-紫翼-
二章:星に願いを

49.私の、希望



 胃から喉の奥までが焼け付いたように痛む。体のあらゆる先端から染みる痺れが、全身を蝕んでいく。
 終わりが近い、とシェンナは激しく咳き込みながら思った。元から長くは持たないと告げられた体。それがこの年月を生き抜いたというだけでも奇跡であったのだ。
 それでも朽ち行く意識を繋ぎ止め、血が滴る唇に布をあてがいながら帰路を急ぐ。仮に彼女が孤独であったなら、シェンナはそのまま自死を選んだかもしれない。彼女の胸を燃やす炎は、今や消え入る寸前であった。
 だが、彼女は一人ではなかった。彼女には残された少年がいた。
 彼の命も、そう長くはないだろう。しかし、きっと己の命が燃え尽きる方が早い。孤独な灰色の少年は、たった一人で残されることになるのだ。
 問いは胸の奥を蝕む。何故だろう。紫の少年はあそこまで守られているのに、どうして自分たちばかりがこのような思いをするのだろう。
 シェンナは考えた。考えて、考えて、考え抜いた。既に死への恐怖はない。むしろ死はある意味での解放であり安寧だ。だが、ドミニクだけが気がかりだった。あの少年を、一人で残していくわけにはいかない。
 結論は、彼女の重たい足を、引きずるように動かしていた。
 ドミニクを、託すのだ。
 心から憎い、都市の学び舎を律するあの男に。


 ***


「アラン。何故あなたはここに来ることが出来たの」
「うん?」

 闇の奥底で、しかし闇には到底似つかわしくない金髪の男は、薄いパンを齧りながら青い双眸でこちらを見た。
 ある日突然やってきた男を匿って、数日が経つ。まだ少女でしかなかった当時のシェンナはその間、男の存在を隠すために手を尽くさねばならなかった。初めは緊張で夜も眠れず、いつ罪が露見するのか考えるだけで恐ろしかった。
 しかし、次第に腹に冷水が溜まったような緊張が、楽しさに変化していくのも事実だった。今まで自分を支配していた大人たちを欺く快感は、気分を高揚させて心地良かった。
 そして何よりも、こうして匿った金髪の男と会話することが一日の楽しみとなった。男はシェンナの知らないことを知っており、その唇は心躍る物語を謳いあげるのだ。
 だが、金髪の男が日数を経るにつれて生気をなくしているのが気がかりであった。食事を与えてやっているのに、彼は無言で考え込むことが多くなった。今も、シェンナが話しかけなかったら彼は深刻そうな表情のまま食事を終えていたことだろう。
「ああ、それはだな。スペシャルな魔術を行使することで遠くの山からひっとっとび」
「それは無理。ここでは魔術規制の結界が働いているから」
「う」
 アランは気まずげに目を逸らして、ぼりぼりと頭をかいた。
「どうやって入ってきたの。『外』の世界にはどうすれば行けるの」
 彼がその『外』の世界からやってきたという事実が、シェンナにはまだ信じられない。彼女にとっては、この暗がりが世界そのものだったからだ。
「ここの人を追ってきたんだよ」
 金髪の男はそう話してくれた。金髪の男の話には知らない単語も多く、シェンナはいつも理解することに集中しなければならなかった。
「本当は別件の取材で聞きまわりしてたんだけど、酒場で飲んだくれてる妙な男と出会ってね」
 酒場で出会った男は、自分は世界を変える研究をしているのだと、店の娘に語っていたそうだ。学びの聖域である都市グラーシアには程遠い片田舎でのことである。店の娘は酔っ払いの妄言と思って取り合わなかったようだが、アランはその話に興味を持った。何故なら、その男は店を出た後――夜の森に入っていってしまったのだから。
「それを追っかけたらここを見つけたんだよ」
「……その男は、誰?」
「うーん、こんな顔」
 アランは目尻を指でぐっとあげ、痩せた頬を表現するように口をすぼめた。それは陰鬱な科学者どころか愉快な顔になってしまったので、シェンナは思わず声をあげて笑った。そして、笑った自分に驚いた。しかし、すぐにそんな驚きも忘れてしまった。アランも、結わえた髪を揺らせて笑ったからだ。彼が笑うと、胸に暖かさが染みて心地良い。

「それは、23号かもしれない」
 男の容姿を聞いていく内に、シェンナはそう確信した。
 ここの人間は実験体を除いて番号で呼ばれている。シェンナはその番号で呼ばれた男のことを特に苦手にしていた。眼光の鋭い、他の研究員たちの中でも一際冷徹な男。そして一時期、酷く荒れていた時期があった。確か――女の研究員が一人、消えたときのことだ。何があったのか、シェンナは知らなかった。それに自分を見る数多の目線が一つ減ったところで、嬉しくも悲しくもなかったのだ。だがその男はそれからというもの、普段から不機嫌な様子を見せるようになった。
 ――『外』の世界に行っていたのか。
 シェンナはアランが語る『外』の世界に思いを馳せた。そこに何があるのだろう。彼が言うにはカゼやミドリ、カワやマチがあるそうだ。そして沢山のヒトがいるのだという。それらをうまく想像することが出来ないのがもどかしい。
 白く切り取られた無機質な部屋は、今の彼女にとって初めて生まれた安らぎだ。研究員たちは、決まった時間にしか部屋から動かない。彼らの目を掻い潜れる時間を見つけて、彼に研究所を見せてやるのが毎日の楽しみだった。
 なのにアランは日に日に言葉少なになっていく。研究の内容を見せてやるたびに、彼は薬を投与されたわけでもないのに呻いたり辛そうにする。首を傾げながらシェンナは聞かれたことに答えるしか出来ない。
 初めて出会ったときよりも、顔色がすっかり悪くなった。目も落ち窪み、よく額を指で押さえている。具合が悪いなら手当てしてやりたかったが、手当ての為の用具を盗んでは流石に男を匿っていることが察されてしまう。アランも気にするなと言ってくれた。だがシェンナは未だに腑に落ちない。
 何が彼の苦悩なのだろう。何が彼を苦しめるのだろう。
 知りたい――それを知りたい。
「今日見せるのは、とっておき」
 自分のことを知ってほしい。彼のことを知りたいから。
 だからシェンナは無邪気にその日の作戦を立てた。
「私の、希望」
 シェンナは失敗作であった。彼女の体は非常にいびつで、薬なしには生きることもままならず、そして長くは生きられないことを、物心ついたときから告げられていた。
 しかし、生きることが出来るかもしれないのだ。ルガや彼女を初め、数多の失敗を経て、ついに数年前に成功体が生まれたのだから。成功体の研究が更に進めば、あるいは自分たちを生かす術も見つかるかもしれない。
 成功体が生まれてからというもの、研究は急速に進行した。成功体を増やすため、新たに種々の研究が開始された。采配を振るう一人の博士の下、研究員たちは彼の手足のように動いていた。
 そしてもうすぐ、新たな成功体が生まれようとしている。
 何の疑いも持っていなかった。行為の正否など、考えたことすらなかった。彼女は生きる為に生きていたのだから。
 ――だから。
「どうしたの」
「……」
 金髪の男は、震えていた。
「寒いの?」
「――いや」
「恐いの?」
「……」
 彼はシェンナを見ず、真剣な眼差しで扉を見つめていた。もうすぐ出発の時間だ。シェンナは彼を、深層まで連れていこうとしている。
「そう。恐れなく立ち向かうことなど、出来はしない」
 脂汗を浮かせて、彼は誰にともなく呟いた。不思議な音色は、何処か胸に不安を誘う。
「でも――たとえ恐怖に潰れそうになったとしても、私はこの目を開いていたい。強くありたい」
「アラン?」
 まるで彼が別人になってしまったように感じられて、思わずシェンナは名を呼んだ。金髪の男は、大きな手を己の胸にやり、深く息を吸った。僅かな唇の動きすらも見逃さず、じっと見つめていたシェンナに、そうして彼はやっと振り向いた。
「ああ。大丈夫だとも。真実を見せてくれ」
 そこにはいつもの彼の荒っぽくも優しげな表情があって、シェンナは胸を撫で下ろす。しかし、何かが喉に引っかかったままだった。
「……今、『私』って?」
「はは。いざってときのおまじないだ」
 闇を打ち払ってしまったかのように、彼はすっかり調子を取り戻している。再び先ほどのようになってしまうのが恐くて、シェンナはそれを忘れることにした。

 そして、見せた。
 まさか彼が後に、あのような行為に走るなど想像もせずに。
 自分を裏切るのだと、考えることもせずに。

 彼は、そこから大切なものを奪っていった。シェンナが思っていた以上に彼は機転のきく有能な男であった。彼は、他人を欺いていたシェンナをも欺いたのだ。
 何もかもを忘れて、追いかけた。彼を葬らねば命はないと、言われなくとも分かっていた。初めて『外』の世界にでた。
 既にそのとき彼は怪我をしていて、だからそんな体でよくもあそこまで遠くにいけたものだと思う。
 弱った彼を前に拳銃を構えた彼女は、荒れ狂う感情そのものだった。
 彼は、彼女を裏切ったのだ。光を与えて、それを引き裂いた。
 胸が張り裂けそうで、涙が止まらなくて、だから引き金を迷うことなく引いた。全て消えてしまえと思った。初めて見る『外』の世界。そこは空虚で絶望に満ち溢れていて何もない、何もない――。

 そこに光があろうとなかろうと。
 この両手には、きっと嘆きしか満ちないのだ。
 己は、そういう定めなのだろうから。


 ***


 月明かりの石畳が、くっきりと陰影を落とす夜だった。密度の濃い闇は灰色のローブに絡まって、彼女の足取りを重くする。
 数日ぶりに訪れる廃屋の近くに差し掛かった辺りで、シェンナは違和感に突き当たった。
「――」
 悪戯に立ち止まらず、彼女は平静を装って歩き続けた。痛んだ精神は悲鳴をあげたが、それでも見えぬ手を伸ばすようにして、周囲の様子を探る。
『誰かが見ている』
 人間離れした――否、人間には持ち得ぬ力を持ってして、シェンナはその事実を知った。頭から冷水を浴びせられた思いで、顎を退く。
『誰? こちらの正体を知る者だろうか』
 もしそうなら、寝所を知られてはならない。そこにはドミニクがいるのだから。
 既にドミニクの存在まで敵の知るところになっているとは露知らず、シェンナはすぐそこにある廃屋を通り過ぎることにした。追っ手がついているなら、まいてしまわねばならない。もし攻撃を受けたとしても、自分一人であれば十分に戦える。そして、まさか負けるなど考えもしなかった。彼女は失敗作だ。しかし、紫の少年に劣るとしても、死の影に侵されているとしても、人知を超える力を手に秘めている、それは紛れもない事実なのだ。
 彼女が当初向かっていた家屋の正面に足を踏み入れた瞬間だった。
 ふわっと風のようなものが頬を叩く。しかしそれはただの夜風ではない。魔力を含んだ、魔術行使時に特有の現象だ。
「――っ」
 刹那、シェンナは迷わず魔術行使に入った。相手の魔術を相殺する為だ。相手の魔力は強大なものではない。彼女が腕を振るえば、瞬時に全てが沈黙する。
 その筈だった。

 闇が一層、その色を深くする。
 屋根の上で笑う男。細い影が、哄笑に揺れる。長い指に絡まる、破れた羊皮紙。
 そしてシェンナは、絶句した。

 彼女が放った魔術が、逆に相殺されたのだ。同時に、空気が突如として濁るのを感じた。水中に投げ込まれたように大気が重たい。そして、もう一度魔術を行使しようと集中しても、重みを持った空気はまるで震える様子がない。
 ――魔術が封じられている。
 全身が凍りつくのを感じながら、シェンナは否、と心で叫ばずにはいられなかった。この土地には確かに魔術規制の結界が張られている。しかし、その程度で自分の魔術が封殺されるわけがない。そして、生身の人間が彼女の魔術を封じるほどの力を持っている筈がない。
 なのに、なのに。
「くッ!」
 混乱に点滅する視界で影が動く。死神めいた笑みを浮かべて、悪夢のように真っ直ぐ斬り込んでくる。反射的にシェンナは横に体を流した。しかし、魔術を封じられては浮遊も出来ず、無様に駆け出す他にない。
 何故。
 焦燥に顔を歪めた灰色の女は、細い足で大地を蹴る。だが、かの地で生まれた彼らは人間よりも身体能力が著しく劣っていた。闇は、軽々と哀れな女を絡め取る。女は拳銃を取り出そうとして、それも阻止される。かしゃん、とそれが地に落ちる乾いた音。
「どう? ただの人間になった気分は」
 無機質な響きは、耳の中で幾度も反響した。シェンナは押さえつけられて、必死でもがく。袋の鼠でしかないことを知っていて、しかし屈するわけにもいかずに。それが爪で相手の頬を掠めただけであったとしても、彼女は全てを賭けて抗った。
「やだなあ、取り乱すなんて。僕を失望させないでよ」
 細身の男は闇夜に紛れ、暗がりの壁に女の体を押し付ける。激しく抵抗する女と対照的に、彼は赤子の相手でもするかのようだった。手首を掴んだまま苦笑するように肩を揺らし、女の顔を覗き込む。
「あはは。分かったよ。なんで魔術が使えないか教えてあげるから、落ち着いて?」
 全身で呼吸しながら、シェンナは至近距離で男の顔を見た。視界がやけに広いと思ったら、被っていたフードが後ろに落ちたようだ。色素を失った髪をさらし、彼女は呆然と男を見詰めた。
「そんなに難しいことをしたわけじゃないんだよ。君たちは人の限界を超える魔力を操る。まともにやりあったところで、僕に勝てるわけがない。ならば、君に僕と対等なところまで能力を落としてもらわなきゃいけない。考えれば、簡単なことだ」
 暗がりでは男の顔の全貌も定かでなく、代わりに唇の動きが焼き付けられる。それは悪夢を語るにふさわしく、歪んだ笑みを湛えている。
「護符の存在は知ってるでしょう? 護符は都市の結界を一時的に解除する。でも、その逆を考えたことはある?」
 僅かな戸惑いの後、理解の訪れたシェンナの瞳が驚愕に見開かれた。出来ないわけがない――都市の結界を解除するのではなく、逆に強固にするなど。魔力を強める術なら、世には星の数ほど存在するのだ。結界を解除するよりも容易いことだろう。
「君たちの為にね、特別に作ってもらったんだ。犯罪防止の為に都市に張られた結界というものは、流石国が携わっただけあって、元から強固に作られてる。その都市の結界を――君たちの力ですら抗えないほどに強める護符。これで君たちも僕と同じものになる。所詮君たちは、人よりも強大な魔力を持つだけなのだから」
 それさえ封じてしまえば、捕らえることなど造作もない――。
 一滴、彼の頬から血が滴り落ちる。彼はそれを手の甲で拭い、ぞろりと舐め取った。
「さあ、捕まえた」
 凶暴な獣の眼差しが、体の自由を絡め取る。シェンナは眩暈を覚えて、己の無力を悟った。
『ドミニク』
 暗がりに置き去りにされた、一人の少年が脳裏に浮かぶ。自分はどうなっても良い、けれどあの子だけは。
 しかしそう考えるシェンナの目の前で、悪夢は更にその色を残酷にする。

 扉が、示し合わせたように内側から開いた。
「――」
 停止したまま、シェンナはその光景を瞳に映しこんでいた。

「シェンナ」

 途方にくれたように佇む幼い立ち姿。あどけない顔がこちらを捉えて、はっと色をなくす。極度に発育の悪い小柄な体、枯れ木のように細い手足、灰色の体を抱えた少年は、恐怖と絶望を一層濃くして凍りついた。
 しかし、彼は動くことが出来ない。小さな頭には、禍々しく無骨な小型銃の先が向けられている。それは形こそ小さくとも、少年のやわらかい頭部など軽々と引き裂くだろう。
 少年の肩に片手を置き、死の引き金に手をかけた巨躯の男は、無表情に事実を俯瞰している。事務的な様子で、偉丈夫は次の指令を請うように、細身の男に視線を投げた。
「あはは。僕たちすっかり悪役だ。これじゃユラス君に嫌われても仕方ないな」
 謳うように紡ぎ、満足げに笑う男を、シェンナは硬直から解放されぬまま凝視した。信じられぬ光景が、目の前に広がっている。悪夢というには現実味がありすぎ、現実というには耐え難い。
 その絶望を察したか、男は罪人を裁くように朗々と紡いだ。
「哀れな亡霊よ。転がり落ちた運命は、君たちに失敗の烙印を押した。死に行く命の運命は不変であろうとも、ここに一滴の光を。私は全てを壊す者。お前たちの限られた命に宿る誇りにかけて答えろ、お前たちはどこから来た」
 それを語られただけで、この男は多くの真実を知っているのだと理解する。政府関係の人間だろうか。いや、それよりも。
『誇り』
 その言葉が、酷く胸に食い込む。これまでに誇りなど、一片たりとも持つことがあったろうか。――あるわけがなかった。生まれたときから、生き永らえる為に生きていたのだ。絶望の手から逃げることで精一杯だった。幾度もその手に呑まれたけれども、それでも歩みを止めるわけにはいかなかった。
「誇りなどというものはない、私たちには」
 ドミニクが、どうすることも出来ずにこちらを見つめている。恐怖に青褪めた唇が痛々しく、震える眼差しは涙を湛えている。
 時間を稼がねばならないと、本能的な部分が叫んでいた。ドミニクを救わねばならない。自分はここで朽ちるのだとしても、この少年だけは。
 そのとき、思考の違う場所が、暗い声で囁いた。

 ――どうせドミニクも、死が近いのに?

「ならば、何故お前は生きている」

 鈍い音と共に、呼気が止められる。まるで標本の虫を縫いとめるかのように、彼の腕は針となってシェンナの首を締め上げた。
「――ぁ」
 ドミニクの肩が跳ね上がり、――無意識の内にだろう。彼は魔術を行使しようとした。しかし、強固な結界に阻まれてそれも叶わない。
「生の意味を知らぬ哀れな生き物。同胞の血を見たくなければ、さっさと真実を紡ぐがいい」
「あ、あれは――もう、人が触れて良いものでは、ぐっ」
 緩めかけられたところで再びきつく縫いとめられる。銃器どころか刃物一つ持っていないというのに、その姿はまるで飢えた獣のよう。
「二度は言わない」
「やめて……」
 ドミニクの縋るような制止も、彼の前ではそよ風にもならない。空気を求めるように、はくはくと口を動かしながら、ドミニクは拳を握り締めた。血が滲むほどに握り締めた。男は侮蔑を込めてせせら笑う。
「言えない? まあそうか、君もその子も、そんなに長くないもんね。いつ死んだって変わりはないかな?」
「っ、違う……!」
 体が燃え滾るのを感じながら、同時にシェンナは凍りついた。ドミニクは知らないのだ、己の命の灯火がそう長くないことを。そして、知らせてはいけないと思っていた。自分が味わった苦しみを味わわせたくなかったのだ。近づく死の足取りは、残酷な鎌を持ってして気を狂わせるものだから。
 だが、不意に悪寒を覚えてシェンナは瞳を見開いた。俯いたドミニクの肩が、震えている。哀れなほどの憤怒を秘めて。元より感情を素直に表現することのできない子供だった。その内側に秘められた激情が、張り詰めた空気を震わせていた。
 闇をまとう男もまた、僅かな異変に気付いたらしい。ひくりと猫のように瞳が瞬く。

「――離せ。離せ、離せ」
 表情を髪に隠すまま、ドミニクは口ずさんだ。こんなにも願っているのに、空気はびくともしない。魔術が封じられているのだと頭で分かっていても、彼のもう一つの感覚は必死にその流れを掴もうとする。残影を掴むように儚い行いを続けながら、燃えるような怒りを同時に胸に抱く。
「シェンナに触るな、触るな――」
 ドミニクにとって、たった一人、あの闇で自分のことを気にかけてくれたのがシェンナだった。崩壊が訪れたとき、腕をとってあそこから連れ出してくれたのも。この地で共に過ごしたのも。
 そうしてまた、そこに崩壊が訪れようとしている。
 守りたかった。この日常は、壊されてはならなかった。蹲っていては、奪われるだけなのだ。求めて、手を伸ばさなければ。守らなければ。
 滾る意思は炎となり、魂を震わせた。精神が焼き切れて、頭の中心で鮮烈な熱を放つ。
 彼の動を求める力と、結界の静を求める力がぶつかりあって不協和音を生む。体にまとわりつく不快なものを振り払うように、ドミニクは一層意識を集中させた。周囲の光景が闇に溶けて見えなくなる。そこでは己の姿すら既にただの光の塊でしかない。空気がちりちりと震えだす。
「触るなあッ!!」
「ドミニク!! いけない――」
 その瞬間、彼らの力すら塞いだ筈の結界が、それ以上の魔力に耐えかねてひび割れた。否。それ以上の結果が、そこには待っていた。
 消えてしまえ。
 純粋な意思は刃そのものだ。それは力となって、ドミニクの小さな体を中心に渦を巻き、波動となって大地を震わせた。
「いけない――!」
「グレイヘイズッ」
 手を伸ばすシェンナが。誰かの声が。けれど全ては、小さな少年には届かずに。
 一瞬の静寂の後、ガラスが割れるような不快音と共に結界が完全に破られ、抑制されていた魔力が辺りを白い光に埋めた。


 ***


 意識が、暗がりの奥底からゆっくりと掬いあげられる。
 誰かに呼ばれた気がして、俺は目を覚ました。
「――ん」
 目を開いて、意識を取り戻したことを知る。見慣れた寮の、自分の寝所だ。そこは静寂の闇に落ちている。
 ……まだ夜か。何故か目が覚めてしまったようで、その事実に驚く。こんなこと、今まではなかったのに。
「ん?」
 ぴりっと耳元で、何かが弾ける。風ではない、何かの奔流があらゆるものを突き抜けて、こちらに届いて――心を揺らす。
「――」
 違和感を覚えて俺が体を起こした、そのときだった。
「えっ」
 誰に呼ばれたわけでもない。何が聞こえたわけでもない。
 なのに俺は、気付いたときはベッドから転がり落ちるようにしてベランダに向かっていた。窓を開いて外に出ると、強い風が頬を叩く。張り詰めた空気が、おぞましい予感を胸に伝えてくる。
 ――違う、逆だ!
 そう思ったときには身を翻して部屋に入り、一直線に玄関を目指した。扉を開くのももどかしく、意識だけが前へ、もっと前へと叫び続ける。
 外へと飛び出した俺は、体ごとぶつかるようにして手すりから身を乗り出した。暗がりに沈む都市を、目をこらして凝視する。

 そして次の瞬間、空まで伸びる光の柱を見た。

「――」
 瞬時の凍るような静寂、柱が容赦を知らぬ刃となり――。
 壊れていく。
 爆音も激震も、何もかもを飲み込んで。
 光の渦が破裂する瞬間、手を伸ばす。間に合わないと分かっているのに。どうしようもないことを知っているのに。
 耳をつんざく轟音と光に呑まれる都市、立ち上る土煙。
「な、何事だいっ!?」
 飛び起きたのだろう、後ろから荒い足音と共にスアローグが駆け出してくる。次々と扉が開いて、生徒たちが何事かと顔をだす。
 何か言わなければいけなかった。この事態を正確に伝えなければ。混乱を収めねば。
 なのに干上がった口内は言葉を失い、頭の中は真っ白で、足は勝手に駆け出した。
「ユラス!?」
 後ろから誰かの声。もう、誰なのかもわからない。
 階段を駆け下りて、制止を無視して、寮舎を飛び出す。必死で走っているはずなのに、全身が氷のように冷たい。けれど止まってしまえば崩れ落ちてしまう気がした。もう、何処にもいけない気がした。
 空に何かの気配がある。俺のことを呼んでいるのか。
 それはこちらに近づいて、奇妙な動きで飛び込んできた。
「――セト?」
 暗がりで影となったそいつと俺は、互いに衝突するようにぶつかって、俺は腕の中にセトを収めて膝をついた。だが再会の喜びの前に息苦しい予感を覚えて、やわらかな羽根を持つセトを見下ろす。
「おい、セト」
 にわかに騒がしくなる都市、人のざわめき。しかしその片隅で飛び込んできた鳥は、既に自らの体を支えるのもままならず、俺の腕の中でぐったりとしている。力なく垂れ下がった紫の羽根、僅かに開いたままの嘴、空ろな光を宿す瞳。全ての事実が心に直接突き刺さる。
「セト! おい、大丈夫か!」
 セトの僅かな温もりにすがるようにして、俺はその体を揺さぶった。セトは、僅かな鳴き声を漏らした。何処にも傷などないのに、まるで最後の光を放つように。
 やめてくれ。そう叫ぼうと口を開いた。
 同時に、セトの翼の辺りから、ぽろぽろと煌きが零れだす。仄かに紫色を含んだそれらは、次第に数を増やしていく。セトの体が、燐光に包まれる。セトという存在が、光の塊に変わっていく。
 声もだせずに見守る俺の目の前で、そうしてセトの体は砕け散った。




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