-紫翼-
二章:星に願いを

34.女の子は難しい



「どうして会わせてもらえないんですかっ!!」
 悲鳴のような叫び声と机を叩く音が、早朝の警視院内の注目を集める。
 そこにいたのは、今にも泣き出しそうな顔をした小柄な少女であった。
「そのように指示が下っておりますので。ご協力下さい」
 対する窓口の男は、ぴくりとも能面を崩さない。表情の見えない言葉に憤慨したように、ますます少女の拳が震えた。
「お姉ちゃんは悪いこと何もしてないんでしょ、なのに――!」
「チノ君」
 ふと今にも砕けてしまいそうな肩に、後ろから手がかかる。少女が弾かれたように振り向くと、複雑そうな表情をした学園長と視線がかちあった。
「――っ」
 チノは言葉を飲み込むように、唇を噛み締めて俯く。結う暇もなかったのだろう、おろした髪がその表情を隠し、合間をちらっと光る水滴が零れ落ちる。
 窓口の男はそんな様子を醒めた様子で一瞥して、手元の書類に目を落とした。
「フェレイ・ヴァレナスさん。あなたを上に通すように言付かっております」
「どういったご用件でしょうか」
「担当の者にお聞きください。ご案内します故――」
 さらさらとペンを走らせながら顔をあげた窓口の男は、学園長の顔を見て一瞬、詰まったように口を噤んだ。
 口元に手をやっている少女の後ろで、薄手のローブを着た学園長は、ぞっとするほどに静まり返った瞳をしていた。まるで眠れる獅子が、ふと澄んだ目を開いてこちらを見るように。
 穏やかな佇まいの中に妙な迫力を感じとって、窓口の男は気まずげに目を逸らす。
「上からの命令ですので。苦情はそちらに言って頂ければ」
「……わかりました」
 学園長は会釈をして、震えるチノにそっと語りかけた。
「話を聞いてきますので、待っていて下さい。大丈夫、すぐに会えるよう言っておきますから」
 俯いたまま頷くチノは、促されて待合室の椅子に浅く座る。体を縮こまらせた様は、小動物めいて弱々しい。
 学園長は職員に案内されて二階への階段に足を踏み出した。最後に気遣わしげな目を、震える少女に向けてから。


 ***


 彼らに事件の第一報を知らせることになったのは、深夜の学園長宅に鳴り響いた電話のベルだった。
 飛び込んできた情報の第一は、キルナ・ディーンミルの身柄を警視院で預かっていること。
 そして第二に――込み入った事情があり、すぐに身柄を返すことはできないこと。
 穏やかな夜更けを襲った報に、学園長宅は一時騒然とした。そんなときに皆を落ち着かせる役を預かっていた少女自身がいなくなったのだ。学園長が手を尽くして沈静させたが、今も不安が家中を覆っていることだろう。

 学園長は、応接用の椅子に背筋を伸ばして座していた。無骨な作りの部屋は、厳格な警視院ならではの硬質な空気を醸している。
 暫くの後に扉が開き、まずは二名の警視官が姿を現した。中年の厳しい顔立ちの職員と、まだ制服も真新しい若手の職員だ。
 そして、巌のように逞しい二人の男の後ろに隠れるようにして、キルナが緊張した面持ちで続いた。
「先生」
 立ち上がる学園長に気付いて、キルナは安堵したように表情を緩めた。しかしすぐにぎゅっと唇を噛み締めて、真剣な眼差しを向ける。
「迷惑をかけてすみません、先生。チノは……大丈夫ですか」
 僅かに震えていたが、毅然とした口調だった。学園長が妹の様子を伝えると、彼女はもどかしげに鳩尾の辺りで両手を重ねた。
「まずは座りましょうぞ。私どもから話をさせて頂きますゆえ」
 中年の職員が、よく通る低い声で促して、全員が着席した。季節は夏。狭い部屋に四人が顔を付き合わせると、辺りはじっとりと蒸し暑くなった。
「学園長殿も、そちらの生徒さんも。深刻な話であるため、心して聞いて頂きたい」
 中年の職員は、険しい顔をしているものの、その瞳は現実を鋭く見通していた。彼はもったいぶった挨拶などを省き、単刀直入に言った。

「そちらの生徒さんを、しばらくこちらで預からせて頂きたい――いいえ、ここではなく首都アルジェリアンの警視院本部に身を寄せて頂きたいのです」

 学園長とキルナの瞳が、同時に弾けた。
 キルナは、腕で己を抱くようにして力を込める。しかし元から気丈な娘であるためか、それ以上の乱れは見られなかった。
 一方、隣に座る学園長は視線を逸らすことなく、僅かに顎をひく。
「理由を聞かせて頂かないことには承諾しかねます。いいえ――本来なら、いかなる理由があろうと承諾しかねるお話です。私はキルナ君の正式な保護者ではありません、そのような判断が出来る立場ではないのです」
 鋭く切り返す学園長と、中年の職員の視線が交差して火花を散らす。若手の職員の方は気後れした様子だったが、中年の職員の眼光は揺るがなかった。
「ええ、勿論ご説明致しますとも」

 職員からの説明は、現実的で、至極要領を得たものだった。警視院出動回数の多い都市である為に、こういった話にも慣れているのだろう。
 中年の職員は、所々キルナに確認を取りながら、まずは昨晩の出来事を語った。
 そして、その主犯と見られる男を、前々から警視院が追っていたのだと続ける。
「いくつかの殺人、また障害事件に関わっていると睨んでいます。その多くは、重大性から公にされていない件ばかりですが……、一つには先日の生徒襲撃事件も入っています」
 すると目配せをされた若手の職員が、僅かに声を上ずらせながら説明を引き継ぐ。
「い、一貫していることは、相手が魔術結界の中でも護符を使わずに魔術を行使しているということです。どのようなからくりで行使を可能にしているかは目下調査中ですが、それらしい人物がこのグラーシアで複数目撃されている点、また今回も住宅街で幻術を行使したという共通点、これをあわせますと、同一人物である可能性が高いと」
「では、何故キルナ君の身柄をここから移すのですか」
 穏やかな口調だが、若い職員が口ごもるほどに、苛烈な光を内包した声だった。これには中年の職員が小さく溜息をついて回答を引き継いだ。
「生徒さんは、男の顔を見ているのです」
 キルナが、身を強張らせながら頷く。中年の職員は膝の手を見つめて、ふっと表情を暗くさせた。
「学園長殿、これは生徒さんの為でもある。――あの男の顔を見た者は、例外なく殺されるか、それに等しい目に遭っているのです」
「――」
 学園長は、ふっと目を開いて怪訝そうな顔で職員を見つめた。職員の瞳には、懊悩と、強い怒りの炎が燃えているように見えた。
「……一体、何人が被害にあったのですか」
「具体的には言えません。しかし――」
 若手の職員が目をそばめ、中年の職員は手を固く握った。
「酷い事件です」
 ぽつりと落ちる呟きは、胸に深く突き刺さる刃のように重い。
 学園長は、暫く思案にふけるように黙っていた。伏せられた瞳に表情は伺えず、警視官たちは緊張した面持ちでそんな様子を見つめる。
 しかし、ふと学園長は何かに気付いたように、顔をあげた。
「待って下さい」
 鋭い声に一同の注目がいく。珍しく深刻な表情で、学園長は口早に問うた。
「顔を見た人が狙われているということは、今このときもキルナ君は狙われているのですね」
「ええ――そう考えられますが」
 不思議そうに返答する職員の前で、学園長は素早くキルナに目配せした。キルナも初めは呆けたようにそれを見返していたが、ある点に気付いて立ち上がり、悲鳴のように呟いた。
「――チノ!」
「え?」
「下の階にいる生徒をすぐに保護して下さい。キルナ君の双子の妹です!」
「双子……?」
 中年の職員は、目を剥いて聞き返した。だが次の瞬間には意味を察して、腰を浮かす隣の若者に怒鳴りつけるように指示を下した。
「保護を急げ!」
「は、はいっ」
 乱暴な音が立つのも構わず、若手の職員は雷鳴が落ちたような足取りで飛び出していった。
 キルナも、今にも続いて飛び出していきそうな顔で、大人たちに交互に視線を向ける。だが、学園長と目があうと、詰まったように唇を噛んだ。
「大丈夫ですよ、下で待っているように言いましたから――」
 学園長はそんなキルナを安心させるように声をかけ、再び座らせる。その場には緊張と苛立ちによって重苦しく淀んだ空気が堆積する。

 しかし、数刻を経て――その知らせはもたらされたのであった。
 走り回ったのだろう、整えてあった茶髪を乱れさせて、若手の職員は戻ってきた。酷く息を切らした様子で彼は言った。

「くまなく探しましたが、見つかりません。出ていったものと見られます……!」


 ***


 イザナンフィの民の容姿をした少女を、至急確保せよ。
 下った指令によって、警視官たちは真夏の都市中に散らばっていた。
「……ああもう、どうしてこんな面倒な仕事ばかり。実家に手紙も書けやしない」
「ぼやくなよ。危険手当もちゃんと出るんだから」
「出なかったらとっくに田舎に帰ってます」
 憮然と答える若い警視官に、先輩格の警視官は苦笑した。
 グラーシアの警視院では、何かと問題の多い学術都市を律する為に、徹底的な現場主義で通している。しかも、新参こそ実戦で学べと言わんばかりに若手が最前線に放り込まれるものだから、この若い警視官も荒波にもまれて荒みかけていた。無理もない。
「そういやお前、学園長との対話に連れてかれたんだって?」
「ええ。死ぬほど怖かったですよ」
「はは。そうか、お前もついに見たんだな」
「優しそうな人かと思ってたんですけど、目が笑ってないんです。肝が冷えました」
「お前な。相手を誰だと思ってんだ。いいか、組織の上に立つ人間ってのはな、チンピラじゃなきゃやってられねえんだよ」
「チンピラって……」
 茶髪をがりがりとかきながら、若い警視官は口元を歪める。しかし、対する先輩格の警視官は悪戯っぽく笑ってみせた。
「ウチの部長見てみろよ、あの指名手配犯みたいな顔。後ろに守らにゃイカンものがあるとな、人はああなる。何よりも優先して生徒を守るからこそのことだし、だから学園長さんは長い間その座についてるんだろうよ」
 若手の警視官は口を曲げて眉を潜めた。確かに、学園長は生徒のことをよく考えているようだった。自分たちが探している少女のことだって、初めに学園長が気付いたのだ。
「……その子は一体何処に行ったんでしょう」
「んー、あのくらいの女の子は難しいからな。まあ、すぐに保護されるさ」
 見上げた空はそろそろ夕暮れ時に差し掛かっていて、若い警視官は焦りを覚えていた。まだ少女を確保したという連絡はきていない。万が一保護する前に例の男に見つかったら――双子の姉の姿を見ているだけに、ぞっとする。
「そうだといいのですが――?」
 ふと、細い脇道に目をやった彼は、眉を潜めて立ち止まった。
「ん? どうした?」
 言いながら同じように脇道を覗き込んだ先輩格の警視官も、怪訝そうに目を瞬かせる。
 住宅街の一角であるそこは、住宅の勝手口に繋がっているようで、人がすれ違えないほどに狭い。しかも廃品置場になっているようで、錆びた鉄くずや古びた本棚が折り重なっていて陰鬱な様相を呈している。
 そして、――それらの影に細い男が一人。まるで隠れるように倒れ込んでいるのだった。
 二人の警視官は、顔を見合わせた。歓楽街であれば、よくある光景として済まされただろうが、しかしここは住宅街である。しかも倒れているのは、色素の抜け落ちた髪の色と体格からして年配の男のように見えた。
「あの――」
 若い警視官が、駆け寄っていって膝をつく。
「もしもし、大丈夫ですか」
 肩を揺さぶると、ぴくりと骨ばった指先が動いた。とりあえず死人ではないらしい。警視官はやや胸を撫で下ろし、声を大きくした。
「大丈夫ですか、こんなところで寝てたら駄目ですよ」
 反応するように、男は身じろぎをして地に指を這わせる。若い警視官は彼が上体を起こすのを手伝ってやった。そして、長い前髪で隠れていたその顔を見て、はっとした。
 老人かと思っていた男は、若者であった。しかし、落ち窪んだ瞳や、やせこけた頬が、彼に拭いきれない死の匂いを漂わせている。虚ろな彼の様子は灰色の髪と相まって、尋常ではないように映った。
 ――病人か。
 若い警視官は指先が冷えるのを感じた。この様子は、すぐに病院に運ばなければならないと思った。
「あなた、お名前は」
 問うと、男の瞳がゆっくりと現実を取り戻すように瞬く。
 男は、若い警視官の顔を、茫洋とした表情で眺めた。そして、警視官の着ている服を見て、ゆるゆると瞳を見開いた。
「――」
 それまで離れたところで様子を見ていた先輩格の警視官は、ふと何かに気付いたように眉を潜めた。
 瞬間、弾かれたように、彼は体中を声にして叫んだ。その手を腰に帯びた拳銃にやりながら。
「は、離れろっ!!」
「――え?」
 不思議そうな顔で若い警視官が振り向く。その間にも灰色の男は爆発的な殺気を持ってして、魔力をその手に集めていた。




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