-紫翼-
二章:星に願いを 52.みんな、苦しいのよ 星が降ってくるような夜のこと、彼は、そこに立っていた。 「――」 ミューラは広場に開ける道の途切れ目で固まっていた。目の前の舞台にあがるのを恐れて、彼女は目を見開いたままだった。 星が美しく瞬く夜だった。 雲など、一つも見当たらなかった。 彼の横顔は、空を見上げていた。漆黒の夜空を彩る天使の涙たちを、透徹な眼差しで見つめていた。 まるで、そんな空に焦がれるかのように。 そこに行く翼のない己を、歯がゆく思うように。 ぽたぽたと、手首から大粒の血が流れていく。 銀に光る輪郭を伝って、黒く地面に落ちていく、落ちていく。涙のように、とめどなく。 右手には、抜き放たれた刃。幾度となく目にしたことのある、日常に使う、ありふれたもの。血に濡れて、禍々しく煌きを宿す。 血流を垂れ流すままの左手は、胸の下まで持ち上げられていた。あたかも空から零れ落ちる何かを受けようとするかのように。 時が、引き伸ばされて動きを止めていた。ミューラは瞬きをすることもなく、ただ、彫像のような彼を――星に願いを捧げる彼を、見開いた瞳に映し込んでいた。 すると彼は、こちらに気付いたのだろうか。 それとも、時が動き出しただけだろうか? ゆるりと、細い顔が――こちらを向く。 銀板のような瞳が、一度だけ瞬く。 穴のあいた瞳だった。 そう。彼を中心に穴が開いているようだった。全てのものが、そこに吸い寄せられ、取り込まれていく。 音が死滅したのも、きっと彼が全てを消したからだろう。 世界が暗転するのも、きっと彼が全てを消したからだろう。 広場の中央で静止する彼は、問いかけることもなく、ましてや憎悪することもなく。 ただ、現実を吸い込む闇のように。 そして、地に縛り付けられているのが不思議なほど質量の感じられない体を解き放つために――。 彼の右手が、表情もなく翻った。 刃を握り締めたまま。相変わらず色はなく。 指先すらも動けなかった。 無を握り締めたまま。彼の瞳に吸い込まれたまま。 彼は、僅かに首を傾ける。白い首筋が露になる。 そうして、そこに丁度翻ってきた刃が、煌きと共に吸い込まれて――。 暗転する。頭は殴られたように霧がかかって動かない。悪い夢でも見ているように、現実が酷く曖昧だ。 誰かが、疾風となって横を通り過ぎていった。次の瞬間、鈍い音と共に金属が石を叩いた。そして、砂袋が地に投げ出されるような音。 ちかちかと転ずる月夜の舞台に、気が付けば夫がいた。彼もろとも倒れこんだ夫は落ちた刃を荒々しく足で蹴飛ばして遠くにやり、伏した彼を抱え起こした。夜空の下でも分かるほどに血相を変えて、夫は怒鳴った。 「ミューラ!!」 眩暈がして、意識が遠ざかりかけた。しかし、倒れる寸前、頬に痛みが走って、現実に引き戻される。頬を持ち上げられて、見上げた先に夫の顔。 「人を呼んでくる、応急処置を」 「――」 「医者になるんだろうが!!」 唇が震えた。急に涙が浮いて、胸に雫となって落ちていった。 「――うん」 弱々しい頷きでも、夫は険しい顔で頷き返して駆け出していく。ミューラは、よろよろと月明かりの舞台に駆け寄った。 彼は既に、意識がなかった。夫に体当たりされたとき、全てを捨てて意識を手放したようだった。 よほど深く切ったのか。血溜まりが、彼の腕から広がっていく。表情はまるで死人のように色がない。 そう。美しい星空が広がる夜だった。 どこまでもどこまでも、煌く星は――言葉を返してくれることもなく。 それから、何をどうしたのか。記憶は、もう曖昧だ。 ただ、気が付いたら夫の腕の中で泣いていた。 後になってから、彼が国立病院に無事に搬送されたこと、かろうじて命を取り留めたことを、知った。 冷たい風が吹く、温度のない夜のことだった。 *** 巡り流れる時間は、待ってはくれない。それからも、くるくると日常が優しく残酷に過ぎていった。 夫は、いたずらにあの夜の話題を口にはしなかった。ただ、毎日のように病院に足を運んでいるようだった。 フェレイ・ヴァレナス――彼には身寄りが一人もいないそうだ。 しかし彼のことを考えるたびにあの星空と眩暈が思い出されて、ミューラはそれ以上を夫に聞くことができなかった。 彼女は、逃げるように勉学に励んだ。元々、脇見していられる時間はそう長く許されていなかったのだ。 一ヶ月が過ぎ、二ヶ月が過ぎた。夫は無言で病院に通い、ミューラは無言で日常を守った。 耳が痛くなるような寒さの中にある冬は、そうしている内に後方に流れた。 その先にあるのは、春。 ――はじまりの春だ。 年度に区切りがつき、束の間の休息に身を落ち着ける頃には、ミューラはようやくあの日の出来事を記憶にすることができるようになっていた。 夫の仕事を手伝い、義両親と食事に行き、部屋の片付けをして――。 来客を知らせる呼び鈴が鳴ったのは、紅茶を淹れようと、湯を沸かしていたときだった。春の匂いのする日差しが窓から降り注ぐ、ゆるやかな優しい昼下がりだった。 読んでいた本を置いて、ミューラは扉を開いた。 そこには、水色の髪をした青年が立っていた。 卒倒するかと思った。 あの夜から、何があったのかは知らない。 彼が何を思ったのかも。否、――そもそも彼が何を思ってあの夜を迎えたのかも。あまりにミューラは、彼を知らなかった。 フェレイ・ヴァレナス。あの時は銀の盆のように全てを映し出すだけだった、その瞳が――。 はじめて、ミューラを見て、くすぐったそうに笑ったのだった。 「あ――」 彼は、硬直したミューラに、少しためらうように顎を引いて、手を胸の下で組んだ。左手には、もう包帯も巻かれていなかった。 「ミューラ……さん。お久しぶりです」 僅かにつっかえながらも、しっかり聞こえる声で、彼はそう挨拶した。まるで旧友にするように。 「……退院したの」 ほぼ無意識にミューラは問うていた。彼の瞳は、もうただの鏡ではなかった。人としての生の光を宿して――学生時代とは別の人格がそこに宿っているかのような奇妙さがあった。 「はい」 そうして彼は、穏やかに微笑んだ。 「お礼を言いにきました」 紅茶を二人分淹れる。それを、――失礼ではあるが、猛獣に餌でもやるような気分で、恐る恐る差し出した。 彼は礼儀正しく椅子に座って、背筋を伸ばしていた。 「ハーヴェイに、私を助けてくれたのはあなただと聞きました」 初めて聞く彼の声は、驚くほどに優しく耳に触れ、聞く者を安心させるような音色をしていた。彼は静かな表情でこちらを見て、そっと頭を下げた。 「本当にありがとうございました。ご迷惑をかけてしまって、申し訳ありません」 「……いえ、いいのよ」 ここにいるのは、本当にあのフェレイ・ヴァレナスなのだろうか? 狐に撮まれたような顔をしているミューラを前に、彼は手元に目を落とした。 「申し訳ありませんでした。母が亡くなって、気が動転してしまって」 ミューラは、はっとしてテーブル越しに青年を見つめた。 「……お母様が?」 こくりと彼は頷く。そして、泣き笑いのような表情を浮かべて、目を閉じた。 「でも、もう大丈夫です。怪我もすっかり良くなりました」 窓から降り注ぐ白い光をかぶって、彼は穏やかに座っている。まるでそれは、現実を超越しているようにも見える。喧騒の中であろうと、静謐に佇む賢者のように。 それでいて、初めて触れた彼の笑顔は、今にも崩れてしまいそうな脆さも垣間見える。行き場所を失った子供のように。 しかし、それでも、彼は前を向いていた。 「どうぞ、紅茶――召し上がって」 勧めると、彼は礼を言ってカップをとる。そうして、一口飲んで、不思議そうに目を瞬かせた。 「……おいしいですね。いつも飲んでいるのですか?」 両手でカップを包むようにして、緋色の水面を覗き込む。 その仕草はまるで子供のようで、ミューラは思わず笑った。 「ええ。良かったら銘柄でも見る?」 今回淹れたのは、休みに入ったときに奮発して買った高価な銘柄の茶葉だ。おいしいと言ってくれると素直に嬉しかった。 洒落た茶缶を渡してやると、彼は手にしたそれをまじまじと見つめた。 「――今度買ってみます」 嬉しそうに笑う姿は、まるで今まで何も知らなかった闇の住人が、初めて光を知ったかのようだ。 何があったのかは分からないが、しかし、彼は何かを取り戻すことができたのかもしれない。そう思った。 「ええ。是非買ってみて。紅茶があると心が安らいで、豊かな気持ちになれるわ」 「……そうなのですか」 淡い水色の髪の下、陽光を知らぬ白い顔。美丈夫ではなくとも、これ以上ない穏やかな表情が広がっている。 「いつから仕事に戻るの?」 尋ねられた彼は髪を耳にかけて、眉尻を下げた。 「はい、実は……研究所、辞めてしまったんです」 「え」 思いがけない返事に、ミューラは危うくカップを取り落としそうになった。しかし、彼は同時にどこか楽しげだ。 「ど、どうするの?」 「そうですね――困りました」 困った、って、自分から辞めた癖に呑気に言っている場合ではないだろう、と真面目なミューラは心から思った。だが彼は紅茶を口に運んで、ふんわりと笑うのだった。 「一つだけ、試したいことがあるんです」 目を剥くミューラの背後では、日増しに暖かくなる風がごうと唸る。 しかし彼の透徹な眼差しは、もう遥か彼方を見てはいない。 彼は――無意識にだろうか? 左腕を右手で掴んで、全てを包み込むような穏やかな笑みを浮かべた。 それは、巡る時の中での、あまりに小さく些細な出来事――。 「グラーシア学園の教師を目指そうと思います」 彼はそうして、後に聖なる学び舎の学園長となる。 *** 濡れたような茶髪をかきあげて、ミューラは眠るレインを眺めた。ソファーの手すりに体を預けて眠りこける様は童女のようで、普段は見えぬ頼りなさがある。そしてそれが、人としてあるべき姿なのであろう。戦えば、傷つくのが世の理なのだから。 「あの人はたぶん、傷ついている自分を理解していないだけ」 疲れた口調で、ミューラは独白した。 「だから特別なの。そして特別であることは、諸刃の剣なのよ。羨望を浴びながら、きっとあの人は今でも酷い歪みに苦しんでいるのだろうから。悲しみを持たない人などいない。みんな、苦しいのよ」 ミューラはそこまで言って、胸に手をやって苦笑した。彼女とて、学園長を理解しているわけではない。彼が何をもってあそこまでの行動にでたのか、そして何をもって立ち直ったのか、彼女は知らない。夫が知っているのだろうが、聞く気にもなれなかった。何故なら、そこまでの勇気が持てなかったのだ。人の心は重い。自分のことですら精一杯だというのに、彼の心まで抱えて生きてゆける気はしなかった。何も言わず、何も知らず、ただ見守ることを彼女は選択したのだった。 ――いつかの日の再来を、心の何処かで恐怖しながら。それが起こらないことを祈りながら。 だから、学園長の内面など、全ては想像で賄うことしか出来ない。しかし、それでもミューラは疑っていなかった。歪みを持たぬ者などいない。苦しみを知らぬ者など、虚無を握り締めたことがない者など、この世にはいないのだと。 「英雄カルスは人々を清浄な世に連れ出すためにこの地に導き、栄光と祝福を与えたというけれど。でも、人が住む限り、そこは理想郷にはならないのかもしれない」 しかしそれでも人は追い求めるのだろう。己にないものを切望して、光を求めて彷徨うのだろう。いびつだと分かっていても、そこに夢の実現を願わずにはいられない。 「みんな変わりないの。どんなに特別であろうとも、人間だもの。だから、焦ることなんてないのよ」 そこまで言い終えたとき、不意に医務室の扉がノックされた。 「あら?」 立ち上がるが、扉を叩いた主は名乗ることもせずに沈黙を守る。今日は臨時休校の処置がとられたため、生徒ではないはずだ。誰だろう、と不思議に思ったミューラは眼鏡を外すとそちらに向かった。 生徒がいないだけで、こんなにも空気が淀むものかと思う。医務室も廊下も、不気味なほどの静けさに包まれる夕刻であった。 「はい――?」 扉を開いたその瞬間、鋭く延びてきた手に口を押さえつけられる。 何を言う隙間も与えられなかった。目を見開いたとき、既に中に押し込まれていたミューラは、来訪者を見て更に瞳を丸くした。 ほつれた灰色の髪が、夕日を浴びて燃えるような激情へと色を変える。見据える眼差しは研ぎ澄まされた刃のよう。だが、自分の口を塞ぐ指のあまりの細さ、そして彼女の顔を見て――ミューラは、言葉を失った。 Back |