-紫翼-
二章:星に願いを

44.終焉の足音



「ようこそ」

 それは、笑ってしまうほど悪趣味な光景であった。
 扉が開かれてから、銃口はずっとこちらを向いている。その持ち主――グレイヘイズは、表情の伺えぬ目で引き金に指をかけている。妙な動きをすれば、冷徹に、そして確実に撃つだろうと確信させる顔つきだった。そしてこの距離では、俺がどれだけ強い魔術を放とうと銃口が火を噴く方が早い。そんなことも気付かずにのこのことやってきた自分を、今は呪うしかない。
 いや――違う。
 信じていたんだ、俺は。
 何かの間違いなのだと。この人たちが、そんなことをする筈がないと。
 俺の周りにいる人と同じように、敵になることなどありえないと。
 そんな保障は何処にもなかったけれども、それでも、そうであることを信じ、願い続けていたのだ。

 レンデバーは、普段と変わりない笑みをこちらに向けていた。だがこの状況では、その笑みの印象は親しみとは程遠い。
 ほぼ命令されるようにして中に連れ込まれた俺を出迎えたのは、ソファーに座るレンデバーと。
「――!」
 布できつく口を塞がれ、手足を拘束されてソファーに転がされているセシリアの、驚愕の目線。
 感情が激しているのに、声が出てこなかった。渦巻く思惟と感情で頭は一杯なのに。向けられる銃口、セシリアの瞳、そしてレンデバー。全てを前にして、俺は歯を食いしばった。何もかも手遅れなのだと、痛いほどに噛み締めながら。
「どうしたの、ユラス君。大丈夫? 顔色が悪いよ」
 レンデバーは、足を組んでソファーに座ったまま、小首を傾げる。優しい眼差しは、まるで幼い子供を見るかのよう。だがそのとき俺が感じたのは、得体の知れない嫌悪で――喘ぐように口を開く。
「なんで」
 干上がった口内では、そこまで言うのが精一杯だった。聞きたいことがありすぎて、言葉が続かない。
 するとレンデバーは、憮然としたように頬を膨らませてみせた。
「だって、ユラス君が来てくれないんだもん。僕は君ともっとお話したいのにさ」
 狭い部屋は、電球に照らされて奇妙に明るい。対峙する俺は、レンデバーのいつもと何一つ変わりない、それでいて常軌を脱した振る舞いに、心から恐怖していた。
「――ねえ?」
 レンデバーは立ち上がって、唇の端を吊り上げる。底冷えするほど澄んだ琥珀の瞳が、誘惑するように俺に微笑みかけた。

「作られた生命体、ユラス・アティルド君」

 思考が弾け、意識が白く焼け付く。
 何を言われているのか分からずに、俺はただ、空気を食んだ。
「人に扱えぬはずの魔力、人にない筈の大量の知識。人類の叡智の結晶――に、なる筈だった」
 音律を伴う不思議な調べで、レンデバーは歌うように言葉を紡ぐ。刃を紡ぐ。
「どうして君のような人が、ただの天才の学び舎に身を潜めているのか、僕には不思議でならない」
 悪夢を見るように無力感を握り締めていた俺の目の前で、ずたずたに切り刻まれる視界。
「いや――人間を超越する力を持つ君は、そもそも人間といえるのかな」
 独白じみた呟きに、喉の奥がかっと熱くなる。
 いえるわけがない。その答えは、既に心の内にあるのだ。俺は人間ではない。何度だってその事実はこの体を打ちのめしてきた。だから、確定した要素に今更悲しむ必要もなくて。そう、悲しむ必要は全くなくて。だから、だから俺は。
 顎を引いて、真っ直ぐにレンデバーを睨んだ。
 心が麻痺してしまったかのように、何も感じられなかった。
 この男は――全て知っていたのだ。俺のことを。それを知って、俺に近づいた。
「だからなんですか。そう、俺は化け物です」
 やっとそれが、胸に事実として落ちた今は。
 目の前の、男が――。
「それを俺に言わせる為にこんなことを?」
 心から、腹立たしい。
 怒りで声はいくらか掠れた。しかし、レンデバーにはしっかりと聞こえていたのだろう。彼は意外そうに相槌を打った。
「ふうん、泣かないんだ? 強い子だね」
 唇を引き結ぶ。泣いたに決まってる。いくらだって心は引き裂かれた。ダルマン先生の言う通り、強い力を持とうと、愚かなものは愚かなのだ。俺はその力を持て余して、何に使うこともできず、ひたすら隠し続けた。普通であろうとした。そうやって、真実から逃げ続けた。続いていく日常を信じようとした。
 目を閉じる。温度を忘れてしまった体が、冷たい憎悪を燃やすのを感じていた。セシリアが、瞳の色を震わせてこちらを見つめている。どうすれば助けられるか。それを考えなければならないのに、それ以上の感情が思考を塗りつぶす。
「――誰ですか、あなたは」
「レンデバー・ロッキーニ。やだな、僕のこと忘れちゃった?」
「俺の知ってるあなたは、こうじゃなかった」
「学究の徒としてその発言は不適切じゃないかな? 疑いこそが学問の第一歩だ」
 挑発するように、レンデバーは微笑んだ。
「言ったでしょう? 商売をするためにここに来たと。そうなんだよ、僕はただお仕事をしているだけ。君という商品を扱うお仕事をしているだけなんだよ」
 くるくると髪を指に巻きつけながら、無邪気に笑う。
「じゃあ、早速取引といこう。僕が欲しいのは、君の持つ君に関する情報。君が欲しいのは、この子の身柄」
「待て、俺だって聞きたいことが」
 啖呵を切ったつもりが、最後まで続かなかった。はっとしたときには、レンデバーの手にも黒光りする拳銃が握られている。
「この状況、分かってるよね」
 圧倒的な不利を悟らされて、俺は口を噤まざるを得ない。
「そう、いい子。気をつけてね。僕、グレイヘイズみたいにコレの扱いが得意じゃないからさ。痛いのは嫌でしょう?」
 銃口に口付けるように唇を当てる。それは言動とは裏腹に、明らかに銃に関する素人の振る舞いではない。そんなレンデバーの双眸に愉悦の光が踊るのを見て、俺は背筋が冷えるのを感じた。
「何を――知ろうと?」
「君が人に教えたくないこと」
 からかうような口調だった。ちらりとセシリアに視線を投げれば、恐慌には陥っていないものの、混乱に見開かれたままの瞳と目があう。それを目ざとく察知して、レンデバーはセシリアの頭上に手をかざした。
「うん、どうする? この子に聞かれたくないならもう一度眠ってもらうけど」
 拳銃を持ったままの、軽く握られた拳。それが、俺の返事を待たずに振り下ろされるのを見て、思わず一歩が踏み出た。
「や、やめろっ!」
 視界が白むような緊張の中、制止の叫びが反響する。瞬時の混濁の後、俺の視界に映ったのは、直前で止められたレンデバーの腕だった。
 レンデバーは笑う。肩を揺らせて、くすくすと。
「やだなあ、冗談だよ」
 どっと汗が噴出すのを感じながら、俺はレンデバーをきつく睨んだ。冗談、そんなもので済まされる話ではない。
 しかし同時に、焦燥が熱く喉を焼くのを感じていた。この場を打開する為なら、俺の正体など洗いざらい吐き出してしまいたい。だが、俺自身が知らないのだ。自分が何であるのか。何の為に作られたのか。
 下手をすれば、レンデバーの方が俺のことをよく知っているかもしれない。俺は、最近になってようやく自分自身が人の手によって生み出されたことを認知したのだから。
 嘘は――言えない。レンデバーの見透かすような瞳が、グレイヘイズの冷徹な表情が、俺の小手先の技など簡単に見破るだろう。そうすればこちらが不利になるだけだ。そもそもこうして俺を呼び出したのは、俺がこうすれば真実を喋ると見越してのことなのだろう。虚構でも紡げば、向こうの態度も硬化するに決まっている。そうなれば、こちらから探るどころの話ではなくなる。
 真実を知りたいのは、知らなければならないのは、こちらの方なのだ。
 だから、俺はありのままを言うしかなかった。
 俺には記憶がない。気がついたら、川岸に倒れていたから。そこに来る前の記憶は、一切なくなっていた。忘れてしまっていた。
 誰かが、耳元で囁く。

 ――そう。
 ――あなたは、全てを――。

 不意に毒素のように混じる思惟を振り払い、俺は言葉を尽くして説明した。
「記憶がない?」
 レンデバーは、初めて怪訝そうに聞き返す。
「それを示す証拠はあるのかな」
 純粋な問いに、答えを持たない俺は、唇を噛み締めるしかない。そんなの、俺の頭を掻っ捌いて覗いてもらう以外に出来ない。
「そうだねえ」
 レンデバーも、真偽を問うことが難しいと分かっているようだ。小首を傾げて考え込むと、不意に悪戯を思いついた子供のように顔をあげた。
「じゃあ、こうしよう」
 それがあまりに普段と変わらぬ声で、反応が――遅れる。
 セシリアの瞳が、恐怖に見開かれた。その眉間に銃口をあてがったレンデバーは、冷え切った眼差しでこちらを見やった。
「この子の頭が吹き飛ぶのを見ても言えなかったら、真実だと信じるよ」
「――」
 言葉を失った俺は、レンデバーと暫し見詰め合う。あまりにずれた価値観同士は嫌な音をたてて耳にこびりつき、――俺は、酷い眩暈を覚えた。
「やめてくれ」
 みっともなく掠れた声しかでない。一歩踏み出しかけた足を、鋭く銃声が打った。体が反射的に跳ねて、足元に穿たれた穴と煙、そしてそれを放ったグレイヘイズを認識する。動くな、ということだろう。けれど、懇願せずにはいられなかった。
「そいつは関係ないだろう」
「どうかな?」
 レンデバーの微笑みには、不吉な禍々しさがある。レンデバーは、手際よくセシリアの頭の後ろの結び目を解いた。口元の拘束がとけたセシリアは、荒く呼吸をして何度か咳き込んだ。しゃらしゃらと美しくなびく髪を無感動に眺めていたレンデバーを、セシリアは見上げて、そうしてきつい目で睨んだ。
「ふふ、良い目だ。とても落ち着いている――まるで」
 哄笑するレンデバーは、無慈悲にそれを紡いだ。
「まるで、二十代の聡明な女性を見ているようだよ。マーリア・オヴェンステーネ」
「――っ」
 長い睫毛に縁取られた宝玉のような瞳が驚愕に弾け、強張った唇が動いた。全身から放たれる怒りが形良い眉を激情に歪めさせ、頬を蒼白にさせる。手首に食い込む縄など忘れたように、セシリアは叫んだ。
「違いましてよ!! 私は、マーリアではありません、私はセシリア。私は、私は、もう――っ!」
 広くない部屋に、滑稽なほどに響いた悲痛な叫びに、レンデバーは口角を吊り上げて哂う。人を食らう笑みだ。人の破滅を、愉悦を持ってして見守る――おぞましい歪みに、俺が何かを言う前に、レンデバーはそっと手をもたげた。
「ごめんね? 別に、君を追い詰めたいわけじゃないんだよ。僕にとって、君がマーリアだろうがセシリアだろうが、大した問題ではない。僕が欲しいのは、君にそのような体を与えた力だ」
 諭すような、あるいは教師が講義するような、やわらかい声音でレンデバーはセシリアの髪に指を絡める。愛しむようであり、支配感に酔う仕草にも見えた。屈辱にか、セシリアの長い睫毛には涙が滲んでいた。
「あんな力。存在しても人を歪めるだけですわ」
「そうだろうね。けれど、存在することは確かだ」
「レンデバー」
 俺は、二人の会話に割って入った。振り向いたレンデバーの瞳は暗い。どちらが化け物だか、と胸の中で毒づきながら、俺は口元を歪めた。何時の間に、こんな顔ができるようになったんだろう。
「――真実を知りたいのは、俺も同じです」
 すっと細くなるレンデバーの双眸を睨んで、はっきりと告げた。
「信じてもらえるか分からないけれど、俺には記憶がないから――その記憶をいつか取り戻して、裁かれなきゃいけないって思って」
 息苦しさに、胸が詰まったけれども。でも、この歪みが全て俺を発端にしているというのなら――。
「だから、教えて下さい。俺が誰なのか。もしも、俺が存在しちゃいけないものだったら」
 ちりちりと頭の隅が焼ける。自分の言葉が刃となって、自分の胸を刺す。けれど俺は、それを言わなければならなかった。
「俺は、撃ち殺されたって構わない」
 そう、グレイヘイズの構える大型拳銃を見やる。グレイヘイズは、相変わらずぴくりとも動かない。いつその指が引き金を引こうが構わないと、恐怖と同時に、諦めもあった。罪状が何かは、分からない。けれど、罪悪感はいつまでも尾を引いて胸に留まり続けている。あの日、目覚めたあの時から。
 あまりにいびつな俺は、許されない存在なのではないかと。
 疑いながら生きてきた時間に、終焉の足音を感じる。
 探るように向けられる涼やかな切れ長の瞳を、真っ直ぐに見つめる。いくらでも見るがいいと思った。覚悟なら出来ている。いや、覚悟ではないのかもしれない。

 それは、むしろ。
 むしろ――歓喜に、近い。

 ごぽごぽごぽごぽ。


 ***


「とりあえず警視院に行け。道は分かるよな?」
 セシリアは暗がりで俺を見上げた。顔色は伺えずとも、その頬が憔悴しきっていることは見てとれた。当たり前だ、丸一日拘束されていたのだから。
 俺とセシリアは、二人で暗い石畳の道を歩いていた。街灯の光がぼんやりと影を形作り、揺らめいている。
 レンデバーは俺の言を信じたか、セシリアを解放してくれた。無論、いくつかの条件と共に。
 今後は俺の行動は全て監視されること。そして、そのことをフェレイ先生を含めた他人に一切漏らさぬこと。正しい学生として日常を過ごし、そこから外れた行動をとらぬこと。
 それらを破れば――レンデバーが言うまでもなく、俺は認識した。この学園には、俺の大切な友人が多く存在する。人質も取り放題だ。俺がそういうことに揺れ動いてしまう点は、今回のことで明らかになってしまった。どんなに遠くに逃げても、レンデバーは慌てず騒がず、一人ずつ俺の友人を手にかけていくだろう。そうすれば、俺は必ず戻ってくるから。
 レンデバーは、それ以外は何も教えてくれなかった。
『時が来れば教えるよ』
 小さく、突き放すようにそう言っただけだった。完全に動きを押さえられてしまった俺に向けて。こちらは、俺のことも、セシリアのことも、持てる情報を全て話したというのに。
 なんて無力なのだと思う。いくら人に扱えぬ魔術を持つところで、俺はそこらにいる学生と何ら代わりないことに気付く。レンデバーとの取引にも頷くことしか出来ず、そしてこれからも――抗う術を持たない。
 小さく息を吐きながら、どうしたものかと俺は薄く笑った。足元は全て固められてしまった。このままレンデバーの手の平で転がされるままに過ごすか。あの人なら、きっと真実を知っているか――今は知らなくとも、じきに辿り着くだろう。それを待つか。死刑囚が、斬首の日をじっと待つように。
「……本当に記憶がないのですか?」
 ふと、思考にふけっていた俺は意識を現実に戻した。セシリアが人形のように整った顔でこちらを見上げていた。
 何故だろう。その問いが、今は、酷く胸に痛い。
 少し泣きそうになって、俺は頷いて肯定した。俺とセシリアはよく似ている。大いなる力を持ってして作られた存在。セシリアは、ある女性の記憶と人格を元に生み出されたという。
 では――俺は。何を元に生み出されたのだろう。
 それを考えると、突然胸が苦しくなって、俺はそっと目蓋を押さえた。まだ、泣いてはいけない。
 セシリアだって苦しいのだろう。突然拉致されて、得体の知れない男に詰られて。混乱したように疑惑の表情を向けてくる。それを、受け入れなくてはいけないと思った。当たり前だ、記憶喪失だと言ってはいそうですかと信じる奴はそうそういない。いたらそれは、よほどの正直者か、ただの馬鹿だ。
 ちりっと、目蓋の裏が何かの映像を映し出す。けれど、何がそこにあるのか分からない。
「あなたは、一体何処から来たのです」
 痛みも罪も、受け入れないといけない。俺は許されない存在。とてもシンプルな答えだ。なのに、こんなに長い日常を享受してきたのだから。
「――遠いお空の、そのまた向こうだ」
「私は真剣に聞いているのです」
 迷い、苦しむ音色。怖いに違いない。俺という存在が。そして、これからやってくるであろう、結末が。
「俺がさ」
 ああ、どうしよう。本格的に泣いてしまいそうだ。本来、俺には泣く権利すらないのに。
 悲しいと思う心なんてなければ良かった。何も感じなければ良かったのだ。そうすれば、きっと終わりを安らかに迎えられたものを。
 けれど、既に知ってしまっていた。大切なもの。守りたいもの。幸福な記憶。何もかも。
 残された時は、彼らと幸福に過ごす最後の時なのかもしれない。永遠を願いながら、そこにある終焉に怯えるしかない――。

 駄目だ、と思って、俺は手を掲げた。
「俺がさ、そう思っていたいんだ」

 ぶん、と耳元で風が鳴る。足首まで隠れる上着の裾が、大きくはためく。突然の浮遊感に、頭の奥がじんと熱くなる。大地の拘束を解かれた俺の体は、彗星のように空に昇る。セシリアが最後、どんな顔をしているかも分からなかった。そのときの俺は、もう泣いてしまっていたから。
 夜でも煌々と光を宿す都市が、一気に遠いものになる。夜空の星も霞むような煌きの集合となった都市を、俺は上空から見下ろした。周囲に何もないからか、深夜のグラーシアは闇の海に浮かぶ島のようだった。他人のもののように呼吸は荒く、いくら嗚咽を漏らしたところで眦から零れてくるものは抑えようもない。ごうごうと風に服がなぶられて、まるで一枚の木の葉になったようだった。そう、こんなことが出来たって、俺はこんなにも小さい。
「あ」
 不意に、何かの気配を感じて顔をあげる。上空の強い風に、濡れた目元が乾いていく。暗いはずなのに、何も見えないはずなのに、それは確かにこちらに向けて一直線に飛んできた。
「セト」
 影すら見えないはずなのに、俺はそれを認識した。月明かりに翼を銀に光らせたセトは速度を緩めて俺の周囲を一度旋回した。そうして無意識に開かれた俺の腕に、すっぽりと収まる。
 風を切ったからだろう。冷たいセトの体を抱きしめる。セトは、いななくこともなく、嫌がる様子も見せずに、俺にされるがままだった。
「セト、俺――なんで、ここにきたんだろう」
 空の高みは身を切るように冷たく、風の音がするだけで、酷く寂しい。けれどその寂しさが、今は優しく心に寄り添ってくれる。そう、何も持たないことは、虚無であることは、ある意味での幸福なのだ。
「どうして、出会ってしまったんだろう」
 半ば仰向けになるようにして、俺は夜空を目に移した。星たちが、それぞれ孤独な寂しい煌きを宿している。
 俺も同じでなければいけないはずだった。夜空に一人でいなければならなかったのだ。なのに、残酷な日常に触れてしまった。
 ゆるりと目蓋が落ちる。もしも、失わなければいけないのだとしたら。優しい記憶を夢にして、一人でたゆたっていることは、できるだろうか。
 どうかせめて、あと少しだけと。終わりが近いことを感じながら、いびつな体が暖かな場所にいられることを、何処かで祈ってしまう、救いようのない心を抱えて。
 俺は。
 俺は――。




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