-紫翼-
二章:星に願いを 47.レンデバー・ロッキーニ 書物に目を通すときと全く同じ眼差しを、学園長は書類に向けていた。さらさらと視線を動かしていたと思えば、ある一点でじっと考え込むように止まる。その動作だけを他人が見れば、古文書を研究しているのと勘違いするかもしれない。 窓の外はすっかり暗く、白亜の学園は深夜の静寂に包まれている。しかし学園長は帰宅せずに仕事を続けていた。昼間は数日前に生じた女生徒誘拐事件の後始末に追われていたため、書類が溜まってしまったのだ。 顔色一つ変えずに夜遅くまで残ってそれらをこなしている学園長に、ある者は感銘を受け、ある者は忌々しげに舌打ちをする。疲れを知らないことで有名な学園長は、弱音どころか愚痴一つ吐かずにこれらの業務をこなしているのだ。その手腕は、どれほど現学園長に反感を持つ者でも認めざるを得ないものだった。 学園長は、ある書類に署名をしたとき、ふと瞬きをした。既に残っている職員もほぼいないだろう時間帯は、命が死に絶えた後のような静寂に落ちている。広くない学園長室には照明が煌々と光を降り注がせていたが、一歩廊下にでれば電気も消えている。 学園長は顔をあげず、淀みない動作でペンを置いて執務机の一番上の引き出しを開いた。 「このような夜更けに、どちら様でしょうか」 引き出しの中にあるものに指を乗せて、独り言のように呟く。ただし、ひっそりと静まり返った部屋の中で、その声は開け放たれた扉の向こうまで聞こえたことだろう。学園長の横顔に、緊張は見えない。ただ、瞬時に対応できるよう、指は引き出しの中の護符にかかっている。世界に名を知らしめるグラーシア学園の長たる彼は、その立場故に政府から護符の所持と使用が許可されているのだ。無論、使用は緊急時にしか許されなかったが。 暫く、その場には沈黙が落ちた。学園長は、扉の向こうを見つめたまま彫像のように動かない。 すると、突然明るい声が静寂を破った。 「拍子抜けしました。こんなに簡単に忍び込めるなんて。これじゃ警備なんてないに等しいですね」 こつり、こつり。床を打つ、靴の音。光と闇の境界線を越えて、彼は明るい学園長室に姿を現した。整えられたべっこう色の髪の下で、琥珀の瞳が抜け目ない輝きを宿す。思いがけない彼の若さに驚いたのだろうか。学園長は僅かに瞳を見開き、そうして微笑んだ。 「ええ。全ての者に開かれているからこそ、ここは学び舎なのです。閉じられた建物は、ただの牢獄に過ぎない」 「素晴らしい。高潔な理想です」 若い男は、感服したように深く頷いた。そうして、初めて来たのであろう学園長室を歩きながら物珍しげに見回す。 学園長はそんな様子を睨むわけでもなく自然に眺め、ふと口を開いた。 「軍の方ですか」 「――」 ぴくりと若い男の瞳が驚愕によって見開かれた。学園長の痩せた頬に表情はなく、透徹な眼差しも変わらない。若い男はそんな学園長を一瞥するとクッと喉で笑って、腰に手をやった。 「まいったな。よく分かりますね」 「歩き方が。軍の方は、訓練を行うと聞いているので」 若い男は、薄笑いを浮かべたまま淀みのない返答を聞く。油断ならないと言いたげに、琥珀色の瞳がひゅっと細くなった。 「しかし、ご覧の通りに正規軍ではありません。政府のある者の命で、こちらに派遣されました。レンデバー・ロッキーニと申します」 お見知りおきを、とでも言うように、レンデバーは古風な礼の形をとった。 対する学園長は、ゆるりと首を傾げてみせる。動揺はない。用件を察知している顔だ。そして、それに対して取り繕う気も隠す気もないのだろう。 「公式にいらしたわけではなさそうですね?」 「そういうことです。怖いおじさんに脅されて半ば無理矢理遣わされた哀れな子羊なんですよ僕は」 そこまで演技じみた仕草で力なく首を振っていたレンデバーが、突然ぎらりと瞳を光らせる。上品な顔立ちが、一転して荒々しく変貌した。 「――あなたに辿り着くまでに、大変苦労しましたよ。学園長先生」 そう口ずさみながら執務机の前までやってくる。微動だにしない学園長の目の前まで。 「これは、とても禍々しい物語」 張り詰めた空気が、言葉を吸い込んで無に帰していく。 「今となっては誰かもわからない一人の人間が、至高の宝珠を見つけてしまった。そんな物語をご存知ですか――いいえ」 暗がりから輝く猫のような瞳が光を宿す様は、まるで相手を切り裂くよう。 「ご存知のはずだ」 獲物を食らうように、獰猛な表情も露にレンデバーは微笑んだ。 「この物語は闇の中で紡がれた。誰が何をしたのか。誰が何を知っているのか。どれも分からず――お陰で随分と無駄な手を打ってしまった。先日の件は大変お騒がせしました」 歌うように紡いで口角を吊り上げるレンデバーに、学園長は驚いた様子も見せなかった。 「ええ」 返す言葉に、感情はない。 「腸が煮えくり返る思いでしたよ」 ふっとレンデバーの唇が動いた。それほどまでに目の前の一見穏やかな男の眼光にも、苛烈な感情が宿っていたからだ。しかし、それで黙っている彼でもなかった。 「あなたがそれを言いますか」 くすくす笑いながら、レンデバーは後ろに手を回す。 「その地位に辿り着くまでに、他の何人を蹴落としてきましたか。どれほどの人間を犠牲にしたのです」 レンデバーの挑発に、学園長は静謐な表情で返した。 「生徒を守ることこそ私の務め。悪戯に彼らを汚す者を許すことはできません」 「ならば」 レンデバーは笑う。しっとりとした椅子に腰掛ける隠者に向けて、狡猾に笑う。 「彼を排除するのが、生徒を守る最高の近道になると思いますよ。――あなたがどんな特別な想いを彼に抱いているのかは知りませんが、彼は知らずに歪みを広げていく」 「それがあなたの望みですか」 問いに、レンデバーは肩をすくめて首を振った。 「まさか。もしもそうなら、今頃彼の首はありません。無知な彼は脆い。あと一突きでもすれば、簡単に壊れてしまうでしょう。彼は無力だ。誰が彼を無力にしたのかは知りませんが」 刃を紡ぐように、レンデバーは顎を引いた。 「賢人もの目を眩ます財宝は、むしろ存在しない方が好ましい。これが僕の主の言葉です。僕が滅するべきはその財宝。――全てが起こった、はじまりの場所。初めは彼が知っていると思ったのですが、それもどうやら違う」 精悍に引き締まった表情は、まるで敵陣に切り込むかのよう。レンデバーは、言葉という剣を持ってして、牙を剥いた。 「歪みの真の中心は、あなただ。学園長先生。あなたが歪みを引き継がなければ、この物語は紡がれなかった」 ふっと学園長は首を傾げる。まるで心外だ、というように。 「そうでしょうか」 穏やかな音色は、朝の泉ですら震わせることはあるまい。学園長は、この国では珍しい水色の髪を傾げた首と共に揺らせて口をもたげる。 「誰が断ち切ろうとしても、誰が終焉を願っても。時が続く限り、歪みは連鎖するのです。はじまりはどこにでもある。だからこの世には、歪んでいないものなど存在しないのです。ならば私たちは歪みながらも立ち向かうしかないのでしょう」 歪みながらも――その言葉が唇に乗った刹那、レンデバーの頬が癇に障ったように動いた。一瞬、余裕に満ちた表情に亀裂が入る。だがレンデバーは、次の瞬間には皮肉を濃くした笑みを刻んでいた。 「詭弁ですよ、それは。歪みとはあなたが考えるよりもよほど醜い。妄執と確執、虚偽と欺瞞に囚われたこの歪みの物語を、あなたは知っているのでしょう?」 「ええ――そうですね」 学園長が目を閉じると同時に、広くない学園長室に沈黙が落ちる。学園長は気付いていた。目の前の男は、この一件を手の平で弄んでいる風を装って、実際はそうではない。 むしろ、彼は。 この歪みの、ひとつだ。 「いつだったかの昔、ある愚かな人間はその財宝を見つけてしまった」 レンデバーは、湖面に水滴を落とすように呟く。 「政府関係者間でも極秘に処理され、その財宝の為に国家の金は湯水のごとく使われた。僕はそれで誰が得をしようが誰に不幸が訪れようが興味はないのですが。ただ、その歪みにもう終止符を打ちたいと望む者がいるのです。馬鹿げた者どもの生み出した夢を、終わらせたいと望む者が」 「では、あなたは終わらせたいと望むのでしょうか?」 「僕は」 つと形良い指が執務机の端に乗る。学園長は目を開いて、彼を見た。既に彼の琥珀色に、ひと時垣間見えた奇妙な一面はない。 「僕は、与えられた命を成すためにここに来たのです」 学園長が荒野に無言で佇む獅子だとすれば、レンデバーはそれを空から睥睨する鷹であった。底光りする二つの視線は交じり合って、目に見えぬ火花を散らす。 「学園長先生。これは宣戦布告です。僕は、全てを暴きましょう、あなたが闇に葬った全て。偽りの平定など必要ない、あなたの個人的な感傷などどうでも良い。僕が欲しいのは真実だ」 「それは――困りましたね」 学園長は、温度のない微笑みで口元を飾り、レンデバーを正面から見据えた。苦笑するようでもあり、同時に威嚇するようでもある。唇の表情と一転して、その目は笑ってはいない。 「私の望みは全ての生徒の平穏です。それを揺るがされては困ります」 「ならば取引としましょう」 目の前の男に小手先の振る舞いなど不要とみたか、レンデバーは髪をかきあげる。 「あなたから情報を買いたい。代価は、あなたの大事な小鳥たちの安全としましょう。今後、無闇に手は出さないと誓いますよ。あなたとしても困るでしょう? 特に彼をこれ以上揺さぶるのは」 べっこう色の髪は、照明の光を吸い込んで天使の輪のような場違いな輝きを宿す。だが片頬を歪める様子はまるで悪魔のようで。ねじれたそれらは、凄惨な表情となって形を成した。 「――良いでしょう」 学園長はそれを受けて、ふんわりと笑う。静謐な瞳で、小首を傾げる。水色の髪が、さらりと揺れる。 「何をお話すればよろしいですか?」 *** レンデバーはいくつかの問いを口にした。学園長は相槌を打ってそれを全て聞いた上で、静かに答え、最後にこう付け加えた。 「――はじまりの地が何処にあるのかは、私にも分かりません」 「やはりそうですか。あなたといえど全てを知っているわけではないのですね」 返す音色も穏やかだが、貼り付けたような表情は変わらない。酷薄な笑みは、計算高く輝く瞳によく似合っていた。 「結構です。しかし、よくここまで簡単にお話して下さいましたね? 少し口が軽すぎる気がしないでもない」 「ええ。あの子と既に関係のない事柄でしたら、いくらでもお話しますよ。それに――」 鋭い視線に晒されているとは思えないほどに落ち着いた様で、学園長は口元をほころばせる。まるでこの場に相応しくないそれは、異様ですらあった。 「人とお話することが、好きなのですよ」 「……」 レンデバーは笑いもせず、得体の知れないものに触れたように一歩足を下げた。 「今日のところは、これで失礼します」 そのまま踵を返して、それにしても、と口ずさむ。 「哀れな少年です。何も知らされず、何もかもを奪われて、ただ破滅の時を待っている。ねえ、学園長先生。ここは、なんて寂しいところなのでしょう。いびつで、滑稽で、誰もが孤独だ」 「ええ、そうでしょうね」 背に当たる声を受けて、レンデバーは外の暗がりに目をやったまま続きに耳を傾ける。 「けれど、それでも人の住まう地なのですよ。どんなに冷たい指先でも、切れば血は流れるのです。痛みを感じない者など、何処にもいない」 それは語り部に紡がれた言霊のように、狭い部屋に染み渡る。 「どれほどいびつな者でも、人間なのですから」 レンデバーは、直接その言葉に答えなかった。代わりに、背を向けたまま唇を開いた。 「あなたの母君のご友人から、言付けを預かっています。たまには孤独な母君の眠る地に弔いに来い、と」 そのとき背後で学園長がどのような顔をしたか、レンデバーは見なかった。そうですか、と小さく返答があったことだけを確認して、彼は振り向きもせずに部屋を辞した。 Back |