-紫翼-
二章:星に願いを

37.ここは誰で俺は何処



「――ん」
 眩しい朝日に目蓋を撫でられて、意識が覚醒に向かう。けれど目覚めるのが億劫で、光を押し出すように眉を潜める。
 まどろみに包まれながら、無意識に寝返りを打った。枕に鼻面を押し付けると、清潔な匂いが一杯に広がる。
 このまま、もう一度暖かな闇に埋もれてしまいたい。
 もう起きなくてはいけないと、心の何処かで分かっているのに――。

 そのとき、夢心地の世界を叩き割るがごとく現実的な物音が耳朶を打ち、俺は奇声をあげて飛び上がった。
「ぎょえ!?」
「――おや?」
 掛け布を抱きしめて音の方を向いた先で、扉を開いたフェレイ先生と目が合う。あれ、ここ、どこ――?
「おおお、おはよう……ございます」
 何がどうなっているのか分からなくて、とりあえず挨拶をしながら周囲を見回した。ここは――フェレイ先生の自宅だ。ついでに客間だ。ついでに爽やかな朝だ。
 なんでだ。
「……」
 俺、確か、スアローグにゴミ捨てを頼まれて――?
「ユラス君?」
 フェレイ先生は、俺を不思議そうに見た。
 俺もまた、これ以上ないくらい情けない気分でフェレイ先生に尋ねる。
「せ、先生、ここは誰で俺は何処ですか」
 もう、色々と支離滅裂である。お、落ち着け、俺。
 フェレイ先生は、深刻そうな顔で近寄ってくる。俺は混乱しながら自分の記憶を探った。そうだ、俺は終業式の日に部屋の片付けをしていて、それで。
 それで――?
「覚えていないのですか?」
 ベッド脇の椅子に腰掛けたフェレイ先生は、真剣な眼差しをしていた。こちらを本当に心配しているような表情だった。
 ちりっと脳裏の端が焼ける。瞬きを一つする刹那、何かの情景が目蓋の裏に弾ける。けれど――何も思い出せない。
「今日は何日ですか」
 言いようのない不安を覚えて掛け布を握り締める。俺は、どうしてしまったんだ?
 するとフェレイ先生は、珍しく言い淀んだ。まるで、俺にそれを伝えるのをためらうように。
 だが暫くの沈黙の後、フェレイ先生は一つずつ、今まであったことを教えてくれた。
 俺が高熱で倒れたこと、それから数日が経過していること。その間に起こった出来事。
「そ、そんなことが」
 目まぐるしい現実を、頭を必死に回転させながらどうにか飲み込む。キルナもチノも、大変だったらしい。でも、もう大事ないとのことで、心配する必要もないそうだ。
 ――心配することはない。
 あれ。どこかで、そんなことを聞いたような――。
「……う」
 ずきりと頭が痛んで、かぶりを振る。まだ完全に本調子というわけではなさそうだ。しかし最後の記憶にあるような気だるさは完全に消えていた。こういうときは、むしろ動いた方が気分もさっぱりするかもしれない。甘いものも食べたいし。
 そう思ってベッドから床に足を滑らせると、フェレイ先生は気遣わしげにこちらを見た。
「大丈夫ですか」
「あ、はい。もうすっかり――」
 何日も動いていなかったからか、体が他人のもののようだ。でもこういうことは初めてではないから、ちょっと眉を潜める程度で済んだ。
 髪をかきまわして、息を深く吸う。すっかり迷惑をかけてしまったようだから、取り戻さないと――。
 そのとき、俺はあることに思い当たって、凍りついた。

 うん、そういえば。
 あれから何日も寝込んでいた、ということは。

 ――鷹目堂、数日間無断欠勤。

「ぎゃあああああ!!!」
 俺は頭を抱えてその場に蹲った。
「こここ殺されるー!?」
「……ユラス君?」
 フェレイ先生が不思議そうに首を傾げてくれる。先生、今まで本当にありがとうございました。俺は多分、今日、死にます。
「ああ、そうだ。ハーヴェイには連絡しておきましたからね。無理せず、治ったら来るようにとのことです」
「うぇ?」
 いつもの様子でのんびりと語るフェレイ先生の言葉に、俺は顔をあげた。
「彼も随分心配していましたよ。電話を使っていいですから、連絡して安心させてあげて下さいね」
「……」
 俺は、ぱちぱちと目を瞬く。
 そしてフェレイ先生の言うことを理解して、全身の骨が砕けるのを感じた。
「そ、それは……ありがとうございます」
 忘れてた。俺の保護者は、気配りの名人たるこの人だったのだ。
「じゃあ、今日行ってきます」
「直接行くのですか?」
「きっと一人じゃ大変でしょうし」
 鷹目堂に手伝いに行っているのは俺だけなのだ。きっとハーヴェイさんも苦労しているだろう。……怒ってなきゃいいんだけど。
「最近、色々と物騒ですから。気をつけて下さいね」
 眉尻を下げるフェレイ先生は、とても心配そうだ。そんな気持ちが、少しくすぐったい。
 俺は会釈をして、まずは顔を洗いに行くことにした。


 ***


 その日、鷹目堂にレンデバーがやってきた。
「って、のわっ!?」
「お久しぶりー」
 一度冷静に受け止めた後、素で飛び上がる俺に、レンデバーはにこにこ笑いながら手を振ってくれる。
「あはは、どうしたの。ユーレイでも見たみたいな顔してさ」
 あれから身支度を整えて鷹目堂に出勤した俺は、ハーヴェイさんに平身低頭謝ることでどうにか大目玉を免れて、普段の業務に戻ってきたのである。なのに、なんという青天の霹靂だ。
 光の輪を被るべっこう色の髪をしたレンデバーは、まるで別世界の人間のようだ。琥珀色の瞳をきらきらさせて、ものすごい勢いでこっちに近寄って――って、待て!
「な、なにか御用でございましょうかっていうか、まだグラーシアにいらっしゃったんですね」
 二階の小さいカウンターごしに、ずいと体を乗り出されて、思わずのけぞりながら愛想笑いを浮かべる俺である。するとレンデバーは、にぃっと玩具を見つけた子供のように笑った。こ、怖い。
「うん、急用で一度外に出てたんだけどね。でもどうしたの? 元気ないよ?」
「あ、あはは、そうですかね」
 下の階のハーヴェイさんに聞こえないよう、小声で返す。誰もが外出を避けている為か、少し前から鷹目堂では閑古鳥が鳴いているのだ。こんなときにハーヴェイさんを怒らせたくない。売り上げ激減で無言のハーヴェイさんは、それでなくとも十分恐ろしいのだ。
 だというのにレンデバーは店を見回しながら大声で、
「大変だねえ? お客さん全然入ってないじゃん」
 とか言ってくれるものだから、俺はもう心臓が止まる思いである。今すぐ遺言状を書いておいた方がいいかもしれない。
 耳を塞いでしゃがみ込んでしまいそうになる俺の前で、レンデバーは悪戯っぽく微笑んで片目を閉じる。
「じゃあ、僕が売り上げに貢献しよう。なんかお勧めでも教えてよ」
「え?」
 聞き返す間もなく、くるりと踵を返してしまう。
「早くー」
「――は、はい」
 なんだかよく分からないが、店内を案内することになった。


「……あの」
「なーに?」
「それ、全部買うんですか」
「あはは。だってユラス君に薦められたら断れないよ」
 レンデバーは山のようになった本を抱えて、上機嫌にころころ笑う。
「良かった。これでしばらくは読むものに困らないな」
「は、はあ」
 一つ一つ値段を確かめて紙袋に詰めながら、俺は眩暈を覚えた。割と高い本も買っているから、会計の桁がちょっとお目にかかれない位に差し掛かっている。
「いいなあ、やっぱり良い本が集まるのはグラーシアならではだよね。僕もここに住もうかな」
「……や、今はちょっとやめといた方がいいですよ。何かと物騒ですし」
 口を苦くさせながら言うと、レンデバーは琥珀色の瞳を丸くさせて、ふむ、と顎に手をやった。
「そうみたいだね。戻ってきてびっくりしたよ、通りの雰囲気が全然違うんだもん」
 そんな通りをものともせずにやってくるレンデバーは、果たして大丈夫なんだろうか。ああ、でも護衛がいるから大丈夫かな。
「ね、ユラス君、平気? なんだか疲れた顔してるよ」
「……え?」
 だしぬけにそう聞かれて、俺は目を瞬いた。レンデバーは腰に手をやって、こちらの顔を覗き込んでくる。
「元気ないし、顔色も悪いし、何かあったの?」
 子供みたいに真っ直ぐな瞳に見つめられると思わずたじろいでしまう。俺、そんな風に見えるんだろうか。そりゃ確かにここ最近は色んなことがあって、今も悩んでいたりするけれど――。
 でも、するべきことは決まっている筈。だから、心配されるようではいけないよな。
 そう思って、俺は勤めて笑顔を作り、頬を指でかいた。
「いえ、特になにも。ただ、早く普段通りに戻って欲しいです、今はなんか都市中ピリピリしてますし」
「……ふーん」
 何故かレンデバーは意外そうに目を大きくさせ、唇を突き出して相槌を打つ。
「じゃあさ、ここだけの話」
 ずいっと体を寄せられた。言葉に詰まって足を一歩後退させる俺の前で、レンデバーは琥珀色の瞳を猫のように細くする。
「ね、知ってる? 昨日捕まった人の話」
「うぇ?」
 俺は情けない声で答えながら、レンデバーを見返した。透明度の高い瞳は、光を集めて不思議な文様を映し出している。ともすれば吸い込まれてしまいそうなほどに瑞々しく、底知れない。
「昨日さ、大騒動だったでしょう? もう警視院の人たちがわらわら出てきててさー。僕も家の中から見てたんだけど、びっくりしたよ」
 その話は、フェレイ先生から朝に聞いていた。都市内で潜伏していた犯罪者が捕まったらしいのだ。キルナやチノも巻き込まれたらしいし――。

「だって、都市内で護符もなしに魔術使ってるんだもの」

 頭から冷水を浴びせられた気がした。
「――え?」
 遅れた返答が、掠れて頼りないものになって、ぞっとする。
 レンデバーはそんな俺を見て、怪訝そうに首を傾げた。
「ユラス君は見なかったの?」
「……じ、実は体調崩してたんで」
 本当に、とレンデバーは目を見開いて、気遣いの言葉をくれる。それを半ば呆然と聞き流しながら、俺は尋ねていた。
「あの、その人って」
 整った細面に、こちらを見透かすような表情が掠めたのは、気のせいだろうか。レンデバーは、自然に俺を見つめている。なのに、何故だろう――何かを試されている気がする。
「うん。警視院の人は護符使ってたとか発表してるんだけどね。僕が見た限り、あれは護符じゃないなあ。それにしちゃ行使時間が長すぎだし」
 都市内で――護符を使わずに、魔術行使をする。
 それは、俺と同じ、ということだろうか?
「怖いよねえ。魔術規制のお陰で犯罪が激減したのに、結局いたちごっこなのかな」
 顎に指をやって、レンデバーは唸る。俺は平静を装うために本を包む作業を再開した。手を動かしていないと、今にも指先が震えだしてしまいそうだった。
「大丈夫? なんか本当に顔色悪いよ、まだ良くなってないんじゃないの?」
 優しい言葉は、同時にこちらを隅に追い詰めいるようで。
 俺は、必死で自分を取り繕いながらレンデバーを見る。無邪気な笑顔。なのに――全てを見透かされている気がする。俺のことを、全て知られているような。
 まさか、と喉の奥が笑う。だって、レンデバーは俺とは関係のない、ただの商人に過ぎない。だから不安に思う必要などないのだ。
 梱包を終えたものを、おずおずと差し出す。礼を言って受け取ったレンデバーは、ニッと笑って踵を返した。
「あ、そうだ、ユラス君」
 かと思うと、ぴたりと足を止めて、レンデバーはこちらを振り向いた。心臓が跳ねて、俺は背筋を正す。
 けれど、考えすぎだったのかもしれない。レンデバーは陽気に笑って、手を振った。
「いい仕事見つけたんだ。暫く都市にいるつもりだから、暇だったら遊びにおいで」
 これ住所、とレンデバーは小さい紙切れを懐から出して、差し出してくる。
「あ、は、はい、どうも」
 若干どもりながら、俺はそれを受け取った。レンデバーは、楽しげに笑っていた。
「そんな畏まらないでよ。だって、僕たち友達でしょう?」
 目を瞬く俺を他所に、レンデバーは別れの挨拶を言い残して、階段を降りて出て行く。
 残された俺は、紙切れを片手に立ち尽くすことしか出来なかった。
 レンデバーが去った後も、暫し硬直したまま、無人の階段を見つめてしまう。
「……」
 胸の内で、微かな警鐘が聞こえていた。不可解なものが、異物となって喉にこびりついている。飲み下すことも、拒絶することもできずに、俺は貰った紙切れを見つめた。グラーシアの住所が走り書きされている、何の変哲もない紙切れだった。
 ――悪い人じゃなさそうだけれど。でも――。
「……いや、まさか」
 俺は、それが嫌な予感なのだと知りながらも、首を振る。大体、こんなことを考えていては失礼だ。
 レンデバーは、別に俺を追い詰めるようなことをしているわけではない。それに、行動は予測不能だが、実際には親切にして貰ったことしかないし。
「うん」
 だから俺は、その異物を飲み下してしまうことにして、紙切れをポケットに入れた。これも厚意なのだろうし、受け取っておこう。まだちょっと、自分から行こうとは思えないけれども。
 それにしても、問題はその捕まった人物だ。
 もしも、レンデバーの言う通り、本当に護符を使っていなかったのだとしたら――。
 ぞわりと胸に嫌なものが沸き起こってくる。思わず手をそこにやりながら、俺は目をそばめた。
 俺と同じ力を持つ人間。
 それは、俺の同類であるかもしれない、ということだ。
 去年の秋に、俺はそのような人間と出会っていた。俺に攻撃を仕掛けてきた、灰色の少年だ。でも今回捕まったのは若者だと聞いていた。容姿は聞いていないが――。
 思考に耽っていると、ふと背後から物音が聞こえて、俺は首を回した。
「うん?」
「あ」
 古本屋の老舗である鷹目堂は、ハーヴェイさんの自宅と直結している。俺の背後にある扉もまた、店と住居を隔てるものとなっていて、それを開いたのはティティルだった。
 ティティルは俺を見て、一瞬呆けた顔をした。俺も似たような感じだったけれども。だが、ティティルは突然眉を吊り上げ、唇をへの字にして、肩をいからせながら俺の脇を通り過ぎていく。
 そういえば、この前、こいつの脱走を阻止したんだっけか。まだ恨みは消えていないようだった。
「おい、ティティル――」
 敵対心まるだしの表情に、ちくりと痛みが走るが、一方で少しだけ苦笑した。子供の真っ直ぐで純粋な気持ちが、なんだか目に眩しい。
 すると、ティティルはキッとこちらを鋭く振り向き、かと思うと人差し指を片目の下にやった。
「べーだ! 兄ちゃんになんか教えてあげないもんね!」
「え?」
 何を、と聞き返す前に、ティティルは駆け出していく。夏の鷹目堂の窓は開いていた。俺が目を剥く前で、ティティルはぎょっとするような身軽さで窓から出て行った。縁に手をかけて、勢いをつけて足を振り回し、屋根に上っていってしまう。
「お、おい!?」
 あいつ、落ちて怪我したことを忘れているんだろうか。けれど慌てて窓辺に駆け寄ったときには、気配は完全に消えていた。
 再び、取り残される俺である。窓の外には、抜けるような夏の青空と、白い景観が広がっている。
「……あー」
 大丈夫かな、あいつ。都市で浮遊術を使った人間を探しに行くんだろうし――。
 ん?
 ……都市で浮遊術を使った人間って。
「昨日、捕まったじゃないか」
 俺は、目が覚める思いで顔をあげた。それは、都市中の知るところとなっているはずの情報だ。新聞にも載ったろうし――情報通のティティルが知らないわけがない。
 じゃあ、何を探しに行ったんだ?
「うーん?」
 こめかみをぐりぐりする。まあ、子供は興味の移り変わりが早いから、別の面白いものでも見つけたのかもしれないけれど。
「――ま、いいか」
 とりあえず、その人が捕まったのなら、都市に危険はないはずだ。遊びに行ってしまったことを、ハーヴェイさんに告げなくても大丈夫だろう。
 それよりも、問題は俺がどうするかで――、半ばうんざりしながら、俺はひとまず仕事に戻ることにした。




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