-紫翼-
二章:星に願いを

45.疑念と違和感



 そして翌日、見事に俺たちは授業に遅刻した。
 エディオとスアローグは、睡眠を深くする魔術にかかっていたためか、朝になっても全く起きなかったのである。ふらふらと帰ってきた俺も、眠りについたのは明け方。スアローグの絶叫で目が覚めたのは、既に授業が始まっている時刻であった。目をひん剥き呆然自失といった具合で時計を見つめるエディオには、内心で謝っておいた。こいつ、きっと寝坊するのは生まれて始めてだろうから。
 俺は毎朝寝起きが悪いから、様子がおかしくても全く気にされなかった。二人とも自分に魔術が使われたのだと夢にも思っていないようだったし。スアローグに引きずられるようにして登校した俺は、担任のレイン先生に三人してこってりと絞られて、午前中はただ椅子に座ってぼんやりとしていた。
 しかし、不思議なほどに授業は平常通りに過ぎていく。昨晩、セシリアとは逃げ出すように別れてしまったから、あったことを警視院に全て伝えられたかとも思っていたのだ。もしそうだったら、俺の事情聴取は間違いない。なのに、周囲は何事もなかったかのような日常が流れている。下手をすれば、昨日の出来事は夢なのだという錯覚に陥りそうになるほどに。
 話を聞いていると、既にセシリアが保護されたことは広まっているようだった。セライムなどは、本当に良かったと涙ぐんでいた。けれど、俺がそれに関わっていたことは誰も口にしない。セシリアは何も言わなかったのだろうか。
 昼休みは燃料を腹に詰め込む気分で昼食をとる。それから一人で幼学院の方に足を伸ばしたが、セシリアは登校していないようだった。今更ながら安否が気になって、あちこちをうろついていると、警視院で預かりの身になっているのだと情報を得た。惰性でそのまま警視院の前まで行って、俺なんかが行っても会わせてくれる筈がないことに気付く。入り口に立っている警視官の人は、俺を見ても声すらかけてこない。セシリアは、俺のことを話していないのだろう。
 その間も、きっと俺は監視されているのだろうと周囲を気にしていたのだが、俺を伺う気配はあるような、ないような――。奇妙な感覚だけがそこにある。
 どうすればいいか分からなくて、散々迷った挙句、ふらふらと向かったのは研究室だった。
「……」
「何を呆けた顔をしておる」
 なんだろう。湖に巨岩が落ちてきたというのに、波紋一つ広がらないような不気味さに似た、この平穏は。
 レンデバーがああ言ったのだ。俺の行動は監視されているはずだ。だからもっと息苦しい、そのはずなのに。
 ダルマン先生の問いかけに生返事で答えて、研究室を見回す。何度瞬きをしてみても、普段と変わらぬ景色が映るばかりであったけれど。
「お主、人の話を聞いておるのか」
「でっ」
 ぼんやりしていたら、杖で殴られた。痛みは――ある。それに少しだけ安心できた。まだ、痛みは感じられるようだ。痛みはこれが現実なのだと改めて思い知らせてもくれる。
「周りばかり気にしおって。変なものでも口にしたか」
「……あ、いえ」
 何かを言いかけて、けれど昨晩の出来事がまざまざと思い出されて、口を噤む。俺が認知していようがいまいが、俺の動きは監視されているだろうから、下手なことを口走れない。
 しかし、それにしては周囲の様子が不思議なほど普段と変わりないのだ。
 疑念と違和感が、また一つ胸を重くする。
 だから、そのとき。
「――今更、管理されることを気にした所でどうにもなるまいに」
 聞こえた声に、どくりと心臓が鳴った。
「え?」
 首を回すと、ダルマン先生は漆黒のローブからぎらつく目線をくれる。
 待ってくれ。今更――って?
 混乱する俺は、ダルマン先生の鼻から息を抜く音をどこか遠くで聞いた。
「やっと気付いたのか? 相変わらず愚鈍な奴よの」
 意味がわからない。
 だって、昨晩に初めて俺はレンデバーに今後監視されることを言い渡されて――。
 いや。
 胸が、予感に、警告に、痛みを放つ。

 何故、俺を取り巻く周囲は普段と変わらない。
 疑念が、実体を帯びて異物となる。
 考えるなと誰かが囁くが、思考は残酷なまでに止まってくれない。
 そう、それを逆に考えれば。

 例えば、今まで起きた、または巻き込まれた全てのこと。
 それらは俺という存在のために起き得たことで。

 あの目覚めの春から、俺という存在が誰かによって監視されていたとしたら。

「お主」
 俺の軋みを見抜いたか、黒いローブの下にある瞳が細くなる。
「お主の心は内側に向きすぎておる」
 口の中が干上がって、何も言えない。体中が鎖で繋がれてしまったかのようだ。
「普通の人間なら馬鹿でも気付きそうだがな。否――むしろお主はそのような環境に慣れすぎた為か」
 俺の知らないことを語る唇の動きに、眩暈を覚えてふらつく。
 心が、とてつもなく弱っているのを自覚する。
「阿呆。何を今更恐れている」
 やめてくれ、と。
 闇が悲鳴を上げる音を聞く。
 望んだ日常が繰り返されるために。
 見えないところで何が起きていたかなど、知りたくない。
 知らなければいけないことも知っていたけれど。
 それを知ったら、終わることも知っていた。

 ――ざ、ざざ。
 視界が明滅する。
 手の届かない場所で、舞台は幾度も繰り広げられる。
 知らない場所で、悲劇は幾度も織り成される。
 それを見て、見て、見続けて――。

「――っ」
 唐突に猛烈な吐き気を覚えて、研究室を飛び出した。誰も追いかけてはこなかったし、背中に言葉は当たったのかもしれないけれど、何も感じられなかった。


 ***


「おつかれさまでした――すみません、こんな早くに」
 ぺこりと頭を下げたセライムは、若干の申し訳ない気持ちを含めて、そう挨拶した。
「いいんだって。最近、何かと危ないからね」
 セライムが働く喫茶店の店長は、髭を蓄えた口元で苦笑する。本来なら閉店時間まで働いて貰うはずだったが、ここのところの治安を考慮して、明るい内に切り上げさせたのだ。人手がなくなるのは手痛いが、それ以上に目の前の少女が危険に巻き込まれることを危惧したのである。
 長年グラーシアで看板を掲げ続けてきた店長は、縮こまるセライムを見て、ふっと目を細めた。
「セライムも春に卒業か。早いもんだなァ」
 からかうような響きに、セライムは面映そうに俯く。彼女がここに働きにきて、もう四年を数えるか。店長も初めは驚いたものだった。国で知る者のいないユルスィート財閥。その会長の息女が、このような――自分で言うのもあれだが、狭くて安っぽい喫茶店で働きたいとやってきたのだ。しかし親身になって身の上を聞いてやる内に、店長は少女の哀れな境遇を知った。そして、彼女が何故この都市にやってきたのかも。
 そのような経緯で雇ったこの少女は、短い店の歴史でも伝説になるほどの破壊神っぷりを見せることになるのだが――店長は、それを忘れることにしている。いや、切実に忘れたかった、あの悪夢は。
 悪気もなしに皿を割り料理を駄目にし調理器具を壊す、一時は本気で解雇を考えた少女であったが、思えばよくぞここまで成長してくれたものだ。今は、一ヶ月に一度ほどしか皿を割らない。初めの頃を考えれば、落涙を禁じえない大躍進である。
 よくも悪くも不器用で一本気な娘なのだ。はっとするほど気高く美しい娘に成長したセライムを改めて眺めた店長は、彼女の行く末を思って、影で溜息をついた。卒業すれば彼女は、ユルスィート財閥会長の娘として、どこかの裕福な家に嫁ぐのだろう。それは一般的な女にとっては幸福な人生なのかもしれない。だが、目の前の少女には似合わない気がするのだ。屋敷の中に押し込められて、美しく着飾って座しているような人生は。
 しかしそんなことを選ぶ権利すら、彼女は持っていないのだ。そしてそのことを、彼女自身もよく理解しているようだった。セライムは、学園生活を心から楽しんでいる。それが長くは続かぬことを知っている必死さで。そんな様子が哀れだった。
 こちらも寂しくなるな、と店長は呟きかけて、それを飲み込んだ。そんなことを言っては、セライムの苦悩をより深くするだけだ。
「寄り道するんじゃないぞ」
 代わりにそう言うと、セライムは不満そうな目を向けてきた。子供扱いされたと思っているのだろう。実際、四十路にさしかかろうとしている店長からすれば子供同然なのであったが。それに、性格も起因しているのであろうが、彼女を女というにはまだ絶対的に色気が足りない。
 再び会釈して帰っていくセライムの後姿をなんとなく眺めながら、店長は煙草に火をつけた。そろそろ休憩が終わる時間帯だが、一本だけ、と自分を甘やかす。
 それにしても、上流階級の女にしておくには惜しい娘なのだ。いっそ、セライムを攫ってしまうような男はいないものだろうか。家柄ではなく、彼女そのものを愛し、彼女に見合った世界を見せてやれるような。
「白馬の王子様――とは逆かな」
 煙をくゆらせながら皮肉げに彼は笑って、起こりそうにもない夢想を、暫く脳裏に遊ばせた。


 ――また子供扱いされた。
 セライムは、内心で毒づきながら大通りを歩いていた。長い間世話になっている店長の中では、未だ自分は中等院の子供なのかもしれない。もう、子供ではないのに。
 そう。自分は子供ではない。
『……本当に?』
 とくん、と胸が一つ鳴って、思わず立ち止まる。
 本当に自分は幼い頃から成長しているのだろうか。大人なのだろうか。逃げ出したまま何一つ、未来に抗うこともできずに時を過ごしている自分は。
「……」
 唇を噛み締めて、セライムは歩き出した。そうでもしないと、意識がずるずると闇に引き込まれてしまいそうだったからだ。

『お父さんは、もういない』

 初夏に知った一つの絶望を、喉の奥で呟く。結局、何故父が亡くなったのかは分からず仕舞いだった。けれど、確たる証拠はなくとも、その事実は確かなものとして、セライムの胸の内をたゆたっていた。
 父はもうこの世にいないのだと。その事実の真偽を問う前に、そう信じ込んでいた方が楽だったのかもしれない。――もしも生きていたのなら、絶対に迎えに来てくれた筈だから。
 死という事実を飲み込んで、一頻り泣いてしまえば、もう熱を放つものはなくなってしまった。親友たちがいてくれたのも、勿論ある。けれど、日常に戻ってこれたこと事態が、セライムにとっては不思議で仕方なかった。悲しみを知って、大声で泣いて。なのに、今はこうして自然に振舞っていられる。
 絶望に浸っているときは、世界はこのまま終わってしまうように思えた。泣いている内に消えてしまえるのではないかと思った。なのに、今は日常に埋没して、笑っていられる。
『人は思い出だけでは生きられない』
 チノの言葉が思い出されて、セライムは頬を歪めた。確かにそうなのかもしれない。時の流れは待ってくれない。過去の痛みは、時間によって塗り潰されてしまう。それは人が生きていく為に必要な、残酷な優しさなのかもしれないけれど。それでも、忘れてしまう自分が、そしてふとした時に思い出す記憶が、ただ、悲しかった。
 このまま卒業して実家に戻ればどうなるだろう。それまでは、きっと記憶だけで生きていけると信じていた。そして、いつか、いつか――父が迎えに来てくれるのだと。しかし、それは起こらない奇跡だと気付いてしまって。それでいて、運命を跳ね返すこともできない自分の無力も、知ってしまった。所詮は、ただの小娘なのだ。特別な力を持ち合わせているわけでもない。やはり己には、残り少ない優しい日常の中で、思い出を積み重ねることしか出来ないのだろうか。
「あ」
 セライムは、ふと足を止めた。中央広場の噴水の縁に、知った顔が腰掛けて足をぶらつかせていたのだ。
「ティティル?」
 あどけない少年の横顔は、珍しく悲しげで。普段は外界を映してきらきら輝く瞳が、今は足元をさまようばかり。そんな様子が気になって、セライムは近付いていった。するとティティルはセライムを見止めて、ばつが悪そうに再び俯く。
「やあ、姉ちゃん」
 挨拶にも覇気がない。セライムは怪訝に思って、しゃがみこんで目線をあわせた。
「どうした? 何かあったのか」
「……別に」
 ティティルは拗ねたように唇を尖らせる。子供は自分の気持ちに正直だ。そんな様子が少しだけ眩しくて、セライムも目を細めた。
「姉ちゃんこそ元気ないぞ」
「え?」
 内心を見透かされた気がして、ぎくりとセライムは顔をあげた。幼い古本屋の息子は、唇を引き結び、不思議と静かな目でこちらを見つめている。そんな顔は古本屋の主人に似ている、とセライムは思った。親子なのだから、当たり前なのだが。
「うん、私もちょっと悩み事だ」
 努めて明るく言って、セライムはティティルの隣に腰掛けた。丁度汽車がやってきたのか、正面にある駅の中からわらわらと人が吐き出されてくる。
「姉ちゃんも?」
「うん」
 ティティルは、大きな瞳を瞬かせて、じっとセライムを見つめた。目の前の年上の少女にも悩みがあると知って、少し安心したのかもしれない。ティティルは寂しげに言った。
「嫌になっちゃうよな」
「……そうだな」
 背伸びをしたような、それでいて真っ直ぐな感情を乗せた音色に、セライムは薄く笑う。
「オレ、せっかく友達出来たのにさ。嫌われちゃったよ」
「そうなのか?」
 低いところにある茶色の巻き毛を見下ろすと、ティティルは俯いたまま頷いた。
「毎日待ち合わせ場所に行くんだけど、来ないんだ、あいつ」
 きっとオレが嫌いなんだよな、と幼い少年は唇を引き縛る。
「学園の生徒なのか?」
 もしそうなら様子を見てきてやろうかと思ってセライムは聞いたのだが、ティティルは首を横に振って否定した。そして、他所からやってきた子なのだと告げる。意外な答えに、セライムはきょとんとした。
 学問の聖域であるグラーシアに、学生でない子供はほとんどいない。例外はティティルのような都市の商店の子供くらいなものだ。その友達とやらは、親の仕事でここに来たのだろうか。
「オレさ、楽しかったから。何も考えないで色々言っちゃった。喋るときは人のこと考えて喋らないと駄目だって、教わってたのにさ」
 少年の後悔をぼんやりと聞きながら、セライムは夕暮れに長く落ちる影法師を見た。ティティルの小さな影と自分の長い影。この地に来たときは、このティティルよりも年下だったのに、気がついたら背が伸びて、ここまで来てしまった。別れの時は、もう近い。大人になったら何かが変わると思っていた。けれど、こんなに背の伸びた自分には何が出来るだろう。
 だから。
「オレ、諦めないよ」
「え?」
 不意に放たれた声の強さに思いがけず心が揺れて、セライムは聞き返した。地面につかない足をぶらつかせていた少年の横顔は、目に見えないものに挑むような強さを宿している。
「謝るんだ。そんで、もいちど遊ぶんだ。あいつ寂しそうだったから。別にオレが寂しいんじゃないんだ、あいつのためなんだぞ」
 言い訳をするようにまくしたてて、それでもティティルは口をへの字にした。泣くのをこらえるような表情を、暫しセライムは呆気にとられたように見て、そうして笑った。
「……そうか」
「姉ちゃんも諦めるなよ」
 ぴょんと縁から降りて、ティティルは年上面をするように腰に手をやる。
「父さんが言ってた。何もしないのは一番いけないんだ」
 決してセライム個人に向けられた言葉ではなかったのだろう。けれど、冷水をかけられた気分で、セライムは胸を押さえた。屈することを知らない瞳。なろうとしていた自分を思い出させるような、強い表情が、幼い少年のあどけない顔を彩っている。
「――ああ。その通りだな」
 逃げ込んだ楽園から去る日は近い。夢はもうすぐ醒める。現実が、そこには待っている。思い出だけを持っていっても生きていけないのなら、見つけられるだろうか。生きていける力を。
 それが運命に抗う道になったとしても、戦う力は――己にはあるだろうか。
「もう夕方だぞ、ハーヴェイさんも心配してるだろう。最近は色々と危ないから」
「何言ってるのさ。ここはオレの庭だぞ」
 むっとしたように言われて、セライムは苦笑した。確かに、この土地の住人としてはティティルが先輩になる。
「じゃあな、姉ちゃん」
 軽やかに石畳を蹴って走っていくティティルを見送って、セライムも寮に帰る為に歩き出した。夏も終わり、涼しげな風が温度をさらうように駆けていく。
 警視院の前を通りかかったとき、セライムはその古びた建物を見上げた。セシリアはまだ警視院で預かりの身になっているという。無事に保護されたと聞いて、胸を撫で下ろしたものだが、きっと恐ろしい思いをしたことだろう。登校できるようになったら、真っ先に会いにいきたいと思う。
「あ」
 大通りを抜けて、学園正門の近くまで行くと、見知った人影を見つけてセライムは足を止めた。だが、どうも様子がおかしい。普段から時折ぼんやりとしていることがある少年だったが、それにしても抜け殻のような、生気の感じられない顔をしている。
「ユラス?」
 口の中で彼の名を呟いた、そのときだった。まるで、それに呼応するように、彼は突然走り出したのだ。
「――?」
 それを暫く茫然と見送って、眉を潜める。そういえば彼は、昨日から妙な様子ではなかったか。
 嫌な予感が、じわじわと胸をせりあがってきた。このまま彼は何処か遠くへ行ってしまうのではないかという、漠然とした不安。それに、セライムには記憶があった。いつの間にか消えてしまった、父の記憶。ずっと傍にいると思っていたのに、父はいなくなってしまった。それを思い出した瞬間、衝動が全身を突き抜ける。
 思い立ったときには、既に足が動いていた。セライムは、夕暮れの都市に消えた紫の少年を追いかけた。
 もしも、自分が近い未来にこの楽園から立ち去るのだとしても。
 もう、そこにいる誰一人として失ってしまいたくはなかった。




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