-紫翼-
二章:星に願いを

33.お手並み拝見



 働き先の役所を出たのは、もう夜もとっぷりとふけた時刻だった。
 遅くなっちゃった、とキルナは心の中で呟いて、手にした鞄を肩にかけなおす。学園長からは、最近は治安が悪いから早く帰宅するよう言われていたが、どうしても仕事が長引いてしまったのだ。
 先日の事件を受けて、夜の都市は未だ水を打ったように静まり返っている。同世代の少女よりも大人びたキルナでさえ、夜闇に音もなく翼を広げる白亜の都市は薄気味悪く見えた。
 大通りを足早に歩いていても、時折人とすれ違うものの、その気配すらぼんやりとしていて頼りない。
『――元々、人の営みが希薄だから』
 キルナは鞄のもち手を握り込んで、脳裏に懐かしい故郷を思い浮かべた。
 遥かなる海辺の町は今やすっかり復興したものの、脳裏の黒いキャンバスに描かれるのはやはり震災当時の光景だ。突然の凶事に、ある者は家族を、ある者は家を失って震え上がっていた。
 しかし、それでも人々は手を取り合い、身を寄せ合っていたのだ。わざと明るい話題を作り、夜も闇の恐ろしさに負けぬよう煮炊きや物資確保に走り回り、まるで町全体が一つの生き物になったような一体感があった。
 それに比べてグラーシアは、どのようなときも沈黙を守る。各々息を潜めて、猛獣が通り過ぎるのを待つ。やはり、住む者たちが冷たいからだろうか。
 紫の少年が働いている古本屋の前を通り過ぎ、横道に入る。すると、夜の海に足を踏み入れたような、なんともいえない嫌な感覚がした。今はまだ、夏の盛りだというのに。
『やだ、あたしらしくないわ』
 こつこつと、石畳をブーツの底が叩く。眉間にしわを寄せて、周囲を見回す。

 刹那、風のない闇が、突然震えて頬を叩いた。

「……え」
 キルナは立ち止まった。彼女でなければ、不思議な夜風だと思うだけだったろう。しかし彼女はグラーシア学園の魔術科の生徒でもあった。その震える大気の流れが魔力によるものだと、彼女は瞬時に察知した。
『――なんで?』
 都市内では許可のない魔術行使は禁じられている。結界を破るには特別な許可と護符が必要だ。
 だが不穏な空気の淀みは思考する間にも現実として広がっていく。
 ぎゅっと唇を噛み締めて、キルナは慌てる心を落ち着けた。何が起きているのか確かめなくてはいけない。
『大丈夫、落ち着いて』
 胃が冷たく収縮するのを感じながらも、慎重に周囲を探った。
『落ち着いて、落ち着いて』
 そう心の中で、呼吸と同じリズムで繰り返す。冷静を欠いては良い結果は得られないのだと、彼女はよく知っていた。無駄な焦りは大抵視界を狭めてしまうのだ。
 顔をあげ、目をこらして夜空を凝視する。一目見たくらいでは分からないほど僅かだが、景色が若干ぶれている。流転していく物質の流れが、魔力による干渉を受けているのだ。
『つまり、誰かが魔術を行使している』
 心の中で断じる。だが、術者の姿が見えない。
 魔力の根源を見極めようと、キルナが眉を潜めた瞬間だった。
「きゃっ」
 反射的にキルナは鞄を腕に抱いて後ずさった。しかし退いた足が着地するはずの場所に地面がなく、体が後ろに流れて転倒する。
 慌てて体勢を立て直そうと周囲を見回して、――そうしてキルナは愕然とした。
「――!?」
 現実が、揺らめいている――。
 都市が、固体としての姿を失っていた。景色が波打つ海原と化していた。ぐにゃりと粘土のように変形した石畳の道が、街灯が、建物が、狂ったように蠢いているのだ。
 キルナの小柄な体は嵐の中の小船のように弄ばれ、上下に揺すぶられる。ぶよぶよする石畳は気色が悪く、不安定な揺れと相まって胃が悲鳴をあげた。
「――っ」
 酷い吐き気に口元を覆いながら、壁際に寄る。だが、その壁ですら命を吹き込まれたかのように収縮しているものだから、とても立ち上がることなどできない。
『幻術――?』
 暴力的な視覚情報によって混乱した脳裏が、かろうじて推論をはじき出す。
 しかし何故だろう。術者の意図が分からない。このような大掛かりな魔術を使って、何をしようとしているのか。
『人、人を呼ばなきゃ』
 ぞっとしながら、キルナは周囲の住宅を見回した。だが、上下する住宅たちは門に手をかけても嘲笑うように形を歪め、触れることができない。そうしている内にも道自体がうごめく為に簡単に転がされる。
「な、なんでよっ」
 忌々しげに擦りむいた膝小僧をはたいて、キルナは元来た道を戻り始めた。授業で習ったことを思い出したのだ。幻術は術者によって定められた範囲にしか影響を及ぼさない。つまり、術範囲に入れば誰でもかかってしまうのと逆に、そこから逃げ出してしまえば干渉から逃れられるのだ。
 上下左右に身をくねらせる道を転びながら駆けていき、大通りの道へと戻る。
 しかし、刹那――ざわりと背筋が粟立つのをキルナは感じた。それは背後から飛来する何かへの予感だ。
 だが、既に避ける間もなかった。
「きゃっ!?」
 風を鋭く切る音と共に、巨大な塊が振り向きざまのキルナと衝突した。倒れる形になって押し潰される。
 反射的にそれを押しのけて、キルナは愕然とした。
「――え」
 見開かれた瞳が、驚愕に色をなくす。降ってきたのは、見たこともない外貌をした男性だった。
 老人のような灰色の髪を高いところで括った男は、驚くほどに若い。しかし、地面で悶えるその顔や手は骸骨に皮膚を貼り付けたように痩せていて、身がすくむような禍々しさを呈していた。
 飛来してきた彼は、口元を押さえて激しく咳き込む。括られた髪が、しゃらしゃらと現実感を剥ぎ取るように揺れる。
 腰を抜かして座り込むキルナの前で、そうして彼は――顔をあげた。
「――」
 性質の悪い悪夢のように、未だ歪み形を変え続ける世界の中。キルナは男の目を見てしまった。
 それは、妄執に取り憑かれた生気のない瞳だった。
 思考すら凍らせるような、思惟の感じられない魚の瞳――。
 灰色の唇から血が滴る。右手が翻って、そこから白い光が生まれた。魔力の飛沫を散らしながらみるみる頭ほどの大きさに成長するそれは、純粋な力の塊。何の感情も含まれない、真っ直ぐな殺意。
 殺されるのか、と頭のどこかが呟いた。何故、という疑問すら生まれる間もないほどの一瞬だった。
 キルナの瞳が、一度瞬く。

 ガン、と鈍い音がしたのはそのときだった。白く染まりかけた視界で、キルナは声をあげることもできず、それを聞いていた。
 かと思うと、ぐいと腕を強く引かれて後方に連れていかれる。灰色の男と自分の間に、岩をも思わせる大柄な誰かが立っていた。
「あはは、法治国家とは思えないよね、これ。もうやんなっちゃう」
 近くに息遣いの気配。耳元で何かが囁く。顔をあげると、すぐ脇を細い影が猫のようにすり抜けていく。
「グレイヘイズ、下がって」
 細身の影は、懐から取り出した羊皮紙を破ると、未だ歪む大地に手を当てた。ぶん、と空気が震えて淀み、彼を中心に破片を散らせながら元の形を取り戻していく。
 後姿の大柄な男は手に大振りの刃を持っていた。対峙する灰色の男は未だ体を地に臥せたまま、一呼吸おいて――弾かれたように宙に舞う。服の裾をはためかせ、夜空へと去っていく。
「グレイヘイズ」
 細身の男がそう呼ぶと、大柄な男は音もなく走り出し、消えていった。
 キルナはその全てを見開いたままの瞳に映し、そうして呆然と細身の若い男を見上げた。
 見知らぬ彼は街灯の明かりを浴びて、しなやかな四肢をさらしている。振り向いた切れ長の瞳は息を呑むほどに涼やかで、同時に蠱惑的でもあった。
 若い男はくすりと笑って座り込んだままのキルナの腕をとり、顔を覗き込んできた。
「大丈夫? 怪我はない?」
「――」
 キルナは、呆けたままこくりと頷いた。すると彼は、満足そうに頷き返してキルナを立たせた。
「いいかい、これから真っ直ぐ警視院に行って、今のことを全て話すんだ。嘘をついても、振り向いてもいけない」
「……な、なんで」
 恐怖はいつだって遅れてやってくる。今になって膝が嘘のように笑い出し、キルナは頬を歪めた。一斉に弾けだした気持ちが、喉を熱く刺激した。
「君はあれの顔を見てしまった。あれはきっと君を殺しにくる。国に頼るのは君が唯一助かる道だ、分かるね?」
 あまりに非現実的な台詞を口走る音色は、しかし諭すように優しい。キルナはまじまじと彼の顔を見つめる。優しげな笑みを湛えた口元は女性的で、どこか現実感がない。
「いいね」
 念を押され、思わずという風に頷いたキルナの肩を、彼は軽く押した。
「さあ、行きなさい」
 声に足を動かされる思いで、キルナはよろよろと走り出す。自分の足が平らな地面を踏みしめていることが嘘のようだった。
 数歩進んでからそっと振り向くけば、彼の姿は既にない。無人の細道が、何事もなかったかのように続いている。
 先ほどの出来事が、全て夢だったというように――。
『夢じゃない』
 心臓が破裂しそうなほどに高鳴っている。脈動が全身を駆け抜けて体を熱くする。
 こんな気持ちになるのは初めてではない。あの震災の日だって、生きていることを夢のように思っていた。しかし、眼下に広がるはいつだって変わらぬ現実で。
『夢じゃない――』
 拳を固く握った。唇を噛み締めて、キルナは再び走り出した。


 ***


 己の体重など知らぬような俊敏さで夜の街を駆け抜けるグレイヘイズは、内心で舌打ちをした。
『――速い』
 鋭い瞳は未だ灰色の影を捉えていたが、それも限界が近かった。灰色の影は夜空を舞い、地を這いずり、するすると距離を離していく。逆に魔術の行使できないこちらは、無力を感じながら引き離されることしかできない。
 二つあった灰色の影の内、一つに的を絞って追いかけたが、別の一人にしておけば良かったのだろうか。それとも、どちらにしろ結果は同じか。
 恐ろしい存在だと思った。色を失った異形の生き物。陽光の元に生きることを許されぬ者たち。人に扱えぬ魔術を行使し、闇夜と踊る――。
 せめて銃器が使えれば、と考えずにはいられなかった。外で銃器を使ってはならぬという主人の命とはいえ、これではやりにくすぎる。
 苛立ちながら裏道を駆け、屋根を渡る影を見上げる。灰色の影は逃亡に徹している為か、攻撃を仕掛けてはこない。代わりにひらりと宙に身を躍らせ、対面の建物のパイプに捕まると、曲芸師のように再び屋根の上に舞い降りる。
『無理だ』
 グレイヘイズは確信した。自分たちが戦っているのは人外の生き物なのだと、改めて感じずにはいられなかった。
 決心した彼は素早かった。油断なく細い道を曲がり、影と距離をとる。こちらの意図を灰色の影も察しただろう。しかし、予想外に反撃してくる様子はなかった。
 建物の影で背を壁にしたグレイヘイズは、暫く動かずに周囲の様子を伺ったが、気配が遠くに去っていくの読み取って胸を撫で下ろす。
「……しんどい戦いになりそうですよ、レンデバー」
 喉の奥で呟かずにはいられなかった。あの主人に仕え始めてからというもの無茶苦茶な事件を多く見たが、今回ばかりはそれも度を越えている。
 ひとしきり落ち着いてから、グレイヘイズはそっと暗がりから抜け出して決められた場所に足を向ける。
 しかし、その間に考えずにはいられなかった。灰色の影たちは何を考えているのだろうか。グレイヘイズたちが向かったとき、彼らは幻術などという高等魔術を用いて争っていたのだ。

 現実を考えれば、通常の戦闘で魔術師同士の一騎打ちなどは絶対に起こりえない。それは、あまりに非効率すぎるのである。
 魔術というものは手をかざせば使えるものではなく、発動までに印を切るなどの隙が必ず発生する。無防備に敵前で行使していれば、その間に銃殺されるのが落ちだ。銃器なら魔術師でもそうでなくとも、腕さえあれば瞬時に使えるのだから。
 故に魔術師部隊は会戦であれば後方援護が定石であるし、ゲリラ戦等の前線に向かう場合も必ず行使中の身を守るための護衛がつく。

 だが恐ろしいことに、あの灰色の人間たちは違った。印を切るなどの段階がほぼゼロに等しいのだ。瞬時に魔力を爆発させ、行使することが出来る。重さもなく、弾の心配もない大砲を持っているようなものだ。敵にしてこれ以上恐ろしい存在はあるまい。

 それにしても、積極的な攻撃魔術でない幻術を行使していたのは、純粋な魔力のぶつかり合いでは周辺に被害が出ると思ったからだろうか。それとも――。
 グレイヘイズの瞳が思考に暗くなる。
 敵対する相手との力量に明らかな差がある場合、それを補う為にはいくつかの策が考えられる。例えば、周辺の地形を利用する。または、相手の力を存分に発揮できないような環境を作る。
 幻術によって相手の目を錯乱させるという方法も――それだけの魔力が扱えるなら、確かに有効だ。
 もしかすると、あの二つの灰色の影には力量に差があるのだろうか。そういえば、今回追わなかった方の影は、自分たちの姿を見るなり冗談のような速さで逃げていった。逆に追った男の方は、随分と痛めつけられていたようだし、まるで逃げるので精一杯というように攻撃すら仕掛けてこなかった。

「おかえりー」
 そんなことを考えている内に、住処に辿り着いていた。狭くおおよそ清潔でない部屋に、電気はついていない。部屋は深い紺に染まっており、かろうじてソファーで煙草をふかす主人の影が伺える程度だ。
 グレイヘイズは後ろ手に扉を閉め、簡単に経過の報告をした。そして、眉をしかめて主人に問うた。
「レンデバー。あの幻術を一瞬で解くなど、どんな術を使ったのです」
 そう、それはグレイヘイズですらも度肝を抜かれた出来事だった。一流の魔術師であるとはいえ、あのような素早さで強力な魔術を打ち破るなど、それこそ人間離れしすぎていた。
「まさかあなたもアレの同類だとか言い出すのではないでしょうね」
「あはは、やだなあ。違うよ、僕はただのか弱い人間だ」
 闇に沈む部屋に、僅かな月明かりと煙草の火がよく映える。反対側のソファーに腰掛けたグレイヘイズは、溜息をついた。
「では何を使ったのです」
「企業秘密」
「……」
「怖い顔しないでってば。今回は試験的に使ってみただけだし――まあ、おいおい説明するよ」
 グレイヘイズは自分も懐から出した煙草を咥えながら、背もたれに体をうずめる。ライターが点火し、小気味良い音が部屋に転がる。そうして、二つ目の問いを投げた。
「あの民間人はどうしましたか」
「うん、警視院に行かせておいたよ」
 レンデバーは長い足を窮屈そうに組みかえる。あの運の悪い民間人は、自分たちがいなければ今頃消し炭だったろう。
 しかし、そうはならなかった。主人はあの民間人がカードとして使えると判断するや否や、瞬時に助けに入ったのだ。
「グラーシアの警視院は質がいい。犯罪率トップの学者の都市を長年律しているのは流石というだけあって、精鋭が揃ってるよ。あの子のお陰で、うまくすればそっちであの男を捕まえてくれるかもしれない」
「お手並み拝見、といったところですか」
「そうだねえ」
 のんびりとレンデバーは言って、大きな欠伸をした。
 グレイヘイズも、紫煙を細く吐き出しながら目を閉じる。白亜の翼を伸ばして輝く都市に長くいるからだろうか。このような汚い部屋は居心地が良く、心が落ち着くのを感じていた。




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