるぞ……」
 泥が溜まったように重い頭で返事をして、俺は上体を起こした。軽い眩暈をこらえて目をこすると、スアローグが制服をよこしてくれる。今日は全校集会があるため、登校しないといけないのだ。
 眠気と戦いながら上着に袖を通して、適当に身なりを整えると、俺はそのままスアローグに続いて外にでた。
 扉を開いた途端、白い光が降り注いで目を細める。澄み切った淡い空が広がる、奇妙に晴れ渡った朝だった。
 けれど、そこにもう紫の鳥はいない。
 無意識にセトの姿を探していた俺は、上ばかり見ていたからか、階段で足を踏み外した。
「ちょ、ユラス!?」
 叫ぶスアローグ、目を剥くエディオ。階段を転がり落ちて、腰を強かにぶつけてしまう。
「痛い……うー」
「大丈夫かい!?」
 そんなに高いところから落ちたわけじゃないのだけれど、結構痛い。若干泣きそうになりながら立ち上がる。周囲を見回すと、登校中の生徒たちからの奇異の視線に気付いた。しかし、騒ぎの元が俺だということを知ると、視線はすぐに逸らされて、彼らの世界に戻っていく。僅かなざわめき。飛び交う俺の名を含んだ囁きを、聴覚が感知する。知らないところで口にされる、ユラスという名前。
 俺の名前は、良くも悪くも学園中に知れ渡っている。保護者がフェレイ先生であることも要因の一つだが、大きな理由はやはりこの目立つ容姿と、自分で言うのも変だけど――普段からの奇行による。俺は普通に振舞っているはずなのに、周りから見れば妙に見えるらしい。
 それは、俺と周囲が違うものだからだろうか。
 違うものだからだろうか?
「テメエ」
「ん?」
 濁りだした世界が、急激に元の光彩を取り戻す。一度瞬いて声の元を見ると、エディオがいた。
 その目線に内心を見透かされた気がして、俺は取り繕うように頬をかく。何故だろう、少しだけ胸が苦しい。
「――さっさと行くぞ」
 エディオは何かを言いかけて口をつぐみ、代わりにそう紡いで背を向けた。スアローグも小さく声をかけて俺の隣をすり抜けていく。学園への道のりは、生徒でごった返していた。ともすれば先を見失ってしまうくらいに。
 だから、唇を噛み締めてそれを追いかける。靴が石畳を叩く足音の群れを、なるべく聞かないようにしながら。

 そして全校集会では、学園の臨時長期休業が発表された。
 相変わらず、俺の知らないところで世界は廻っていた。


 ***


 手の平から生まれる哀れなほど幼い燐光。
 純粋な世界では、次第に言葉も理論も消えていく。
 残った虚無を感じ取っても、悲しいとも思わない。
 意識が風に少しずつ磨り減っていくようだった。

「――」
 次第に耳鳴りは止んでいき、体を覆っていた冷たさも生暖かい空気にとって代わる。宙を彷徨っていた前髪が額に落ちてきたのを境に、俺は肺腑から息を吐き出した。
「なんだ、もうやめるのか」
 やや後ろからこちらを眺めていたダルマン先生のぼやきは、全てを見通している。だから俺も、振り向かず、顔もあげなかった。
「これ以上やったらこの測定器も壊れます」
 蝋燭の仄かな灯火が、橙色に揺らめいている。そこに僅かに浮かび上がった、静寂の世界。古めかしい隠者の庵に似つかわしくない無骨な機械が、目の前に水晶を捧げ持っていた。ダルマン先生が持ってきた、人の限界値を大幅に超えた魔力でも測定出来る機材だ。
 そして、漆黒のローブに身を包んだ老人に魔術を教わり始めてから数ヶ月。ついに俺の魔力はこの機材でも耐え切れないほどのものになっていた。
「――凄まじい力だの。海を切り裂く海賊テスタ・アルヴ、マディンを滅ぼしたアレクサンドリア家。お主を見ていると、奴らの伝説も伝説ではなかったように思えるわい。その力があれば、やりようによってはお主一人で国家を転覆させられるだろう」
 子供の頭ほどの大きさもある水晶を見つめたままの俺にかけられる言葉は、淡々としている。ダルマン先生の賞賛など今まで聞いたこともなかったのに、鈍重なそれは心まで届かない。
「学園、明日から長期休業に入るそうです。知ってますか」
「外の世界に興味などないわ」
 醒めた返事を吐き捨てられて、心が僅かに反応を見せる。わだかまっていたものが、どす黒い混沌を呈して渦巻く。笑っていなければいけないのに。普通でいなければいけないのに。
「外は大変なことになってますよ」
「知ったことか。研究の邪魔にならぬ限りは何でも起こるがよかろう」
 なんでそんなことが言えるのだろう。これが普通なのだろうか。何処かで身に覚えがあるから、俺はこんなに息苦しい思いをしているのだろうか。
「なら」
 胃の辺りが冷えていくのを感じながら、俺はそれを唇に乗せた。
「なら、どうして俺に魔術訓練以外のことをさせないんですか。本来は召還術をやらせる為に俺を呼んだんでしょう」
 そうだ。俺が魔術の訓練をしているのは、召還術の研究の為なのだ。なのにこの教授は、ここまできても俺に何も教えようとしない。
 だから、俺は何も知らない。何一つ知ることが出来ないのだ。
「自惚れるな、馬鹿者。今のお主に召還術など到底無理だ」
 振り向いた先で、ローブに表情を隠した老人は侮蔑に似た笑みを湛えている。分からない。この人が何を考えているのか。だって、俺はもうこの力を十分に操ることが出来るのだ。なのに俺にはまだ無理だという。
 頭が不快感と共に冷たくなっていく。悠然とした老人への苛立ちが、言葉を口早にさせる。
「なんでですか。足りないものは何もないし、それに俺、もうすぐ卒業しますよ」
「そうか、そうだったかの。ならばお主の才はそこまでだったということだの、私も諦めよう」
「じゃあどうして俺を連れてきたんですか!」
 机を叩いて声を荒げる。目の前で水晶を破壊してやろうかと思った。俺にはその力がある。何もかもを壊す力だ。欲しくもなかったのに、それを与えられて俺は野に放たれた。破れかぶれの記憶と共に。
 そして周りは俺を利用し、俺を哂い、俺は振り回されるばかりで――。
「阿呆。問えば答えが返ってくるとでも? では教えてやろうか、お主がどれだけ役立たずであるのか」
「――っ?」
 その刹那、耳元で唸る風を感じた。はっとして体を強張らせた俺は、指を掲げてその干渉を妨げようとする。しかし、その行動が遅かった。
 闇に溶けるローブが、ゆらめきと共に杖を掲げる。目を見開いた瞬間、鈍器で殴られたように、見えない空気の力で地面に叩きつけられる。胴体から床に叩きつけられた衝撃で声にならない激痛が全身に走った。
「ほれ、どうした、人知を超える力を持つ者よ。少しは反撃をしてみせぬか」
 激しい空気の回転にみしみしと軋む部屋の中、老人は嘲笑う。拳を握り締めて立ち上がろうとして、再び叩きつけられる。痛みが集中力を削いで、魔力を集めようとしてもただ淡い光となって散っていく。
「――っ!」
 歯を食いしばって抗おうとするが、酷い頭痛の中では思考もままならない。惨めな痛みに視界が滲んでいく。
 杖が降ろされ、解放が訪れても、暫くは激しく咳き込むことしか出来なかった。途端、杖の先端で横面を殴られて体ごと倒される。机の脚に当たったため、乗っていた紙束が地面に落ちた。
「情けない。お主は今、指先一本動かすこともなく、ただの人間に敗北したのだ」
 ガツン、と杖の先が床を叩く。しわがれた声には何の感情も含まれていない。未だ胸の苦しさに咳が止まらない俺は、杖で無理矢理に上方を仰がされた。
「子供がナイフを持っているのと同じだな、お主は。黄金の剣を使いこなすことを知らぬ癖に慢心し、無力を悟ればこんな筈ではないと嘆くことしか出来ぬ。何も持っていない人間の方がまだましだ」
 蝋燭の明かりに浮かび上がる、ローブの下。しわがれた醜い老人が、瞳を光らせてこちらを見下している。
「何を座りこんだままでいる。母に全てを世話して貰う赤子と今のお主、何が違うというのだ。世界などお主がいなくとも勝手に廻る。お主の為に世があるとでも思ったのか、甘ったれめ」
 頭がぐるぐると廻る。喘ぐことも忘れて、目を開いたままでいるしかない。
「ほれ、見てみろ。愚鈍な舌は言葉を忘れ、石像と化した腕は朽ちていく。まるで今のお主のようにな。空腹だからと濁った目で世界を眺めて、獲物が目の前に飛び出してくるとでも思ったか」
 すっと杖を引かれたと思ったら、再び頬をはたかれた。不快な血の味が口の中に広がって、吐き気がした。
「出て行け。二度と私の前に姿を見せるな」
 手で押さえた口を僅かに開いて、言葉を捜して、ダルマン先生を見上げる。しかし、唇はただ音もなく震えるばかりで。
 背の低い老人は、一瞥すら投げることもなくこちらに背を向けた。


 ***


 実家に帰らせて頂きたい。

 まるで夫に愛想をつかせた嫁のような思いにかられながら、グレイヘイズは空ろな目で煙草をふかしていた。煙を吐き出して目を向けた先には、ソファーで眠る主人。だがその様子を常人が見れば、視線を逸らさずにはいられないだろう。
 生気を失い、青褪めた肌の色。額から片目にかけて包帯が巻かれた様は整った顔立ちを汚すようで、そこにかかる乱れた髪が痛々しい。今は外套がかけられているが、首から下にかけても酷い有様だった。
「――つ」
 身じろぎをしたグレイヘイズもまた、痺れを伴う痛みに顔をしかめる。主人ほどではないが、彼もまた左肩を負傷していた。主人がいなかったら、左肩どころか体ごと塵と化していただろうから、この幸運を神に感謝せねばなるまいが。

 グレイヘイズは主人と共に灰色の人間を捕獲しようとし、結果的に失敗した。灰色の子供が魔力を暴走させたためだ。あのままでは二人とも光に飲まれ、命はなかったろう。
 あのときのレンデバーの行動は、まさに人間離れしていたと思う。
 魔術の暴発の直前、彼は身を翻して灰色の子供の至近距離にいたグレイヘイズを突き飛ばし、護符で封印を解除すると、足元に魔術で狭く、それでいて深い穴を作り、従者と共に飛び込んだのだ。
 一か八かの作戦だった。グラーシアの地下には、下水道が走っている。そこに突き当たらなければ、穴に隠れても降ってくる瓦礫で窒息死が待っていた。だが、果たして主人が作った穴は見事に下水道に通じており、汚水の中に落下するという事態は免れなかったが地下に逃れ、命を取り留めることが出来たのだ。あれだけ一点に魔力を集中させて深い穴を掘ってみせたレンデバーの技と運の良さには、舌を巻く他ない。ちなみにグレイヘイズの肩の傷は落下の衝撃によるものだ。
 しかし――と、グレイヘイズは伸びてきた前髪を煩わしげにかきあげる。
 魔術は扱うに当たって、細い針に糸を通すような集中力を必要とする。行使開始から発動までに時間がかかるのはその為だ。昔は詠唱を使うやり方が一般的だったが、今は口でなく手を振って印をきる方が効率的であるといわれている。とはいえ、それでも体を使って精神を統一することに代わりはない。
 だが、主人のように魔術をほとんど一瞬で発動できる人間も、この世には存在する。彼らは瞬時に精神を研ぎ澄ませ、空気の流れを見極めることが出来るのだ。魔術師として技を極めた者にしか出来ぬ芸当である。しかしそれは術者に多大な負担をかける行為であった。故に主人でさえ、緊急時以外は印をきる順序を経て魔術を発動させているのだ。

「グレイヘイズ、今は何時?」
 だしぬけに転がった声に、グレイヘイズは主人の顔を見直した。何時の間に意識が戻ったのか、僅かに開いた琥珀の瞳が、ぼんやりと宙を眺めている。
「――正午です」
「外は」
「変わりありません。それよりも」
「うん」
 レンデバーは痛みを覚えるのか、己の体を庇うようにして上体を起こす。這々の体で逃げ出し、隠れ家に転がり込んで応急処置を済ませてから、レンデバーは死んだように眠っていた。強力な魔術を、しかも瞬時に行使した為だ。
 そして、そのような無理な魔術行使は、術者に拭えぬ後遺症を残すこともある。

 レンデバーは煩わしげに額の包帯を解いた。長い指に白い布が絡み、するするとソファーに落ちてわだかまる。
 そうして露になった主人の片目を見て、グレイヘイズは息を呑んだ。
「んー」
 軽く頭を振って、レンデバーは目を覆ったり片目を閉じたりしていたが、自分で納得したように頷くと、落ち着き払った声でぼそりと呟く。
「左、見えないみたい」

 凍りついたグレイヘイズを見つめる彼の左目は、色彩を失って金色に濁っていた。

 ぞっと胸を冷やす思いで、グレイヘイズは身を乗り出す。
「完全に見えないのですか」
「うーん。明るいか暗いかぐらいは分かるけど。やだなあ、慣れない感じだ」
 場違いなほど呑気に顔をしかめている主人を見て、顔面蒼白のグレイヘイズは眦を吊り上げた。
「慣れないとか言っている場合ではないでしょう! 一度アルジェリアンに戻りましょう。まずは目を治して――」
「治るのかな、これ。治らないと思うけど。魔術行使で目が見えなくなったなんて、よくある話だし。両目じゃなかっただけ幸運だよ」
「そうだとしても」
「グレイヘイズ、君らしくないな。君は僕の忠実な下僕でしょう? それとも――」
 ふっとレンデバーは左右で違う色の瞳を細め、皮肉な笑みを口元に刻む。
「僕はもう『駄目』だと思った?」
「――」
 グレイヘイズの耳の奥で、いつか誓わされた盟約が木霊する。それは主人が人として完全に壊れたとき、果たされなければならぬ盟約だ。
 首元に刃を当てられた思いで、グレイヘイズは主人と睨みあった。悪魔めいた笑みを浮かべる主人の様は、禍々しく、そして――痛々しい。
「あなたがいなければ今頃、私は消し炭でした」
 一呼吸を入れて、グレイヘイズは低く言葉を紡ぐ。
「主であり、命の恩人であるあなたの身を案じているのです」
 暫くの沈黙が落ちた。死んだ海のような静寂だ。グレイヘイズは光を失った瞳から視線を逸らさず、レンデバーは不敵な笑みを崩さない。無言の探り合いは、時の流れすら止めたかのよう。
 しかし不意にレンデバーは眼光を緩め、苦笑した。
「――君は正直だな、グレイヘイズ」
 水ちょうだい、と人格が入れ替わったかのように気楽に命令する。凍りついた流れを氷解させるように。グレイヘイズも肩を降ろしてグラスに水を入れてやった。それを受け取ったレンデバーは喉を潤し、一息ついてから目を眇めて口を開く。
「首都には戻らないよ。折角尻尾を掴みかけたところだもん。それに、この事態じゃもう軍が動かざるを得ないでしょう? あの人たちに手柄持ってかれるなんて絶対ヤダし。相手も手負いだ――もう一度捕まえるよ」
「……了解しました」
 グレイヘイズは瞑目して、主人の方針を了承した。本当は主人の目も心配であるし、心の奥底から首都に逃げ帰りたい気持ちで一杯であったが、主人の命だ、飲むしかない。終わるまでこの命が散華しないよう、祈るばかりである。それでも元軍人かと言われても、実際誰だって死ぬのは嫌なのだ。
 そもそも、今回の依頼を並外れた報酬と共に提示されたときから嫌な予感はしていたのである。自分、この金貰う前に死ぬんじゃなかろうかと。依頼主の人格を考えればあり得過ぎる話であるのがどうにも切ない。
 しかし、依頼主からどんな情報を得たか、奇妙なほど主人はこの件に固執しているように見える。それがやや気がかりだった。
「……ユラス君に会いたいな」
 窓の外を眺めながら、レンデバーはぽつりと呟く。グレイヘイズは新しい煙草に火をつけようとして、次に聞こえた疑問符にぴたりと手を止めた。
「あれ?」
 レンデバーは体の向きを直そうとして、痛みを覚えたのか若干顔をしかめる。しかし、窓を横目で伺う様は珍しく驚いたようで、グレイヘイズは反射的に懐の銃に手をかけた。
 だが、ぱちぱちと目を瞬いたレンデバーは従者に向けて、形良い指で窓の下を指してみせる。
「なんか、妙なお客さんがきてるよ」
「はい?」
 その瞬間、下の階の扉が激しく叩かれてグレイヘイズは目を剥いた。まるで友好的とはいえない呼び方だ。一瞬、警視院の人間にこの隠れ家が見つかったのかと思ったが、主人の表情を見る限り違うようである。
「グレイヘイズ、あけてあげて」
 投げやりに言って我関せずを決め込んでしまう主人を一瞥すると、来訪者の正体を掴めぬままグレイヘイズは下の階に降りて扉を開けてやった。念のため、手は懐に入れたまま。
 だが、開いた扉の向こうにいた人物を見て、グレイヘイズは盛大に顔を引きつらせた。銃を引き抜くどころか、指を一本動かすことすら出来なかった。
「……」
 来訪者は馬鹿馬鹿しいほど明るく降り注ぐ日差しを浴びて、そこに立っていた。
 宝石を紡いだように輝く淡い亜麻色の髪。甘やかな色のそれはしかし、顎の線で大胆に切り落とされ、峻烈な輝きをそこに生んでいる。
 こちらを射抜くように睨みつける瞳は鮮やかな若草色。迷いの消えた生粋の意思が、宝玉のようなそれに秘められて燦然と煌く。
 グレイヘイズの腰ほどの背丈しかない少女は、しかし目の前の巨漢に恐れることなく、逆に圧倒する勢いで地を踏みしめているのであった。
「え、う」
 あまりに予想外すぎる珍客を前に言葉を失うグレイヘイズの前で、少女――セシリア・オヴェンステーネは、妙に迫力のある表情を湛えたまま、静かに口を開いた。

「これは、どういうことですの」




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