-紫翼-
二章:星に願いを

41.栄えながらにして廃虚



 半ば無意識に手を伸ばしたけれども、指は空を切るばかりで、俺はふとそちらに目をやった。焼き菓子が入っていた袋は、既に空になっている。ぼんやりしている内に、全て胃に収めてしまったらしい。
「あー」
 口内の物足りなさに切なくなって、ポケットから棒付き飴を取り出して咥える。休業期間にだされた課題に手をつけているのだが、なんだか一向にはかどらない。ペンを手の中で弄びながら、なんとなしに俺は居間を見渡した。
 フェレイ先生の自宅は、いつもと違って騒々しい。今日が、休業期間の最終日だからである。
「おねーちゃーん! この櫛お姉ちゃんのー!?」
「違うわ、それ多分アザリアのよ。持っていってあげて」
「き、キルナ。私の筆箱を知らないか」
「何、またなくしたの!? ああもう、最後は何処で見たのよ?」
「ええっと……」
 チノ、キルナ、セライムの三人は朝から慌しく動き回っている。女子は何かと荷物が多くて大変だと思う。俺たち男子陣の持ち物はたかが知れているので、俺は先に片付けを終えて課題に手をつけているわけである。何故最終日に課題をやっているのか、そこのところは――まあ、色々察してほしい。
 筆箱を無くしたらしいセライムが、キルナに怒られながら階上に向かう。大変だな、と思いながら俺は課題の書かれた用紙に目を落として、

「ここにあるじゃない!! あんた何処に目ぇつけて歩いてんのよーーっ!!」

「どわっ」
 階下にまでとどろく怒声が鼓膜を直撃して、飛び上がる。探し物はあっさりと見つかったらしい。セライムはしっかりしてそうに見えて、実際妙なところでドジをかますものだから、忙しいキルナの逆鱗に触れることがあるのだ。
「賑やかですねえ」
 目を剥く俺の前を、呑気に笑うフェレイ先生が茶器を片手に通り過ぎていく。この先生は相変わらず真夏だろうが長袖のローブを着て、見ているこっちを暑くさせてくれる。そういえば、フェレイ先生が半袖の服を着ているところは見たことがない。
「……実はあのローブの下には血で血を洗う戦場での傷跡が」
 黄昏を思わせる荒野。機関銃を片手に敵陣に突進していく若かりし日のフェレイ先生――。
 数秒間想像した後、慌てて首を猛烈に振った。妙なことを考えるものではない。怖すぎる。

 セライムは、しょぼくれた顔で居間にやってきた。キルナに随分と絞られたらしい。まあ、仕方ないといえば仕方ないだろうが。
 俺はそんな様子を見て、頬杖をついた。
 ――セライムは、この夏、実家に帰らなかった。
 何故、そのようにしたのかは分からない。表面を見る限り、普段と変わりなかったように思う。夏中、こいつはキルナやチノと、楽しそうに日々を過ごしていた。
 よくよく考えれば、時折こちらに物言いたげな目線を向けることがあったが、声をかけても返ってくるのは何気ない受け答えだ。不可解なものを喉に引っ掛けたまま、今日を迎えてしまった次第である。
 そんなことを考えながら眺めていると、セライムも気付いたらしく、俺の隣の席に座った。
「……本当に、さっき見たときはなかったんだ」
 何を聞かれたわけでもないのに、もぞもぞと言い訳をする。俺は軽く笑って、新しい飴の包みを開いた。
「物を無くす奴は皆そう言うと思うぞ」
 そう言ってやると、セライムは言葉に詰まって項垂れる。彷徨う視線は、机を伝って俺の手元にやられた。
「お前こそ、課題を今日やっているのか。明日提出だろう」
「言ってくれるな」
 俺にも色々あるんである。……多分おそらく。
 この状態だと、今夜は帰ってきたスアローグにお小言を頂戴する羽目になるかもしれない。皮肉屋だが几帳面なスアローグは、いつも課題をしっかりと仕上げて持ってくるのだ。
「近代史は苦手なんだ」
 飴を口の中で弄びながら、反論するように呟く。そういえば、いつだったかレンデバーとゲームをしたときも、最近の大総統名がでてこなかったっけか。俺の持つ知識には、得意不得意がある。今のところ、それが生活に支障をきたすわけでもないから、あまり気にしていないんだけど。

 でも、なんとなく不安になることがある。
 ここ最近、小さな棘でも刺さったかのように、微妙な不快感が付きまとっている。心を蝕むほどではない、しかし時折悪寒に苛まれるような、悪い予感だ。これを感じるようになったのは、終業式の日に倒れてからだろうか。
 フェレイ先生の自宅の居間を見渡す。そういえば、先生の家に厄介になるのはこれで最後だ。俺たちは、次の春に学園を卒業してそれぞれの道を分かつ。都市の研究者になれば、どこかの下宿所で年中過ごすことになるだろうし、外に働きに出る奴もでるだろう。今までのように、フェレイ先生の家で無邪気に休暇を楽しむことはなくなるのだ。
『だから――かな』
 小さくなっていく飴を転がしながら、俺はそっと目をそばめた。二度と会えなくなるわけではないが、この暮らしがなくなってしまうのだと思うと、寂しかった。
 この胸は、やがて訪れる変移の時を察知して、疼いているんだろうか。
「どうしたんだ?」
「んー」
 セライムが、不思議そうにこちらの顔を覗き込んでくる。俺は、額に掌を当てて唸った。
「青少年にありがちな悩みに打ちひしがれてナイーブになってる格好いい俺様」
「何を言っているんだ? 大丈夫か?」
 真顔で返してくれるセライムだが、その言葉がぐっさり心に突き刺さって本当に打ちひしがれる俺である。
 セライムは澄んだ青い双眸で、何か言いたそうに俺を見つめていた。しかしそれを見返す前に逸らされてしまって、俺は問いかける機会を失う。
 こいつは、学園を卒業したら実家に戻るのだろう。いつか夕暮れの中で言っていたことを思い出す。昔住んでいた家の方が好きだったこと。けれど逃げてはいけないとも――深い色彩の瞳に、悲壮な決意を滲ませていた。
 ただ、本当にそれでいいのかと思う。いや、セライムの決めたことだから俺が口をだしていいことではないのだろうけれど。でも、そこまでして立ち向かう必要があるんだろうか。――あの嵐の日、あんなにぼろぼろになっていたのに。
 いや――それよりも、考えるべきは俺の進路だ。授業が始まれば、すぐに進路の話もでてくる。都市に残って研究者となるか、アナトール先輩のように外の都市で働くか、決めなくてはいけない。
 相変わらず考えることは掃いて捨てるほどあるものである。げんなりして、俺は机に突っ伏した。
 明日からは、グラーシア学園高等院での最後の学期が始まる。


 ***


 陽光の降り注ぐそこは、栄えながらにして廃虚。
 セシリア・オヴェンステーネが半年ほどの滞在を経てこの都市に抱いたのは、そんな感想であった。
 生徒たちを運んできた機関車が、背後から旅立っていく。久々に踏みしめたグラーシアの地で、セシリアは皮肉げに口元を歪めた。これからまた、この牢獄で戦わねばならないのだ。
 しかし実家にいるよりはまだ気楽かとも思う。祖父母は、行方知れずだった娘のことを大層心配していた。だが、孫だといって突然現れた自分には戸惑いも多かったのだろう。待っていたのは、腫れ物のような扱いだった。それもそのはずだ。いびつな体は、気味が悪いほどに整いすぎている。この人形のような顔が人に与えるのは、優艶ではなく畏怖。あまりに完成されすぎたものは、この世にあってはいけないのだろう。自然と彼らは、自分から目を逸らす。まるで、世界にセシリアがあることを否定するように。
 いびつな楽園を自ら否定したセシリアである。辿り着く先に絶望しかないことなど、百も承知であった。だからあのとき、自分の存在も歪んだ彼と共に消えてしまえばいいと思ったのだ。
 しかしそれは許されなかった。怒りを持ってして、こちら側へ引っ張り込んだ紫の少年。慰めを持ってして、こちら側へ手を差し伸べた金髪の少女。彼らによって、再び眩い世界へと足を踏み入れることとなった。安寧の死ではなく、刻苦を伴う生の道に。
 寮に荷物を置くと、セシリアは黙って再び黄昏の都市へと繰り出した。人のざわめきが耳にこびりついて痛かったからだ。一人でいる方が気楽だった。
『昔はこうではなかった』
 夏の終わりを告げるような風に吹かれながら、白亜の都市を歩く。昔――そう、それは気の遠くなるほどの過去。あの頃はもっと、人が好きだった気がする。むしろ、一人になることが恐ろしかった。人に好奇の目で見られないことこそが絶望だと思っていた。
 しかし、何故だろう。あの頃の記憶は、時が経つごとに頼りないものになっていく。このような体だからだろうか――既にセシリアは、あまり遠い過去のことを思い出せない。故郷に行って、一番恐ろしかったのは、道が分からないことだった。過去の知り合いを見て、誰だか分からないことも。
 代わりに心に焼き付いているのは、狂ってしまった学者の、痩せた指先や、愛おしげな眼差しや、唇の形。二人だけの世界。甘い毒に浸されて、何も考えずにいれば良かった。
 そうして今は、こんなにも孤独であることが心地良い。廃墟のような都市で、誰にも見られずに風に吹かれる時間が、心に深い安らぎをもたらすのだ。
『あの人も、こうだったのだろうか』
 足元から伸びる長い影を眺めて、セシリアは考えこんだ。
 彼はいびつであるが故に、他人と反目し、自分の心に逃げ込んだ。けれど、心は慰めを求めて彷徨い続けた。そうして彼は、文字の世界に没頭する道を選んだのだ。結局心は壊れてしまったけれども。
 セシリアは、ふと痛む胸に手をやる。
 生きることが、酷く辛い。自分の体がまるで木の葉のようになったように弄ばれる。何故だろう。どうしてそのように思うのだろう。この体のせいだろうか。心が弱いからだろうか。他の人間たちは、あんなに笑って生きている。なのにどうして、この胸は濁ったままなのか。
 あの人のように心を壊してしまえば、もうそのような苦しみも感じないのだろう。しかし、それが出来るまでに磨耗しているわけではなくて。
 ただ、ふいに悲しくなるのだ。幸福な日々が、いびつな自分には二度と戻ってこないような気がして。

 夕暮れの都市は、人が少なかった。今年は、いつもに増して学術都市に不穏な事件が多い。先日も、都市のどこかで凶悪犯が逮捕されたそうだ。
 だからだろうか。都市は、酷い嵐が通り過ぎるのを待つように、静寂に包まれている。
 紫の少年はどうしているだろうかと、セシリアはぼんやりと考えた。容貌だけでも目立つというのに、その奇行の多さで、彼の名は学園中に広まっている。学園長が保護者であるというのも作用しているだろう。
 そして不思議に思うのは彼に纏わる謎の多さだ。彼は、己の出身や学園に来る前のことを全く話さない。学園長が友人に頼まれて預かった子だという噂だが、セシリアには彼の家族という存在が想像できなかった。
 彼は楽しげな日常に身をおいている。親しい友人もいるようだ。底が抜けたように笑う様子は、どこにでもいる少年のもので。
 なのに、彼はふと――感情という感情が剥落した顔で、黙り込んでいる。世界を鏡のように瞳に映して。己のいる場所を、不思議そうに眺めている。
 彼は、石のことを知っているようだった。壊れた楽園にいたあの人の心の最後の一片を砕いた、あの呪わしい石。それを見たとき、彼は酷く怯え、不安定になっていたように思う。心の底から石の存在を嫌悪し、否定していたようだった。
 何を知っていたのだろう。しかし、セシリアはそれを彼に聞くのが怖かった。金髪の少女ならば、気兼ねなく話すことができる。だが、――彼の透徹な眼差しは、少し、見るのが恐ろしい。
 淡い亜麻色の髪が、夕方の風に弄ばれる。そろそろ戻らないと、幼学院の門限に間に合わない。
 あそこに戻るのか、と憂鬱に思いながら、セシリアは重たい足を帰路に向けた。

 白亜の都市に、一陣の風が吹き抜ける。

 夕暮れ時、眩いほどの茜に染まった道に、影は長く散乱する。まるで一日の最後の輝きを放つ陽光を惜しむように。
「――?」
 嫌な予感が胸の奥で疼いて、セシリアは長い睫毛に縁取られた瞳を瞬いた。まだ夏だというのに、背筋が悪寒にひきつっていた。思わず自分の腕で自分を抱くようにして、セシリアは周囲を見渡して――。
 そうして、道の先に、細い人影を――見た。
 生の気配のない、幻惑的な光景だった。夕日の色は視界を焼くようで、一層黒い影が印象付けられる。
 蛇に睨まれたように、足が動かなかった。美しい瞳を見開かせたまま、セシリアはそれと暫し見詰め合った。
 茜の光を吸い込んで、整った髪がべっこう色に輝く。逆光であったから、目をこらさねば彼の表情は見えなかった。しかし、彼の顔を注視したことを、セシリアは後悔した。
 暗い笑みを湛えた顔だった。瞳に踊るは捕食者の光。体が芯から凍りつくのを感じて、セシリアは一歩跡ずさる。
「セシリア・オヴェンステーネ――だね?」
 名を呼ばれて、恐怖が現実のものとなっていくのを実感した。目の前で、獣が牙を剥いてこちらを睨みつけている。じわじわと指先が冷たくなっていくのを感じながら、セシリアは、僅かな抵抗を試みる。踵を返して、全力で駆け出したのだ。それが出来る程度には、幼い少女は容姿に見合わぬ落ち着きを持っていた。
 しかし、背を見せたことで恐怖はより一層増した。今にも影が背後に追いついているのではないかと思うと、脳裏から冷たい液体が流れ出すかのよう。だが振り返ることは許されない。今は、全てを逃げることに費やさねばいけなかった。
 ちかちかと瞬いて痛みを覚える思考は、右に左に逃げ道を求める。運良く、すぐ先に裏道への曲がり角を見つけた。息を切らせながらそちらに向かう。建物の塀が長い影を落とす、薄暗い通りだった。そこを抜けてしまえば、大通りに出るはずだ。大通りなら、誰かしら歩いているだろう。助けを求めることが出来るはずだ。
 しかし、幼い少女が角を曲がったとき、小さな体は何かに衝突した。曲がった先に、障害物があったのだ。不思議な感触に慌てて顔をあげようとして――セシリアの瞳が、驚愕に見開かれた。
 そこには、巨岩のような男が立っていた。盛り上がった筋肉に覆われた肢体が立ちはだかる様はまるで悪夢のよう。深い影を落とした顔は、表情もなくこちらを見下ろしている。
「――っ」
 全身を粟立たせて後ずさろうとしたセシリアは、ぞっとした。巌のような腕が、おぞましい速さでセシリアの自由を奪ったのだ。いけない、と思ったときには既に、口元に布の感触を感じていた。首を振って逃げようとしても、頭をがっちりと押さえ込まれて抗えない。足をばたつかせて腕をひっかくが、びくともしなかった。獅子のような男に比べればセシリアなど子猫も等しい。布からは、甘ったるい奇妙な匂いがした。それが危険なものであると反射的に悟ったセシリアは、息を深く吸わないように口を固く結ぼうとする。
 だが、それまでに全力で走ってしまったのがいけなかった。荒ぶる呼気は酸素を求めて喘ぎ、毒の香りがしようが構わず空気を吸い込む。どろりと思考が溶けて不安定なものになり、セシリアは虚空に向けて手を伸ばした。
 助けを請う先にいたのは、何の影だったか。
 それを自覚するより前に、少女の意識は闇に落ちた。

 巨漢は、少女を醒めた目で見下ろしていた。演技を終えた人形のように、だらりと全身を弛緩させた少女は、羽根のように軽い。彼は、彼女の口元に薬品を染ませた布をあてがったまま、その布の先端を頭に回して結び、固定した。持っていた麻袋に小さな体を押し込めるまで、数秒とかからない。図体に似合わぬ鮮やかな手際に、一部始終を眺めていた細身の男は満足げに笑った。
「……もう、後には引けませんよ」
 軽々と麻袋を背負ったグレイヘイズが、確認するように尋ねる。レンデバーは、唇を三日月の形にしたまま、無人の通りに目をやる。
「材料は揃った。あとはお料理をするだけ」
 歌うように軽やかな声は、同時に染み入るように冷たい。
 グレイヘイズは愉しげな音律を聞きながら、彼の横顔を見た。酷薄な笑みを浮かべた、その横顔を。




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