-紫翼-
二章:星に願いを

50.孤独な人



 無感動な手つきで装置を動かす男の後姿をまともに見ることが出来ず、ルークリフは全身を襲う不快感と必死で戦っていた。
 胃の中のものは全て出してしまったというのに、未だ鳩尾の奥が焼け付くようだ。激しい不快感に口元を乱暴に拭い、唇を開いたが、ひび割れた声を出すのが精一杯だった。
「ど、どういうこと、なんだ」
「なんだこれは――? 動的魔力の外界放出が今まで続いていたなど、何が起こっていたのか――『あれ』の意思か? いや、しかし」
 ヘリオートは背に当たる呼びかけなど聞こえない様子で、ぶつぶつと呟いている。
「とにかくこれで放出は抑えられた。だが『あれ』にはまだ潜在能力があるということか――解析、早急に解析を」
 左右どころか上下からも、ごうごうと唸る機械たち。沈黙を破って動き出したそれらは、気が狂いそうな不協和音を絶え間なく奏で続ける。そして、そこに散らばる憎悪の臭いを象徴する、遺体、遺体、遺体。長い時を経たそれらは、朽ちて禍々しい様子をさらしている。必死で目を覆っても、隠しきれる数ではない。
「なんだ――ここは」
 暗い森に突如現れた建造物。そう頭で理解できているのに、心が追いつかない。
「誰がこんなことを」
「奴がやった、全て」
 突然の返答に、ルークリフは全身を凍らせて男を見つめた。
「そして俺だけが生き延びた。ふふ――狂っている、何もかもが狂っている」
 ぎらつく目線を残して、ヘリオートはかき集めた書類をめくり始めた。
 そこに生命の秘密が書き記されていることを、ルークリフは先程まで爪の先ほども信じていなかった。生命を人工的に生み出すことは、金を練成することと並んで人類が追い求めてきた究極の技だ。それに成功していたなど、下らなすぎて笑い話にすらならない。
 だからそれまで彼はどうやってヘリオートの元から逃げ出すか考えていた。しかし猫背の男は慎重であり、臆病であった。ルークリフの動向を事細かに監視する彼は、下手に動けば疑心暗鬼に囚われて容赦なく手を下す恐れがあり、簡単には動けなかった。
 一方で、ルークリフの磨り減った精神の片隅には一計が浮かび始めていた。
 もしもここで本当に生命の秘密が解き明かされていたのなら。それを然るべき場所に持ち出せば、自分には最高の栄光が降り注ぐのではないか。
 どうせこのまま研究者に戻っても、グラーシアに居場所はないだろう。何処かの辺鄙な地の小さな研究施設で生涯を終えるに違いなかった。そしてそれは、彼の誇りが許さなかった。
 もう、己は闇に足を踏み入れた身なのだ。失うものなど、きっとない。
 目の前に毒がある。既に口をつけてしまった毒だ。ならば全て飲み干してしまっても、何も変わりはない。
 かちん、と何かの箍が外れた。ルークリフはもう一度だけ顔を拭って、そうして口元を歪めた。視界が一度だけ濁って、しかし次の瞬間には今までになかった鮮明さを取り戻した。
『欺いてやる、狂人め』
 凄絶な目つきで、痩躯の男を睨めつける。
 まずはこの目障りな死体を片付けなければいけない。それから、この男の頭が完全にいかれる前に研究の内容を聞き出すのだ。とにかく必要な情報を全て揃えることが先決である。
 あとはこの闇の中だ、彼を始末してしまえばいい。彼は自分一人が生き延びたと言った。彼さえ消えれば秘密は闇の中に封じられる。
『見ていろ。僕を笑った者全て、逆に笑い者にしてやる』
「何をすればいい?」
 口元にやっていた手を下ろし、静かな声で問うた彼の様子に、ヘリオートは一度怪訝そうな目線を向けた。だがそれ以上の詮索はなく、きつい緑の瞳は盲信の光を宿して指示を下した。


 ***


「ユラス!」
 半ば呆然としたまま戻ってきた俺を迎えたのは、蒼白になったスアローグだった。突如として起きた爆発に叩き起こされたか、深夜だというのに道には多くの人が飛び出している。遠くには未だもうもうと土煙が立ち上っていた。あれは歓楽街の方角だと誰かが叫んだが、それは何故だか頭に入ってこない。寮の近くでは教員が怒声をあげて生徒を中に連れ込んでいた。
「おい、お前! 何をしているんだッ!」
 俺もすぐに見つかって、肩を捕まれて寮の門を潜らされた。半ば放り込まれる形だったので、つんのめって地に膝をついてしまう。スアローグが駆け寄ってくると、中年の教員は焦った様子で怒鳴った。
「部屋に戻れ、指示があるまで勝手な動きは慎むんだ!」
「はい、すみません――ユラス、立てるかい?」
 スアローグは神妙な様子で頷いて、俺の腕をとる。汗ばんだ手だった。この事態に対して相当驚いているに違いない。
 俺は手伝って貰ってなんとか立ち上がることができた。しかし、自分の体が自分のものでないような、妙な感覚がある。深夜の暗がりと街灯の灯りが混じって、視界が酷くぼやけている。人々のざわめきが耳に痛い。
「――う」
 気分が悪くなってきて、口元を手で覆う。スアローグが気遣う言葉をくれながら、肩をかしてくれた。礼を言わなければいけないのに、舌が痺れて動かず、呻きながら階段を上ることになる。
 寮の廊下には生徒たちが一様に手すりにとりついて、未だ粉塵をあげる方向を見つめている。混乱は空気を熱く震わせて、一層喉の奥にこびりつく。彼らの内にエディオを見たとき、俺は口を開くことも出来なかった。
「――テメエ」
 エディオはこちらを見て、僅かに眉を持ち上げた。だが、まともに喋れない俺の代わりに言ってくれたのはスアローグだった。
「気分が悪いみたいだから。休ませておくよ」
「――ああ」
「何か指示があったら教えてくれたまえよ」
「分かった」
 スアローグは頷いて、自室のノブを回す。中に入って扉を閉めると、完全にではないが、ざわめきは遮断された。その為か、僅かでも心は落ち着いてくれて、俺は息を深く吐き出した。もう秋だというのに、額を汗が流れ落ちる。
「ほら、もう少しだから。根性だしたまえよ」
 スアローグは辟易した様子で言って、それでも俺をベッドまで連れていってくれた。体をベッドに投げ出しても全身を襲う寒気と不快感は納まらなかったが、力を抜くことは出来た。
「……悪い」
「いつものことだよ、全く」
 目の上に手を乗せていたからスアローグの顔は見えなかったけれど、きっと肩をすくめていたことだろう。
「不審に思わないのか、俺のこと」
「何を今更言ってるんだい」
 呆れた声が、何処か遠い。自分の呼気が酷く頼りないものになっている。
「もう慣れてるよ、とっくの昔からね。――それに僕とは関係のないことだ、君の好きにやるといいさ」
 何故だろう。突き放すような言葉が暖かく、耳にじんと染む。
「連絡があったら聞いておくから。今は休みたまえよ」
 意識が、端の方から闇に溶けていくのを感じる。何か言わなければいけなかったのに。言いたかったのに。
 けれど心にあいた大きな穴が、それを許してくれなかった。続きは言葉にならず、俺はそのまま暗がりに落ちていった。


 ***


 翌日、予想通りというか、臨時休校の知らせが俺たちの元に伝えられた。俺は、ぼんやりとした頭でそれを聞き、頷くことしか出来ない。
「――歓楽街の方での爆発だってさ。ヤケになった科学者の仕業かもしれないね」
 生徒には寮での待機が命じられたため、俺たちは部屋で思い思いの時を過ごしていた。だからか、朝だというのに時が淀んでいる。スアローグはコーヒーを飲みながら新聞に目を通し、エディオはベッドに腰掛けて本に視線を落としていた。そして俺は、未だ気だるい体を抱えたままベッドに臥せっている。
 スアローグの話によると、昨晩の件では、歓楽街の奥部一帯が半ば焦土と化し、死人も何名か出たそうだ。だが未だ事故か事件かも分かっていないらしい。学究の徒が集う都市グラーシアでは、実験の失敗などによる爆発事故が数十年に一度は起きるそうで、その線も考えられるからだ。しかし――。
『セト』
 喉の奥で呟いて、口を引き縛る。ごっそりと心が削り取られてしまったようだ。昨日の出来事はまるで夢のようで、未だ実感がない。もしかしたらあれは幻なのかもしれない。そんな淡い希望を抱くくらいに。
 重く淀んだ空気から逃れたくて、俺は頬を枕に押し付けた。俺だけではない、エディオもスアローグも感じ取っている。ここのところ立て続けに起こる事件。一つ一つは全く別の物語だというのに、それらは重なることで俺たちに予感を与えるのだ。――何かが違う、と。
 扉が叩かれたのはそのときだった。俺たちは三人三様に顔を向け、スアローグがそちらに小走りで向かった。
 玄関から顔をだしたのは、伝令役をつかった生徒だ。スアローグに小声で二三事伝え、持っていた紙束から一枚を抜いて渡す。スアローグは礼を言っていくつか言葉を交わすと扉を閉め、振り向いた。普段の皮肉さが消えた、深刻な表情だった。
「――明日、緊急集会だってさ。始業時刻に大講堂に集合しろって」
「他には」
 エディオが低い声で問う。スアローグは言いにくそうに口元を歪めた。
「まだ噂らしいけど」
 続く言葉は、重たく、暗い。
「もしかしたら、学園が臨時長期休業の処置をとるかもしれない」


 ***


「ミューラ先生!」
 呼び止められて、保険医のミューラは駆け寄ってくるレインを視界に収めた。生徒のいない白亜の学園は廃墟のように静まり返り、代わりに耳鳴りがするほど張り詰めた空気が満ちている。
 そんな空気を足音でガツガツと切り裂いて現れたレインは、血走った目をミューラに向けた。
「高等院生徒の不調者リストは何処に提出しましたかッ!?」
「え? まとめて教頭に渡したわよ」
 一瞬仕事に不備があったかと眉を雲らせたミューラだったが、向こうはただ確認がしたかっただけらしい。レインは今にも噛み付いてきそうな表情で礼を言って、踵を返した。
「ああ――教頭は理事室かしら、とにかく行って不調者を把握して、保護者への連絡――」
 ぶつぶつと呪詛のように呟いている辺り、相当気を病んでいるらしい。ここのところの事件の連続で、精神が擦り切れる寸前なのだろう。生真面目で全てに完璧を求めるからこそ、何もかもを一人で抱えてしまう性分なのだ。
「レイン先生? 大丈夫?」
 保険医であるミューラとしても、今日は嵐のように忙しい一日であった。都市の外れで生じた凶事の恐ろしさに気分を悪くしてしまった生徒を診てやっていたのである。だがレインの様子は、診てきたどの生徒よりも医師として気になった。
「――れ?」
 心配した先から、ぐらりと体が傾ぐ。こちらの呼びかけに答えようとしたのか、珍しく舌足らずな返答が漏れる。抱いていた書類がばさばさと地に流れ、同時に転びそうになったので、ミューラは慌てて彼女を支えてやった。
「あなた、寝てないの? 落ち着きなさい、それでは満足な仕事が出来ないわ」
「――うう」
 レインは目蓋を硬く閉じて、意識を繋ぎとめるように首を振る。昨晩の事件勃発の一報で叩き起こされてから、緊張の連続だったに違いない。緊急で行われた全職員による会議は、学園の運営をこのまま維持するか、それとも長期休校の処置をとるかで意見が分かれ、紛糾するままに双方の体力が尽きてひとまず結論が持ち越された。そしてどちらの方針に決定しても迅速に動く為、講師陣は目が廻るような仕事に振り回されることになったのだ。グラーシア学園には講師と教授、二種類の教員がいるが、生徒の生活に気を配り、保護者などに連絡をするのはレインら講師たちの役目なのである。
 張り詰めていた糸が切れたように持たれかかってくるレインの額に手をやって、ミューラは顔をしかめた。若干熱があるようだ。すっと目を細めた保険医の頬に、苛立ちが浮かんだ。
「全く、こんなになるまでに働かせて。他の職員は何をしているの」
「――す、すみません、ミューラ先生……私は大丈夫で」
「どの口がそんなことを言うの。過労で体を壊しては本末転倒だわ」
 瞳に医師としての光を宿らせ、遮るようにぴしゃりと言い放つ。レインのように仕事や研究に没頭した挙句に体を壊してしまう人間を、保険医として長年学園の健康を預かってきたミューラは少なからず見てきたのだ。だが、やや乱れた青い髪で横顔を隠した若い教師は、不意にぽつりと呟いた。
「……学園長は少しも疲れていないのに」
 眩暈が落ち着いてきたのか、レインはのろのろと書類を拾い出した。思いがけない名前を突然だされて、ミューラは助けることを忘れて立ちすくむ。
 僅かの間、脳裏を駆け巡った記憶に蓋をして、硬直から解放されたミューラは笑うような泣くような、不思議な表情で息を抜いた。
「あの人は特別だから」
「皆、そう言うんですよ」
 ふと、ミューラはレインの背中を見つめた。落ちた書類を集めるために膝をついた女教師の背に頼りない面影を見た気がしたのだ。僅かに見える横顔には疲労がくっきりと刻まれ、若いはずのレインの口元には、歪むような自嘲の笑みがあった。
「今日だって、私よりも大変な職務をこなしているのに、顔色一つ変えないんですよ。おかしいじゃないですか、私の方が若いのに。私の方が体力だってある筈なのに。あの人には限界がない。皆言います、あの人は天才だ、あの人はそもそも構造が違うんだって」
 体の奥まで溜まる重圧の為に、情緒が不安定になっているのだろうか。普段とかけ離れた、むずがる子供のような震える声でレインは続ける。
「ずるいですよ。何が違うんですか。生まれですか。育ちですか。才能ですか。どう頑張ったって、私はあの人にはなれないんですか。どうしてあの人に出来て、私には出来ないんですか」
「レイン先生」
 とめどもない涙に似た、それでいて乾いた問いかけに、ミューラは酷く狼狽した。心の中でせめぎあう過去と現在が、大きな迷いとなる。
 学園長の人を惹き付ける資質は、きっと彼の生まれによるものなのだろう。だが彼の強さは、才能ではない。ミューラはそう言い切ることが出来た。その強さが生まれるに至った経緯を、ミューラは知っている。

 ――否。そもそも、彼が持つのは強さではなく。
 きっと、それは彼の歪みで。

 だが、それを言葉にしても良いものか。レインの気持ちは痛いほどによく分かる。彼女は、学園長が羨ましくて仕方ないのだ。輝かしい経歴を持ち、穏やかに笑い、時に見せる奇行に苦笑されながらも皆に認められている完璧な人間。レインがことあるたびに学園長につっかかっていた理由もそこにあるのだと、ミューラは理解していた。超越した人間を認められないからこそ、レインは学園長を認めないのだ。
 だが、次に聞こえた言葉に、ミューラは瞳を見開き、胸で何かが決壊する音を聞いた。
「私も――ああなりたいのに」
「……」

 星に願いを捧げていた人影があった。
 恐らく願いなど届かぬと知っていたのだろう。けれど、そうせずにはいられなかったのだろう。
 張り詰めた時が動き出すのを待つしかなかった、あのときの自分は。
 無力を、ただ握り締めるばかりで。

「レイン先生」
 ふと、ミューラの声音が変わったことに気付いたレインは、顔をあげた。そして、自分が何を口走ったかを理解して、僅かに顔を赤らめる。
「あ――すみません、先生。こんな弱音、吐いてたらいけませんね。すみません、やっぱり、少し疲れてるみたいで」
「レイン先生、こちらに来なさい」
「え?」
 有無を言わさずミューラはレインの腕を掴むと医務室に連れていった。まだ仕事が、とレインが慌てて訴えるが、ミューラは聞く耳も持たない。
「少し休みなさい。あなたには休息が必要なの、そんな体で働いていては逆に重大な失態を起こしかねないわ」
「は、はい?」
 学園長を初め突拍子のない人材が揃う学園内きっての常識人であり、控えめで穏やかなミューラの珍しい暴挙に、レインは書類を抱えたまま困惑する他ない。そんなレインの表情など見向きもせず、ミューラは内線の電話をとった。高等院の職員室に、レインが体調を崩していることと、暫く医務室で休ませることを告げて受話器を戻す。
「あ、あの、ミューラ先生」
 すっかり弱りきった様子で、レインは頼る先を探して首を回した。そして、無表情で長椅子を勧めてくるミューラにやや怯えた目線を向ける。
「――なんか怒っていらっしゃいませんか」
「そんなことはないわ。ちょっと気が立ってるだけよ」
 それは怒ってるって言うんです――レインは賢明にもその言葉を飲み込んで、仕方なく遠慮がちに椅子に腰掛けた。そうすると疲れが押し寄せてきて、ほうと息をついて床に視線を這わせる。
「……どのくらい休んだら仕事に出てもいいですか」
「今日はもうやめておきなさい」
「でも」
 ミューラは白衣の襟元を調えて、髪を結いなおすと執務机に向かった。自分だけずるい、とレインは口の中で呟いたが、体が鉛のように重たく、うまく反論できない。
「ミューラ先生」
 ペンをとったミューラは、聞いている、という風に僅かに顔の角度を変えた。
「学園長って、なんでああなんです?」
 レインにとって、それは学園長に初めて出会ったときから抱き続けた問いだ。
「昔からあんな様子だったんですか?」
 グラーシア学園で学んだミューラは学園長と同期の間柄にある。ならば、彼女はきっと学生時代の学園長を知っている筈なのだ。なのに、ミューラはその頃のことを語ろうとしない。
 だから、そのときも大した答えなど期待していなかった。悔しいが、自分と学園長では格が違うのだ。何を持っても埋められない差というものは存在する。特別なものと、そうでないもの。自分はただ光を切望しながら、それを見上げていることしか出来ないのだ。
「もしも、若い頃の学園長が、今とは別人のようだったとしても、あなたは信じられる?」
「――ぇ?」
 座ってしまったからか、次第に眠気が目蓋を襲ってくる。ミューラが何を言ったのかよく理解できずに、レインはゆっくりと目を瞬いた。
「あの学園長が孤独な人だったなんて。信じられるわけがないでしょう?」
 ミューラに察せられた通り、レインは昨晩から寝ていなかった。そんな体を、質の良い長椅子はゆったりと包み込んで、思考力を奪っていく。
 ミューラ先生は一体、何を言っているのだろう。
 睡魔に腕を引かれる中では、そんな疑問を抱いたかも定かではなく。窓から落日の赤い光が真っ直ぐに降り注ぐ。まるで夢の世界にいるみたい、とレインは思った。




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