-紫翼-
二章:星に願いを

39.瑕



 腕を引かれながら、一体この少年は何者なのだとドミニクは考えた。
 少年――ティティルは茶色の巻き毛を軽やかに遊ばせながら、ぐいぐいと進んでいく。人通りの全くない裏道なのに、恐れも迷いもなく。
「お、おい」
 何処まで行くのか不安で、とうとうドミニクは自分から声をかけた。
「うん?」
「何処に行くんだ」
「もうちょっと先」
 言うなりすぐ顔を前に戻してしまうティティルに、不信感が喉元まで競りあがる。本当は迷って適当に歩いているだけなのではないか。
 そんな疑いは、ドミニクの歩を重くした。腕を引っ張っていたティティルもすぐに気付いたらしく、気を損ねた様子で振り向く。
「なんだよ、どうした」
「……」
 ドミニクは憮然とした顔でそれを見返したが、言葉が出てこなかった。こんなに不躾な感情を押し付けられた経験がなかったからだ。今までは、大人たちの視線の中でたゆたっていれば良かった。何も望まれたことはなかった。与えられることはなかったが、奪われることもなかった。ただ、無が目の前に広がっていただけなのに。
 俯いて黙り込んでいるドミニクに、ティティルは痺れをきらしたらしい。鼻から息を抜くと、ポケットに手を突っ込んで、それを差し出した。
「ほら、腹減ったなら食えよ」
「……?」
 小さな掌に乗った、色彩豊かな包み紙にくるまれたそれを見つめて、ドミニクは怪訝そうな顔をした。そのようなものを見たことがなかったのだ。
「最近兄ちゃんに貰ってないから、小遣いで買ったんだぞ。ほら、遠慮するなって」
「えっ」
 腕を捕まえられて、固い感触のそれを無理矢理渡される。ティティルがもう一つの包みを開いて口に入れたところで、それが食べ物なのだと初めて気付いた。
「そら、行くぞ」
 それで会話は終わりと言わんばかりに、再び腕を引っ張られる。ドミニクは慌てて片手にあるものをポケットにしまって歩き出した。
「すぐそこなんだから」
 ティティルは、子供にしか通れないような建物と建物の隙間に入っていった。


 そこは僅かに饐えた匂いの漂う、忘れ去られた場所だった。
 両隣の建物は共に空き家らしい。巨人のように背を伸ばす黒ずんだ家屋は、そこから陽光をすっかり遮ってしまっている。
「こっち」
 ティティルはそう言うなり、予想外の行動にでた。突然屈み込んだかと思うと、足元にぽっかりと開いていた塀の穴に潜ってしまったのだ。あっという間に頭が入り、もがくように体をねじ込んで、ティティルは塀の向こうに行ってしまった。
 それを信じられない気持ちで見つめていたドミニクだったが、穴の向こうからティティルが首だけ出してきたのを見て、思わず声をあげて後ずさった。
「何やってんだよ、早く来いって。あ、でも静かにな」
 ドミニクは呆気にとられて立ち尽くすしかない。子供一人がやっと通れるほどの穴は、老朽化した塀だけあって、じめじめとしていて清潔には程遠い。
「……」
 頬が強張るのを感じながら、恐る恐るドミニクは膝を折る。地に指を添えると、水っぽい砂が触れて肌が粟立った。
「早くしろったら」
 塀の向こうで急かすような声。むっとして、ドミニクは反射的に穴に体を押し込んだ。あの少年に軽蔑されてはいけない、そんな思考が頭を真っ白にさせていた。
 朽ちた塀からは煉瓦の角が出ていて、狭いそこを通るのは苦痛を伴った。しかも、顔は地面すれすれだ。鼻先に土くれがついて、嗅いだことのない匂いが鼻腔を刺激する。雨の日の軒先のような、妙な匂いだった。
「おい、大丈夫かよ」
 顔を真っ赤にさせて体をよじらせるドミニクに、ティティルは手を貸してやった。といっても、遠慮なしに服を引っ張るものだから、ドミニクにとってはたまったものではなかった。
「い、痛い! やめろっ」
「ええ? ああ悪ぃ」
 反省の色などまるで見えないことに腹が立つ。しかし無遠慮に引っ張ってくれたことでドミニクの体はどうにか塀をすり抜けて、柔らかい土に手をつくに至っていた。顔をしかめて手の土を払うが、濡れたそれは両手を不快な色に染めるままだった。膝は擦りむいてしまったし、爪の間にも土が入って気持ち悪い。帰りもこの穴を通らなければいけないのだと思うと、うんざりした。
 ――何をしているのだ。
 こんなところをシェンナに見つかったら、怒られるどころでは済まない。自分たちは、人に見られてはいけない存在だ。
 なのに、心は叫ぶ。もっと知りたいと。こんなところまで来ただけで、ドミニクの知らないことは星の数ほどあった。色彩豊かな包み紙に包まれた食べ物。濡れた土の感触。体に食い込む煉瓦の痛みと――。
「よし、こっちだ」
 ティティルは歯を見せて笑うと、生まれたての小鹿のように走っていく。ドミニクは周囲を見渡してぎょっとした。
 それは、鬱蒼という言葉がぴったり当てはまるような奇妙な形の植物が茂る裏庭であった。色の濃い葉や蔦が、縦横無尽に走っている。何度かティティルが踏みしめたからだろうか、やっと人が通れるような道らしきものがあるが、それでも足を踏み出すのに勇気がいる光景であった。
 むっとした匂いを湛える空気は水気を含んで重たい。おそらく、この建物は長い間廃屋であったのだろう。それと同時に、この裏庭も人の手を離れて自然に侵食されていったのだ。学びの都グラーシアであることを忘れるような密林に、ドミニクは帰りたい、と初めて心の中で呟いた。
 だが、そう思っている間にティティルの姿は半分見えなくなりかけている。ここにいるのは嫌だったが、一人でいるのはその何倍も嫌だった。自然と足はティティルを追う。
 そうすることで、ドミニクは石畳のありがたさを生まれて初めて痛感するのだった。ばりばりと草木を踏みしだき、体にまとわりついてくる草を腕でのけながらの行軍は、苦行以外の何物でもなかった。
 安定しない足元と木々を揺らすたびにでてくる気持ち悪い羽虫に辟易しながらティティルの後姿を追いかけていくと、不意に視界が開ける。
「――?」
 突然風が頬を撫でていくのを感じて、ドミニクは目を瞬いた。眩しいと思ったら、日差しが全身を包みこんでいることに気付く。
「こっちこっち」
 笑うティティルがいる場所は、小さな空き地となっていた。そこも廃屋の一角であったのだが、ここまでのような草木の侵食を免れている。高い塀に囲まれた、静かな場所であった。乾燥した足元に感謝しながら、ドミニクは何歩かそこに踏み出す。空き地の真ん中には、昔の家の主人が午後の茶会を楽しんだに違いなかろう、壊れた木製のテーブルと椅子が忘れられたように打ち捨ててあった。
 ティティルは、ぴんと立てた人差し指を口元に当てて、静かにしろ、と指示した。そうして奥の茂みの前でポケットから何かを取り出して、地面に置く。
 何歩か下がって、ティティルは暫く何かを待つように黙っていた。茂みががさがさと動き出したのは、業を煮やしたドミニクが口を開きかけたときだった。
「――ナア」
 物音をよく聞き分けるであろう三角の耳が覗く。おっかなびっくり姿を洗わしたのは、毛玉のような子猫だった。ドミニクが目を見開く間もなく、もう一匹、また一匹、と茂みから顔を覗かせる。
 縞柄、ぶち柄と毛色は様々であったが、総勢四匹にもなる子猫たちはティティルが置いたパンのようなものに顔を近づけた。フンフンと匂いを嗅ぐと、それが食べ物であると分かったらしく、そうなると押し合いへし合いしながら群がる。
「あはは、まだあるってば」
 ティティルはポケットからもう一つ、小さなパンを取り出して差し出す。すると、子猫たちは我先にとティティルを取り囲んだ。ティティルはその場に座り込んで、艶やかな毛並みを撫でてやる。
 それをぼんやりと見つめていたドミニクは、ティティルが不意に振り向いたので反射的に後ずさった。
「何やってんだよ。こっち来いって」
 ドミニクは、灰色の瞳を震わせながら喉を鳴らす子猫を見下ろした。ティティルは数匹を膝の上に乗せて、得意げに笑っている。
 ふるふると頼りない生き物は、巻き毛の少年のすぐ傍で身を寄せ合っている。毛皮をまとう生き物を見たことがないわけではない。いや――見るのは当たり前だった。生物実験は、あの闇の中では食事と同じくらいに当たり前の行為だった。『それら』が苦悶の表情を浮かべて死んでいくのを、幾度となく目にしていた。そして、それに対して何も感じなかった。誰も、何も感じていないようだったから。
 か弱い命だ。握りつぶしただけで消えてしまいそうな。
 目の前の少年も。同じように、頼りない。瞳に映るものを何でも覗きこんでしまうのは、無知である証拠だ。
 自分は違うのだと、信じていた。そうでなければ、『それら』と同じようにされてしまう気がして。
「こいつらさ、今年の春に生まれたんだぜ。かわいいだろ」
 巻き毛の少年は無邪気に笑う。子猫たちは宝玉をはめ込んだような瞳で、異邦者たる自分たちを交互に眺めている。かと思うと、じゃれあって団子のようになり、辺りを鞠球のように走り回る。
 胃の中の異物が大きくなる。
 じわじわと毒物に侵されていくように、指先が震える。
 同化してはいけない、特別でなければいけない。そう頭では考えるのに、狂おしいほどに土の匂いが懐かしい。油断すると嗚咽すら零れてきそうで。
「なにやってんだよ、お前」
 子猫を抱きかかえたティティルが近寄ってくる。寄るな、と言おうとして、言葉にならなかった。
 知らない温もりだ。こちらの心の壁などまるで無視して、土足であがりこんでくる。なんて野蛮なのだと思うと同時に、安堵する自分も確かに存在する。
「ほら」
 同じ目の高さで、巻き毛の少年は白い歯を見せて笑った。抱きかかえられた子猫も、呼応するように稚い声で鳴く。
 問答無用でそれを押し付けられて、ドミニクは目を白黒させた。どう抱えればいいのか分からないのだ。
「こうしてだな」
 素早くそれを察したティティルが腕を掴んで、正しい位置に直してくれる。子猫は胸の上にすっぽりと収まって、翡翠のような瞳でこちらを見上げた。
「……」
 曖昧な温もりが、薄い布ごしに伝わってくる。子猫はぐるぐると喉を鳴らしながら、胸に顔をすりつけてくる。
 唇が震えた。世界が一つ、遠くなった気がした。涙が滲んだからだと、後になって気付いた。
 頼りない暖かさ。優しい日差し。ふわふわと、自分の姿まで溶けてしまいそうで。
「――っ」
 何かおかしい、と幼い獣も気付いたのだろう。耳をそばだてて、不思議そうに顔をあげる。ティティルも、目を丸くした。
「どうした?」
「帰る」
 返事が短かったのは、それ以上何かを言えば、声をあげて泣いてしまいそうだったからだ。
 乱暴な手つきで、小さな命をティティルの腕に押し付ける。子猫が小さく悲鳴をあげるのにも構わず、ドミニクは踵を返して駆け出した。
「お、おい!」
 慌てた声を背中に受けながら、草むらに飛び込む。来たときの数倍は乱暴な手つきで、そこを掻き分けて進む。尖った枝が当たって頬に傷が入ったが、熱さしか感じなかった。
「ドミニクっ」
 呼び声が、刃のように痛い。
 入ってきた塀の前までやってきて、そこでどうして魔術を使わなかったのかと思い当たった。こんな塀、軽く飛越えてしまえるはずだった。あの少年の目の前から消えるなど、一瞬でできたのだ。
 なのに、駆け出してしまった自分がいる。
「――ドミニク!」
 苛立ちに顔を歪めたドミニクが振り向くと、草を掻き分けながらティティルが追いかけてくるところだった。
 ティティルは今にも泣き出しそうな顔をしていた。切羽詰った頬を紅潮させ、身を振り絞るように少年は叫んだ。
「ごめん、あまり楽しくなかったかもしれないけど――でも、また来いよ、あそこに。今度はもっとすげえの見せてやるから。オレ、待ってるから!」
「――」
 楽しくない。
 違う、と喉の奥が叫びそうになって、それを必死で押し留める。迷いを払うように、激しくかぶりを降る。
「待ってるから」
 茶色の純粋な瞳から、透明な雫が零れ落ちる。ティティルは喧嘩の時にすら見せなかったそれを必死で拭いながら、もう一度叫んだ。
「待ってるからな!」
 ドミニクは答えることが出来ずに、今度こそ魔術を使って塀を越え、足がつくと同時に走り出した。
「――っぅ」
 走りながら、心がじくじくと痛むのを感じていた。鼻が詰まって、喉の奥が熱い。
「行くもんか」
 口の中で呟く。体を風のように走らせながら。誰もいない通りを一人で走るのは、とても心細かったけれども。
「絶対に行くもんか」
 体の奥からせりあがるものを押し留める。なのに零れ出る涙が止まってくれないのが腹立たしい。
 だから、行くもんか行くもんかと呟き続けた。
 ――あんな奴、嫌いだ。
 曖昧な温もりが、不躾な視線が、自分勝手な様が、――光り輝くような笑顔が。

 離れれば離れるほど、どうしようもなく恋しくなる。


 ちりんちりんと鈴の音が鳴り、鷹目堂の扉が開く。主人のハーヴェイは、読んでいた本から目をあげて、弾かれたように立ち上がった。
「……ティティル」
 夕日を浴びてそこに立っている少年は、体中傷と泥だらけだった。それだけならいつもと変わらない。しかし涙でべとべとになった頬を拭いながら鼻をすする表情の痛々しさは、見ていられないほどだった。
「とうさん」
 呼びかけは、まるで迷子のよう。ティティルは会計所から出てきた父を、じっと見つめた。茜色に染まった瞳が、潤んで光を宿す。その顔が、くしゃりと歪んで――。
 ティティルは体を弾丸のようにして、父にぶつかっていった。
 そこに抱きついて、少年は大声で泣き出した。


 ***


 突然のことである。
「おい」
 そんな底冷えするような呼びかけが、俺の無防備な心臓を直撃してくれた。
「も、申し訳ありませんっ」
 反射的に体が飛び上がり、謝罪が口をついてでる。振り向くと、そこにはエディオが立っていた。こいつの声は、本当に心臓に悪いと思う。
「テメエ、何故謝る」
「い、いやー……」
「何故後ずさる」
「あ、いやー……」
 その目線が今にもこちらを射殺さんばかりだからです、と正直に言いそうになる俺である。エディオは人相が悪いわけではないのだが、顔立ちが整っているだけに、じっと見られるだけで妙な凄みがあるのだ。これでこのまま医者になったら――、いや、深くは考えるまい。
 俺はとりあえず引きつった愛想笑いで場を取り成して、用件を聞いた。エディオは見た目こそ恐ろしいが、話してみると案外言うことはまともなのだ。いや、こんなことを考えては失礼なのだろうけれど。
 フェレイ先生の自宅の夜は、夏の夜風をそのまま受け入れるように窓が開け放たれていた。夕食を終えて、生徒たちは思い思いに時を過ごしている。何人かは、居間に姿を現したエディオに驚いているようだった。まあ、そうだろう。こいつは必要以上に他人とつるまない奴だ。
 ――では、何故俺が絡まれているのだろう。物言いたげなエディオに促されて、俺は夜の庭に足を踏み出した。居間の開け放たれた引き戸からは、直接庭にでることができるのだ。都市は夜でも街灯が煌々と光を放っているから、外にでても互いの表情が確認できるくらいの光量が保たれている。古めかしい作りの家に設けられたささやかな庭では、真っ直ぐに伸びる木が銀の煌きを宿していた。

 俺たちは、家と庭の境目となる石段に腰掛けた。なんとなくポケットから棒付き飴を取り出して口に放り込む。
 エディオは自分の膝に腕を乗せて、考え込むように視線を落とした。背後から子供たちの賑やかな喧騒が聞こえてくるが、正面に広がっているのは、絵画めいた静けさだ。なんとなくこいつの言いたいことが見えてきて、苦い予感に俺は口元を歪めた。飴の甘さが、なんだかあまり感じられない。
 エディオはぼそりと口火をきった。
「昨日捕まった奴」
「ああ」
 やっぱり、その話か。
 俺は、膝を抱えるようにして、そこに顎を乗せる。ふわりと吹き込む夜風が、髪の合間をすり抜けていく。それが、ほんの少しの慰めだった。
「護符なしで魔術を使ったらしいな――俺みたいに」
「……知ってたのか」
 エディオが意外そうな視線をくれる。
「ん。今日、知り合いに聞いた」
 俺は、淡く笑った。
「俺も逮捕かな」
「アホか」
 豪速直球でつっこまれる。
「アレは手配犯、テメエはただの挙動不審な学生じゃねえか。捕まるんだったらとっくに捕まってる」
 横目で見ると、エディオの本気で呆れ返った目線とぶつかった。
「……仰る通りでございます」
 何も言い返せない俺であった。
 見上げると、星が空でちらちらと煌きを放っている。都市が明るいからだろうか、あまり数は多くないが、夏の夜空はそれでも綺麗だ。
「どうするつもりだ」
 エディオの横顔には、深刻そうな表情が張り付いている。昨日捕まった人間が、俺と同類だとしたら――、俺の失われた記憶に繋がるからだ。俺の失われた記憶には、こいつの母親が絡んでいる。気になるのも当然だ。
「とりあえず、フェレイ先生に相談しようと思う」
 俺は、考えていたことを素直に口にした。というより、フェレイ先生のところに行こうと思っていた矢先に、エディオに声をかけられたのだ。
 エディオはそれを聞いて、口を開きかけ、しかし言い淀んだ。どこか不安を感じさせる振る舞いに、心に一つ、針が刺さる。

 ――考えるな、と、心の底が呟く。

 しかし、エディオは意を決したようにこちらを向いた。逸らすことを許さぬ、強い眼差しだ。
「なあ」
 夏の夜風が、ゆるやかに体温を奪っていく。俺は現実をうまく認識しようと、膝を抱える指に力を込める。

 ――疑うな、と、心の底が鳴く。

 エディオも、それを口にするのに大層体力を使ったらしかった。やっと零れた声は掠れて、かろうじて俺の耳に届く程度。
 けれど、それは刃のように頭の奥を簡単に切り刻む。

「――本当に、先生は信頼できるのか」

 ――受け入れろ、と、心の底が、哂う。

 自分がどんな顔をしているのか分からなかった。喉の奥から何かがこみ上げてきて、思わず息を吸い込む。
 胸の中で、何かがぶつかって飛沫を散らす。自分でも得体の知れない感情。脳髄を焼くような余韻を残して――。
 やめろ、と呟いて、俺は首を傾げた。
「なんでだ?」
 自分でもびっくりするくらいに、平静を保った声を紡ぐ。心と体が乖離してしまったようだ。
 だって、と心のどこかが囁く。フェレイ先生は苦しんでいた俺を助けてくれた。保護者になってくれて、住む場所をくれた。相談にも乗ってくれたし、いつでも味方になってくれた人だ。
 ぴしりとひび割れた瑕から、何かの光景が零れてくるが、それは霧のように消えてしまう。
「先生以外に相談できる人なんていないし――なんでそんなこと言うんだ?」
 そう言いながら、俺は必死で瑕を塞ぐ作業を続けていた。何故そんなことをしているのか、自分でも分からないままに。
 エディオは、言葉に詰まったように視線を滑らせる。
 そんな様子に胸がざわつくのを意図的に無視しながら、俺は笑った。
「フェレイ先生は一番頼りになるし、やっぱり先生に相談するのがいいと思う」
 言ってから、どうしてこんなに動揺しているのかと思った。心を覆い隠す傍ら、まさか、と呟くものは確かに存在する。
 闇を繋ぎ止める鎖が一つ、音を立てて切れていくのを感じていた。




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