-紫翼-
二章:星に願いを

31.変わらぬ夏



 紫色の夢を見る。
 誰かがこちらを見つめていた。ああ、それは苦悩に満ちた深くて青い双眸。儚いほどにひたむきな、曲がることのないあの表情。
 こちらからも見えていた。向こうの想いだって、手に取るように伝わった。
 ――ごぽごぽごぽ。
 目を見張って、彼はよろめいた。とろけて波打つ髪は流れ、苦悶するように顔を歪め。
 しかし、その瞳は逸らさずに。
 ああ。知っている知っている。指先まで何かに囚われたままだって、感じることは出来たのだ。
 場面が暗転する。明滅する。黒い穴。現れては、こちらに向けられる。
 光が踊る。闇に没する。目まぐるしく変移する事象に、心の底で叫んだ筈だった。身を振り絞って、口にしようとしたはずだった。
 この胸にあった、たった一つの願いを。

 口を、開く。
 ――ごぽごぽごぽごぽ。


 ***


「ユラス、朝だよ!」
「ふむっ!?」
 反射的に目を開くと、暴力的なまでの光が飛び込んできて、思わずシーツを引き上げる――が、伸びてきた手に阻まれた。スアローグが、これ以上ない渋面を浮かべて引き剥がしてくれたのだ。真っ白の日光が閉じた目蓋の上からも容赦なく降り注いで、非常に眩しい。
「うう、溶けるー溶けてしまうー」
「君は吸血鬼かい? ほら行くよ、僕にまで遅刻させる気かい」
 俺は現実から逃げるように体をひっくり返して枕に頭を沈めた。どんよりと重たい瞼の裏、睡魔がこれみよがしに手を伸べて全身を包んでいく。ああ、二度寝って気持ちいい――。
「君って奴は」
 スアローグの呟きが遠いところで聞こえたと思ったら、問答無用で枕を引き抜かれた。ごん、とあまり柔らかくない敷布に頭が落ちる。その衝撃と睡魔が脳内で戦争を始め、俺はうつ伏せになったまま首を振って呻いた。
「いやだー、もういっそ殺してくれー」
「何言ってるんだい、ほら、起きる」
「うー」
 スアローグに促されて、しぶしぶ起き上がる。妙な夢でも見たのか、体中が鉛みたいに重たい。風邪の引きはじめだろうか――そんなことを考えながら、いつものように投げてよこされる制服を受け取って、上着の袖に腕を通す。
 スアローグはぶつぶつ言いつつ、頭をかきまわしてコーヒーをあおっている。こいつがいなかったら毎日遅刻だろうから、感謝せねばなるまいと思いつつも――いや、眠い。
「もう出ないと遅刻だよ。終業式くらい、きちんとしたらどうだい」
「んー」
 駄目だ、頭が働かない。ちゃんと返事くらいしないといけないのに。
 よたよたと右に左に揺れながら、俺はスアローグの後を追った。


 ***


 今日は終業式だ。夏の長期休業期間の幕開けは、浮き足立った生徒の合間をあっという間に駆け抜けていく。空洞と化す都市の静かな夏が、再びやってくるのである。
 長期休業中、学生の学園への立ち入りは厳しく制限されることになる。なんせ、ここは学者の都市グラーシアだ。こんな制限でもないと生徒が帰らず研究に勤しみ、実家の方から苦情が来るそうなのである。
 外に出れば、白亜の都市に降り注ぐ夏の日差しが肌を刺す。朝晩は涼しい風が吹くものの、日中は外を出歩くのが億劫になるほどだ。
「うー」
 俺は眉間にしわを刻んで荷物を振り分けていた。終業式は午前中で終わり、午後は毎度ながらの帰省ラッシュとなる。フェレイ先生の家に行くのは明日だから、俺はゆっくりしていられるが、スアローグは大忙しである。
 ――それにしても、何だろう。ここのところ、どうにも体が重い。疲れているのかな。
 スアローグは既に荷造りを終えているようで、台所を掃除していた。そんな様子をぼんやり眺めていると、ジロリと睨まれる。
「……君ね、ぼさっとしてる暇があったら手伝ってくれないかい。それとも気分でも悪いのかい?」
「んー、いや……」
 髪に指を差し込んで、かぶりを振る。頭痛がするとか、そこまで深刻ではないのだ。立ち上がって歩いていくと、スアローグは洗い物をしながら顎をしゃくってくれる。
「そこのごみ袋、外に出しておいてくれるかい」
「分かった」
 両手に袋を持って、体で扉を開けて外に出る。廊下に日差しがないのがありがたかった。階段を下りて、共用の捨て場に向かう。
 しかし、この気だるさは猛暑の為だろうか。俺ってばデリケートだし――。
 遠くで何かが動いた気がした。耳鳴りが一際強くなる。不可視の何かが飛来して、体を突き抜けていくようだ。
 途端、石造りの階段が二つにぶれて、思わずよろめく。
「――っ、」
 慌てて壁にもたれかかって、もちこたえた。思いがけず息があがっているのを自覚して、呆然とする。
 うう。なんだか、本気で気持ち悪くなってきた。じわじわと体の中に不快な熱が膨れ上がる。歪む視界の果てで、それでも元の世界を取り戻そうとあがく。
 相当俺の顔色が悪かったのか、すれ違う生徒たちが奇異の目でこちらを見やっていく。唾を飲み込み、階段を一つ一つ、噛み締めるように下りていく。
 そしてやっとのことで捨て場に辿り着いた辺りで、誰かに声をかけられた。
「――」
 ああ、エディオだ。こちらに向けて歩いてくる。怪訝そうな顔をしている。何かを言っているから、答えないと――。
 夏の暑い日差しが網膜を焼く。しかし、おかしい。あまりに眩しすぎて、他のものがよく見えない。
 灰色の何かが、視界の片隅を横切っていく。
「――」
 声が降りかかってくる。何が起きている? ああ、エディオの奴、心配してくれてるのかな。なら答えないと。何か、言わないと。
 だって、今はこの口で、何だって言えるのだから。
 そのなんと幸福なことか――。
 うん、何がどうなっているんだろう。さっきまでは日差しが眩しいばかりだったのに、今は深夜のように真っ暗で、音もしなくて――。

 ごとっ、と鈍い音がして、俺の意識はそこで途切れた。


 ***


「ユラスが倒れたぁ!?」
 素っ頓狂な声で聞き返したチノの前で、キルナはこめかみに指をめり込ませるようにして頷いた。
 ――夏季休業初日。フェレイ・ヴァレナス学園長の自宅にてのことである。
「酷い熱らしいわ。三階の客室で寝てるから、用がない限り近づかないようにね」
 暖炉の前で指を立てるキルナの周りでは、学園長宅にやってきた子供たちが各々顔を見合わせている。恒例の学園長宅大掃除の司令塔であるキルナは、このような伝達役も担っていた。
「大丈夫なの?」
 問うたのは、今年から中等院にあがったアザリアだ。不安に染まる瞳を見て、キルナは笑って腰に手をやった。
「大丈夫よ、アレ、殺しても死にそうにないし。掃除も手伝えないんだから、元気になったらトイレ掃除でも押し付けましょ」
 そう肩をすくめると、くすくすと笑い声が広がる。キルナは手を叩いて注目を集めると、明るく言った。
「さあ、さっさとやっつけるわよ。幼学院組は三階からいつもの通り掃き掃除ね。中等院の子は居間を中心にやって頂戴。チノは何人か連れて台所を頼んだわよ。男どもは庭掃除にまわってね、逃げたら殺すわよ」
 ギロリ、と最後に目を光らせるキルナに、エディオが面倒臭そうに顔をそむけ、他の男子たちも似たような反応を返す。
「お姉ちゃんはどうするの?」
 チノの無邪気な問いかけに、キルナは微笑んで首を傾げた。
「決まってるじゃない、セライムの監視よ」
「な、なんでだっ!」
 隅の方でセライム本人が抗議したが、その場にいる者たちは意味ありげに視線を交わすだけだった。なんせ、この金髪の少女は悪気はなくとも皿を割ったり絨毯を破いたり暴力的な料理を作ったりと、とにかく目が離せないのである。

「おやおや、いつもすみませんねえ」
 のんびりした声が階上から降りてきたのはそのときだった。弾かれたように全員の意識がそちらに向く。声の主はゆったりと笑いながら階段を下りてくるところだった。
「先生っ、ユラスは大丈夫ですか」
 セライムが駆け寄っていくと、家の主人――フェレイ・ヴァレナスその人は、眉尻を下げて笑った。
「ええ、大丈夫ですよ。きっと疲れがでたのでしょう。皆さん、暫くは静かにしておいてあげて下さいね」
 見る者を安心させる優しい眼差しでそう告げると、生徒たちはそれぞれ小さく頷く。学園長は、じゃあお茶菓子でも買ってきましょうかとぼやきながら階下に下りていった。そうなれば、自然に生徒たちもそれぞれの仕事に動き出す。学園長宅での暮らしの初日は慌しいのである。
「セライム、あたしたちは夕飯の買出しに行くわよ」
 キルナは不安そうに佇んでいるセライムの頭を、ぽんと叩いた。はっとセライムは目を瞬かせて頷く。
 そんな様子に、キルナは胸を撫で下ろした。やっと普段の元気を取り戻してくれたようだ。あれから暫くは塞ぎ込んでいたが、最近は父親のこともすっかり言わなくなった。彼女なりに折り合いを付けることができたのだろう。
「ユラスにも何か買ってきてやろう、甘いものがいいかな」
「……そうね」
 キルナは胸のつかえが取れる思いで、やわらかく目を伏せた。あとは紫の少年が回復すれば、変わらぬ夏の情景が戻ってくるだろう。
 これが学生として最後の夏となるのだ。苦しい胸中を抱えて過ごすのでは、悲しすぎる。
「さ、行きましょ」
 キルナが笑うと、セライムもくすぐったそうに頷いた。


 ***


 ここのところ、シェンナの様子がおかしい。
 ドミニクがそっと家を抜け出したのは、太陽がまだ燦々と光を大地に投げかける昼下がりのことだった。
 扉を開くと、飛び込んでくるあまりの明るさにぎゅっと目を瞑る。陽光の下に出たのは、何日ぶりだろうか。
 喉を伝って肺に流れ込んでくる空気は果実のように瑞々しく、頬を撫でる風は洗い立てのシーツのようで、ドミニクはやや呆然とした。
 そう。初めてあの地を離れることになった日も、このような外の世界の輝かしさに息を呑んだのであった。しかしそれを得られる時間は長くなく、すぐに暗がりに引き戻されたのだ。連れの灰色の女性によって。
 それが悔しくて、そして何よりも紫の少年が陽光の下でのうのうと生きていることが腹立たしくて、だからドミニクも外に焦がれ、怒れる己を解放した。だが、紫の少年を痛めつけたところで何も変わらなかった。いびつな自分は何も持っていないことを見せ付けられただけだった。
 何のために自分は生きているのだろうと思った。
 呪われた体に生まれ、無様に日陰をのた打ち回り、いつ来るとも知れぬ滅びの時を待って生きる自分に、意味などあるのだろうか。
 現実に紫の少年は全てを持っているというのに、一体この差はどこから生まれたのだろうか。
 幼い体は漠然とした問いに答える術を持たず、ただ心を閉ざすしかなかった。
 しかし変移は音もなく現実を侵食していく。先日のようなシェンナの狼狽を、ドミニクは今まで目にしたことがなかった。だが彼女は何も教えてくれなかった。出かけることが多くなり、かと思えば隠れ家に閉じこもって薬品をいじってばかりいた。
 己に関する研究をすることは、彼らにとって生きることそのものだ。彼らは己の延命の為に研究を続けていた。始めは成人することも出来ぬと言われた彼らが今こうしていられるのも、彼ら自身の努力の為だ。あの地を追われた後も、シェンナは持ち込んだ機材を使って研究を進めていた。
 忌々しい体に生まれた己たちが、一秒でも長くこの世にいられるように。

「……シェンナ」
 口の中で呟いて、おぼおつかない足取りで当てもなく歩く。勝手な外出は禁じられていたが、膨れ上がった不安に膝を抱えていることも出来なかった。シェンナは一体どうしてしまったのだろう。
 浮遊術の駆使のために手を掲げようとして、止める。浮遊術を使った後には体が鉛になったような疲労感があるし、シェンナは口を酸っぱくして都市での魔術行使を禁じていた。
 ――ここはもう、あの地ではないの。
 ためらうように視線をさまよわせたドミニクは、あげかけた手を下ろして走り出す。都市の外れの寂れた商店街に人はいない。道に落ちたごみくず、開く様子のない店、壊れた看板。まるで忘れ去られた都市のような空虚さ。こうして自分たちも忘れられていくのだろうか。
 ドミニクがぎゅっと顔を歪めた、そのときのことだった。
「見つけたっ!!」
 小さな心臓が破裂するほどに跳ね上がって、ドミニクは硬直して声の方を仰いだ。
 午後とはいえ夏の強い日差しが視界を焼く。飛び込んできた光に驚いて思わず目を手で押さえたため、ドミニクはそこから去る好機を逃した。声の元が屋根から身を投げ、こちらに飛び掛ってくるまでは一瞬のことだった。
「――っ!?」
「ええいこらっ! 暴れるな、観念しろっ!!」
 不快感を伴った肌の感触。気がつけば、羽交い絞めにされて地に押さえつけられていた。ほとんど触れたこともない他人の息遣いが耳元で聞こえて、ドミニクはぞっとした。そして二重に驚いたことに、掴みかかってきたのは体格からして同じくらいの歳の少年だった。
「は、離せっ!!」
 思わず怒鳴って、力まかせに腕を振り回す。向こうも全力でぎゅうぎゅうと地に押し付けてくる為に数秒間彼らは押し合いへし合いしていたが、ふとしたことで手が襲撃者の顔に当たったらしい。力が緩んだ一瞬をドミニクは見逃さなかった。
 体中から力を振り絞って、拘束の手から逃れる。そのまま振り向きもせず走り出した。
「あっ、こら! 待てぇーっ!!」
 襲撃者は子供らしい舌足らずの声に怒りを乗せて、すぐに追いかけてくる。
 全身を火の玉のように熱くさせながら、ドミニクは建物の隙間の細道に入った。この辺りの地図を脳裏に描き出しながら、追ってをまくための算段を素早く立てる。魔術を使いたかったが、こう息があがっては無理だ。苦しげに酸素を求める心臓は今にも爆発しそうだった。
 素早くいくつもの角を曲がる。この辺りは乱雑に建物が立ち並んでいるため、迷路のように道が入り組んでいる。錆びたバケツを蹴飛ばし、驚いた猫の群れを蹴散らしながら石畳を走って、ようやく背後の気配が消えてきた頃にドミニクは立ち止まって建物の影に体を押し込んだ。
 荒ぶる呼吸を無理矢理押さえつけ、四肢を丸めるようにして存在を隠す。そして、ようやく何が起きたのか考えを巡らすに至った。
 追手がついているなどと、シェンナからは聞いたこともなかった。それに、あれは――どうみても子供だ。組織的に自分を追っているようにはとても見えない。
 久しぶりに走ったからか、頭がくらくらしてうまく思考が廻らない。目の前が暗くなる。そのあまりの不快さに顔をしかめ、汗ばんだ額を拭う――。
 ざっ、と足が視界に入ってきたのを捉えた瞬間、ドミニクの体は氷結した。
「むふふ」
 勝ち誇った笑い声が、頭上から降ってくる。擦り傷や引っかき傷も目立つ細い二本の足。ゆるゆると顔をあげていくと、その上に子供らしい細身の胴体、そして、にぃっと笑う逆光に照らされた少年の顔があった。
「オレの庭でオレから逃げようなんて、千年早いねっ」
 くるくると渦を巻く栗毛の下には、好奇心を一杯に秘めた大きなこげ茶の瞳。よく日焼けをした、健康的な肌に明るい表情が映える。
 逃げなくては、と心でわめいても、体は動いてくれなかった。背は壁だし、目の前の少年は手を伸ばせば届く距離にいる。そして何よりも彼という存在が放つ燦々とした雰囲気に、ドミニクは縫いとめられていた。
 少年は仰々しく腕を組んで、こちらを舐めるように検分してくる。しかし、ぽろりと零れたのは疑問の言葉だった。
「あれ? ……お前、大人じゃないな」
 忌わしい自分の姿を見られて縮こまっていたドミニクは、しゃがみこんだ少年に顔を覗き込まれ、更に体を強張らせた。
「なあ。お前、あいつの子供か」
 不躾な質問の意味が分からなくて顔をしかめる。少年からは、今までに出会った誰とも違う匂いがした。その瞳の輝きが、あまりに眩しかった。
 少年は黙ったままのこちらに焦れたように足踏みをして、ずいと体を近づけてきた。
「だからさ、お前に良く似た大人! 探してるんだよ。お前知らないか」
「――」
 ドミニクの脳裏でぱっと弾けるものがあった。シェンナやルガ――自分と同じような体に生まれついた大人たちのことをこの少年は言っているのだ。
「……知らない」
 暫くの沈黙の後、目を背けて答える。少年の口がへの字に曲がり、不機嫌そうに再び問いかけられる。
「嘘だろ」
「嘘じゃない」
「知ってるんだろ」
「知らないっ」
 噛み付くように言って、立ち上がった。無性に苛立って、目の前から少年を消し去ってしまいたくなる。
「おい、待てよっ」
 歩き出すと、少年は跳ねるように追いかけてきた。
「お前、グラーシアの生徒じゃないだろ。どっから来たんだよ」
「……」
 知らない音色が、耳の奥にじんと残る。胸から湧き上がる感情は名前がつけられず、何故か腹が立った。
「オレはティティル。お前、名前は?」
 今までドミニクの知る人間は、必ず一歩離れたところから彼を見るのが常だった。そこから中に入ってくる人間などおらず、それが当たり前と思っていた。なのに、まとわりつく少年は肩に手をかけてくる。振り向くと、思いがけず近くにいて胸が冷える。心に楔が打ち込まれたような痛みが走る。
「うるさいっ!」
 怒鳴ると、一瞬怯んだように少年は立ち止まった。しかし、かと思うと肩をいからせて怒鳴り返された。
「教えてくれたっていいじゃんか! ケチ!!」
「なんでお前なんかに……っ」
 憎々しく言い捨てて、今度こそ手をかざした。シェンナに人前では何があっても使うなと言い含められていたが、熱した頭ではそんなことに構う余裕もなかった。
 耳元で風が唸る。収束した空気の流れが手の平に集まる。刃を振るうように、ドミニクは印を切った。灰色の髪が逆立つようになびき、小さな体を大地の束縛から解き放つ。
「――え!?」
 少年が目を剥いているのが、妙に視界に焼きついた。しかしドミニクはそこから意識を引き剥がして、魔力を解き放った。

「……」
 ティティルは、ぽかんと口を開けたまま無人の通りで空を見上げ続けていた。灰色の少年が消えていった空は、今はただ青い。
「……嘘だろ」
 自分も手をかざしてみて、魔術を使おうと意識を集中させてみる。しかし、吹き抜ける風の中では何も起こらない。当たり前だ、この都市では魔術規制の結界が張られているのだから。
 しかし、現実に灰色の少年は鳥のように飛んでいってしまった。あれは、確かに魔術であった。
「……もしかして、あのときも?」
 あの男。時計塔の上に立ち、身を投げた灰色の男。彼もまた、あそこで浮遊術を使ったのだとしたら?
「すげえ」
 瞳が、光を含んで膨らんだ。
「すげえ――!」
 魔術規制の結界内で、護符もなしに魔術を行使する人間など、情報通のティティルでも聞いたことがない。
 興奮に体は熱くなった。なんて秘密を知ってしまったのだろうと、僅かな恐れもあったが好奇心の方が勝っていた。今、自分は、この目で見たのだ。都市内で魔術を操ってみせた少年を。
 知らずと握り込んでいた服の裾を離して、ティティルは走り出した。走り出さずにはいられなかった。
 このことは、自分の胸に秘めておかなければいけないと思った。秘密は大人に知られたら最後、取り上げられるに決まっている。それに、秘密を一人で守るのだと考えると、胸は一段と弾んだ。
 もっと知りたいと思った。あの少年は一体何処から来たのか――名前もまだ聞いていない。
 体中に風を感じながら、ティティルは走り続けた。再び、あの少年を探すために。




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