-紫翼-
二章:星に願いを

35.母の願い



「見つからない!?」
 夕刻の警視院に響いたそれは、ほぼ怒声に等しい。一日中走り回って疲労をくっきり顔に刻んだ警視官は、それ以上の悔しさに顔を歪ませて告げる。
「全班からの報告では、学園長宅に戻った形跡もなく、行動範囲全域に渡って目撃すらされておらず――」
 苦々しい報告に、立ち上がったのはキルナだった。
「あたしも探してきます」
「待ちなさい」
 蛇のように伸びいてきた太い腕に、肩を捕まれる。しかしキルナは、牙を剥くようにしてそれを振り払った。
「離してっ!」
 激情を孕んだ瞳が、燃え上がるほどの眼光を宿していた。だが中年の職員も頑として動じなかった。
「気持ちは分かるが、君が行ったところで変わりはしまい。自分の立場を考えてくれ」
 静かな言は、冷水を浴びせかけるように鋭い。
「――っ」
 キルナの瞳が、すっとその色を薄くする。まるで、嫌な記憶を呼び覚ましたように。
 だが、彼女が次の言葉を口にすることはなかった。そのとき飛び込んできた一報に、全ての空気が塗りつぶされたのだ。

「き、緊急配備をっ!!」

 扉を突き破るようにして飛び込んできた職員の顔は青褪めて、恐怖に歪んでいた。息をきらしているようだったが、それは疾走のためばかりでないだろう。場にいた者たちの注目を一手に集めた彼は、振り絞るように叫んだ。
「北東地区、3番通りにて魔術を行使する男を発見、現場の職員が追っています!」
「なんだと!?」
 貫禄のついた顔に驚愕を交え、中年の職員が呻くように呟く。しかし一瞬にして現実を取り戻した彼は、鋭く声を投げた。
「他に情報は!」
「しょ、職員が数名負傷と――他は分かりません、情報が錯綜していて」
 焦りを込めて舌打ちをする彼が指示を下す前に、悲鳴のような問いが発せられた。
「チノは!? そこにチノがいたんですかっ!?」
 理性をかなぐり捨てたように叫びながら職員に掴みかかったのは、小柄な少女だ。しかし、職員は唇を震わせるまま動けない。
「――っ」
「どいて!!」
 屈強な職員を突き飛ばし、火がついたように少女は飛び出していった。
「おい、待て――っ!」
 刃のような叫びも、少女には届かない。尻餅をついた職員は、上司の蒼白になった顔を見て、慌てて追いかけていった。

 中年の職員は眉間にしわを寄せたまま、次々と指令を下した。指示が下るたびに、その場にいた者たちが一人一人駆け出していく。狭い警視院の一室は、飛び交う指示や質問でにわかに慌しくなった。
 全ての指令を終えると、中年の職員は一度部屋を出た。グラーシア警視院本部の最高責任者に、この緊急事態を伝えるためだ。
 グラーシア警視院本部部長ラヴェームは、歳に見合わず気性の荒い男である。暇ができれば院内をうろついて職員に声をかけ、激励叱咤することを常としている。もしかすると、既に事を知っているかもしれないが、情報を確認するために直接会わなければいけない。
 階段を駆け下りて、部長室の扉を叩き、返事を待たずにノブを捻る。
「失礼します」
 本来なら咎められるべき振る舞いであるが、緊急事態につき構ってはいられなかった。彼は、そうして部屋の中を――見た。


 部長室は主の忙しさを示すように乱雑な様相を呈していた。棚にびっしりと詰められた書類は、溢れたものが床にまで積み上げられている。古めかしい執務机の灰皿にはこんもりと吸殻の山が聳え、煙で黄ばんだ壁が拭いきれない匂いを醸す。
 そして、執務机には慌てて口元で指をたてる警視院部長ラヴェームと――。
「……」
 中年の職員は、目を点にした。
「……う、……んん?」
 悩ましげな声。それは無論、泣く子も黙る警視院部長のものではない。
 部屋の片隅、古いソファーで子猫のように丸まっていた少女が、もぞもぞと身じろぎしていた。それは、見覚えのある少女だった。
 南の大陸の出身者に多い、淡いエメラルドグリーンの髪。小柄で華奢な体をソファーに埋める少女は、丁度眠りから目覚めたように体を起こして――。
「んな――」
 なんでここに、と言う前に、鬼神のような顔つきをした警視院部長が、胸倉を掴む勢いで詰め寄ってきた。
「何用だ貴様。起こしてしまったではないか」
 これで大した用事でなければブチ殺す、と雄弁に語る眼光で、部長は職員を睨めつける。
「い、いや……な、何故? さっき彼女は部屋を飛び出して」
 中年の職員はそこで、はっとして目を見開いた。
「あの少女はどうしたのですっ?」
「ああ? 朝に待合室で消沈していたのでな、話を聞いてやっていたのだ。そうしたらすっかり眠りこんでしまっててな――」
「アンタが犯人か!?」
「んがっ!?」
 今まで押されていた中年の職員は、一転して荒々しく部長の胸倉を掴んだ。突然の部下の暴挙に、警視院部長は目を剥いてよろめく。
 そんな物音に、やっと覚醒が訪れたのか、少女――チノは不思議そうに警視院の男たちを交互に見やった。
「……あれ、わたし」
「アンタが優雅にお茶してる間に大変なことになっとるんです!!」
 目を血走らせながら部長に掴みかかる職員に、びくりと肩を飛び上がらせ、チノは呟く。
「お姉ちゃんは――?」
 小さな囁きは、職員の耳には入っていないようだった。彼は、現状を殴りつけるような口調で報告する。
 警視院部長はそれを聞くと、顔を青褪めさせ、声を低くしていくつか確認をとった。チノもまた、指が震えだすのを感じていた。


 ***


 紫色の鳥が、茜の光を受けて翼をはためかせる。空高く舞い上がり、黄昏に染まる白亜の都市を睥睨し、くるくると円弧を描く。
 燃えるような色に染まりながらも、廃墟のように寂しい都市の姿を憂いているのだろうか。――それとも、哂っているのだろうか。
 薄手のローブをまとった男は、点のように小さな影が描く軌跡をじっと見つめ、そしてその方向に顔を戻した。そちらは、都市の暗部たる歓楽街の方面であった。
 辺りは騒がしく警視官たちが走り回っている。それは緊急事態とは思えぬ組織だった動きであった。普段から都市中を駆け回る警視官たちである、ここにきて彼らの強みが表にでた形だ。都市の勝手を知り尽くした彼らと、――あの灰色の男では、どちらが勝者になるだろうか。
「建物の中へ! 外にでないで下さいっ!!」
 飛び交う怒声に、何事かと顔を出した民間人は、警視官の手により再び屋内に押し戻される。建物の影に立っている男も、そのままでいれば警視官に見つかっていただろう。
 しかし、彼には見つかってはいけない理由があった。
 剛健とはいえない細い長身をローブに包んだ男は、音もなく黄昏の海に足を踏み出す。都市と一体化したような静けさと共に。
 紫色の鳥は、未だ孤高に空の高みを舞っている。


「ちぃっ!! ロイ、ラディ、28番通りにまわれっ!」
 灰色の男は、曲芸じみた動きで屋根から屋根へと渡る。脱兎のごとく逃げていく男を追うのは、警視官の精鋭とて至難の業であった。
「絶対に見失うな!!」
 夕暮れ時の歓楽街は、既にぽつぽつと店が開いている。そちらにも職員を配備したので、野次馬に追跡を邪魔されることこそないが――。
 次第に職員の間に焦りが生まれつつあった。手負いの獣は、何をするか分からないのが最も恐ろしい。相手は魔術を都市内で扱う。民間人が巻き込まれる事態だけは避けたかった。
 しかし、それ以上に警視官たちは猛っていた。つい先ほど、仲間が彼によって負傷したのだ。どれほどの傷だったのか確認する暇はなかったが、それでもその事実は彼らに純粋な怒りを巻き起こした。一人が影を見失っても、他の誰かが捉え続ける。的確な指示によって、確実に包囲網は狭まってきていた。
『二つ橋回廊に誘い込め! 四方から確保する!』
 緊急時のみに使われる無線装置が、独特のくぐもった響きを持って鋭く指示を下す。
 都市中が斜光によって、戦火を思わせる茜色に染め上げられていた。警視官たちの石畳を蹴る音。不安や好奇の目を投げかける住人たち。なのに都市は奇妙な静寂の内にあった。夜の訪れと共に、このまま世界が終わってしまいそうな、最後の黄昏を思わせる夕暮れだった。
 汗の玉を散らせながら、警視官は走る。灰色の男は、逃げることに集中しているのか、魔術をしかけるようなことはしてこなかった。しかし、茜を背景に、魔術規制の結界が張られる都市内で浮遊術を駆使する姿は、まるで異世界じみていて禍々しい。
「くそ、化け物かよ」
 警視官の内の一人が、憎々しげに呟いた。浮遊術でさえ、人の身では行使が困難とされているのだ。それを軽々と行使していることですら信じられないのに――。
『いいぞ、キールとファンズは南方面から迎え撃て。最後まで気を抜くな!』
 都市の平穏を守る。自らの職務を全うするために、彼らはまるで一つの生き物になったように動いた。
 だが、包囲網を完成させるまであと一歩の地点で、灰色の男は突然逃亡をやめた。その周辺で、一際背の高い建物の屋上に、彼は降り立った。数多の瞳が緊張を漲らせる中、もたげられた腕から光がほとばしる。
 絶対に見逃すまいと、灰色の男の姿を凝視していた彼らの行動を読んだ一手だった。
「――っ!?」
 衝撃も爆音もしなかった。ただ代わりに、まるで彼自身が太陽になったような強烈な光が、彼らの目を焼いた。
 一人、また一人と、思わず目を押さえながら膝をつく。暴力的ですらある光の塊は、警視官たちの動きを大きく鈍らせた。
 その隙に灰色の男が都市から離脱しようとしていることは、誰の目にも明らかだった。しかし、目を開けていられないほどの光の中では、まともに影を追うことをできる者がいない。
 ――地を引き裂くような叫び声が打ったのは、そのときのことだった。


 キルナは、全身から力を振り絞るようにして走っていた。
 夕暮れに侵食された都市には、長い影が幻影のように揺らめく。遠いところから、怒鳴り声が聞こえてくる。
 体中が熱を放って、炎のようだった。しかし、一方で脳裏を氷結させたまま、彼女は妹の姿を探して彷徨っていた。
 守らなければならないと、その意思が彼女の心を鮮烈な光となって焼く。遠い遠い記憶の果て、母と約束したのだ。瓦礫の下に埋もれた母。そのときは、まだ生きていた。どうすることもできずに、うろたえ、泣くことしかできない双子の姉妹に、――母は、微笑んで語りかけたのだ。
 ――キルナ。あなたはお姉ちゃんなんだから、しっかりするのよ。
 唇を強く噛む。あの日の母の言葉を守らなければいけない。たった一人の家族だが、それ以上に、自分たちは二人で一人なのだ。だって、母は。
 ――チノ、あなたは――。
「君、危ないから建物の中へ非難しなさい!」
 唾を飛ばす勢いで警視官が声を張り上げるが、逆にキルナはそちらに駆け寄って、詰るように掴みかかった。
「チノ――あたしと同じ顔の子を見ませんでしたか!」
「え?」
 警視官の男は、少女の様子に尋常ではないものを感じ取って、言葉を詰まらせた。しかし、今は緊急事態だ。のけぞりかけた体を押し戻して、少女の肩に手をかける。
「いいや、見ていないが。しかし今は安全な場所に避難を――」
「あたしだけ助かったって意味がないの!!」
 激情に、涙の粒が玉となって舞う。キルナは、身を剥がすようにして、再び走り出そうとした。
「待ちなさいっ」
 その体がすり抜ける前に、腕が伸びる。少女は、体をよじって逃げようとする。そんなとき、別の方向から声が割って入った。
「待ってください!」
 顔を向ける二人の目に映るは、夕日を光を受けて輝きを放つ、黄金の長髪。セライムが、丁度駆け寄ってくるところだった。
「――キルナっ」
 一度目を細めて、それが双子の姉であることを見極めたのだろう。名を呼んだセライムに向けて、キルナは一度目元を拭い、口を開いた。
「チノ。チノを見なかった!?」
「私も探していたんだ。警視院の人が探していると聞いて――しかし、これは一体」
「――っ」
 キルナは、一度唾を飲み込み、唇を噛み締めて踵を返す。はっとセライムが目を見開いたとき、既に小さな靴は石畳を鋭く蹴っている。
「ま、待ちなさい、こらっ!」
 困惑した顔で、警視官の男がそれを追う。セライムは、ためらいもせずに、同じように走り出した。
「こ、こら! 君も建物の中へっ」
「嫌です!」
「んなっ」
 気持ち良いほど歯切れ良く拒否した娘は、ぎょっとするような速度で警視官の脇をすり抜けていった。虚をつかれて、警視官の男は悔しげに顔を歪めた。
「待ちなさいといっているだろう!」
 キルナは背後の気配を人事のように感じ取りながら、同時に、都市を侵食する魔力の渦を探っていた。
 方向は――歓楽街。騒ぎが聞こえてくる方角だ。
『あの男がいるんだわ』
 走りながらも、足は迷っていた。このまま行けば、灰色の男と鉢合わせになる可能性は高まる。警視官の言うことが本当なら、自分はきっと殺されるのだろう。
 しかし、と、もう一つの心が叫び続けていた。もし、チノが既にあの男によって手を下されていたのなら――。
「キルナっ!」
「っ!?」
 不意に耳元に気配を感じたと思ったら、腕が捕まれていた。セライムだった。疾風のように駆けてきたセライムは、険しい顔をこちらに向けていた。
「キルナ、待て。ここから先は危ない、戻るんだっ」
 強い力で体を引きとめられる。澄んだ青の双眸を見つめて、一瞬、何が分かるんだと言いたくなった。たった一人の家族を、大切な妹を、失うかもしれない想いなど、他人に分かるわけがない、と。
 しかし、同時に、それが傲慢であり、ただの意地でしかないことも悟っていた。――否、自分に妹を守る力すらないことを、彼女は心のどこかで知っていた。それに、自分がいなくとも、妹は十分に強い。妹を守ろうとする自分が、ただ依存しているだけなのだ。人を守るという優越感に身をおいて、安定しているだけなのだ。
 一瞬の葛藤が、キルナの口を噤ませる。セライムによって走りを止められると、途端に足が震えだした。その場に崩れ落ちなかったのは、セライムが支えてくれたからだった。
「――あたし」
 どうしたら、と、呟きが喉の奥に消える。己の無力が悔しかった。大事なときに妹を守るどころか、見つけることすらできない。幼い頃、瓦礫の下に埋まった母を助けられなかったときのように。
 そのとき、都市の一点から、強烈な光が放たれた。俯いていたキルナ、それを支えるセライムは目を焼かれることはなかったが、故に少女たちは、茜色の空を舞う影を見た。
 二人は、無意識の内に、互いの腕を掴む力を強めていた。発展した魔術文明によって、犯罪阻止のために、都市では魔術規制の結界が張られるようになった。なのに――そこを、鳥のように舞う影は、まるで時代を間違えたかのようだ。
 悪夢を見るように目を見開いたままのキルナは、その影が――逃げるように遠ざかっていくのを、見た。そこまで高い場所ではない。服の裾がたなびくのが見える。
 同時に、心の奥底から、激情がこみ上げてくるのを感じていた。喉の奥から、熱が濁流となってほとばしる。あの男がもしもチノに手を触れたとしたら、もしもそうであったら。
 絶対に許せない。己の無力を知っていたとしても。結局は依存なのだとしても、守りたいと願っているのは、変わりない事実なのだ。ただ一人の家族として、大切にしたい気持ちは揺るがない。それを奪われる謂れなど、あるわけがないではないか。
 矛盾を抱えながらも、いびつなものを内包しながらも、今まで生きてこれたのだから。
 だから――。
「――ちなさい」
 セライムは、ふと、親友が小さく呟くのを耳にした。しかし、止める間はなかった。
「待ちなさいっ!!」
 夕暮れの黄昏に、叫び声が木霊する。まるで、大地を打ち鳴らしたような声だった。
 突然の親友の挙動にセライムは凍りついて、再び空を見上げた。まさか、と思ったときには、既に、それが事実となっていた。
 影は、呼応するようにこちらに進路を変えた。キルナは、怖気づきもせず、それを見つめていた。
 あれは、本当に自分を殺したがっているようだ。汗でぬるつく拳を握り込んで、唇の端を吊り上げる。
「あたしは、ここにいるわよ」
 それは、賭けだった。警視官は都市中に散らばっている。ならば、自分がこうやってあれを引き付けている間に、取り押さえる者が現れるだろう。
『現れなかったら?』
 死ぬだろう。心が、酷く冷静に告げていた。けれど、どうなろうと後の祭りだ。己の意地が、己を滅ぼすなら、自業自得である。
 だがそれ以上に、負けたくなかった。己を守り、妹を守る。日常を守る。その為に、戦うことをやめて膝を屈すれば、それこそ自分を許せなくなるだろう。
 瞬く間の出来事であった。宙を舞う影は、息を呑むような速さで近づいてくる。その手に、人を殺す魔力を秘めて。
 気が遠くなるような一瞬を過ごしながら、警視官たちはどうしているのだろうな、とキルナは考えた。やはり、灰色の男に翻弄されて動けないのだろうか。ならば、自分はもう死んでしまう以外にない。
『馬鹿』
 自分を小さく詰って、キルナはセライムを突き飛ばした。どうして、こんなに冷静になれたのか、自分でも不思議だった。呆然としていたセライムは、簡単に飛ばされてくれる。
 たった一人、道の真ん中に立ったキルナは、茜色の空を仰ぐ。どうか、自分の作ったこの時間が、あの男を確保する隙に繋がるよう、祈りながら。
「チノ――無事でいて」

 そういえば、あの地震があった日も、こんな茜色の空が広がっていた。
 世界が終わってしまうような日だった。もちろん、残酷にも次の日はやってきたけれど。
 無力な子供たちは、見るも無残に倒壊した家を前に、呆然としていた。
 母が、倒れていた。初めに気付いたのは、妹の方だ。
 母の胸から下は、巨大な瓦礫の下敷きになって見えなくなっていた。あとほんの一息、外に出ていれば免れたのだろう。しかし、彼女は動転した娘たちを外に追いやるのが精一杯だった。
 ただ、そのとき母にはまだ息があったのだ。血を吐きながら、母は残された娘たちに告げたのだった。
 姉には、姉として、妹を守ることを。
 そして、妹には。

 ――チノ、あなたは、お姉ちゃんが無理しすぎないように、しっかり支えてね。

 そういえば、あのときからだ。
「キルナぁっっ!!」
 妹が、自分のことを、『お姉ちゃん』と呼び始めたのは。

 灰色の男は、少女に向けていた手の平から、光を霧散させた。信じられないことが起きたのだ。
 道の別の方角から、同じ少女が駆け出してくるところだった。髪の色も、体格も、全く同じ。遠くて顔が見えない分、まるで分身が現れたかのようだ。
 一瞬の迷いが、男の姿をそこに留めた。そのとき、何かが破裂する音がした。次に彼が息を吸うときには、腹に焼け付くような熱さを感じていた。

 不思議そうに、キルナは首を回した。おろした髪を振り乱して、もう一人の自分が駆け寄ってくるのだ。
 否。そうではない。駆け寄ってくるのは――。
 そう思ったときには、飛びつくように突進してきた塊と一緒になって、建物の影に倒れ込んでいた。
 心臓を握りつぶすような音がしたのは、そのときだった。銃声を聞くのは初めてだった。起き上がって瞬くと、巌のように逞しい壮年の警視官が、離れたところで両手で持つ黒い塊の切っ先を、空の方角に向けていた。切っ先からは、煙が立ち昇っている。
 空を仰ぐが、建物の影では死角となって、男の姿は見えない。しかし、壮年の警視官は、即座に立ち上がって無線に怒鳴りつけた。
『ラヴェームより、全職員に告ぐ!! 標的は住宅街南方に墜落した模様、慎重に確保しろ!! ――馬鹿どもめ、間一髪だったぞ。今度の査定は覚悟しておけ』
 最後の一言を聞いた警視官たちは、一様に真っ青になったことだろう。どこか他人事のように、そんなことを考えていたキルナは、不意に頬に衝撃を受けて目を瞬いた。
「キルナの馬鹿ぁっ!!」
 何が起きたかと、呆けた表情で見返した先には、チノが真っ赤な頬に涙を散らしていた。こんなにぐしゃぐしゃになった妹の顔を、キルナは見たことがなかった。
「馬鹿だよ、なんてことするの。キルナの馬鹿馬鹿、キルナが――お姉ちゃんがいなくなったら、わたし……!」
 胸倉を掴むようにして、弾丸のように怒声を注ぎ、チノはキルナの肩に顔を押し付けた。抱きついてくる腕は哀れなほどに震え、それをキルナは呆然を見下ろした。
「もう、二度としないで」
「――」
 不意に、心臓の音が戻ってきた気がした。自分が生きているのだと、妙な感慨が胸に生まれた。そして、妹が確かにここにいることが、じんわりとした事実として胸に落ちた。
「――ごめん」
 ゆるりと手をもたげる。しゃくりあげる妹の頭にやりながら、キルナは掠れた声で呟いた。
「……ごめんね、チノ」
 確認するように頭を撫でてやって、目を閉じる。胸に染むような妹の泣き声が、ちくりと痛く、同時に暖かい。
 確かに、妹は自分がいなくとも生きていけるのだろう。しかし、それは無責任で、自分勝手な仮定だ。誰もが失う痛みを恐れているのは同じなのだ。何故気付かなかったのだろう、双子の妹は、元より自分に瓜二つだったのに。
「もう、大丈夫だから」
 呟くと、どっと疲れが押し寄せてくて、キルナは薄く笑った。
 今でも、母の願いを守れているかはわからない。自分はまだ、守っているふりをして、ただ周囲に依存しているだけかもしれない。そしてこれからも、自分はこんな己のありように、苦しんだりもするのだろう。自分はこんなにも小さくて、頼りない。たった一人の家族ですら、満足に守ってやることができない。
 けれど、それでも構わないと思った。こうやって、現実に互いを必要とできるのなら。何もかもを、分かち合うことができるのなら。この日々を守るために、もっと強くなろうと思えるのなら。
 それで十分だと、キルナは妹の体を抱きしめた。


 ***


 視界がちかちかと瞬き、頭が割れそうなほどの激痛に襲われていた。
 元より不完全な体なのだ。とても成長はできないだろうと言われていた。だから、ここまで生きてこれたことが何よりもの奇跡だった。

 ――生きる理由を下さい。

 一体、この限られた生で己に何が残せるのだろう。
 紫の少年は、光の中を行くだろう。あの人に愛された彼は、きっと、どこまでも駆けてゆくのだろう。
 しかし、呪われた己は――闇の中で何が出来るのか。
 体を突き動かす衝動が欲しかった。何かをしていないと、壊れてしまいそうだった。
 嵐の夜。なぶる風と雨粒。海原のように震える森。あの日、あの人に生きる理由を請うた。
 すると、その人は。
 この上ない残酷な命を下したのだ。

 ――彼を守ってくれ。
 ――彼が人として生きることを妨害するあらゆるものから。
 ――ユラスを。ユラスを、守ってくれ。

 雷鳴が落ちる。
 こめかみが痺れて、何も見えなくなった。
 失敗作だった自分に目が向けられることは、やはりなかったのだ。
 彼の瞳には、紫の少年しか映ってはいなかった。
 だから――だから、最後に残った心の一片を残すには。
 思考を、止めてしまう他になかったのだ。
 

 がくりと体が傾ぐ。まだ逃げなくてはならないのに。まだ――。
 なのに、墜落が始まった。誰か、別の人間の魔力を感じた。他の者が、魔術を行使しているのだ。普段の彼なら片手で払える程度の力なのに、小鳥のように頼りない今は、ただ弄ばれるしかない。
 夕日がいよいよ強い光を投げかける時間帯だった。受身もとれずに黄金色の石畳に投げ出されたルガは、ざり、と足が砂を踏む音を聞いた。
 酷い吐き気にさいなまれながら、顔をもたげる。逆光になった影を捉えた灰色の瞳が、ゆるゆると見開かれる。
 ゆったりとした薄手のローブ。目立たない色のそれは、今は燃えるような茜色に。
 手には破かれた羊皮紙。視線を上げていくと、男の静謐な瞳とかち合った。
 ルガは息を呑んだ。横腹から、ゆるやかに血流が流れ出していく。心臓が一つ波打つごとに、体から力が抜け落ちていく。
「……あなたの身柄は、警視院に引き渡させて頂きます」
 穏やかな、しかし表情のない声だった。男は笑っていなかった。いや――むしろ、悲しげな顔をしていた。まるで、こちらを哀れむような。
 憤怒の感情が、胸の奥底から沸き起こった。敗者であり、日陰に生きるしかなかった己の想いが、一体誰に理解できるというのだろう。誰にも愛されなかったから、生きる理由に、あの命令に、身の全てを窶すしかできなかったのだ。
 ――あんな紫の少年など、壊れてしまえばいいと思いながら。
 けれど、己に下された命令に逆らうこともできずに。
「あなたは……やりすぎました」
 あの日、あの人と同じ光を宿して、男は告げる。
「罪のない人を、傷つけすぎた」
 違う――、叫ぼうとして、しかし声がでない。
 肉のそげおちた頬が、震えて歪んだ。理由もなく手を下したことは、ただの一度もなかった。紫の少年に危害を加えようとする者を排除しただけだ。ただ、命令を忠実に遂行しただけだ。
 もしもその命令すらこなせないとしたら――きっと、きっと、あの人は二度と笑ってくれないだろうから。
「あなたには、残酷な言葉かもしれませんが」
 地に這い蹲るルガを前に、男は立ったまま、歌うように語る。
「例えあなたがどれほど苦しもうと、それが人を傷つけても良い理由にはならないのです。あなたが苦しむように、彼らにもきっと、歪みや苦痛があります――いいえ」
 男は目を閉じた。表情は逆光に照らされて、悪寒が走るほどに暗い。
「歪みを持たない人間など、存在しないのです。だから、思考を止めることは許されない。己を疑うことを止めてはいけない。幻想に囚われて、己を失ってはいけなかった」
 指に力が入らなかった。けれど、もし入っていたなら、全ての力を持ってして目の前の男を消してしまいたかった。
 無視されることには慣れている。いないものとして扱われることが、当たり前だった。
 だが、こうやって目の前で諭すように語り掛けられるのは――。
 まるで救いようのない己の姿を、白日の下にさらされるのと同じではないか。
 男はもう、何も言わなかった。ルガはそんな男を睨み続けた。この男も、光の中を行くことに違いはない。
 ――歪みを持たない人間など、存在しないのです。
 ならば、男にも歪みがあるのか。まさか、とルガは否定する。男は何も経験していないはずだ。あの身に染み入るような闇も。昼も夜もない世界も。こんな――身を焼くような苦痛も。
 そうでなければならない。そうでなければ。
 支えが崩れてしまう。
 だから、目を逸らすことは許されなかった。年齢を重ねた静かな瞳に、ルガは刺すような視線を向け続けた。
 空しい抵抗なのだと、心のどこかで気付きながら、けれど屈してしまうわけにもいかなくて。
 屈すれば、自分の生きた証をなくしてしまう気がして。
 警視官たちがやってくるまで、ルガは、黙って聖なる学び舎の学園長を睨み続けた。




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