-紫翼-
二章:星に願いを

36.物語は、既に終わっている



 薄闇の奥底で出会ったのは、よく喋りよく笑う人だった。
 けれど、青い双眸の向こうで何を考えていたのかは、結局分からず仕舞いだった。

 ――なんてものを。

 全ての思考を費やして、彼を他の人間から隠した。彼が望むままに、自分にとっての世界を見せてやった。
 そうして深層に秘めてあったものを初めて見せたとき、彼は見たことのない顔をした。
 唇を震わせ、数歩下がり、驚愕と畏怖に表情を歪ませて。

 ――なんてものを、作ってしまったんだ。

 そのときは、彼の言葉の意味も、彼の考えも、全く理解できなかった。
 ただ、今は――少しだけ、分かる気がする。


 紫の少年が、手の届く場所で眠っている。
 どことなく苦しげな様子は、まるで救いを請うているようだ。
 彼の救いとは一体何だろう。思惟に、そんな一片の迷いが混じる。
 否――答えは決まっている。
 それは、無への帰還に他ならない。
 愚者の馬鹿げた願いが、彼に残酷な光を与えた。
 放って置けば、いびつなものを生み出し続けて壊れゆく。
 だから、手をかざして力を込めた。

 扉が開いた。
 月明かりに沈む部屋に、黄色い光の筋が差し込む。
 女はさして驚いた風もなく、顔を向ける。
 扉を開いた男も同様に、なめらかな足取りで進み、光を締め出すように扉を閉じた。
 対峙したいびつな影たちは、まるで初めからそうなると知っていたかのように、視線を通わせる。
 静寂は、死んだ海を思わせて、尚暗い。
「あなたも結局はあの人と同じ」
 女は歌うように言う。憎悪するように言う。
「私もルガも、ただの駒でしかない」
 男は糾弾にもたじろがない。風を受け流すように、ふっと瞳を細めるばかり。
「いらなくなれば、簡単に捨てる」
 紫の少年の真上に手をかざしたまま、女は続ける。
「それで誰かを救えるとでも思っているの」
 男は、言葉を発するために僅かに顎をあげた。
「放っておけば良かった――と思うのですか」
「あなたは最も残酷な仕打ちをする」
 女は鋭く吐き捨てる。切りそろえられた短い灰色の髪が風に揺られ、憎悪を秘めた頬にかかる。
「害にならねば何をしても良いと置いておいて、目障りになった途端に駆逐する」
 まるで、あの人と同じだ――と。
「そうするなら、初めから抹殺しておけば良かったのだ。光など、与えねば良かった」
 不意に、言葉が震える。紫の少年の頭上にやられた指先が、虚空を彷徨う。
「どうして、誰も彼も、命に代えてこの少年を守ろうとするのか――私は、誰の目にも見られることがないのに」
 諦観の笑みが、口元を歪ませた。灰色の瞳に色はなく、だというのに燃え滾るような激情を孕む。

「この少年も同じように、初めからいなければ良かったのだ」
「シェンナ」

 女は、心臓を鷲掴みにされたように顔をあげた。短い髪が翻る。己の名を呼ぶ男を、見開いた瞳に映し込む。
 目の前の男の姿が、一瞬ぶれる。
 記憶の蓋が弾けとび、脳裏に流れ込むは、古い記憶。
 何もかもを見透かすような眼差し。唇が――動く。
 ――お前も、失敗だ。
 興味を失ったように、影は背を向けて去っていく。その瞬間、己の存在する意味は闇に消えた。
 そしてあのときと同じように、男はこちらを静かに捉えている。
 女の表情が酷く無防備なものになる。怯えたように、女は男を見つめる。

 けれど男は、あのときの影とは違うことをした。
 男は吹き込む夜風の中、やわらかい笑みを向けた。ローブの裾がゆらめいて、一歩踏み出す。もう一歩、また一歩。
 そうして、彼は虚空を彷徨う女の手を取った。女の肩が、小動物のように震える。
 至近距離に立つ男の背は高く、女の影などすっぽりと覆い隠してしまう。さらりとした温度のない男の手の感触に、女は振り払うこともできずに唇を震わせるばかり。
「……私は、あなたに嘘をついていました」
 彫像めいた印象を与える灰色の手を、男は両手で包むようにして目を伏せる。
「あの人のことを、許してなどいないのです」
 呆然と見上げた男の瞳は、氷のように冷たい。そこには憎悪が宿っているのか。
 再び見た先で、男は薄い冷笑を唇に貼り付けていた。ぞっとするような、男の滾る感情を垣間見た気がして、女は一歩退こうとする。しかし手を握られていて、足はリズムを踏むようにその場を彷徨うばかり。
「あの人は、あらゆるものを傷つけ、いびつなものにしてしまった――」
 あらゆるもの。紫の少年。灰色の者たち。――青い双眸を持つ男と、その娘と。そして、それは――目の前の男も含まれるのだろうか。女は、男の表情を探る。女は男を断片としてでしか知らない。僅かな言葉の連なりでしか、男を表すことができない。
 男の歪みは、何処にあるというのか。
「残されたものは地を這いずる他にありません。僅かな力でもがくことしかできないでしょう。幕はもう下りている。観客は誰もいない。物語は、既に終わっているのですから」
 耳に染むような穏やかな声で、男は絶望を紡ぐ。
「私たち残されたものは、心に残った想いをぶつける先を失ってしまった。呪縛は全て解き放たれたのでしょう。けれど標となる聖者も、謗るべき悪魔も、主要な役はもうどこにもいない」
 灰色の瞳を覗きこむ表情は、聖典を語る賢者のようであり、人を唆す悪魔のようでもある。
「だから、私は私のすべきことを、あなたはあなたのすべきことを、それぞれ行うしかないのです。正しきも間違いもなく、ただ、己の思うことを」
 残されたものたちの生む不協和音は、耳にこびりついて離れない。なんて卑怯なのだろう。男は答えがないことなど初めから承知の上で、己の心に従っているのだ。女が紫の少年を傷つけるのなら、男はあらゆる手を使って女を排除するのだろう。あの灰色の男のように。それが男の信念であり、それが揺るぐことは決してないのだ。
 女は残酷な言葉を悪夢のように聞きながら、むずがる子供のように首を振った。
「許していないのなら、尚更、彼を守る意味が分からない」
 自分は、この男に縋りたかったのだろうか。あの人と同じ瞳で、あの人にはなかった笑みを湛え、そして――あの人以上に残酷な、この男に。
「そうですね」
 男は表情を緩めるように、穏やかな笑みを浮かべる。それは、全てを受け入れる瞳だ。肯定も否定もしない、あるがままを全て吸い込んで映し出す。しかし、やはり奥には、彼の苛烈な意思が宿っている。
 傷だらけだと思った。何もかも受け入れるということは、個を消すということでもある。それでいながら、奥底の闇には意思を宿し続ける。糾弾にも揺るがぬ、狂気じみた笑みを浮かべて。それで傷を負わないわけがない。受け入れ、諦観と共に穏やかに笑い、また一方で、苛烈な意思を抱き続ける。心が擦り切れぬはずがないのだ。
 なのに、彼は何故立っていられるのだろう。
 男は夜風に吹かれながら、僅かに掠れた声で告げた。
「許していない――だからこそ、私は、あの人の成したことを知っておきたいのです」
 その、強さが。狂気すら孕んだ、禍々しい力が――何よりも疎ましく、そして、羨ましい。


 ***


 光と闇が混じる境界線。優しく甘く、白と黒が溶けていく。
 それは溢れる知識。それは地平線。それは空と海。それは鳥と魚。
 あるいは、人の願いと、しがらみと。

 目を開く。
 思考が止まっている。
 何かが起きているはずなのに、音を認識しない。光が分からない。
 それは、元々認識出来なかっただけなのか、それとも、認識することをを体が拒否していたのか。
 過去の記憶にそれが触れて、燐光を放つ。これは、ひとたびの出来事ではない。こうやって、何もできないでいるのは――いつだったか、あったことだ。
 既見感に、胸の奥が沸き立つ。
 けれど、今の俺にはその意味が、よく分からない――。

 しばらく経って、ようやく俺は目を覚ました。ぶれていた感覚が、ぴたりと俺の型にはまり込む。俺が俺として、正常な動作を開始する。
 薄暗い部屋だった。呼吸の音が耳に届くほど、静かな夜更けだった。俺はやわらかな寝台に、石造みたいに横たわっていて――。
 窓は開いていた。
 そこに、フェレイ先生が立っていた。
 先生は、一人で外を見つめていた。

「――」

 何故だろう。
 どうしてそんな風に思ったんだろう。
 フェレイ先生は、俺なんかが手を伸ばしても届かない高みにいる人だった。
 いつも穏やかに笑っていた。時折、子供のような仕草を見せるけれども。細い瞳の奥に広がる深い懐は、全てを受け入れてくれるような温もりがあった。
 なのに、どうして。
 どうして――銀糸で描かれたその姿を、こんなにも弱々しいと思ってしまったのか。
 今にも砕けて壊れてしまいそうな、ひびだらけの硝子細工のように見えたのだろうか。
 夜風を受けて、襟足で髪が寂しげになびいている。白い首筋は血が通っているのかも曖昧で。
 ふんわりと膨らんだローブですら、必死で体の傷を覆い隠しているかのよう。
 無性に泣きたくなった。
 必死で掴んだ救いの綱がぼろぼろで今にも千切れそうなことに、掴んでから気付いたような絶望感。
 信じたくないと、心が拒絶する。
 太い柱に、取り返しのつかないひびが入る音を聞く。
 安寧が砂となって、さらさらと零れ落ちていく。
 手で押さえても、指の隙間から抜けていく。
 不可侵の聖域。闇夜の果て。触れてはいけない境地。それら全てが、柱の中央にある。
 それを見てはいけないのに――。

「――先生」

 ぱっと意識が弾ける。
 体が生まれ変わったような、一瞬の混濁。けれど、フェレイ先生が瞬時の硬直の後に振り向くのは、しっかりと捉えていた。
 フェレイ先生は振り向いて、表情を揺らした。少し驚いて、そして笑った。
「起こしてしまいましたか」
 やや呆然とする俺の前で、窓を閉め、脇の椅子に腰掛ける。
 変わらぬ笑み。変わらぬ優しさ。フェレイ先生を形作るものが、みるみる表情を覆っていく。先ほどのことは夢なのだと語りかけてくるように。
 けれど俺は、心のどこかで安堵していた。落下しかけた体を途中で救い上げてもらったような、そんな感じがした。
「……俺、どのくらい寝てましたか」
 問うと、今日の日付を教えてくれる。既に夏休みに入って数日が経っていた。眠りとまどろみを繰り返す内に、随分の時を浪費してしまったらしい。
 フェレイ先生は、どこか疲れた顔をしていた。夜の帳がそう思わせるのか。
 月明かりの青白い部屋は、異世界じみた静けさに落ちている。
「何かあったんですか」
 気が付いたら、そう訊いていた。どう頑張っても、ひび割れて掠れた、情けない声しかだせなかったけれども。
 フェレイ先生は、吐息をつくように目を閉じて笑う。
「ええ――少しだけ」
 薄手のローブに体温はない。俺の顎の下までかけられた掛布にも。水の中の世界にいるように、全ての感覚が鈍重だ。
「でも、心配することはありません。もう暫く休んでください」
 そう言われると、魔術でも使われたように、目蓋が落ちてくる。
 境界線が、再び曖昧になる。
 いけない、と思った。
「フェレイ先生」
 助けを求めるように、呼びかけた。
「はい」
 フェレイ先生は、静かに答える。
 だから。
「あとで、教えて下さい」
 擦り切れそうになりながら、請うた。
 眠っている間に何があったのか、知らないといけない。
 そうでないと、――いつだって、置き去りにされる。周囲ばかりが変移する。
 無知であることの呪縛に囚われたまま、悪意を浴びるのは、きっともう心が耐えられない。
 何も知らずにいることは、脆弱であるであることと変わりないのだ。
 その間にも、意識はみるみる残酷な闇に包まれていく。落ちていく。
「何も知らないのは――怖い」
 俺は、近づく終焉を、頭を抱えるだけで待っている。
 フェレイ先生は、こちらを見つめていた。しかし、表情はすでにぼやけて伺えない。
 暖かい暗闇が、その先には待っていて。
 俺は沈み込むように眠りにつく。

 そうして再び、紫色の夢を見る。




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