-紫翼-
二章:星に願いを

42.己の役目



 学期が始まって早々、朝の会議室はうだるような熱気に包まれていた。まだ大気に熱が篭る夏であるのも相俟って、座っているだけで汗が滲む。ライラック理事長はうんざりしながらハンカチで額を拭った。深夜に電話で叩き起こされたための睡眠不足もまた、苛立ちの一因となってこめかみを刺激する。
「どうするのです! これでは学園の威信にかかわりますぞ!」
「警視院とはどのように連携をとっていくのですか? 場合によってはこちらの立場が弱くなる」
「それよりも家族は何と言っているのです。まさかただの家出ではないでしょうね」
 早朝に集められたとは思えない活発さで口の端から唾を飛ばし、理事会役員や職員たちが騒ぎ立てる。彼らがそうせざるを得ないほど、事態は深刻なのだ。学園で預かっている幼学院の生徒が行方不明になったというのだから。
『どうしてこうも次から次へと』
 ライラック理事長はハンカチをしまって、厳しい顔を更に険しくした。夏季休業が終わり、後期課程が始まった途端、飛び込んできたのは悪夢のような一報である。やっと停電と生徒傷害事件に一段落がついたばかりだったというのに。周囲を気しなくていいのなら、畜生とでも呟いてやりたかった。
「待って下さい。憶測で物事を議論してはいけません、学園長が来るまでは落ち着きましょう」
 立ち上がって呼びかけると、学園の関係者たちはひとまず静まった。しかし、静まったからといって、誰もが黙ったわけではない。机上での議論が、隣人との密談に変わっただけだ。
『早くしてください、学園長』
 ライラック理事長は心から願い、閉じられた扉に視線をやった。学園長は事実確認の為、警視官や行方不明の生徒の担任と共に別室にいる。ライラック理事長はその間、会議の『お守り』を任されたのだ。グラーシアの沽券に関わる事件とあって、関係者の不安は今にも爆発しそうだった。そんな混乱の渦中だからこそ、ライラック理事長は毅然としていなければいけない。このようなときは、上にいる立場の者ほど落ち着いていなければならないのだ。
「――失礼」
 そのとき、ライラック理事長の悲痛な祈りが届いたように、学園長が姿を現した。すぐ後ろに、警視院の職員と、行方不明の生徒の担任が続く。担任である中年の女性は、俯きがちな顔を蒼白にさせていた。
 ライラック理事長は、思わず眉尻を下げて学園長に会釈した。会議の間を持たせるのも、限界だったのである。学園長はそんな理事長を労うように目礼して、彼の隣に向かう。
 すると、にわかに会議室には喧騒が戻ってきた。誰もが声を大にして、学園長に質問を浴びせかける。中にはあからさまに非難じみた声を担任に向ける者もいて、気の弱そうな担任は今にも泣きそうであった。
 しかし学園長はさほど気に留めた様子もなく、最も奥まった席の前に立つと、さっと視線で会議室を撫でた。眉一つ吊り上げていないというのに、眼光は不思議な迫力を秘め、会議室はそれだけでしんと静まり返った。流石だと思いながら、ライラック理事長は静寂の会議室を眺めやる。言葉一つ発さずに場の空気を変えてしまうなど、自分には到底不可能だ。
 普段の穏やかな笑みを消し去った学園長は、耳あたりの良い声で事実を一つずつ告げる。
 行方不明になった生徒の名は、セシリア・オヴェンステーネ。今年入学したばかりの幼学院一年生。出身は南部の都市。夏季休業を終えてグラーシアに戻ってきたものの、荷物を置くとすぐに出ていって消息を絶った。門限を過ぎても戻らず、夜になっても帰らないので、担任から学園に連絡がいったのだという。
「何故門限を過ぎてすぐに連絡しなかったのです」
 理事会役員の一人が、噛み付くように発言した。担任は、口ごもって身を小さくする。きっと、幼学院では普段から寮の門限が破られがちだったのだろう。規律とは、時が経つにつれて緩むものだ。少女が一人門限までに帰らなかったところで、帰ってきたときに叱れば良いと放っておかれたに違いなかった。
 更に言葉を荒げようとする役員には、ライラック理事長が「まあまあ」と声をかけて牽制した。今は責任を追及してもどうしようもない。まだ生徒は発見されていないのだ。議論しなくてはならないことは別にある。
 学園長は一通りの事件の経緯を述べた後で、顔を担任に向けた。
「担任。当事者がどのような生徒か、説明して頂けますか」
 会議の場では、出来るだけ本人の口から言わせた方が有効だと思ったのだろう。学園長の指示を受けると、担任は意識ここにあらずといった具合でふらりと立ち上がって、唇を震わせた。
「……セシリアは、非常に静かな子です。成績も悪くありません、門限を守らないことはよくありましたが、礼儀正しく、とても真面目で――ただ、その」
 言葉に詰まって、怯えたように学園長の顔色を伺う。学園長は、眼光を緩めて静かに頷いた。それに勇気付けられたように、担任は続けた。
「人間関係が希薄というか――孤立しがちな生徒でした。よく一人で都市を歩いていたようですから、注意はしていたのですが」
「その結果がこの事態ですか」
 矢を射るように、教授の一人が言い放つ。生徒の担任を受け持つ講師陣は同情的な目線を向ける者が多かったが、理事会役員や教授側の意見は辛辣だ。グラーシア学園は、その運営費の多くを国税に頼っている。生徒に何かあれば、国からの追求は免れないだろうし、結果として志望する子供が減れば、学園の威信は地に落ちたも同然である。学園を拠り所とする者としては、それだけは避けなければならなかった。
 そんな非難と共に、舌戦に熱気が戻りはじめる。だが、学園長の一言で、場は再び静まることとなった。
「静粛に。――担任、その生徒が面識のない人間の誘いに乗る可能性は」
「な、ないと思います。驚くほど大人びた子なのです、話ぶりなどまるで子供とは思えないほどで、見知らぬ人についていくとは、そうそう……」
 不安げに眉を潜め、首を振る。そんな担任の隣に座っていた男が、ふと口をもたげた。
「失敬。一言だけよろしいか」
 緊張した空気の中、朗々と響く声に、全員の目線が集まる。それは、学園長と共にやってきた警視院の職員であった。
「どうぞ」
 学園長の許可を得て、中年の職員は書類を片手に立ち上がる。
「生徒の行方についてですが――昨年の秋のオヴェンステーネ家放火事件は、皆様もご存知のことと思います。今回、消息を絶ったセシリア・オヴェンステーネは、当時生還した少女です」
 その場にいる者たちの緊張した面持ちを前に、職員は説明を続けた。
「当時の事件の被疑者は未だ逮捕されておりません。今回も、その件が関わっている可能性がないとはいえない」
「……なんですって?」
 教授の一人が聞き返すのを皮切りに、ひそひそと会話が飛び交った。役員の中には、椅子に背を持たれて顔をしかめている者もいる。
「これだから、成績だけで入学させるなと言っているのです」
 誰がそう言ったのかは分からない。だが確かに聞こえた声に、ライラック理事長は僅かに口元を引き締め、隣に座る学園長の横顔を伺った。
 もしも、今回の事件の原因が生徒自身に帰していたなら、役員たちはこぞって学園長の糾弾に走るだろう。入学試験の選考基準を生徒の身分や家柄でなく、生徒自身の能力のみとする点を徹底したのは、才能ある者を分け隔てなく学園へという現学園長の意向であった。それまでのグラーシア学園では、入学試験に際して、微妙な思惑も入り混じっていたのだ。家族構成や、父親の職業といった、家庭の事情が入試結果に影響したのである。そのような生徒を受け入れることで、学園に余計な問題を持ち込まないためであった。それを改革したのは現学園長自身である。今回の事件は、その点で理事会の役員たちに武器を与えかねなかった。
 学園長の周囲にいるのは、味方ばかりではないのだ。特に理事会の役員の中には、長年一人の男が納まり続けている学園長の座を虎視眈々と狙っている者もいる。そもそも、異例の若さで学園長に就任したフェレイ・ヴァレナスを妬まない人間がいない筈がないのだ。その意思が表面に現れないのは、敵意を表に出す人間が少ないからに過ぎない。人間というものは若手の新参者が上の立場にあることを、そう簡単に認められないものだ。ライラック理事長でさえ、完璧に責務を果たす年下の学園長に、時折嫉妬に近い思いを抱くことがある。それが酷く子供じみた感情と分かっているし、学園長の助けになりたいという気持ちは真実であったから、喉の奥に押し込められているというだけで。寛容でいられない人間は、少なからず存在する。
 現学園長は、先代のオーベル老の権威で守られてもいるが、当のオーベル老は現在長期旅行で海外に出てしまっている。学園長に敵対する者にとって、これ以上の好機はないだろう。本年度は奇妙な事件が立て続けに発生している。少しでも弱味を見せれば、彼らは学園長に責任を乗せて追放しようとするだろう。
 そう考えると、胃の辺りに鈍痛が走った。長年、学園長の傍で右腕として働いてきたが、ここまでの危機を感じたことがなかった。背筋が冷たくなるのを感じながら、ライラック理事長は膝の上で拳を握る。
「連絡のあった昨晩より、都市に停車する車両は全て警視院下で点検しています。隣町へ行く手段は、機関車を使う以外にありえません。通報までに乗っていなければ、まだ都市内にいるとみて良いでしょう。放火事件との関係は分かりませんが、こちらも全力で捜索に当たります」
 警視院の職員が、鬱屈した思惑が飛び交う会議室などどうでも良いという風に、はっきりと告げる。学びの都グラーシアは、学者の為に拓かれた都市である為に、他の主要な都市に比べると擁す土地は少ない。ただし、学者にありがちな秘密主義が、捜索を難しくするだろう。
 だが、警視官の瞳には烈火のような光が宿っていた。この半年間で起きた事件の多さは、彼らの矜持を傷つけてもいたのだ。曲者揃いの学びの煉獄グラーシアの治安を守ることに、都市に長く勤める彼らは彼らなりの誇りを持っているのである。しかも、今回は失踪したのがまだ十にもならない少女だ。
 なんとしてでも無事に保護して欲しい――ライラック理事長も痛切な想いは同じで、ぐっと歯を食いしばった。生徒の安否、そして学園長の立場。前者は警視官たちに託すしかないとして、後者を守るのは己の役目だ。年齢に見合わぬ落ち着きを持ち合わせた学園長は、年上の理事長をよく信頼してくれている。それに答えるのが、学者でもないのに学園にやってきた理事長の勤めだ。
 そう思いながら、ライラック理事長はもう一度ちらりと学園長の横顔を伺った。そこに、焦りのようなものは見られない。恐ろしいほどに静まり返った瞳で、彼はうごめく者どもを睥睨していた。


 ***


「ユラス!!」
「がふ!?」
 新学期の到来に気分を新たにしていた俺は、男子寮の門前で待っていたセライムに突撃されて、あえなくその手に落ちた。
「た、大変なんだ!!」
 セライムは切羽詰まった様子で、メリメリとこちらの胸倉を締め上げてくれる。大変なのは俺の呼吸である。起きたばかりで低血圧なのと相俟って、息の根が止まりそうだ。
「ちょ、セライム、首絞まってるよ! 落ち着いて」
 隣のスアローグが流石に見かねたのか、猛り狂うセライムをいなしてくれる。若干意識が明後日の方角に旅立ちかけた俺は、解放と同時に激しくむせこんだ。周囲を歩いていく生徒たちが、奇異の目を向けてくれる。
 しかし、どうしたのだろう。見上げた先では、セライムが涙ぐんだ瞳でこちらを見つめている。キルナやチノの姿はなく、ここまで一人で走ってきたのは明らかだった。青褪めた唇を震わせている様子は尋常ではない。
「一体どうしたんだい」
 未だ声が出せない俺の変わりに、スアローグが不審げに問うた。こいつもセライムの表情に浮かぶ深刻さに気付いたに違いない。
「――セシリアが」
 セライムは、怯えたように俺たちを交互に見た。今にもその場にへたり込んでしまいそうな弱々しさがセライムには全く似合わなくて、俺は背筋に嫌なものを感じた。
 そうして、悪夢のような事実が耳を伝って俺に届く。


 教室に行くと、漂う雰囲気は明らかにおかしかった。もう始業だというのに、教師が来る気配がない。噂は既に学園中に広まっているようで、生徒たちはこぞってその話題について議論を重ねていた。
「誘拐」
「ただの家出では」
「去年焼け出された」
「妙に綺麗な子で」
「父親は精神を病んでたとか」
 密やかな会話に飛び交う耳障りな憶測に、顔をしかめる。セシリアが去年の放火事件に関わっていることも会話に上っているようだった。同じく当事者である俺たちは、未成年であることも踏まえて警視院側が名前を伏せてくれていたから、教室に行っても群衆に取り巻かれることはなかったけれど――。
 鞄を抱きしめるセライムは怯えた様子だ。スアローグも、険しい顔で唇を噛んでいる。
 俺は、眩暈を感じて額に手をやった。どうして――こうも、俺と関わった連中ばかりが事件に巻き込まれるんだ。
「セライム」
 教室で待っていたキルナが、緊張した面持ちでセライムを出迎える。セライムは一報を聞いて、いてもたってもいられなくなって、俺にこのことを伝えに来たのだろう。セシリアの真実を知っているのは、俺とセライムだけなのだ。
「大丈夫よ、きっとすぐに戻るわ。第一、変な人についていくような子じゃないだろうし」
 慰めるようにキルナは言って、落ち込むセライムに寄り添う。俺は鼻から息を抜いて、自分の机に向かった。
「ん?」
 俺にあてがわれた机には、一冊の本が置かれていていた。
「おかしいな」
 口の中で呟く。記憶を手繰っても、夏季休業前に物を出したまま帰った覚えはない。
 不思議に思って、俺はどこかで見覚えのある本を手に取った。そうして、古びたそれの題名を見た瞬間、ちりっと頭の隅が焼けるのを感じた。
「――」
 ふっ、と周囲が闇に蕩ける感覚。遠くなる喧騒の中、俺は暫しそれを見つめたまま動けなかった。――この本は。
 ひきつる指先で、表紙を開く。ぱらぱらとページをめくると、小さな紙切れが挟まれている。そこに書かれた数行の文章を見て、全身から血の気が吹き飛んでいくのを感じた。
「ユラス? どうしたんだい?」
「っ!?」
 肩を飛び上がらせてしまいつつ、俺は反射的に本を閉じた。振り向くと、スアローグが怪訝そうな顔をしている。
「あ、いや――」
 俺は、慌てて古びた本を鞄に突っ込んだ。平静を取り繕おうとして、しかし顔の筋肉がうまく動いてくれない。結果的に引きつった顔をスアローグに向けることになってしまった。
 スアローグは訝しげに俺を見つめる。だが、俺が挙動不審であることなど日常茶飯事である。今回もいつものことかと、スアローグはすぐに追及の視線から俺を解放してくれた。
「……」
 自分の席に向かうスアローグを見つめながら、それでも胸を撫で下ろせない自分に気付く。心臓がどくどくと脈打ち、こめかみの辺りが冷え切っていた。周囲の喧騒が更に気分を悪くさせて、俺は俯いたまま席につく。突っ伏してしまいたかったが、そうすればセライム辺りに声をかけられるに決まっていたから、無駄に教科書や課題を出しては確認する作業を続けた。
 思考が酷く混乱している。異世界でも見る気分でちらっと教室の時計に目をやった。始業時間は過ぎているのに、担任のレイン先生はまだ来る気配がない。職員会議が長引いているのだ。
 視界に焼きついた本のタイトルが、紙切れの内容が、茨の冠のように体に食い込んで痛みとなる。
『――まさか』
 干上がった口では、ろくに声をだすこともままならない。しかし、今はそれに感謝した。喉が動けば、ぶつぶつと単語が迸ってしまいそうだ。
『――あの本、あの紙、セシリア、俺』
 代わりにそれらは脳裏で散って、悪趣味な構図を織り成していく。
 本の題目は、――炎の天使。何故その本がここにある。しかもあの紙切れを挟んだ状態で。
 それは、それは――。
 俺は、突っ伏す代わりに頭を抱え、その指に力を込めた。けれど、それで体の震えを抑えることはできなかった。




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