-紫翼-
二章:星に願いを

48.復讐を



「なに!? なんなの、なにあれー!? 怖い、超怖い、殺されるかと思ったぁ!! わーんっ!」
「……」
 ピヨピヨと小鳥が長閑に歌う早朝。帰ってきたグレイヘイズは、間髪いれずに泣きついてくる主人を生ぬるい目線で眺めやった。この人は、と思っている合間にも、レンデバーは涙目で激しく訴えてくる。
「ホント何なのあの人!? こんなトコで学園長なんかに納まってるタマじゃないよ、マフィアのボスのがよっぽど似合いだし!? 怖い、絶対夢にでてくるーー!!」
「……レンデバー、首が絞まっています」
 心からの溜息と共に、グレイヘイズは胸倉を掴んでがくがく揺さぶってくる主人を引き剥がした。聖なる学び舎の学園長に会ってくると言った結果がこれである。きっと挑発しすぎでもしたのだろう。この困った主人は、人を困らせることと怒らせることに関しては天才的な才能があるのだ。
「まあ普段穏かな人間こそ、爆発すると恐ろしいものですよ」
「あれが穏かな人間? 詐欺だよ、その噂」
 珍しくまいった様子のレンデバーは、拗ねたように言ってソファーに身を投げ、煙草に火をつけた。なんとなくテーブルに目をやったグレイヘイズは、灰皿を見てぎょっとする。一晩中吸っていたとしか思えない吸殻の山がそこには築かれていた。
『……よっぽどだ、これは』
 自由奔放な主人の煙草の量は、彼の機嫌の良さと反比例することをグレイヘイズはよく知っている。だが、それでも吸って一二本と、少ない方だったのだ。ここまでの吸殻の山を築かせたのは、グレイヘイズの知る限り学園長が始めてだった。何があったか知らないが、それだけ痛手を受けたということだろう。聖なる学び舎の学園長の打破は、一筋縄ではいかないらしい。何があったのだろう。
 ぐっと緊張に心が引き締まるのを感じながら、グレイヘイズは主人の対面にあるソファーに腰を下ろし、自分も煙草を取り出した。主人と違って普段から煙草を嗜好品としている彼としては、この一服がないとやっていけない。
「……今までユラス君が無事でいられたわけだ」
 頭を背もたれに預けたまま小さく呟いて、レンデバーは目を閉じた。

 たったそれだけで思い出せる、昨晩の鮮烈な記憶。
 鏡のように静まり返った瞳の底に宿った、苛烈な光はまるで焼け付くようで。
 思い出すたびに胸がざわめくのに苛立って、レンデバーは投げやりに口を開く。
「人のこと言えないんだけどさ。それにしたって、あれは狂ってるよ。なんで学園長なんかの地位に納まってるんですかって感じ。世が平和でホントに良かった、これで戦乱の時代だったら覇王にでもなりそうなクチだね」
 あの男は、己の全てをかけて紫の少年を守っている。守らんとするために平気で全てを犠牲にするのだ。その想いは既に妄執の域に達している。理屈も論理も通用しない、信仰に近いとしても良い信念だ。その結果生まれる歪みなど、まるで気にしていない。そして何よりも恐ろしいのは、彼がそんな自分の歪みを理解しているということだ。彼は狂える己を理解し、最後の一線だけを越えぬよう、意思の力でねじ伏せているのだ。だから、そこには理解できぬ己の歪みへの迷いもためらいもない。
 ――完璧な人間。
 そんな言葉が、ぽつりと胸に落ちる。腹立たしいことだ。しかし、あの男にどのような揺さぶりも通用しないことは、昨晩の一件で明らかであった。
 それにしても早めに挨拶に行っておいて良かったと思う。あと少し遅れていたら、あらゆる手を持ってして彼は自分たちを探し出し、ひきずり出していたことだろう。直接抹殺されるか、封殺されていたか。相手は公的権力を持ち合わせた男だ。まともにやりあって、自分たちに勝ち目があったろうか。
「少しうかつに動きすぎたかなあ。あんなのがいるなんて聞いてないよ、僕」
 個人に対して極端に得意不得意を感じたことのないレンデバーであったが、ここまで関わりたくないと思った人間は初めてだ。
「あのオジサン、分かっててこの仕事回したのかな。だったら後で殺しに行こう」
「ちゃんと報酬を貰ってからにして下さいよ」
「貰うよ。五倍くらいは絶対にね」
 テーブルの上の行儀悪く足を乗せて、レンデバーは思案にふけるように煙草を弄ぶ。細い煙を伸ばす煙草の先は白んだ赤。嫌な記憶を呼び覚ます色だ。
「でも、悪いことばかりじゃない。いくつか面白い話が聞けたよ」
 琥珀色をした瞳が何処となく昏いのは、半眼にしている為か、それとも感情がそうさせているのか。
「かの地ではやはり、人工的な生命体の研究がされていたそうだよ。ユラス君はその成功体で間違いないみたい」
 グレイヘイズはぴくりと片眉をあげ、緊張した様子で口を開く。
「……信じがたい話ですが。他に成功体は?」
「ない。でもね、失敗した中でも生き残った連中がいたんだってさ。それが灰色の人間たちということだね」
 レンデバーはそっけない口調で言って、小さく笑った。光を浴びながら苦しむ紫の少年と、生まれながらに失敗とされた灰色の人間。一体、どちらが不幸なのだろう。そして彼らを作り出した人間たちは、それを考えたことがあったのだろうか。
「レンデバー。そのことですが」
 口を挟まれて、レンデバーはなんだという風に目を瞬く。灰皿に煙草を押し付けながら、グレイヘイズは己が見てきたことを低い声で告げた。
「ふぅん? まだ子供なの?」
 彼の主人は興味を引かれたように身を乗りだす。グレイヘイズは顎を引くように頷いた。
「はい。近くの廃屋に住み着いているようです。今朝方まで見張ったのですが、同居人らしき人物が帰ってきた様子はありませんでした――しかし子供ですからね。保護している者が必ずいる筈です」
「妙な話だねえ」
 ふとレンデバーが呟いたため、グレイヘイズは怪訝そうに視線を持ち上げた。レンデバーは足を組み替えながら、しきりに首を傾げている。
「だってさ、その子って明らかにユラス君より年下でしょう? なのに失敗作だって? ユラス君より後に作られたんだから、普通成功するだろうにねぇ」
「それは――確かにそうですね」
 灰色の人間たちを追うことだけが頭にあって、すっかりそのことを考えなかったのだろう。グレイヘイズは顎に手をやって唸った。
「ユラス・アティルドが成功したのは偶然だったのか――。彼だけが記憶を失ったのも、それと関係しているのでしょうか」
「……」
 レンデバーはふっと目を眇めて、視線を床に這わせた。確信するほどではないが、レンデバーは紫の少年の記憶について、ある疑念を抱いているのだ。口に出して言う程のものでもない、僅かな予感でしかないのだが。
「――彼の記憶を叩き起こすのは最後の手段だな」
「はい?」
「ううん。でもお手柄だね、グレイヘイズ。今度こそ捕まえて始まりの地を吐かせられる」
 捕食者の光を躍らせるレンデバーの瞳に、既に『失敗作』たちへの憐憫の情は存在しない。きっと凍えるほどの無感情な残忍さで彼は灰色の少年を狩るだろう。
 逆にグレイヘイズには、子供を狩ることに些かのためらいがあった。しかし、情を捨てなくてはならぬ時もある。一度瞑目した後、グレイヘイズは真っ直ぐにレンデバーを見つめて頷いた。
「他に学園長から聞きだしたことはありますか?」
「追々話すさ。そうそう、ちょっと気になることといえば」
 レンデバーは学園長に、かの地に崩壊が訪れたときの生存者について、疑問をぶつけていた。彼が知る限り、生存者は皮肉にも実験により生み出されたものたちだけだ。
 それに対して学園長の答えは昏い音律を伴っていた。細身の体をローブに包んだ男は、表情を消し去った顔で淡々と告げたのだ。
 それは、その時だけレンデバーが妙に眼光を鋭くしていたことに気付いていたからだろうか。

 ――他の人間であそこを無事に出ることが出来た者は、いないと言って良いでしょう。

「始まりの地は研究機関だ。研究には金と人材が要る」
 レンデバーの胸に、染み出すようにどす黒い記憶が去来した。
 それは牢獄の記憶だ。暗い部屋に塗りこめられるように閉ざされた、それは現に彼を形成するものでもある。
 殴られた痛みも血の味も、そこで覚え、そして戦った。生きる為に。
 人とは傷つくものだ。そして歪むものだ。どのような行為ですら、人を傷つけることがある。ならば、傷つくことに対して、傷つけることに対して何を恐れる必要があるのだ。
 そして自らを傷つけるものと戦うことに、何の咎があるというのだ。
「他の研究員たち。彼らは一体何処に行ったのだろう?」
 そこに、もう標的があるのだ。だから迷い必要はない筈だ。
 なのに耳から離れない穏かな語り口を必死で忘れようとする己が腹立たしくて。
 レンデバーは、答えを求めるように煙草に火をつけた。
 昨晩話した男の、静謐な瞳が忌わしい。全てを見通すようなあの目線が。


 ***


 全く、何処でこの人生は狂ってしまったのだ。
 テーブルに視線を落としたまま、何度呟いたか分からない問いを己に投げる。
 耳にこびりつく不快なざわめき。誰かの笑い声。圧迫するようなそれは、全てが自分に向けられているようにすら思え、半ば朦朧とした意識で痩躯の男は周囲の賑わいを憎んだ。

 あの男が悪いのだ。
 狐のように吊り上った目の下に隈を作った彼は、端の席で酒を呷る。世界から逃げるように。余計なことを考えないように。
 しかし、それでも心は思考を廻さずにいられなかった。例えそれが再び同じ場所を巡るのだとしても。
 彼は元々科学者だった。元々というからには勿論、今は違う。彼は、いるべき場所を追放された身なのだ。故に日がな酒場で時を過ごすのが彼の常だった。無精髭が浮き、頬はやつれ、肌は以前の艶を失い、目は魚のように淀んでいる。もはや知人でも彼の顔を見分けることは出来ないだろう。それほどまでに彼の佇まいは退廃していた。

 仕方がなかったのだ。自分は自分の身を守っただけなのだ。
 元科学者は、やけになった頭でそんなことを考えた。

 彼が師事していた教授の研究は、科学界から大きな注目を浴び、成果を期待されていた。彼もその教授の論に大きく感銘を受け、研究室に入ったのだ。若かったせいもあったが、当時は何の疑問も抱かずに研究に没頭できた。自分もその研究で一役買って名誉を受けたいと思っていたし、後々は独立して自分の研究室を持ちたいという野心もあった。
 それはある意味で、何も考えていなかっただけなのかもしれないけれど。
 結果は想定外の事態となって、彼に牙を剥いた。
 研究を進めていく内に、彼が心酔した理論が間違っていたことが分かり始めたのだ。次第に他の科学者から見向きもされなくなり、理論と共にこの研究室は忘れ去られていくだろう。そんな悪夢が、研究員たちの頭を過ぎった。
 そうなると、教授は無気力になり、酒の量が増えていった。研究室に姿を現さない日も多くなった。
 しかし彼は、このまま忘れられていくわけにはいかなかったのだ。この研究室がなくなってしまえば、彼を保護するものはなくなる。彼は敗者になってしまう。それに、研究室は世界の最高学府と呼ばれた学園にあった。そこの研究室に所属していることが、彼の誇りでもあったのだ。楽園からの追放は、彼にとって死も同じだった。
 仕方なかったのだ。自分には、未来があったのだから。
 教授が始めた薬品の横流しに気付いたとき、初めは通報しようと思った。だが同時に考えたのだ。もしも通報したとして、そこで待っているのは研究室の解体だ。
 逆に金があれば、名誉は買える。
「仕方なかった、仕方なかったんだ」
 ぶつぶつと呟きながら、彼はこめかみに手をやった。脂汗の浮く額に伸びっぱなしの前髪が張り付くのを不快そうに振り払う。
 他の誰にこの気持ちが分かるものか。この苦しみが理解されてたまるものか。学園から追放されてはならなかったのだ。忘れられてもならなかったのだ。
 間違っていた理論を捨て去って研究をするにも、再び名誉を得るまできっと時は待ってくれない。ならば、あらゆる手を使って金を集め、未発表の論文を買わなくては。
 青空に映える白亜の学術都市。荒野の只中に孤高に聳える学びの楽園。そこに、きっと自らの居場所は生まれる筈だったのだ。
「ああ――くそ、くそ」
 全ては失敗だった。彼の研究室の不正は上層部の知るところとなり、教授共々警視院に身柄を引き渡された。
 それからのことは、ぼんやりしていて不明瞭だ。ただ、なるべく教授に罪を被せるのに必死だったことだけ覚えている。
 その為か、自分に課せられた罰は教授よりも軽く、一年ほど身柄を拘束されただけで釈放されたのだ。

 もう、居場所はなくなっていたけれど。

 研究室は解体された。彼の名は、科学者としてではなく犯罪者として記憶されることとなった。そして、そのことすら人から忘れられていった。
 残ったのは、歪んだ想いだけだ。

 万力で潰されたように痛む頭を右手で支えながら、酒場を後にする。胃は焼けるように熱く、右に左に視界がぶれる。惨めで、悔しくて、仕方ない。
「――つ」
 そこはもう、聖なる学術都市ではなかった。町中の全てが猥雑な、大陸の南の都市。なんと汚らしく、愚かな地。有能な己がいるべきは、このような腐った場所ではない筈なのに。
 ざわめく影法師を見ていると更に気分が悪くなって、薬が欲しくなった。
 おぼつかない足取りで裏の道に入る。饐えた臭いの漂う暗がりは、夜になると闇に紛れて商人たちがやってくるのだ。港町であるのも相俟って、ここでは密やかな取引が盛んに行われていた。
 今は力が必要なのだ。彼は目当ての品を探しながら、唇を舌で濡らす。再びあの地に返り咲く為に、今は生き長らえねば。だから薬が欲しかった、体を楽にしなければ。そして、今後の予定を練らねばならない。
 だが、彼は薬を買うには至らなかった。薬売りを見つけた瞬間、彼は目を見張った。
 薬売りは先客と取引をしていた。闇に馴染んだ二人は、手馴れた様子で指を振り、薬の値段を交渉しているようだった。そして、客の男。薄汚れた茶髪の下に覗く、きつい緑の瞳。
 あれは、あれは。
「――っ!」
 気付いたとき、彼は身を炎にして地を蹴っていた。客の男に迫り、逃がさないように胸倉を掴む。男は目を瞠って、怯えたようにこちらを見た。僅かに抵抗されたが、その程度で離す気はなかった。揉め事を嫌った商人は音もなくその場から姿を消した。
「貴様ッ」
 呼気を荒げながら、彼は男を睨めつけた。男は頬を歪め、不可解そうにこちらを見ている。更に腹が立って、彼は指に力を込めた。
「ルークリフだ、この名を忘れたわけではないだろう!?」
「――」
 無精髭の生えた口元を震わせた男は、ふと無表情に戻った。男と同じように退廃したルークリフは、ぎらぎらと目を輝かせた。闇夜と相俟って、感情は壮絶な色と腐臭を呈していた。
「お前のせいで――お前のせいで!」
 見れば見る程懐かしく忌わしい。男は、彼と薬物の取引をしていた人物であった。自分の研究室から持ち出した薬品を、息が止まるほどの値段で買っていった男だ。
 この男さえいなければ、道を踏み外さなかったのだ。
 ルークリフは、わだかまりの矛先を男に向けることで安定した。だから、更に男に怒りをぶつけようとした。

 不意に鳩尾の辺りに違和感を感じた。何か、棒状ものがあてがわれている。
 何だろう、とルークリフは視線をそこに下げた。同時に男の口角が、ねじれるように釣りあがる。
「……」
 突きつけられたのが拳銃だと理解した瞬間、視界がぱっと白むのを感じた。爆発したと思っていた感情ですら霧散して消え、代わりに背筋を稲妻が駆け抜ける。
「ひっ」
「動くな」
 離れようとした体が、いとも簡単に硬直する。嘘のように震えだす指先を、男は痩せさらばえた手で掴み、胸元から外した。ルークリフは彼の顔を見た。空ろな魚のような瞳が、全てを飲み込むようにこちらを見据えていた。
「――ふふ」
 何が可笑しいのか、男は肩を揺らして笑う。忘れ去られた暗がりの夜道は、月明かりですら届かない。
「ははは」
 正気を失ったような笑い声に、恐怖が腹の底から競りあがった。前に会った折はもっと冷静で狡猾な男であった筈だ。薬を買っていたようだから、その毒に侵されているのかもしれない。
「お――落ち着け、ほら、何も……何もしない」
 滑稽なほど上ずった声で宥めた瞬間、彼はぴたりと笑いを止めて、ルークリフの瞳を覗きこんできた。路上生活を続けたのだろうか、酷い臭いが鼻をつく。しかし男が口にしたのは、奇妙な単語の連なりだった。
「俺は、誰だ?」
「え」
「23号、ラルー、ラオ」
 ヒューヒューとすすり泣くような呼吸音に混じって、男は呟く。
「違う、どれも違う」
「……」
 目を瞠ったまま凝視するルークリフの返答を待たず、彼は突然涙声になった。
「ルーシャを追いかけてやれなかった」
 今にも消え入りそうな慟哭は、男の指を戦慄かせる。ルークリフは男が間違って引き金を引いてしまうのではないかと恐怖し、一層青褪めた。しかし男の嘆きは止まらない。
「違う、違う――俺はルーシャを売ったんだ。あいつが行きそうな場所を奴に教えてやった。そうすりゃ帰ってくると思ったんだ、まさか殺されるなんて考えてもいなくて」
 髭が生え放題になった頬を、涙が伝う。
「あいつが悪い、全てあいつらが悪いんだ。何が叡智の結晶だ、何が未来の人類の姿だ。化け物を生み出しただけじゃないか! 復讐だ、ルーシャの為に――復讐、復讐を」
 叫んだかと思うと、復讐復讐とぶつぶつ繰り返す。言葉の意味を掴めないルークリフは、恐怖に体をひきつらせるばかりだった。この男はもう駄目だと思ったが、拳銃を突きつけられては動けない。関わってしまったことを後悔しても、過去に遡ることなど出来はしない。もう意識を手放してしまいとさえ思った。
 だが、男はそれを許さなかった。涙を垂れ流すまま、彼は突然ニタニタと下卑げた笑いを浮かべた。
「お前も、科学者だったな」
「――あ、う」
 肯定も否定も出来ないほどに唇を震わせていると、男は探るように銃口を鳩尾から胸へ、喉から顎下に向けた。
「俺も科学者だった。俺たちは同類だ」
 悪魔めいた笑みを張り付かせたまま、銃口の先を肌に食い込ませる。
「手伝え。逃げるのはおしまいだ。奴らに制裁を与える。それはやり遂げなくてはならない。それが出来るのは俺だけだ。焼き尽くし、滅ぼし尽くす。ルーシャ――ルーシャの為にな。だから手伝え」
 耳障りな呼吸音を聞くたびに口の中が乾き、喉が嫌な音をたてる。首を縦に振るしかないルークリフを見て男は満足げに笑い、やっと拳銃を懐にしまった。
 どっと汗が噴出すのを感じながら、ルークリフは佇立していた。元から暗い瞳をした男であったが、今の彼には箍が外れたような凄みがあった。逃げ出したいのに足を動かすことが出来ず、ルークリフは目を開いたまま男の動きを見つめていた。
「二人なら出来る。来い」
 男は闇に紛れるように背を向ける。ルークリフは怯えながらも、やっとのことで声をだした。
「お、お前、何処に行く」
「黙れ!」
 癇癪を起こしたように、男は怒鳴る。身をすくめるルークリフに向けて、男はぎらつく目線を投げた。
「俺のことは名前で呼べ、本当の名前で呼ぶんだ」
 緑の瞳に迷いはない。絶望と怒りの果てにある、透明な色だ。
 男は老人のように老け込んだ顔を醜悪に歪め、語気も強くその名を言い放った。

「俺はヘリオートだ」




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