-紫翼-
二章:星に願いを

43.秘儀、なんちゃってクシャミ



 吹き抜ける風が、頬を叩いて髪をなぶる。雲一つない、禍々しいほどの闇が広がる夜だった。
 背後では自室のカーテンの合間から光が零れてくる。スアローグがいつも通りに本を読んでくつろいでいるのだ。エディオも、遅くなるだろうが帰ってくるだろう。
 俺は、セトの翼を恋しく思いながらベランダに佇んでいた。鳥は夜目がきかないから、やってくるはずがないのだけれど。
 眼下には、夜の鬱蒼とした学園が広がっている。大事件が起きているというのに、不思議と白亜の建物は静まり返っていた。こうして静寂に包まれている間に、俺の知らないところで全てが解決してくれればいいのにと思えるくらいに。
 しかし同時に俺はそれを否定した。脳裏に一冊の本を思い浮かべる。セシリアは勝手に一人で何処かに行ったのでもない。そして、ありがちな理由で誘拐されたのでもない。
 俺一人を誘き寄せるために拐されたのだ。しかも、信じられない人物によって。
「レンデバー」
 その人の名を呟く。あの本を買っていった、若い人の名前を。何かの間違いだと思った。ただの商人と言っていたし、誰かがその名を騙っているのだと――。
 だが、発禁にされた炎の天使の初版は希少の品で、そうそう手に入るものではない。それが俺の机に置いてあった。そして中に挟まれていたメッセージはまるで、あの人の口ぶりを思い出させるもので。

『親愛なる紫の友人へ。心からの挨拶を――。
 今宵、ささやかながら宴を開きます。是非我が家へお集まり下さい。

 楽園の森から焼け出されたお人形を用意して、お待ちしております』

「――」
 額に手をやる。頭が痛い。甘いものをいくら食べても、今は気分が悪くなるだけだった。
 フェレイ先生に相談しようとも思った。だが学園長たる先生は今回の事件を受けて奔走しており、とても俺のような一生徒が会えるような状態ではなかった。そして先生が落ち着くには――この事件が終息する以外にないのだ。
 この事件の終息。それは、俺があの手紙の指令に乗らない限りは訪れない。手紙が語る『我が家』に、俺が行かないことには。そして俺の知る『我が家』とは、あの人の家以外に考えられなくて。
 血を吐くような気分で、肺から息を吐き出す。
 レンデバー。どうして、あの人が。セシリア、そして俺の正体を知っているのだろうか。
 懊悩によって時間ばかりが浪費されていく。行かなければ答えなど出ないに決まっているのに、俺はただ頭を抱えるばかりで。
 そのとき、不意に背後で物音がして、俺は反射的に振り向いた。
「えっ?」
 そこには、窓を開いたスアローグがいた。俺はきっと、これ以上なく険しい顔をしていたんだろう。驚きに小さな怯えを見せて、スアローグは眉根を寄せた。
「……大丈夫かい?」
 俺は、そんなスアローグの顔をじっと見つめた。そうだ、こいつも初夏の季節に、ある事件に巻き込まれたんだ――俺のせいで。
 今回もまた、俺を招き寄せるためだけにセシリアが狙われたのだとしたら。

 俺という存在は、そうやって、周囲の人間を取り込んで歪ませていくのだ。

 愕然とした俺を、スアローグは単純にセシリアを心配してのものと思ったらしい。俺に向けて、不器用に笑ってみせた。
「心配しすぎたって、僕たちに出来ることはないんだから――今は待っていたまえよ、きっと見つかるだろうから」
 それを他人事のように聞きながら、俺はごくりと唾を呑んだ。出来ることはある。俺にしか出来ないことが。
 ――ならば、やるしかない。
 握り締めた拳に爪を食い込ませ、俺は決意した。そうなってしまえば、思考は驚くほどに素早い回転を始める。一人で始末をつけなくてはいけないのだ、戦わなくてはいけないのだ。
 寮を抜け出す算段を立てながら、俺はスアローグに続いて部屋に戻った。


 ***


 寝転がっているのに眠気がやってこないのは、記憶を失ってから初めてかもしれない。いや、これで寝たら笑い話どころでは済まないのだけれど。
 敷布を握り締めながら、俺は暗闇の中で目を開き、時が過ぎるのを待っていた。これから俺は、一人で寮を抜け出して、レンデバーに教えて貰った場所まで行かなくてはいけない。
 出来るだろうか、と呟く胸の内に、出来るんじゃないやるんだ、と口の中で鋭く反論しておく。しかしそれでも不安は喉元までせりあがってくる。心臓はばくばくと波打ち、だらだらと脂汗をかいて、――ああもう、俺はフェレイ先生ではないのだ。緊急事態でも平然としているなんて出来るわけがない。
 スアローグとエディオはもう寝ただろうか。部屋の電気が消えて随分経った気がするけど、緊張しているから実際はまだ半時も過ぎていないのかもしれない。俺はひたすら心の中で脱出経路を反芻していた。いや、脱出経路といっても、ベランダから魔術を使って飛び降りるだけなのだが。都市内で魔術が使えるありがたみを、今更ながらに感じ入る俺である。
 セシリアは無事だろうか。わざわざ標的をセシリアに絞ったということは、セシリアと俺の関係も見越しているのだろう。下手をしたら、セシリアの正体や――そして、俺の知りえない真実まで知っている可能性がある。
『まだ分からない、会って話さないと』
 何かの冗談であるのだと、そんな考えを捨てられないまま、唇を噛み締める。状況が分からないもどかしさに、今にも叫んでしまいそうだった。
『そろそろ……』
 いい加減待っているのも限界で、俺は寝返りを装って深夜の自室を見回した。ここからは、反対の壁際で眠るエディオが見える。エディオはうつ伏せになって死体のように動かない。いつも思うが、こいつはスイッチが切れた機械人形みたいに眠る。
 俺のベッドの上の段ではスアローグが寝ているだろう。しかし、物音などでうっかり起こしてはいけない。俺は、喉を動かして唾を飲み込んだ。
『やるしかない』
 ごめん、エディオ、スアローグ。
 心の中で謝って、意識を集中させる。寝そべったまま、胸の前でかざした指から、魔術行使特有の煌きが零れる。頭を圧縮されるような痛みに囚われながらも、それを手の中で整形し、意を成す魔力とする。失敗は絶対に許されない。なんせ、これをかける相手は――大切な友人たちなのだから。
「精霊の御名において」
 最後だけ詠唱を用いて、俺は魔力を解き放った。ふわっと風のようなものが、俺を中心に巻き起こって部屋を満たしていく。汗ばんだ額に浮遊していた前髪が落ちてくる頃には、部屋には再び静寂が戻ってきていた。
「……」
 成功、しただろうか。
 今使ったのは、相手の眠りをより深いものにする魔術だ。精神術に属し、必須魔力は人の限界を越える。妖精族などが用いる術だそうで、――実は、ダルマン先生がこっそり使い方を教えてくれたのだ。そのときは、こんなもの絶対使わないと思ったのだが。
 しかしこの魔術、効果があったのかなかったのか、よく分からない。だって二人は元から寝ているわけだし。
「……」
 俺は、しばらく考えた。
「そうだ」
 よし、と思って息を吸った。
「ぶえっくしょわーー!?」
 秘儀、なんちゃってクシャミ。いや、こんなクシャミ聞いたことないが。
「……」
 俺は、すぐにエディオを伺う。しかし、これだけ大声をだしたというのにエディオは目覚める気配がなかった。――魔術が効いているのだ。
 そう判断すると、俺はそっとベッドを抜け出した。念のため、梯子を上ってスアローグの様子も見る。スアローグもまた、完全に眠りこけている様子であった。髪の毛をついついと引っ張っても目覚める気配はない。よほどのことでは起きないだろう。そうでなくては困るのだ、俺が行って帰ってくるまで、眠ってもらわねばならない。
 しかし、ここまでして起きないと逆に不安になってくる。もしかして、どっかの絵本のように、永遠に眠ったまま――。
「い、いやいやいや」
 流石に冷や汗がでてきて、俺は首を振った。意識して魔力は出来るだけ弱めたつもりだし、この魔術自体、一時的なものだから、まさか、そんな。
 煩悶しながら部屋の中を数度往復したが、今更どうしようもないので、とにかく行動に移ることとする。目立たない服装に着替え、――不本意ではあるが、いつかレンデバーに貸してもらった上着と帽子を被る。俺の髪の色はどうしても目立ってしまうからだ。
 一通り身支度を整えると、俺は一度だけ部屋を振り返ってから、ベランダへと踏み出した。

 外に出ると、部屋の空気がどれだけ淀んでいたのかが分かる。新鮮な空気を吹き付けられて、俺は目を細めた。先ほど見ていたときと違って、学園内もほとんどの施設で消灯してしまっているので、視界はどこまでも暗い。
 しかし、目をこらせば陰影くらいは伺える。男子寮は学園の裏手に面しており、ここからは倉庫などが見える。俺は、その辺りをじっと睨んで、周囲の様子を伺った。これで他の部屋の人間に魔術行使しているところを見られたら、目も当てられない。
 浮遊術なら何度も行使していたから手馴れたものだ。周りに人の気配はないと踏んだ俺は、そっと自らを地面の束縛から解き放った。本当ならこのまま目的地まで飛んでいった方が早いのだが、学園周辺と違って歓楽街の方面には人目がある。故に人のいない夜の学園に飛び込んだ――の、だが。
「ふむぶっ!」
 闇夜とは、遠近感が掴めないものである。ベランダから一直線に飛び出した俺は、勢い余って学園敷地内の倉庫脇の大木に墜落するに至った。枝に激突して、そのまま地べたに顔面をぶち当てる。……どうしていつもこうなるんだ。
「うー」
 首を振って起き上がると、体が軋むように痛む。これでは行く前から満身創痍である。もう少し颯爽とした振る舞いができればいいのだけれど。
 よろよろと立ち上がった俺は、とりあえず人目がないかが気になって、辺りを見回した。今のは絶対に人に見られたくない。魔術云々でなく、とにかく格好悪すぎる。
 深夜の学園は静寂に包まれており、風の音しかしなかった。この季節に上着は暑かったが、体格を見られたくないので我慢する。服についた葉を払い、帽子を目深に被りなおすと、俺は走り出した。行き先は頭の中に叩き込んである。歓楽街の奥まった場所だ。
 無人の学園を職員用門を使って抜け出し、そのまま大通りへ。ここまで来れば、深夜でも街灯が照らしてくれるので、闇に押し潰されることはない。だが、人の気配の途絶えた大通りは、まるで昼間とは別世界だ。
 そして、次第に人のざわめきが聞こえてくる。行く機会などないと思っていた、――学術都市グラーシアの歓楽街である。
 都市の南東に位置する歓楽街は、夜の闇を切り裂くように明るく、妖艶な賑わいを見せていた。千鳥足の学者風の若者たちが大声で議論しているかと思えば、中年の男が建物の影で眠り込んでいる。客引き――だろうか? 目のやり場に困るような服を来たお姉さんは、男の腕に絡みつくようにして、艶かしい視線を向けている。
「……」
 どうしよう、すごく、怖い。
 今まで風紀の乱れた場所など見たこともない俺は、ひたすら帽子を引っ張って周囲を見ないようにする他ない。レンデバーがいる場所は、ここから更に奥まった場所になる。

 ひたすら歩いていくと、迷夢のように永遠に続くかと思われた賑やかな通りは、次第になりを潜めていく。ぽつぽつと酒場らしき建物に灯りがついているが、人のざわめきなどは程遠くなり、代わりに風のすすり泣くような音が支配する空間となる。
 少し前までこの辺りは住宅街であったのだと、いつか聞いたことがあった。周囲には、集合住宅であったのだろう背の高い建物が軒を連ねている。いくつかはまだ人が住んでいる気配があるものの、衰退を感じずにはいられない通りであった。学者たちは、もっと西の研究所地区に近い住宅を好むのだろう。
『次の曲がり角を左』
 学術都市グラーシアは、徹底した計画性を持って人工的に作られた都市だ。故に、主要な道は全て碁盤の目のように伸びている。お陰で迷うことはなかったが、それにしても暗い。ここまで来れば、既に街灯も存在せず、月明かりだけが陰影を淡く照らすのみだ。
 とうとう目的地までやってきた俺は、唇を噛み締めて立ちはだかる建物を見上げた。
 それは、一見したところでは人が住んでいるように思えない廃屋だ。暗がりに潜んで、真の闇に落ちている。まるで入れば二度と抜け出せぬ穴のようで、俺は嫌な汗が額を伝うのを感じた。こんな場所に、レンデバーのような裕福そうな人間が住んでいるなど信じられない。だが、あのときレンデバーに貰った紙切れの住所は、確かにここを指している。
「――」
 目を硬く閉じ、首を振って俺は闇を見据えた。本当にレンデバーが犯人だとまだ決まったわけではないのだ、今は、真実を確かめにいくしかない。
 握り込んだ手には、力がある。いざとなれば、俺には、人をねじ伏せる力があるのだ。だから大丈夫――そう心で念じながら、俺は、一歩を踏み出した。
 暗がりの中で目をこらす。呼び鈴のようなものはないようだ。窓もカーテンが固く閉ざされ、中を伺うことはできない。暗闇の中で、俺は意を決して、扉を――叩く。
 引き伸ばされた一瞬の間を、呼吸を止めながら待つ。緊張に引きつった喉が小さく鳴ったとき、キィ、と扉が内側から小さく開いた。
「――っ!」
 それを認識した瞬間、頭の中が真っ白になって、俺は後ずさろうとした。
「動くな」
 低い声は、まるでそれ自身が弾丸のよう。全身が凍り付いて、色を失う。僅かに開いた扉から覗いているのは、細い棒――否、銃口であった。




Back