-紫翼-
二章:星に願いを

30.悲しいこと



「あれ?」
 スアローグと共に教室に入った俺は、いつも早い時間に来ているはずのセライムの姿がないことに気付いた。
「キルナー、セライムはどうした?」
 自分の机で課題の整理をしていたキルナは、顔をあげて小首を傾げる。
「ああ、セライムだったら今日は休みよ。あの子、熱だしちゃって」
「セライムが? 珍しいな」
 会って話をしたいと思っていたのに、タイミングの悪いことである。
 キルナは俺との会話を早めに区切って、意識を手元に戻してしまう。忙しそうだったので、俺も自席につくことにした。
「って、やばっ」
 そうだ、今日は色々と提出しなければいけない課題があったのだ。ちゃんと全部あるか確認しないと。
 開かれた窓の外には強い日差しに揺れる青々とした緑――もうすっかり夏の彩りだ。期末考査と夏季休業が近いためか、教室内もなんとなく落ち着きがない。
 セライムは大丈夫だろうか。この時期に体調を崩すと、期末考査も苦労するだろう。
 俺はセライムの席を見つめ、誰もいないそこに言い知れぬ不安を覚えて首を振った。どこか空気が濁っているように感じられるのは、気のせいだ――。


 ***


 そんな重く濁った空気を裂くように、扉は勢いよく開かれた。
「ただいまー」
 小柄な少女はそこまで元気そうに言ってから、そっと中を伺う。苔色の大きな瞳が、ぱちぱちと瞬いて部屋の様子を映し込む。
 そうしてチノは静かに扉を後ろ手で閉め、荷物を降ろした。姉はまだ帰ってきていないようだ。門限の時刻は今日から元に戻っているから、きっとぎりぎりまで働いてくるのだろう。
 ――あなたはセライムをお願いね。
 朝、別れるときにキルナはそう言って、頭を撫でてくれた。姉の言わんとすることを察したチノは、研究室での作業もそこそこに帰ってきたのだ。
 チノはベッドの横の椅子に反対向きに腰掛け、背もたれに顎を乗せた。
「セライム」
 ベッドに横たわる少女に向けて呼びかける。それはまるで、とろけた黄金の大河を見ているようだった。しかし白いシーツに絡んだ金髪は力なく散らばり、手折られた花をも思わせて痛々しい。そんな金の滝の合間では、憔悴した唇が僅かに開き、寝息を立てていた。幾重にも涙が伝った頬と目尻はこすったためか今尚赤く、眠りこける様子には何かから逃げようとするような必死さがある。
「セライムー」
 一瞬だけチノはためらったが、すぐに笑みを取り戻して、シーツの上から肩を揺すった。
 きっと浅い眠りだったのだろう。唇が震えて何かを呟く。ゆるりと目蓋が持ち上がる。
 夢うつつの境をしばらく彷徨った瞳は、そうしてぼんやりとチノにやられた。鮮やかで深い青の双眸が揺れ、彼女の胸の内を表すように、その指がシーツを握り締める。
「……チノ」
「おはよー、もう夕方だけど。起きれる?」
 セライムは言葉を詰まらせて頬をシーツに押し付ける。さらりと長い髪がそこにかかって、彼女の表情を隠した。しかし、チノは怯むことなく唇を尖らせた。
「ね、起きてご飯食べよ? せっかくおいしいとこの買ってきたのに、早くしないと冷めちゃう」
「……ん」
 セライムの瞳には、もう絞りつくしたのか涙は浮かんでいなかった。覇気のない表情はそのままに、彼女は惰性で身を起こす。
「ほらー、ぼさぼさだよお。お姉ちゃんが見たら怒るって」
 チノは笑って乱れた髪を整えてやり、小鹿のように駆けていってテーブルの上の紙袋を持ってくる。ベッドの上で座り込んだままのセライムの前で、その中から小さな包みを取り出した。
「良かった、まだあったかいよ、ほら」
 セライムは泣き腫らした瞳を一度瞬いて、おずおずと包みを受け取る。チノは嬉しそうに笑うと自分の分を取り出し、包みをといてかぶりついた。
 かと思うと、顔をぎゅっとしかめて眉尻を下げる。
「うーっ、結構辛いかも? 冒険して新作買ったんだけど、失敗したかなあ」
 パンに揚げた白身の魚と野菜がたっぷりと挟まったサンドイッチは、予想外に香辛料がきいていた。おもむろに包みを開いて口にしたセライムも、小さく呟いた。
「うん、……ちょっと辛い」
「ごめんねえ。無難なのにしとけばよかった」
 セライムは無言で頭を振って、食べることに没頭する。チノはそんな彼女を気遣わしげに伺いながら、手にしたものを一口ずつ胃に収める。
 暫く二人は無言だった。食べ終わると、セライムはちらっとチノを見て、掠れた声で呟いた。
「……すまない」
「んー?」
 チノは子供のように上目遣いで首を傾げる。そうして、ふっと目を緩ませた。
「あはは、セライム、口の周り拭かないとだよー」
「……え」
 セライムが手をやる前に、紙布巾を取って拭いてやる。チノはくつくつと笑いながら、そのまま耳元から零れる髪をすいてやった。
「ね、セライム」
 チノは椅子の背もたれを腕で抱き、セライムを正面から見た。前から様子がおかしいのは感じ取っていたし、姉からもここ最近の出来事は聞き及んでいる。そして昨晩の出来事も。
 セライムの本当の父親が行方知れずだということを、幼い日――そう、彼女が学園長の家を一人で訪ねてきたあの日から知っていたチノは、その痛みを推し量って目を伏せた。自分は両親を失ったときでも、姉が共にいてくれた。また、あまりに多くを一度に失いすぎてしまった為に、悲しむ間もなくがむしゃらに生きてくることができた。
 しかし、目の前の少女は違う。行方不明のまま生死も知れぬ父親の影に付きまとわれ、そして守ってくれるはずの母にまで見放されたのだ。そして、昨日の一件――。
「元気になったら、ちょっと遊びに行こうよ。もうすぐ夏休みだし。冬だってマリンバに来れなかったじゃん?」
 ね、と首を傾げるチノに、セライムはほんの少しだけ口の端を引いた。笑おうとして失敗したようだった。しかし、それでもこくりと頷いた。
「そうだな……最後だものな」
「セライム」
 頬を膨らませて、チノは身を乗り出した。不思議そうにするセライムの前で、憤然と眉を潜める。
「最後だとか言わないでよ。それじゃわたしたち、卒業したら一生会えないみたいだよ」
 光をぼんやりと宿す瞳が瞬いて、諦観に揺れる。しかしチノはそれを鋭い刃で裂くように、語気を強めた。
「ねえ、セライム。人はね、思い出だけじゃ生きていけないよ。心だけじゃだめなの。ちゃんと触れて、笑って、走って、未来を自分の手で作らないと、心が体にいてくれないの」
「……でも」
「でも、じゃないよーっ」
 目を逸らしかけたセライムの手を、チノの小さな両手が掴んだ。思いがけずその指が荒れているのに、セライムはびくりと肩を震わせた。
「セライムはいつも一人でどっか行っちゃう。わたしとお姉ちゃんに遠慮して。わたしもお姉ちゃんも、セライムのこと好きなのに。これからだって、いつまでも友達でいたいよ」
 静かではあったが、朝霧の中を駆け抜ける矢のように真っ直ぐな音色だった。そこまで強く言うと、チノはふと表情を和らげる。
「悲しいことは、きっとある。泣いて立ち上がれない時もあるよ。でもね、セライムが辛いって言ってくれたら、わたし、絶対に傍に行くから――ね?」
 チノはそうして、確認するように首を傾げて見せた。開いたままの青い双眸に、音もなく透明の涙が滲む。声を出すのを恐れているのか、唇を引き結んだまま。
 頬に髪を張り付かせた少女は、普段の生気が嘘のようにみすぼらしく弱々しい。しかし、そんなセライムにチノは顔を背けなかった。代わりに、俯いたセライムの小さな頭を撫でてやった。
 くしゃりと頬が歪み、白い指が目元にいく。何かを言おうとして詰まった声が咳となり、体を縮めるようにして少女は泣く。
「辛かったね? でももう大丈夫、怖い夢は終わったよ」
 声のない嗚咽を聞きながら、チノは言った。何度もとろけた黄金をすいてやる。未だ父の影に追われ続ける目の前の少女と、あのときの彼女を重ねながら。そう、幼学院に入学して学園長の家に来たばかりの頃。帰ったはずの彼女は、夕方になってふらりと家の前に現れた。今でも覚えている、チノが聞いたあの振り絞るような泣き声と――。
「もうすぐお姉ちゃんも帰ってくるから。そしたら、お茶でも淹れてのんびりしよ?」
「……うん」
 小さく頷いたセライムを見て、チノはふんわりと微笑んだ。
 日常は、これからゆっくりと取り戻していけばいい。傷を負っていたって、人はきっと生きていける。時が経てば、忘れることだって出来るだろう。
 悲しいことをいつまでも覚えていられるほど、人は強くない。しかしそれで良いのだ。忘れながらだとしても、大切な人がいて、そして笑うことが出来るのなら。
 今のチノが、そうであるように。


 ***


 過ぎ行く時の針は、まるで体を隅から削り取ってゆくかのよう。目を開いていても閉じていても何ら変わりはない。
「……食べないの?」
 伺うような声にシェンナが首を回すと、そこには幼い灰色の少年が所在なげに立っている。
 明らかに発育の悪い体は細く今にも折れてしまいそうで、痩せた頬に落ち窪んだ瞳が胸の奥を刺激する。しかし、彼を救う手立てなどないのだ。どのようにしたって己らの忌わしい姿を捨てることは出来ないのだ。
 そんな少年に、その命ですらあと僅かしか残っていないのだと、どうして言えよう。
「私はいいから。もう薬は飲んだの」
 灰色の少年ドミニクは、長く伸びた髪で表情を隠す。
「……いつまでこんな生活が続くの」
 シェンナは、驚きもしなければ怒りもしなかった。ただ、悲壮な光を秘めた瞳で少年を見つめていた。――昨晩、こちらを見つめていた少女を重ねているのか。
「薬を飲んで寝なさい。ペスティル値の記録を忘れないように」
 返答に、感情のようなものは含まれない。窓から夕方の黄昏が差し込んではいたが、例えそれを知ったところで変わるものはない。得られるものも、出来ることも、彼らにとってはあまりに限られている。
「シェンナ」
 呼びかけを無視して机の上に乗ったものを処分する。今日の栄養分も注射で賄えばいいだろう。口を動かすのが億劫だ。
「どこに行くの」
「先に寝ていなさい」
 突き放すように、フードを被って隠れ家を後にする。差し伸べた手をやり場なく彷徨わせ、一人唇を引き結ぶドミニクを振り返ることもなく。

「――何も感じなくなればいい」

 一人、道を歩きながらシェンナは口ずさんだ。
「心など、なくなってしまえばいい」
 その胸の先にあるは、昨晩の光景か、それとも記憶の最果ての光景か。
 青い双眸。どちらにしても、それは呪いの証でしかない。
 そう。心さえなければ、生への渇望も、罪への意識も、何も感じなかったはずだった。
「――」
 足が止まる。僅かに灰色のローブが揺らめく。胸に手をやったのか。
 しかし、そこで女は暗がりに落ちていくことはなかった。ただ、前を向きなおしただけだった。冷徹な瞳はローブに隠れ、頬に流れた透明の雫は、誰にも見えなかったけれども。
 それでも、シェンナは空虚な都市に身を投げ出した。
 転がる闇は、全てをいびつに染めていく。そうして、あの金髪の少女もまた闇に呑まれた。
 ならば、止めるしかない。この歪みの広がりを。
 ――何の為に?
「意味などない」
 しかし、足を止めることはしまい。
 迷うから苦しむ。無駄な罪滅ぼしにもがくから傷つく。
 己に出来ることなど、初めから決まっていたのだ。
「闇より出ずるものは、闇に帰っていけばいい」
 初めから無かったようには出来なくとも、せめて転がる運命が潰えれば。
 そうすれば、この体は滅び、全ては平定するのだろう。

 やはり、この世界にいびつなものの居場所など存在してはいけないのだ。
 己のすべきことは、決まりきっていた。




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