-紫翼-
二章:星に願いを

32.歪んだ環



 空白と淡いまどろみをひたすら繰り返していけば、次第に時の感覚すら失せていく。
 全てが止まってしまって、そこから二度と抜け出せないのではないかとすら思う。
 嫌だ、それは。
 胸がうずく。震えるような呟きが、嘆きとなって零れ落ちる。
 もう、そんな悲しいことは嫌だと、声にならない声で――。
「――う」
 誰かが近くにいるのだろうか。曖昧な気配が、耳元でざわめく。
 ――俺は。
 俺は、まだ俺でいられているんだろうか。
 目蓋をこじあける。体が焼けた鉄の棒みたいに熱い。頭の奥の痛みは意識すらも蕩かすよう。息がちぎれ、感情が乱雑なものになる。
 理由もなく泣きそうになって、それを心のどこかで冷静に眺め、けれど悲しみは喉元まで膨れ上がった。
 何がこんなに悲しいんだろうか――。
「――ラス」
 誰かが呼んでいる。
 ぼやけたそこに、波打ちながら流れ落ちる黄金の滝。
 とても綺麗で、同時に酷く胸が苦しくなった。
「――ぶ、か?」
 何か言っている。誰だろう。知っているはずなのに、思い出せない。
「セライム」
 行き場所のない熱を持て余した喉が、勝手に何かを紡ぐ。
「――した? なに――しいのか?」
 白む世界はどこから先が現実なのかも曖昧だ。
 しかし、それでも感情はあった。
「セライム、ごめん」

 紫色の夢に、僅かな光彩が見えて。
 俺は、今にも崩れそうな手を伸ばす。

「――」
 ああ、駄目だ。何も見えない。
 物音がする。ざわざわと声が肌を撫ぜる。
「お――まするぜ」
「――ム君、申し訳――すが」
「あ、はい――」
 影法師たちが揺れている。見ていると目が廻りそうだった。だから、再び闇に落ちる方を選ぶ。
 ひんやりと冷たい指先が額に触れた気がした。でもその先はもう、何もわからなかった。


 ***


 紫の少年は元々、そこまで体が強くない。それは、『あの力』のせいだろうか?
 エディオは、階段を上りながら思考を巡らせていた。学園長宅に厄介になるときも、朝から晩まで国立図書館で過ごすのが彼の常だ。しかし紫の少年が気がかりで、今日は早めに戻ってきたのだ。
 三階まで階段を上りきったところで、客室から金髪の少女が出てくるのが見えた。思い悩むように目を伏せ、指を胸にやっていたセライムは、こちらに気付いて意外そうな顔をした。
「……エディオ」
 澄んだ瞳を瞬かせ、セライムは小さく笑う。
「ユラスの見舞いか?」
「……」
 エディオは廊下の隅に目をやって、鼻から息を抜く。こういう会話は得意ではなかった。
 それを見たセライムは嬉しそうに頬を緩め、ちらっと扉を見やった。
「ああ、ただ今は病院の人に診てもらっているから、後にした方がいいかもしれない」
「……そうか」
 低い声で返すと、セライムはただ、と不安げに付け足した。
「大丈夫だろうか。酷くうなされていて――なんだか、ただの風邪には見えないんだ」
「倒れたのは今日が始めてでもない」
「うん、そうなんだが……」
 煮え切らないという風に眉根を潜めて、首を傾げる。腰まである見事な金髪が、窓から降り注ぐ光を浴びて艶やかな輝きを放つ。
「なんだか不安だ。なんだか……」
 もどかしげにセライムは言葉を濁した。学園長宅は盛夏が嘘のように静まり返っている。否、都市中が、いつもに増して表情を硬くしているのだ。まるで内包してしまった異物に怯えて沈黙を守るかのように。
 エディオもまた目をそばめる。こんな時に何を言ったらいいのか、よく分からなかった。
「……治ったら元に戻る」
 暫くの沈黙の後、やっとのことで、ぶっきらぼうに告げた。
「ふざけた顔でまた出てくる」
 彼の顔を思い出す。同じ色素を使ったような紫色の髪と瞳。底抜けの笑顔は、まるで何かを諦めたかのようでもあり――。
 セライムは小さく頷いて、手を前で重ねた。
「そうだな、きっとそうだ」
 まるで言い聞かせるように、何度も頷く。
「うん、ありがとうエディオ。少し気が楽になった」
 セライムは邪気のない笑顔を見せ、そのまますれ違って階段を下りていった。エディオはそれを目で見送り、そして閉じられた扉に視線を向けた。

 紫の少年は数日前、彼の目の前で倒れたのだ。
 寮を出たところで、いつもに増してふらついているというか、妙な動きをしていたので、不審に思って声をかけた。すると紫の少年は振り向いて、呆けたように暫くこちらを眺め、そして糸が切れたように倒れたのだ。
 スアローグは、不調に気付いてやれなかったことを気にしていたようだった。しかし紫の少年は普段から突然黙り込んでぼんやりしていることがある。若干挙動がおかしいというだけで気にしていたら、彼の友人などとてもできない。

「――つくづく縁があるぜ全く。嫌になっちまうな、医者と縁深いなんてろくでもねえ」
 ぴくりと鮮やかな緑の瞳が跳ねる。現実に引き戻されたエディオは扉を凝視した。中年の男のダミ声が奥から聞こえてきたのだ。
 しかし、エディオは次に聞こえた声に怪訝そうに顔をしかめた。
「……病院に連れて行け、とは言わないのですね」
 穏やかで流れるような口調は、学園長のものだ。それは優しげではあったが、何かを含んだような物言いだった。
「けっ、相変わらずタチ悪いぜ、学園長さんよ。どうせ連れてく気はねぇんだろうが」
 忌々しげな舌打ち。そうして暫く、沈黙が落ちる。
「彼の容態は」
 話題を拾い上げるように、学園長の問いかけが伝ってくる。エディオはこの場から立ち去るべきか悩んだが、そのまま耳を傾けた。
「これは風邪じゃねえな。意図的に衰弱させられたって感じだ。長期に渡って毒でも盛られたか、それか……てめぇ、あの噂を知ってるか」
 エディオはその声音に奇妙な気配を感じ、小さく拳を握る。学園長の返答は聞こえなかった。代わりに、ダミ声が僅かに語調を落として聞こえてきた。
「都市内で護符なしに魔術を使う人間たちの噂だよ。それも、超弩級の高等魔法を平気で操るそうだ」
 ぱっと瞳孔が弾け、エディオは思わず扉を凝視した。
 結界の張られた都市内で魔術を操る者。それは。
 それは、紫の少年本人のことではないか――。
「そういや昔、こいつが精神術で干渉されたかもしれないとかほざいてたよな」
 精神術。素早くエディオは頭を回転させた。授業で聞いたことがある――人の心を直接操作する高等魔術だ。しかし、現在は使用自体が法で禁じられているはずだった。それに、人間が持てる限界に近い魔力を操る術であるため、行使できる人間が実在するのかも定かでない。
 だが、もしも都市の結界を無視できるほどの魔力を持つ人間だったら――どうなるだろう。
「……俺も信じてないがよ、もしかしたらっつーこともある。てめぇが保護者になるくらいだ、こいつは――」
「ボルドゥ医師」
 やんわりと遮るような、だがそれでいて鋭い呼びかけだった。思わずエディオでさえも僅かに肩を揺らすほどに。
 しかし学園長はそれ以上声を荒げることなく、静かに尋ねた。
「彼はどれほどで治るのでしょうか」
 扉の向こうで、二人がどのような表情をしていたかは分からない。だが扉の向こうから聞こえてきたのは、驚くほどに事務的な返答だった。
「薬をいくつか処方しておく。忘れずに飲ませろ。今日明日は下手に食わせない方がいい。元々人間の体には異物を排して元に戻ろうとする力があるんだ。個人差はあっても、休息さえあれば十分に回復するさ」
「わかりました」
「ただし、覚えておけ。本当はな、この手の治療は自宅じゃやらない――大抵患者は犯罪絡みだからな。分かるかよ、俺の言いたいこと」
 淡々とした口調は攻撃的でもあったが、相手を案じるようでもあった。エディオは怪訝に思って眉間にしわを寄せる。学園長と会話している医者の言は――まるで、医者としてではなく、友人としての忠告に聞こえた。
「だがよ、理由があってこの魔術を仕掛けられたのだとすれば、――ウチで無防備に過ごすよりは、ここで守られていた方が確かに得策かもしれないぜ、保護者さんよ。死んでも守るつもりなんだろ?」
 段々と混乱してきて、エディオはこめかみを指で押さえる。確かに紫の少年の保護者は学園長だ。紫の少年は記憶を失って、この学園長に偶然保護されたらしいのだ。
 エディオは始め、それに疑問も持たなかった。学園長の性格を思えば、そのくらいはやるだろうと十分に考えられた。
 しかし、この会話を聞いていると――。
「そういう目をしてるんだよ、バカ」
 まるで、学園長が意図的に紫の少年を守っているように思えるのは、気のせいだろうか。

 ――思考に沈み行くエディオの耳には、学園長の静かな返答は聞こえない。


 ***


 こうすれば、必ず彼は来ると思っていた。
 風が泣いているような音をたてて吹き抜ける夜。シェンナは灰色のローブに身を隠したまま、ルガと向き合っていた。
 最後に会った秋から、見るも無残にやつれ果てた彼の姿が、胸を針で刺激した。肉の削げた頬に生気はなく、体の色と相まって、本物の老人を見ているようだった。
 ――あるいは、壊れた人形を見ているようでも。
 シェンナは淡く笑う。なんて滑稽な姿だ。そしてこれは、そう遠くない自分の姿でもあるのだ。
「どういうつもりですか」
 彼は問う。無感情に、純粋に。
 日常を無防備に生きる紫の少年の体に術を施し、弱らせるのはたやすかった。そして紫の少年を傷つければ必ず彼はこうやって出てくる。彼の役目は、紫の少年の保護。紫の少年が生きるのに邪魔なものを、残らず排除することなのだ。
 ああ、そのなんと腹立たしい――。
「何人をその手で殺した」
 シェンナは、問いに答えを返さず、代わりに問いを重ねた。言葉が、激情を孕んで震えていた。
「彼を生かす。そのために、どれだけの犠牲を払えば気が済むと聞いている」
 青い双眸の少女は、己たちの存在の為に人生を狂わされた。闇に紛れてあんなに苦しんで、縋るようにこちらを見つめていた。
 一人だ。たった一人を犠牲にしただけで、ここまで歪みは広がったのだ。
 ならば、彼がその手にかけた数多の命――それは、どれほどのいびつな存在を生んでいるのだろう。
「どこまで輪を広げるつもり。――もう、やめて」
 言い方が弱気になっている自分に愕然としながらも、嘆かずにはいられなかった。
 シェンナは、表情なく佇む男に、静かな声で告げた。

「彼を殺して、終わらせましょう。この歪んだ環を閉じる為に」

 合間に沈黙が横たわる。

「どうせ消えていくのだから。あなたも、ドミニクも、私も同じように」

 何故、感情などがこの胸に芽生えたのか。
 そして、限られた時を与えられたのか。
 何もなければ良かったのだ。何も始まらなければ良かったのだ。

 しかし、ルガの瞳は盲目したように変わらない。冷ややかな視線すらそこにはなく、彼は僅かに口を開いた。
「邪魔をすれば排除する。それが誰であっても」
 シェンナの口元に、嘲笑――否、憐憫の笑みが浮かんだ。
「そんな体で何ができるというの」
 ルガは答えない。シェンナも黙して氷山のように佇む彼を見つめる。
 互いに睨み合う二人は、彫像となって沈黙を守り――。

「ならば、私はあなたを排除する」


 ――そのとき、レンデバーはふと夜空を見上げた。
 整えられたべっこう色の艶やかな髪が、さらさらと夜風に遊ばれる。
「宴は始まったかな?」
 部屋は暗い。腕を組んで椅子に腰掛けるグレイヘイズは、影となって動かない。
 開かれた窓から吹き込む夜風に、心地よさそうにレンデバーは笑う。
「行こう、グレイヘイズ。遅刻したらおいしいものがなくなっちゃう」
 グレイヘイズは、音もなく立ち上がった。




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