-紫翼-
二章:星に願いを

40.山の向こう



 シャク、と小気味良い音をたててかぶりつくと、瑞々しい果汁が口一杯に広がる。レンデバーは背丈ほどに積まれたたっぷりの藁束をソファー代わりに、林檎を齧りながら優雅な旅路を満喫していた。
 宙に投げ出した足の下では、砂利道がゆったりと流れていく。それもそのはず、彼は護衛兼秘書のグレイヘイズと共に、古めかしい貨物用四輪駆動車に揺られているのだ。
 フローリエム大陸の南に位置する緑の大地、イザナンフィ大陸。広大で昼尚暗い森を擁す大陸の大部分は、古くからフローリエム大陸に栄えた国の植民地であった。そのため北方では文明が進み、今や観光地として親しみ深い土地となっている。ただし南方に行くに従って、緑の大陸は森に息づく少数民族の勢力圏へと姿を変えるのであった。
 レンデバーたちの目的地がまだ北方の領域にあったことから、グレイヘイズはこっそり胸を撫で下ろしていた。いくら仕事とはいえ、魔物の生息地であることでも有名な南部には足を踏み入れたくはない。
 石を踏んだからか、一際大きく車体が揺れた。積荷である藁束と同時に、最後部に腰掛ける二人の体も僅かに傾く。どこまでも日差しが穏やかな山路だった。鳥の鳴き声と無骨なエンジン音は、重なると何故だか長閑で穏やかな音色になるのだ。
「あーあ、これで隣に座ってるのが可愛い女の子だったら最高なのにね」
「それはお互い様ですよ、レンデバー」
 眉をぴくりとも動かさずに返してくる護衛に、レンデバーは頬を膨らませて林檎を咀嚼した。
「アンタたち、リーナディアからいらしたんかね?」
 ふと背後から声がして、レンデバーが振り向く。貨物用のため、扉すらない運転手席では太った中年の男が煙草をふかしながらハンドルを握っている。
「はーい、お仕事で来ました」
 無邪気に答えるレンデバーに、運転手は肩を揺らして笑った。
「この辺も観光地開発するのかい? できるならパーっとやっちまっとくれよ、こんな田舎じゃ人が出てくばかりなんだ」
 どうやら、レンデバーたちを観光業者だと思っているらしい。そんな運転手の言葉を聴きながら、レンデバーは周囲に意識をやった。
 山地であるが故に上り下りの激しい道は、今だ敷石舗装がされておらず、交通の便が悪い。レンデバーたちも、町を散々うろついてやっとこの辺りまで行くという車を見つけたくらいなのだ。無論、必死で探してきたのはグレイヘイズで、レンデバーはのんびり日陰で待っていただけなのだが。
 周囲の林は枝葉で天蓋を作り、今にも道までせり出してきそうだ。しかも、こんなに町から離れているのでは、夜になれば人家の灯りすら見えなくなるだろう。崖のようになった場所から雄大な森を見下ろしながら、レンデバーは目を細めた。良くも悪くも田舎の光景だ。
「随分と標高が高いのですね」
 グレイヘイズが腕を組んだまま呟く。進行方向と逆側を向いているために、眼下に広がる景色が長い間見えるのだ。
「アンタたちが行く村はそうでもないよ。山と山の境目にあるからね――ああ、もう着くよ」
 ごとん、と車体が揺れて、道は再び緑のトンネルの中へ。長い一本道を雑木林を横目に抜ければ、ぱっと網膜を陽光が刺した。森を抜けたのだ。
「わあ」
 レンデバーが、右手に広がる景色に目を輝かせる。
「これは」
 普段から表情が顔にでないグレイヘイズもまた、珍しく感嘆したように喉を唸らせた。

 彼らの眼前に広がっていたのは、広大な耕作地帯であった。山間に作られているため、段になったそれらが広い面積を埋め尽くしている。夏の盛りを歌うように稲穂は輝かしい緑をさらし、ぽつぽつと見える木々や建物は、遠くにあるためか、精巧な模型を見ているかのようだ。
 二人の反応を面白がるように、運転手はくつくつと笑った。
「そんなに珍しいもんかい? 畑以外はなーんにもない、つまらねえ村だぜ」
「人はどれくらい住んでるの?」
「余所者が入ってくるとすぐ分かるくらいだよ。しかも爺婆ばっかでさあ」
「ヴァレナスって家の話は知ってる?」
「ヴァレナス?」
 互いに背を向け合ったまま、藁ごしに会話をする。運転手は暫く首を捻っていたが、そうそうと思い出したように声音を豊かにした。
「懐かしい名前だなあオイ。もう何十年も前から誰も住んでねえぜ、あそこ」
 縁者の知り合いなのかい、と聞かれて、レンデバーは明るく肯定する。
「フェレイ・ヴァレナスって人、知ってる?」
「ああ!」
 思い出が爆発したように、運転手は大声をあげてハンドルを叩いた。
「いたいた、そんなやつ――つっても、俺がまだガキの頃だけどよ。一緒に遊んだこともあるぜ。なんだっけ、どっかのなんとかって学校に行ったっきり、戻ってこなかったがな」
 最後は声を寂しげにして、運転手は外に向けて煙草の灰を払う。
「若い奴は皆、都会を夢見て行っちまう。なあ、あいつ、今も元気でやってるのか」
 レンデバーとグレイヘイズは、顔を見合わせた。


 ***


 ヴァレナス家の鍵は多分隣の家の婆さんが持ってるよ、と運転手は親切に場所まで教えてくれた。レンデバーが自分たちはフェレイ・ヴァレナスの知り合いで、家の様子を見てくるように言われたのだと言葉巧みに説明したからでもあったのだが。

 レンデバーは、畑の合間の砂利道を歩いていた。そこは見渡す限りの緑の楽園だ。道の脇を用水路が平行して通っていく。畑の遠い向こうでは深い林に覆われた山の稜線が、緩急激しく波打つ。虫たちが騒々しく鳴いていたが、余計な音のしない、静かな村であった。
「――静養地にはもってこいかな」
 呟くが、返事はない。グレイヘイズには待つように言ってあり、今の彼の隣を歩く者は誰もいないからだ。グレイヘイズは有能な男であるが、その厳しい風体から人との交渉には向かない。彼の威圧感で証言を吐かせるのは、最後の手段なのである。

「なんだい、あんた」
 尋ねた家の畑で仕事をしていたのは、背筋が折れ曲がった痩躯の老女であった。真っ白の髪を布で押さえ、前掛けを泥で汚す彼女は、どうやら雑草をむしっていたようだ。しわくちゃの顔が、警戒の色を宿している。
 老女は、首だけ回してレンデバーを検分するように無遠慮な視線を向ける。いかにも訝しげな様子に、しかしレンデバーはにっこりと笑ってみせた。
「こんにちは。ヴァレナスという家のことで聞きたいことがあるのですが」
 老女は初め、その言葉を胡散臭そうに聴いていた。だがヴァレナスという単語に思い当たるところがあったのか、皺が刻まれた目元に驚きの色を宿す。
「あんた、何者だい?」
 背を向けて、老婆は再び畑の雑草をむしり始める。
「フェレイ・ヴァレナスという人の遣いで来たんです――手伝いましょう」
 レンデバーは、袖をまくって畑に入った。老婆は身構えたのだが、腰ほどまで伸びた野菜畑の中で屈んだ外国人は、ふっくらとした土を眺めて、どれを摘めばいいのだという風に首を傾げている。しかし、老女の手際を見てすぐに要領を掴んだらしく、苦労の見えない繊細な指先を土で汚しながら手伝い始めた。
 老女はやりにくそうに顔をしかめたが、何も言わなかった。山間の夏は、容赦ない陽光が照りつける。老女は何度も手ぬぐいで汗を拭きながら作業せねばならず、外国人も、時折額を腕で拭うのであった。
「……キリカの息子だね、そいつは」
 不意に、ぼそりと老女は呟く。野菜の太い幹の脇に点々と見える緑の芽を摘み取りながら、レンデバーは琥珀色の瞳を瞬かせた。老女は手を休めずに続けた。
「リーナディアの大きな学校に行ったんだろう? あれは今、どこで何をやってるんだい」
 しわがれた声は、責めるような音色を含んでいた。レンデバーは、静かな声で返す。
「ある学校の長に。名士として、地元からも愛されています」
「あれがかい」
 は、と軽蔑するように、老女は息を吐き出した。そうして苦悩を眉間に刻んで首を振る。
「いくら立派になろうとね、家族を省みない奴には天罰が下るよ。あの恥知らず。可愛そうに、キリカは最後まで一人だった」
「――」
 不思議そうな顔をしているレンデバーを、老女はぎろっと睨めつけた。
「あんた、知らないのかい」
「ご家族の話までは伺っていません。ただ早くに亡くなったとしか」
「……」
 深い皺を顔に刻んだ老女は、暫くの沈黙の後、尖った顎で奥をしゃくった。
「ほら、手が止まってるよ。次はあっちをやっておくれ。雑草はね、こうしてる間にも育ってるんだ、見逃したらただじゃおかないよ」
 それを聞いたレンデバーは、一度猫のような瞳を丸くしたが、笑って頷く。上等そうな靴に泥がついていることなど、まるで気にしていないようだった。
「僕は生まれたときにもう祖母がいなかったんです。いたらこんな感じだったのかな」
 ぽつりと呟いて、老女の指した方向に向かう。ふと虫たちの鳴き声が一層大きくなった気がして、老女は糸のような目を更に細めた。

「彼の両親は、若い内からここに越してきたと聞きましたが」
「……そうさ。びっくりしたものだよ、突然住み着き始めてね」
 レンデバーは、再び腰を下ろしたところで雑草を摘み取り始めた。老女は、一つ一つの光景を思い出すように、ゆったりと語る。
「まだ子供みたいな顔をした夫婦は、まるでママゴトでもしてるみたいだった。あの二人は真面目だったんだろうけどね」
 グラーシア学園を卒業した年にやってきたのなら二人はまだ十八歳だ。そう思われてもおかしくはないだろう。実家とも疎遠だったという。駆け落ちだったのかもしれない。
「旦那の方は無口で何考えてるんだか分かんなかったけどね、でもキリカはいい子だったよ。なんていうんだろうね、あの子の傍にいるとホッとするんだ。物静かで、たおやかな娘だった」
 ふと、琥珀色の瞳に一層の深みがさす。脳裏に描き出される女性と、写真で見た穏やかな学園長の佇まいが、ぶれて重なる。
「芯の強い子でねえ……。なんでこんな田舎にやってきたんだろうね。アタシは同い年だったからさ、仲が良かったんだよ。息子が生まれたときなんか、ありったけのご馳走を作って持っていったものさ」
 遠い過去のことが次々と思い出されるのか、老女は次第に饒舌になる。
「普通の家族だったよ。旦那は書き物で生計を立ててたって言ってたっけ。キリカは畑仕事に精をだしてた。――息子も同じさ。よく年上の子に本を読んでもらってた」
 さわさわと木々が揺れて、畑に育つ枝葉がちらちらと煌きを放つ。相槌を打ちながら聞いていたレンデバーに、老女は突然、声を小さくした。
「でもね、ある日、突然旦那が亡くなった」
 老女の言葉と同時に、グレイヘイズの声と、資料の内容がレンデバーの脳裏を駆け巡る。父親の死――まだフェレイ・ヴァレナスが七歳だった頃だ。そして間をおかずに、彼は聖なる学び舎へと旅立つ。
「息子も、海の向こうの学校に行くって言って村を出て行った。――そうやって一人になったキリカは、少しおかしくなっちまった」
 レンデバーは、手を止めて顔をあげた。老女は、悲しげに視線を下げたままだ。
「表面は変わらなかったけどね、親友だったアタシには分かったよ。外に出なくなって、みるみるやつれていって。いつだって、山の向こうを寂しそうに眺めてた。何よりも、全く笑わなくなっちまったんだ」
 当たり前だよ――と、老女はかぶりを振る。
「なのに息子は帰ってこないんだ。キリカの唯一の慰めだったろうに。そりゃ都会は楽しかったろうよ。でも――でもさ」
 声に嗚咽が混じって、震える。
「あれじゃ、キリカが可哀想だよ」
「……」
 レンデバーは黙ってそれを見つめていた。そうして、ゆっくりと立ち上がって、老女の肩に手をかけた。
「大丈夫ですか」
 唇から零れ落ちる言葉には、不思議といつもの響きがない。狡猾な光はなく、表情はおぼろげな影に落ちている。
 老女は、喉の奥でああと呻くと、鼻をすすって、手ぬぐいで顔を拭った。
「……キリカは一人で死んでいた。何日も姿が見えなくてさ、行ってみたら、寝台の上で眠るように亡くなっていたよ」
「ご病気、ですか」
「わからない。もう――わからないよ」
 日差しがじりじりと首筋を刺激する。すすり泣くような老女の声は、虫たちの鳴き声にかき消されて弱々しい。
 レンデバーは、そっと老女に尋ねた。
「葬儀に、彼は来たんですか」
「……村の奴が手紙を出したらしいから知ってはいたろう。キリカと顔の良く似た若者を見たという奴もいたけど、本当だか。少なくともアタシは見なかった。キリカは一人で逝ってしまった」
「僕は、彼に頼まれてきたんです。家の様子を見てくるようにと」
 老女は、嫌なものに触れたように顔をしかめ、もう一度顔を拭った。
「だからここを尋ねたか。いいよ、鍵を持っておいき。あんたが泥棒だろうが、あの家には盗むようなものもないだろうから――ただ、」
 老女はよっこらしょ、と重たげに立ち上がって、腰を叩きながら母屋へと歩き出す。
「もしもあんたが本当に、キリカの息子の知り合いだったら」
 虫と風の音しかしない、静かな村で、彼女は僅かに振り向いて寂しげに告げた。

「伝えておくれ。――たまには母の墓参りに戻ってこいと。キリカに死んでまで寂しい想いをさせるな、ってさ」


 ***


 グレイヘイズは、かの学園長の生家を見上げて、少々意外な気持ちにかられた。豪奢とはいわずとも、もっと大きな家を予想していたのだ。
 土地の有り余っている山奥の農村で、その家は木々に隠れるようにして建っていた。主人を無くして、周囲には草が生え放題になり、壁に蔦が這っている。小さな小さな、絵本に出てくるような木造の家屋だった。
 周囲を見回すと、倉庫のような建物が家の影に見える。そちらは独立した建物のようだった。
「……レンデバー?」
 グレイヘイズは、隣の主人に声をかける。煙草をふかしながら戻ってきたレンデバーは、何処か様子がおかしかった。明度の高い琥珀色の瞳で、レンデバーは小さく口を動かした。
「一体何が人の心を狂わせるんだろうね?」
「はい?」
「ううん、なんでもない」
 レンデバーは、長い足で歩いていって、錆付いた家の鍵を開けた。そうして、その鍵をグレイヘイズに放る。
「グレイヘイズはあっちの建物見てきて」
「分かりました」
 温度のない鷹揚な指示に、会釈して返す。こういうときのレンデバーには、何を言っても無駄だ。グレイヘイズの主人は普段は表情豊かなくせに、時折こういった態度を見せるときがあった。凍えるような冷え切った表情に、醒めた光を彩らせて。――何を考えているのかは、長い付き合いになる彼にも分からない。主人が何者であるか、グレイヘイズは知っているつもりだが、それは言葉で表された断片的なものでしかないのだ。主人が心に住まわす獰猛な獣の存在を感じることはあったが、何故それを住まわすに至ったのか、グレイヘイズは知らない。
 ――グレイヘイズ、お前にはもう一つ、大切な用命がある。
 彼に仕え始めたとき、ある男に耳打ちされたのを思い出す。

 ――奴のある程度の悪ふざけは目を瞑っておけ。あれは病気のようなものだから。
 ――だが、もしもお前の目から見て危ないと思ったら。

 ――迷わず奴を撃ち殺せ。

 そう言われた事実は、きっとレンデバーも知っているのだろう。元より、基本的なことは一人でできる男だ。なのに、護衛兼秘書という名目で元軍人のはみ出し者をつけられた理由を、彼が察せないわけがない。
 グレイヘイズは、だからこそ何も知るまいと思っていた。多分、レンデバーの心に潜む歪みを理解してしまえば、自分は彼を撃てなくなる。そんな日が来ないように祈るのは勿論のことだったが。だからグレイヘイズは、神経を注いで世話を見るのであった。自分の主人の歪みが、決定的なものにならないように。
 鍵を弄びながら、薄く笑う。理解しないことは、楽なことなのだ。そして、卑怯なことであった。逃げ道を作っているのと変わりない。いざとなったときに、知らなかった、と嘆けば済んでしまうのだから。
 このようなことを知っていても、なお目を背ける自分のあり方もまた、いびつだろうか。
 グレイヘイズは、唇を引き結んだまま倉庫の扉を開く。


 踏めばひび割れるほどに老朽化した床や、埃の積もった家具。時の流れに置き去りにされた家からは、予想以上の物品ばかりが見つかった。
「レンデバー」
 鍵を受け取ったときの何倍も強張った表情で、グレイヘイズは主人に証拠品を差し出した。まだ頭は混乱していて、これがどのように真実と繋がっているのか、考える必要はあったけれども。
「……まさか、ここまで残っているとは思いませんでした」
 レンデバーは黴臭い家の窓辺で、薄く大ぶりな本に目を落としている。グレイヘイズは怪訝そうに片眉を吊り上げた。
「それは絵本ですか?」
「うん」
 主人は顔をあげずに、黄ばんだページをめくる。そうして、彼は唇を歪めて笑った。
「――なるほど、ね」
 夕暮れが近づいた家屋に、古びた窓からぼやけた光が差し込んで、部屋を茜色に染めていく。
 鮮やかなべっこう色の髪も、燃えるような輝きを宿していた。そして、彼の瞳もまた。

「これで、紫の少年と聖なる学び舎の学園長が繋がったわけだ」
 ぱたん、と閉められた絵本は埃を巻き上がらせる。まるで、見つけて貰えたことを歓喜するように。




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