-紫翼-
二章:星に願いを

46.光り輝く世界の翳り



 落ち着け、と何度も心に言い聞かせるのに、じわじわと染み出す恐怖が、戦慄が、視界を紅く染めている。寄せては返す波のように、薄い防壁をひとつひとつ引き剥がしていく。
 目頭に押し付けたままの掌の合間がやけに紅いと思ったら、夕焼けの色だった。
「――ぅ」
 ぐっと目元を強くおさえて、ベンチに背を預ける。研究所地区にある、忘れられた木陰。そこに俺は小さくなっていた。一人になれる場所といったら、ここしか思いつかなかったのだ。
 だが、不意に前方から人の気配が感じられて、心が一つ震える。今は、誰にも会いたくないのに。
 逃げようと思った。
 しかし、疲労した足は動いてくれない。いつかあった日のように。逃げたいと思って、でもそれが出来なくて、だから。

 何度も、何度も。
 ――願いを、呟いていた。

「うぅ」
「ユラス!」
 頭を抱えて呻いていると、誰かが駆け寄ってきた。知らない匂い。脳髄を焼くように、指令を喚起する。
 戻らなくては。現実に。
 そんな心の奥に焼きついた絶対的な命令に、俺は唇を噛み締めて頷いた。
 腹の底で蠢くものに無理矢理蓋をする。俺が俺であることを強制する。何も考えない、ただ笑っているだけの自分に。
 心を違う形の型に無理矢理はめ込むような作業は酷い痛みを生んで、飛沫は染みとなって体を内側から汚していく。
 でも、それで安定が訪れた。大丈夫、大丈夫――そう心で呟いている内に、体が沈静していく。
 こちらを覗きこんでいるのは、セライムか。
「ん」
 顔をあげると、青い双眸が不安に染まっているのが伺える。黄金を熔かしたみたいな髪がその脇を流れ、対比が眩しい。こいつは、俺のようにいびつではないな、とぼやけた感慨があった。
「どうした、大丈夫かっ?」
 目を細めているこちらを見て、セライムは周囲を見回した。人を呼んだ方がいいと思っているのだろう。
「平気だ、ただの二日酔い」
 ようやく余裕がでてきて、そんなことを口にした。すると、ぱっとセライムの顔色が変わる。
「な、お、お前、飲酒は禁止されてるだろうが! 何やってるんだっ」
 ああ。思い出した。こいつ、冗談が通じない奴だった。だから俺が記憶を失ってることなんて、疑い一つなく信じ込んだんだ。今も、その表情には純粋な怒りがある。
 でも、そんな感情が今はなんだか懐かしい。
「んー」
 それにしても大丈夫かな、こういう風に話していて。レンデバーに狙われたりしないかな。
 不安になって、辺りを見回す。何が掴めるわけでもないことも理解していたけれど。これまで『見られている』ことが当たり前だったみたいだから。
 知り合いがいるからだろうか。俺は、研究室を飛び出したときよりは、随分と落ち着いていた。
 そう。信じたくない事実だって、噛み砕いてしまえば平気なのだ。今までだってそうだったから。
 躓いて戸惑って悩んで立ち直って。その繰り返しで人は生きていくんだ、素晴らしいことに。きっとそうだから、俺のやり方も間違っていないのだ。
 ぎしぎしと、ひびが入った何かが軋む音が聞こえる。

「本当に大丈夫か?」
 俺が二日酔いであるのだと信じ込んだセライムは、呆れ半分に隣に座った。本当なら一人でいたかったのだけど、追い払うのすら面倒で。だから俺は頑張って笑うことにした。
「大丈夫」
「……」
 そのときの俺は、きっと失念していたのだろう。付き合いも長いこいつが、俺の内心を見通せないわけがないことに。
 俺の努力の結晶たる笑顔に返ってきたのは、抜き放った刃のような眼光であった。
 整った顔立ちに浮かぶ、峻烈な生彩。まるで戦場に面したような表情に、怯んだ頬が歪むのを自覚する。
「な、なんだ」
 思わずのけぞる俺の耳朶を叩くは、まるで世の真理を語るような真っ直ぐな音色。
「そういうときにお前が言う大丈夫は、全く信用がない」
 ――なんでこいつは、こういうときに限って信じないんだろう。
 苦笑を含んだ諦めに、背もたれに身を預けたまま項垂れる。
「何かあったのか」
「……世の中が嫌になってしまった」
 半ば投げやりに言った俺を、セライムは怪訝そうに覗き込んできた。
「――ユラス」
 青い双眸は、心をざわめかせる。俺は、この色を知っている。
「俺さ、記憶ないから。多分、記憶無くす前に酷いことやらかしてたんだ。本来ならこんな場所にいていいわけがなくてさ」
「おい、ユラス」
 セライムの声に険が入る。意思の強そうな眉が吊り上がる様子は一昔前の騎士を思わせて、とても眩い。
 俺は、落ちていく夕日を眺めながら続けた。今まで口にすることを互いに避けていた、決定的な事実を。
「だってお前、俺がお前の父親の失踪に関わってたって言っても、今まで通りでいられるか」
「――」
 茜色に染まったセライムの表情が、瞬時に翳るのを視界の端で認識する。
 セシリアは言った。狂った楽園の住人に最後の一線を越えさせた石は、セライムによく似た男性によってもたらされたのだと。そして、その石を、俺は知っていた。とてもよく知っていた。
 それ以上セライムの顔を見ていられなくて、俺は空を見上げた。これは、子供じみた癇癪だ。錆びたナイフを振り回して、差し伸べられた手を振り払っているに過ぎない。それを分かっているから、そうせずにはいられない自分が許せなくて、顔を歪める。
 でも、その手をとってしまったら。
 それが、今までと同じように――また罪を重ねることになる気がして。
「うん。だから俺、本当なら復讐されてもおかしくないくらいだからさ、多分。あまり俺と関わらない方がいいと思う」
 夕日は眩しいけれど、目を乾かしてはくれない。最近、駄目だと思うのは、すぐに泣きそうになることだ。
 立ち上がって歩き出そうとした。石畳に長い影が落ちる。俯いたままの横顔を覆い隠すように、あちこちに跳ねた髪が揺れる。
 しかしそのまま場を辞すことは叶わなかった。尾をひくようになびいたケープの裾を、後ろから掴まれたからだ。

「行かないで」

 思い出したように風が背中から吹き抜けた。
 振り返る前に聞こえた声は、まるで何かに縋るように儚い。
 顔を向ければ、ケープを掴んだ指が震えていた。
 そうして僅かの沈黙の後、苦しげにそいつの顎があがった。
 貫くような双眸が俺の目とかち合い、青褪めた唇が、紡ぐ。
「お前は」
 途切れた言葉と共に、溢れる想いを湛えた瞳が、振り絞るようにこちらに全てを注ぎ込んでくる。今にも泣き出しそうな顔だった。網膜を通り越して、脳を焼かれる。あまりに多くを内包した表情は、それだけで心を真っ二つに叩き割る。
「お前は分かるか。そうやって置き去りにされた者が、どんな惨めな気持ちになるか。どんな悲しい想いをするか」
 お父さんも、私を残して行ってしまった。
 囁くように呟いて、セライムは童女のようにかぶりを振った。黄金の流れが渦を巻いて、揺らめく。
「何処にも行かないでくれ。もう、失ってしまうのはいやなんだ」
「……つってもさ、セライム」
 俺は髪に手を突っ込んで、座ったままのセライムと向き合う。
「もし事実だったら、俺のこと許せないだろ」
 諭すように語る舌が苦い。けれど、こいつに殺されるならまだマシかな、と心のどこかが呟いた。俺という歪みを、こいつが消し去ってくれたら。それはある意味、幸福なのかもしれなくて。
 しかし、不意に沸いた甘い考えは、更に甘い考えで切り裂かれた。
「お前がそんなことをするわけがない」
 笑ってしまうような子供じみたことを言って、セライムはこちらを見上げる。夕日を孕んだその眼光が儚いほどにひたむきな想いを湛えていて、俺は眩暈を覚えた。
「……セライム。お前な」
 目頭に指をかぶせる。確かに今の俺は、力を持っているにも関わらず利用する術を知らず、人を傷つけることすら恐れて暮らす駄目な奴だけど。でも、記憶を失う前も同じだったと、どこにそんな保障があるのだろう。
 しかし、セライムの目は本気だ。真面目に俺のことを信じている。理屈の存在しない、願うような眼差しで。
「ユラス、だから何処に行かなくてもいいんだ。お父さんのことは――もういいから。それよりも、今いる人がいなくなってしまう方が怖い」
 残酷な言葉だと思った。俺に分からないままの状態でいろ、と言っているのだ、こいつは。
 けれど、俺も同罪なのかもしれない。あの日、月夜の下で出会ってから時を過ごして――今になって、こんな事実を突きつけるなんて。
「……はは」
 諦めが、俺を笑わせた。どうして俺たちは、こんなにも求めるのだろう。ありふれた日常を。今にも崩れそうな均衡の上に成り立つ、束の間の平穏を。
 そして、どうして――それを得ることができないのだろう。
「後悔するぞ、それ」
「後悔を怖がって生きているなんて、そんなことを私はしたくない」
 僅かに鼻をすすって、セライムは立ち上がる。凛とした佇まいで、こちらを真っ直ぐに見つめる。
 綺麗な奴だと思う。その背にきっと翼はいらない。地に叩きつけられようと、幾度でも立ち上がって駆けていく強さがそこにある。
 俺も、そんな風になりたかった。
「分かったか。記憶が戻ろうが戻るまいが、お前はここにいていいんだ」
 鮮烈な印象を残す双眸が、告げる。
「だから何処にも行くな」
 願いであり、祈りであり、許しであり。
 罪の証拠。
 俺の胸を貫く、槍でもある。
「――ああ」
 とろけた黄金を流したような髪が美しくなびく。目を細めながら、俺は頷いた。頷くしかなかった。

 俺はきっとその約束を破ると、気付いてしまっていたから。


 ***


 ティティルはその日も屋根の上から聖なる学術都市を渡り歩いていた。
 両親や知り合いは、危ないから屋根に上るなと言う。だがティティルは何故大人たちがそんなに不安がるのかよく分からなかった。確かに一度転落してしまって、ちょっと痛い思いをした。しかしあれは――空を飛ぶ人などというとんでもないモノを見たからであって、普段なら落ちるなんてありえないことなのだ。
 下の道を歩くのも嫌いではないが、屋根からの方が人々を見下ろせるから好きだった。それに、そこを歩くと風がよく通って気持ちがいい。
 聖なる学術都市に集う子供たちは、そのほとんどが学園生である。学園生でないティティルのような子供は、都市では珍しかった。地元から親しまれている古本屋の跡取り息子である彼には、故に同世代の友人がほとんどいなかった。学園の同世代の生徒たちとは生活習慣が違いすぎて、いまいち交友が続かなかったし、ティティルの自由な性格は彼らとそりがあわなかったのだ。自然と彼の遊び相手は大人たちになった。雑貨屋の老人や、店に働きにくる学生たち。特にアナトールという生徒には、よく遊んでもらったものだ。内緒だよ、といって都市外に連れ出して魔術の基礎を教えてくれたのも彼だった。

 いつもの道筋を辿って、ティティルの幼い足は都市の外れに向かう。そこに近づくにつれて、心臓が鼓動を早くするのをティティルは感じていた。今日こそ、あの灰色の少年は来てくれるだろうか。
 そこで落ち合うと、約束をしたわけではない。ただ、自分が勝手にここで会おうと告げただけなのだ。だから灰色の少年が再びここに来るなどという確約はどこにもなかった。
 しかし、大きな瞳は諦めるまいと燦然とした光を湛えて。

 その日も、ティティルは一人で細い道の真ん中に立つことになった。
「――」
 辺りを見回して、無駄に廃墟の中を覗き込んでみたりして、しかし灰色の少年を見つけることはできなかった。ぐっと口をへの字に曲げて、ティティルは壁に背をつけた。
 やっと友達ができたと思ったのだ。
 今まで、ティティルと遊んでくれたのは大人たちばかりだった。彼らを見上げながらティティルは育った。それは嫌ではなかったけれども、やはり同世代同士でつるんで笑っている学園生たちが羨ましかった。
「ちぇっ」
 唇を尖らせて、手を頭の後ろにやる。灰色の少年が何処から来たのか、ティティルは知らなかった。もしかしたら、故郷に帰ってしまったのかもしれない。
 そう思うと心が震えて、慌てて目元を拭う。
「寂しくない。寂しくないぞ」
 言い聞かせるように呟いた、そのときだった。
「……にやってるんだよ」
 こつり、と靴が石畳を叩く音。ティティルは、ぎょっとして振り向いた。


 服の裾を掴んだままドミニクは巻き毛の少年を視界に収めた。悪態をついたはずが、掠れて情けない声にしかならないのに苛立つ。こんな声、きっと笑われるに違いない。
 そう思っていたのに。
 ティティルは、頬を張られたように佇立していた。
 何故そんな顔をされるのか分からなくて、ドミニクが眉根を寄せたその瞬間、爆音が耳をつんざいた。
「ばかやろーっ!!」
 鼓膜が壊れるほどの絶叫と共に、巻き毛の少年はこちらに向かって突進してきたのだった。
 二人の合間が、――涙で別れたはずの合間が、たったの一瞬で埋まる。ドミニクが目を剥いたときには、飛び込んできたティティルによって後ろに薙ぎ倒されていた。
「だっ」
 思い切り尻餅をついて、痛みに顔をしかめる。しかし、抱きついてきたティティルによって胸元を捕まれ引き上げられて、かと思えば唾が飛ぶ勢いでまくしたてられた。
「バカ!! どこ行ってたんだよ! 心配したんだぞ、お前どん臭いしぼーっとしてるし無口だし変な人に連れてかれたかって思ってたんだ!! いるならいるって初めから言えよ!」
「んなっ」
 理不尽な物言いに、ドミニクの頬が紅く染まった。ドミニクも、会いにくるまで散々苦悩したのだ。しかし、もう孤独に耐えることが出来なくて。まさかいる筈がないと思いながらやってきた先にティティルを見つけて、本当はとても嬉しかったのに。
 ――この前はごめん、と謝らなくてはいけないと思っていたのに。
「そ、そんな器用なことができるか! なんなんだお前、バカみたいな顔して」
「べーだっ! バカって言った方がバカなんだ!」
「お前が先にバカって言ったろうがっ」
「ふんっ。そういうお前の方がよっぽど間抜けな顔してる。どうせ一人で寂しくなったんだろ」
「ち、違うっ」
「おう、やるか?」
 好戦的な茶色の瞳が輝いて、口元が不敵に笑う。むき出しの感情に半ば呆気にとられ、そうしてドミニクは馬鹿馬鹿しくなって顔を背けた。
「ぼ――僕はお前と違って一人でも大丈夫なんだよ。でも、今日は暇だから……会いに来てやったんだ」
 言い捨てて、歯を食いしばった。己の鼓動が早くなるのを自覚しながらも、それを無視して。
「……」
 ティティルはそんなドミニクを、目を丸くして見つめていた。そして。
「ははっ」
 心から楽しそうに歯を見せて笑い出す。
「相変わらずだよな、ドミニク。ほら、行こう」
 何故笑われるのか分からないドミニクは、腕をとられて立たされた。そのまま連れ立って歩き出す。上機嫌な後ろ姿を追いながら、ドミニクは不安げに問うた。
「ど、どこに行くんだ」
「んー、どこがいい?」
 既に歩き出しているにも関わらず、返ってきたのは呑気な答えだ。僅かに振り向いた瞳にも、邪気がない。
 何故だろう。
 嫌悪しかなかったはずなのに。
 気持ち悪かったはずのそんな表情に、酷く、安心する。
「じゃあ、いいとこ連れてってやるぜ。今度こそびっくりすんからな」
 今度こそ、という言葉に心が跳ねる。しかしティティルはそんな様子も意に介さず、灰色の少年を連れて進んでいった。


 ***


「この前は悪かったよ。でも今日のはホントにすげえからな」
 意気揚々とティティルは言った。対するドミニクは腕をひかれながら、唇を引き縛ったままだった。先日のことを思い出していたからだ。
 違う、と言いかけて、けれど言葉にならなかった。結果、憮然とした顔をティティルに見せることになる。ティティルはそれを疑念と捕らえたようで、やや不安げにまくしたててきた。
「本当だって。こっちに来いよ」
 ティティルが人通りの少ない道を選んでくれていることに、ドミニクは気付いていなかった。そこまで頭の廻る少年だと思っていなかったのだ。
 ドミニクがそうであるように、ティティルもまた、年上に囲まれて育ったために、一面で大人びたところがあった。彼は十分に気付いていたのだ、灰色の少年が他人の目を恐れているということを。
 足がかりのある場所から、ティティルは屋根の上にあがった。細い腕で四苦八苦しながら塀をよじ登るドミニクを、ティティルは笑って助けてやった。そうして、足場の悪い道を小鹿のように駆けていく。
「気をつけろよ。お前、どん臭いから」
「う、うるさいっ」
 みるみる引き離されてしまうドミニクは、赤面して叫んだ。そのたびにティティルはニヤリと笑って助けにきてくれるのだった。下を見るだけでぞっとしてしまうドミニクとは対照的に、彼はまるで怖じ入る気配がない。
 差し伸べられた腕を見れば、この前の喧嘩でついた傷も完全に治った気配がなく、むしろ新しい傷が増えているようだった。あちこちを飛び回っているためだろう。
 ドミニクも喧嘩によって随分と擦り傷を負ったのだが、彼はそれを魔術で治してしまっていた。早く忘れてしまいたいと思ったからだ。故にドミニクの白い肌には既に傷一つ存在しない。
 ――いびつだ。
 ドミニクはそう感じた。目の前の利発な少年を見れば見るほど、己がどれほど歪んだ存在なのかが分かる。それが、震えるほどに悲しかった。
 どうして自分がこんな思いをしなければならないのだろう。
 周りの人間は、自分にないものばかりを当たり前のように持っている。
 どうして、どうして。
「ほら、見ろよ」
 足元ばかりを見つめていたドミニクは、声をかけられて、ふと顔をあげた。

 ぱっと視界が開けたようだった。
 あまりの眩しさに目を細め、そうして再び、――見開く。
 頬を叩く風は、髪の毛と遊んで後方へ。
 乾く唇は、言葉を忘れて停止したまま。
 そこは、家屋の中でも一際高い屋根の上。白亜の都市は無論、その向こうの荒野までが見渡せる場所であった。
 ひしめく人の営みを形作る建物の群れ。それは次第に姿を消し、向こうには終わりのない大地が広がっていた。
 眩暈を覚えるほどに陽光を一杯に受けて輝く草原、あるいはむき出しの大地。空の色との境界線は霞んで、どれだけ目をこらしても見極められない。
「……」
 ――なんて小さいんだろう、この都市は。
 全ての思考を吹き飛ばして、ドミニクは思った。
 これだけの建物が広がっていようと、広大な荒野の中では箱庭でしかない。あの荒野の向こうには、何があるのだろう。何もないのかもしれない。だから、全てがここに集まっているのかもしれない。
 陽光の中で、人は寄り集まり、必死で存在を主張している。寒さを恐れ、孤独を恐れるように。
 あの地では――人が寄り集まっているにも関わらず、全ての者が孤独だった。数字と論理の世界。陽光も風も知らずに、諾々と思考し、生きることを強制されていた。
 だから、きっと壊れてしまったのだろう。何もかも。

 不意に背後から不思議な球体が流れてきて、ドミニクは我に返って振り向いた。その先ではティティルが、小さな筒を咥えている。
 彼が息を吹き込むと、虹色の光彩を持つ透明な泡が生まれ、解き放たれて宙に浮かぶ。
「――」
 初めて見る奇妙な物体を、ドミニクは言葉を失ったまま観察した。ティティルは筒の先を持っている小さな容器に突っ込んで、それを咥えると再び息を吹き込む。いくつも生まれた儚い泡玉は、風に遊ばれてドミニクの鼻先をさまよった。
「あ」
 かと思うと、魔術でもかけられたかのように消失してしまう。ドミニクは目を瞬いてそれを探したが、残滓すら見当たらない。次々と生み出される泡玉は、暫く漂った後に弾けるように消えていくのだ。
「……なんだ、これは」
 何の薬品を使っているのだろうか――そのような思考を植えつけられたドミニクは、同時にもう一つの想いに胸を塗りつぶされていた。

 太陽の光を吸い込んで輝く清廉な光彩。
 なんて綺麗なのだろう、と。

「お前、見たことないの?」
 筒から口を離したティティルが、首を傾げる。そうして再び生まれる宝玉。一際大きく、重たそうに宙を漂う。恐る恐るドミニクが泡球に手を伸ばすと、それは弾け飛んでしまった。
「わっ」
「バカ、触ったら壊れるにきまってんだろ」
 折角大きいの作ったのに、とティティルは頬を膨らませた。
「そ、そんなの。お前が言わないからだ」
 無知を露呈してしまった気恥ずかしさに、ドミニクは顔を背ける。そうして、首を向けた先で小さな泡球が風に運ばれていくのを見た。くるくると踊るように、それらは白亜の都市に散っていく。その向こうには、都市内でも一際巨大な建造物が見えた。鳥が両翼を広げたような堂々たる佇まい。荘厳な装飾に彩られた、都市の象徴――聖なる学び舎、グラーシア学園。
 シェンナと共に都市にやってきたとき、ドミニクはその雄大さに息を呑んだものだ。そして、そこで生を謳歌する子供たちを見た。絶望も刻苦も知らない顔。鮮やかな色彩。どれだけ己が穢れているのかを見せ付けるような、光に満ちた世界。
 羨ましくて、羨ましくて。
「……なんでお前、あの学校に行ってないんだよ」
「ん?」
 大きな泡球を作ることに執心だったティティルは、ふと口から筒を離した。
「あの学校って、グラーシア学園のこと?」
 頷くと、ティティルの表情が僅かに曇る。その大きな瞳は一度、かの学園に向けられて、そうして取り繕うように何度も瞬いた。
「べ、別に行けなかったわけじゃないんだぞ。オレの才能を持ってすればあんなトコ簡単に入れたんだからな」
 居心地が悪くなったように、膝を抱えて唇を尖らせる。
「じゃあなんで入らなかったんだ」
 もぞもぞと体を揺らすティティルは、昼下がりの陽光を浴びて、とても眩しい。荘厳たる学園の佇まいと同じ。ドミニクにとって、あまりに遠いものだ。だから、あの学園と同じように手など届かないと思っていた。
 なのに少年は汚い裏道にやってきた。穢れた灰色の人間に手を差し伸べた。喧嘩をして、謝ってきた。笑顔すら向けてきた。
 彼は、ここにいるべきではないのに。
 するとティティルは頬を強張らせ、挑むように学園を見つめて口を開いた。
「オレは、世界一の古本屋になるんだ」
「――?」
 眉を潜めると、ティティルは白亜の建造物から目を逸らさずに続ける。
「母さんは受験するかって聞いてくれたけど、オレはしなかったんだ。だって、あそこは学者になりたい奴が行くところだからさ。オレは父さんの店を継ぐんだ、だからやらなきゃいけないことは他に沢山あるんだ」
「……みせ?」
「ん、言ってなかったっけ? オレんち、古本屋なんだ。鷹目堂ってとこ。ここいらじゃ一番有名な店なんだぞ」
 誇らしげにニッと笑って、ティティルは流れる風を背に心地良さげに目蓋を閉じた。同じように髪をなびかせながら、ドミニクはじっと話に聞き入った。
「父さんと約束してるんだ、14歳になったら店で働いてもいいって。学校にいたら、昼間に働けなくなっちまうだろ? そりゃ友達は沢山出来るだろうけどさ――」
 ふっと声が翳る。一体、茶色い瞳が見つめる先には何があるのだろう。そのときティティルが一瞬だけ悲しげな顔をした意味が、ドミニクには分からなかった。そして、それを質す前に巻き毛の少年は表情を戻していた。
 腹の辺りに、重たいものがわだかまる。
 何故、そんな顔をしたのだ。
 辛いことなど知らぬ子供と思っていたのに。
 彼の全ては光り輝いていると思っていたのに。
「でも、オレにはオレの人生があるんだ」
 自慢するように、それでいて自分に言い聞かせるように、ティティルは断言した。
 ドミニクはその横顔が見ていられなくて、空を見上げる。
 屋根の上では視界を区切る障壁など一つもなく、眩暈を覚えるほどの青が広がっていた。ごうごうと風の唸り声が聞こえる。鮮やかで透明な色だった。
 ここでは全てが輝いているはずだ。
 空を見るたびに、そう思っていた。あの暗闇から足を踏み出した瞬間、世界にこんな光があることを知ったのだから。
 なのに、そこにいる少年は、何かを考え込むように、ぐっと唇を引き縛る。
 迷いと戸惑いと、それでも前を向いている力が、そこにある。彼は、それを持っているからこそ輝いているのだろうか。
 ドミニクには、それが分からない。
 闇の住人であり、特別であったのに特別になれなかったドミニクには、光り輝く世界の翳りなど理解できない。
 ただ、名前のつけられない感情だけが残った。
 その感情は、ドミニクに問うのだ。痛みを知った、幼い少年に。
 ――いったいいつまで蹲っているつもりだ、と。


「……?」
 グレイヘイズは、ふと足を止めた。人の気配が頭上から感じられたからだ。
 この都市は不気味なことが多いもので、ともすれば屋上で狂ったようにわめく学者や、屋根に得体の知れない発明品を設置してしまう学者がいるものだから、驚くことはなかったが、自然と視線はそちらに向かった。何があるのかは確認しておいた方がいい。発明品が頭上に降ってくるのは遠慮したいものだ。
 だが、丘から顔を出す子ウサギのような二つの影を見た瞬間、ぴくりと太い眉が動く。
『あれは』
 喉の奥だけで呟いて、グレイヘイズはさりげなく、それでいて俊敏に体を屋根の下に隠した。一瞬見ただけであったが、目蓋の裏に焼きついた――あれは。
『灰色の』
 どくり、と心臓が一つ鳴るのと同時に、唾を飲み込む。彼の調べでは、灰色の人間とは人に危害を加えていたあの男と、彼と敵対していた女以外に存在しなかったはずだ。
『しかし、あれはどう見ても』
 こめかみが汗ばむ。思いの他自分が狼狽していることに気付いて、グレイヘイズは舌打ちをした。焦りは思考を狂わせる。落ち着け、と一度胸に言い聞かせて、大きく息を吸い込んだ。
 灰色の人間――それは、かの地で作られたものだ。紫の少年と同様に。そして、かの地の崩壊と共に地に放たれた。灰色の男は、そうしてかの地に関係する人間に復讐するかのごとく、次々と血の道を敷いていったのだ。
『他にも同じような人間がいたのか』
 グレイヘイズの調査では存在すら浮かび上がらなかったことから、この地に隠れていたのだろうか。
『子供――恐らく一人では生活できない』
 ならば、どこかに灰色の少年を匿う者がいるはずだ。うまくいけば、灰色の女をあぶりだせるかもしれない。
 彼は灰色の女の行方を追っていた。全ての始まりの地を探す為だ。主人は主人で、別の方向からそれを探る為に今宵本格的に動くそうだ。
 ――全ての歪みを断ち切る為に。
 一度瞑目し、静かに目蓋を開くと、体躯に見合わぬ動きでグレイヘイズは足を踏み出した。そこにいる少年を尾行する為に、彼の瞳は葉陰から覗く豹の目のように光り輝いた。

 灰色の少年は、屋根の上でじっと空を見上げている。




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