-紫翼-
二章:星に願いを

38.完璧な人生



「グレイヘイズ、暑い」
「我慢して下さい」
 これ以上なく真剣な視線を向けるレンデバーに、グレイヘイズはすげなく言い返す。途端にレンデバーは眉を吊り上げ、ソファーに投げ出した足をばたつかせた。
「やだー! あーつーいー」
「夏は暑いと相場が決まっているのです。うんざりしていないのは子供くらいですよ」
「せめて空調機のついてる部屋にしてくれれば良かったのに」
 ぶすっとした顔で、レンデバーは頭の後ろに手をやった。グラーシアの夏は、肌を突き刺すような日差しの中にある。湿度が低いため蒸さないのが唯一の救いであるが、それでも日中はうだるような暑さが安普請の部屋を直撃していた。
「そうだ、あの人はどうなってる?」
「警視院で厳重に勾留しているそうです」
 レンデバーに背を向けたグレイヘイズは書類を整理しながら答える。ふうん、とレンデバーは生返事をしただけだったが、裏で起きていることはよく分かっているはずだった。
 警視院が捕らえた男の話は、取り押さえられた状況から秘匿など夢のまた夢で、次の日には新聞に載って大陸中を駆け巡ることとなった。そうなれば、軍が黙っていないはずがない。男の身元を引き渡せと、警視院の方に連絡がいっているだろう。しかし、誇り高いグラーシアの警視官たちが易々と手柄を引き渡すこともあるまい。彼らは昔から犬猿の間柄にある。軍と警視院の間では、無言の冷たい睨み合い、というのが現状だろう。
 灰色の男の尋問は始まっているだろうか。だが、こちらはやろうがやるまいが、得られるものは無に等しいに違いなかった。あの男は沈黙を守るだろう。それが己を守る唯一の手段であることを知らないほど馬鹿ではあるまい。
 警視院に灰色の男を押さえて貰っておくのは、二人にとっても好都合だった。これで、暫くは安心して動けるだろう。そう、ひとまずは。
 グレイヘイズは、必要な書類とそうでない書類を手早く振り分ける。頭の中に叩き込んだ情報なら、紙にして残しておくのは不都合だ。いらないものは、あとでライターで燃してしまうつもりだった。
「昨日ユラス君に会ってきたんだけどさ」
 レンデバーは、ソファーにだらしなく身を預けたまま、世間話をするように口をもたげた。
「あの子、動揺隠すのが下手だよね。ちょっとつつくと、すぐにボロがでる」
「何かわかりましたか」
 ちらっとグレイヘイズが首を回す。レンデバーは、小さく唸って呟いた。
「とても怪しい――かな」
 二人の中で、紫の少年が一連の事件の渦中にあることは既に共通の認識になっている。しかし、渦中といってもその何処に位置するのか、それは未だに謎であった。紫の少年は何を知っているのだろうか。
「でも口は固そうだからなあ。滅多なことじゃ、あれは話してくれそうにないよ」
 どうしようかねえ、とレンデバーは欠伸まじりに足を組み替えた。安っぽい二人がけのソファーは、足の長い彼には窮屈そうだ。いや、そもそもソファーは座るものであって、横たわるものではないのだが。
「で、そっちの件は?」
「はい」
 グレイヘイズは書類の整理を終えて、とんとん、と紙束を揃えた。そうして、必要な束を持ってレンデバーの向かいのソファーに腰掛ける。レンデバーは興味が向いたのか、体を横向きにした。この男に真っ直ぐ座れといっても無駄であると重々承知している護衛は、小言の代わりにこう告げた。

「調べられるだけ調べましたよ。フェレイ・ヴァレナス学園長について」

 その声音にうんざりした響きがあることに気付いて、レンデバーは琥珀色の瞳を瞬かせた。
「どしたの、珍しく不機嫌そうだね?」
「……他人の経歴にムカついたのは、これが始めてです」
 言いながらグレイヘイズは書類を机ごしに手渡す。主人はそれを寝転がったままぺらぺらとめくって、面白げな光を表情に躍らせた。
「こんな完璧な人生があってたまりますか」
「ああ、やっぱり両親共にグラーシア学園卒か。あはは、母親なぞ主席で卒業してるね。でも卒業後は二人とも都市に留まらずに結婚――へえ、さっさと田舎に引っ込んじゃったんだ」
「はい。学園を出てすぐにイザナンフィ大陸で隠居暮らしだったみたいです。嫁さんの故郷ですからね、そっちは。でも、二人ともそれぞれ実家とは疎遠だったみたいで、山奥の農村に引きこもりっきりだったみたいですよ」
 若い内からそのような生活を選ぶなど変わった夫婦であるが、グレイヘイズは一方でその気持ちも分かる気がしていた。グラーシアは閉鎖的な人工都市であり、彼にとっては息が詰まるような空気に包まれている。もしかしたらその二人も、こんな牢獄のような都市を出て、人里離れた場所に落ち着きたかったのかもしれない。
「で、そこで二人の間に生まれたのが――フェレイ・ヴァレナスか」
 主人は獲物を見定めるように、注意深く書類の文字を追う。グレイヘイズは短く返事をして、説明を続けた。
「父親は七歳の頃に病死していますね。そして彼自身もグラーシア学園魔術科に入学――」
「やっぱり主席で卒業しちゃったわけだ。んー、確かに人生馬鹿らしくなってくるねえ。それで、その後は?」
「学園を卒業した後は、暫く都市の研究所に勤めていたようです。この学園の卒業生は大方そのような進路だそうですから、ありふれた選択といっていいでしょう。しかし、二年後に母親が病死していますね。こればかりは同情しますよ、二十歳で両親を失って、天涯孤独の身ですから」
 ちなみにグレイヘイズの家庭は両親共に健在で、軍を辞めてしまったこの息子はいつ結婚できるのかと気を揉んでいる。こんな仕事を始めてしまったからには、そうそう相手を見つけることなど叶わぬが、でもそろそろ――と、一瞬グレイヘイズは思いを遠い場所に馳せたが、すぐに現実に戻ってきた。考えるだけ空しいからだ。とにかく、若い内に両親を失う想いなど今の彼には想像できない。
 そんな彼の不幸の元凶――雇い主であるレンデバー・ロッキーニは、顎に手をやって目を伏せた。
「ふむ、確かにショックだったのかもしれないね。同じ時期に研究所も辞めてる。でも、次の年にはグラーシア学園の教員試験に合格、高等院の講師になって、うっわ、ここからはあやかりたい出世コースだね。理事会役員を経て30代で学園長。前代未聞だよ、この駆け上がりっぷりは」
「ええ。教師としても文句なしの腕前、才能にも人望ににも恵まれていますからね。家柄も両親共にグラーシア卒と、申し分ないですし。私もひがみたいです」
「んー。まさに完璧な人生だねえ。あはは、ユラス君ってば可愛い顔してすごい後ろ盾がついてるもんだ」
 心から面白がるように、レンデバーは細長い足をばたつかせる。子供っぽい――否、子供そのままの仕草に辟易しながら、グレイヘイズは思い出したように告げた。
「ああ、ただ一つだけ」
「うん?」
「一つだけ、欠点ではないですが、引っかかったことが」
 言いながら煙草に火をつけるグレイヘイズに、レンデバーはちらっと視線をやる。

「彼は、母親が亡くなって暫く経った後、二ヶ月ほどグラーシア国立病院に入院しています」

 切れ長の瞳が、音もなく瞬いた。
「……ショックで寝込んじゃったのかな」
 グレイヘイズは、肩をすくめて首を振った。
「いいえ、それが、内科ではなく外科の方で」
 書類に目を戻したレンデバーは、不可解そうに眉を潜める。
「なんかの事故?」
「カルテは入手できなかったので、どのような怪我かは分からないのですが。しかし外科の病院にかかっていたことは確かです」
「ふうむ、確かに少し気になるねえ」
 グレイヘイズはソファーに背をもたれて煙を吐き出した。主人に報告できる情報は、これで全てだ。
 フェレイ・ヴァレナス現学園長の人生は、単純といってしまえばそうかもしれない。グラーシア学園の生徒から学園長、と彼の人生は一本の線で繋がれている。彼は、学園に入学してからこの地を全く動いていないのだ。
 教師になってからは出世街道を邁進していることから、怪しげなことをしているのではと疑われそうだが、それについてはグレイヘイズ自身が十分に否定できる。現学園長の才能を見出し、彼を育てた人間は存在したものの、調べて分かったことは学園長が自らの才と力でその座を勝ち取ったという事実であった。今でこそ合間を縫って生徒に構ってやっているそうだが、若い頃は眠らない男と呼ばれるほどの仕事ぶりだったらしい。
 何故そこまでして地位を望んだのかは分からないが、しかし常人の努力で出来ることではない。そして、それらの激務の合間に今回の事件に関わる暇があったのかと考えると、答えは限りなく否に近い。いや――そもそも、この事件に関わることは、グラーシア学園の長でしかない彼にとって、全く旨みのない話なのである。組織の上に立つだけの才能を持つ人間が、そのような危険な橋をわざわざ渡るなど考えられなかった。
「レンデバー。ここにある情報だけでは、私には学園長がこの事件に関わっているとは到底思えないのです。やはり学園長は善意でのみ『彼』に関わっているのではないでしょうか?」
「むー」
 こちらの話を聞いているのか聞いていないのか、レンデバーは半眼で資料を眺めている。文字で綴られた、ある一人の男の半生。完璧な道を踏みしめて地位を手にし、今や人望も高く、愛される名士となった、幸福な人生。

「ん?」
 レンデバーは、それを何度も目で追っていく内に、ふと眉間にしわを刻んだ。
「あれ?」
 ひらりと体を起こして、ソファーに正しく腰掛ける。
「どうしたのですか」
「――」
 ある記述に何度も視線を往復させるレンデバーの脳裏に、紫の少年との記憶が駆け巡った。

 そう、確か、彼は――。
「……ユラス・アティ――ルド」
 弾けるように、光景が瞬く。そうだ、確かに彼は、無邪気にそれを言っていた筈だ。

 頭の頂点から全身を駆け抜けるひらめきに、レンデバーは珍しく息を深く吸い込んだ。怪訝そうなグレイヘイズに一瞥もくれぬまま、レンデバーはぴしゃりと言い放った。
「グレイヘイズ、船の予約を」
「――はい?」
 資料から目を離した琥珀色の瞳は、凶暴さの中に蠱惑を潜ませた笑みを湛えている。彼と慣れ親しんだグレイヘイズですら寒気を覚えるほどの、捕食者の表情だった。まるで上等の獲物を見つけて、どのように狩ってやろうかと見定めているような。
「この線はあながち外れじゃないかもよ、グレイヘイズ」
 小さく喉を動かさずにはいられないグレイヘイズの前で、彼の主人たる細身の男は、愉悦の笑みを浮かべた。

「さあ、行こうじゃないか。――聖なる学び舎の学園長を生み出した家へ」


***


 忘れようと思えば思うほど、あの日の鮮烈な光が忘れられない。好奇心を一杯に孕んだ大きな瞳が、目を閉じていても何処かで自分を見つめているような気がする。
 呼吸が浅くなり、膝を抱える指に力を込める。そうやって自分を固く守っていないと、瞬く瞳に呑まれてしまいそうだった。
 不安定な思考を持て余して、ドミニクは表情を歪める。
 どうしてこんなに気になってしまうのか。鼓動が高鳴るのか。溢れる生の気配に怯えながらも――もう一度会いたい、と思ってしまうのか。
 全部あいつのせいだ、と心の奥で呟きながら、ドミニクは膝に顔を埋めた。

 静寂の昼下がりであった。
 シェンナは帰ってこない。小さな部屋は、息が詰まるほどに静まり返っている。空気は重く、体中を圧迫してくるようだ。
 窓からの明かりがあるだけで、それは前いた場所と全く変わりない。
「……」
 一体、いつまでこうしていればいいのだろう。
 世界など消えてなくなれば良いと思っていた。祝福の手に選ばれたのは、自分ではなかったから。
 どうしようもないことと思っても、悔しさに胸は焼け爛れた。そんな世界など滅んでしまえば、とずっと心で願い続けていた。
 なのに、日は昇る。暮れて、夜が来て、また朝が来る。己が嘆こうが願おうが構いなしに。
 光は、再びやってくる。
 とても、とても残酷な形を成して。


 一度外に出てしまえば、己の姿が酷く頼りなく、汚らしいものに感じられた。清々しい夏の空気を吸い込んだからかもしれない。
 風に吹かれるのは嫌いではなかった。むしろ心地良かった。心の汚いものを、風はさらっていってくれる気がした。
 しかし同時に、そうしている内に自分は消えてしまうのではないかとも思った。自分の存在は、汚れそのものであったから。
 ふらふらと裏路地を歩く。あのとき、あの少年と出会った場所へ。
 そこは日の良くあたる石畳の道だった。手入れを忘れられて、すっかり砂埃にまみれている。所在なげにドミニクは首を回したが、人一人として見つけることは出来なかった。
 心がじわりと痛んで、唇を噛み締める。そこにあの少年がいるなどという保障があったわけではないのだ。けれど、どこか裏切られた気分がした。差し出した手を、無下に振り払われたような。
「……」
 拳に爪を食い込ませる。会ってどうするのだと慰めるように心が呟いた。拒絶したのはこちらの方だ、きっとあの少年は、そんな自分のことを悪く思っているに違いない。もう、存在すらも忘れられたかもしれない。
 じわじわと視界が滲んできて、それが信じられなくて、ドミニクは乱暴に目元を拭う。どうしてこんなに心細く感じるのか、自分でも分からなかった。
 そのときだった。
「おい、お前」
 金槌で殴られたような衝撃が、全身を震わせた。
 振り向いた。古びて忘れられた町並み、黒ずんだ建物、そこを明るく照らす陽光。
 そして、それらの中央で、ティティルが目を輝かせていた。
「――」
 ドミニクは酷く狼狽して、一歩後ずさった。ここに来てしまったことへの後悔と再会への歓喜が薄い胸の内でぶつかって、視界は明滅するばかり。
 ついに彼の足はその場から離脱してしまいそうになったが、その前にティティルが動いていた。
「動くなよっ!」
 腹の底に響くような、力強い声。ティティルの体が疾風となってぶつかってくる。
 ドミニクが目を剥いた瞬間、小さな体はティティルに突き飛ばされるようにして地面に叩きつけられた。
 視界が目まぐるしく回転する。乱暴に胸倉を捕まれて、地に押さえつけられたドミニクは、ただただ、呆然としていた。
「捕まえた!」
 被る影の勝ち誇った顔と、背景の青空の対比の眩しさに、思わず顔をしかめる。だがティティルはこちらの表情など意にも介さず、にんまりと笑ってみせた。
「今日は逃がさないぞ」
 ドミニクは、不敵な笑みを浮かべる少年の顔を、暫く信じられない気分で眺めて、そうして我を取り戻した。
「ど、どけっ!」
 逃れようと暴れだしたドミニクを、ティティルは慌てて取り押さえた。
「こら、動くんじゃないっ!」
 傍から見れば子犬がじゃれあう次元の格闘であったが、本人たちは至って本気である。ドミニクは全身を使って、目の前の少年を引き剥がした。しかし極端に発育の悪い軟弱な体は、逃亡に十分な力を発揮してはくれなかった。魔術を使う前に、腕をとられてしまう。
「離せっ」
「離すもんか!」
「離せと言ってる!」
「離さないって言ってるだろ!」
 暫し押し合いへし合いを続けた少年たちであったが、先に体力がきれたのはドミニクの方であった。
 息を切らせながら、ドミニクは少年を見つめた。向こうも必死の形相をしていた。不意に、何をやっているのだろうと思った。暗い研究所では、このようなことは一度もなかった。全ては言葉で塗り固められ、物事は理路整然と進んでいた。
 なのに、どうしてこんな馬鹿らしいことをしているのだ。
「なんなんだよ、お前」
 己の掠れた声が腹立たしい。
 胃の奥底で膨れ上がるこの感情は何だ。
 ティティルと名乗る少年は、好奇心を瞳に躍らせて、口を開く。

「お前、魔術使えるんだろ」

 ぱっと視界が眩んだ。
 喉が痺れて、何も言えなかった。この少年が求めるものが、自分という存在でなく、魔術が使える人間であったことに、灰色の瞳は絶望を覚えた。
 そして絶望は遅かれ早かれ、耐え難い憤怒へと変わる。
 細い体の何処からそんな力が生まれてきたのか。気がついたときには既に、横に薙がれた拳が、少年のこめかみを直撃していた。魔術など使える精神状態でなかったが故の直接的な暴力であったが、虚をつかれてティティルは横倒しになった。
 あどけない体が流れて地に倒れる。ドミニクは、肩を上下し、胸を冷たくさせながらそれを見下ろした。行き場のない怒りと、手をあげてしまったことへの恐怖が、彼を石像のようにその場に立ち尽くさせた。
「――ってぇ」
 地に伏せられた少年の顔があがって、こちらを見る。擦りむいた頬から血が滲んでいた。その色にぞっとしたドミニクは、思わず膝をつこうとした。こんなことがしたかったのではないのに――。
 だが、今度はドミニクが虚を突かれる番であった。
「っにすんだよ!!」
 顔を赤黒くさせたティティルが、爆発的な感情を持ってして殴りかかってきたのだ。こればかりは避けようもなかった。弾丸のように繰り出された拳は、焼けた棒のようだった。口の中に血の味が広がって、痛みに全身が悲鳴をあげる。
 そうなってしまえば、もうドミニクも引けなかった。
「この――っ!」
 全身で牙を剥いて、ティティルに掴みかかる。何をわめいているのかも分からなかったが、相手の息遣いの近さや、気持ち悪い肌の感触に構っている場合ではなかった。
 ティティルも無論、黙って殴られているわけではない。二人の子供は上へ下へ体勢を入れ替えながら、相手を制圧しようと躍起になった。殴る蹴る引っかく、果ては噛み付く。しかし怯めば相手の思う壺と言わんばかりに、二人は互いを罵り合う。
「なんだよ馬鹿! いきなり殴ることないだろ!」
「お前のせいだっ!」
「最初にやったのはお前だろ!」
「るさいっ! お前なんて――!」
 ドミニクは全身から振り絞るように言って、不意に泣きたくなった。体の表面はひりひりと痛く、中身は疲労と鈍痛で鉛のよう。そして、それを意識してしまった瞬間には、灰色の瞳に涙が浮いた。
「僕の気持ちがわかるもんか!!」
 滲んだ視界に傷だらけの少年の顔がぼやけ、別の顔を形作る。連れのシェンナ。紫の少年。ほとんど話すこともなかったルガ。暗がりで、こちらをゴミでも見るような目で眺めやっていた――あの顔に。
 命そのものの力を振り絞るようにして、相手を掴み倒す。そこにいるのは既に巻き毛の少年ではなくなっていた。灰色の瞳に映るのは、過去に見上げた遠い顔であった。けれど、それらは誰もこちらを見てはくれない。失敗作の子供など、ルガやシェンナよりも役立たずだった。何も与えられなくて、それが当たり前だった。ただ、現実に自分が持つ力だけが、彼らの興味の対象であった。
「こんな力欲しいなんて思ったことがあるもんか! なければ良かった、全部なかったことなら良かったんだ! お前たちのせいで、僕は――!!」
 力まかせに解き放つ言葉は、きっと目の前の少年には意味が分からなかったろう。しかし、ほとばしる激情は止まらなかった。涙がぼたぼたと散って、地面を濡らす。全身の痛みが惨めで、ひたすらに悲しかった。
「……お前」
 地面に仰向けに倒れて、灰色の少年の慟哭に目を丸くしていたティティルは、怪訝そうに呟いた。
 服を掴んでいた指から次第に力が抜けてゆき、二人の少年は互いに見つめあった。一人は泣きながら、一人は呆然と。
 ティティルは無言で体を起こした。ドミニクは、はっとして身を引き、目元を腕で拭う。鼻を啜るドミニクを、巻き毛の少年は真剣な顔で見つめ、そしてぽつりと呟いた。
「悪かったよ」
 耳の奥までしっかりと届いた音色に、灰色の瞳は衝撃を受けたように弾けた。しかし、戸惑うドミニクから、ティティルは目を離さなかった。
「悪かったって言ってるだろ。その――あんまり、魔術が使えること、言わない方がいいんだろ。じゃあ言わないよ」
 言葉を探すようにゆっくりとティティルは言って、ばつが悪そうにそっぽをむいた。随分ひっかいてしまったから、その顔も腕も赤い筋が見えて痛々しい。けれど、それはドミニクも同じことだった。
 酷く混乱したドミニクは、何を言ったらいいか分からず、目を瞬くばかりだった。涙が乾いて頬がかさつき、傷に痛い。しかし、そんな痛みも生まれて初めて経験するもので。
 するとティティルは立ち上がって、土埃にまみれた服をはたいた。いてて、と顔をしかめながら、こちらを見下ろす。
「でも、名前くらい教えてくれたっていいだろ」
 ドミニクは拗ねたような声を聞いて、まだ名乗っていなかったことに気付いた。そして、知らない人に名前を教えたことのない自分にも。
 また、胃の奥で得体の知れない感情が膨れ上がる。不機嫌そうなティティルの顔を灰色の瞳に映して、ドミニクは半ば呆然と名乗った。
「ドミニク」
「ドミニク」
 鸚鵡返しにティティルは呟いて、頷いた。何も知らない顔だ。世の中の悲しいことなど。自分が経験した苦しみなど。そのなんと眩しいことだろう。自分にはない光を少年は持っているのだ。
 なのに、ティティルは満足げに笑って、こちらの腕を取った。痛みに顔をしかめたが、まるでそんなことは気にしていないようだった。先ほどの怒りが嘘のように、ティティルは道の先を指差した。
「来いよ。いいもん見せてやる」
「えっ」
 ドミニクは半ば無理矢理立たされて、歩き出してしまってから、短く戸惑いを唇に乗せた。
「大丈夫だって」
 何が大丈夫なんだと言ってやりたかったが、先の喧嘩のことが脳裏に残っていて、うまく言い出せない。ティティルはそうする間にも、入り組んだ小路に入っていってしまう。
 なし崩しについていったドミニクは、不安げに辺りを見回した。自分の忌わしい姿を誰かに見られないかと思ったのだ。シェンナと共に少年が住んでいたのは、都市でも最も外れにある、忘れ去られた地区であった。しかしこの辺りにはもう人が住んでいるのだ。
「ま、待て」
「ぐずぐずするなよ、日が暮れちゃうんだから」
 不満の声は、簡単にかき消されてしまう。歓楽街よりもう少し奥まった場所にあるこの地区は、昔は賑わった住宅街であったのだろう。陽の当たらない道は、周りを背の高い建物に囲まれていて、街灯もついていない。その建物もすっかり寂れていて、見上げてもカーテンが外れている窓ばかりだ。
 なのに茶色い巻き毛を利発そうに跳ねさせた少年は、そこを怖じもせずに進んでいく。一体何者なのだ。
 ドミニクは得体の知れない異物を胸の内に抱えながら、彼を追うしかなかった。




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