-紫翼-
二章:星に願いを

29.小さな物音



 よりによってこんなときに、と呟かずにはいられなかった。セライムは無人の大通りを追われるように走りながら、胸が冷たく震えるのを自覚した。
 停電から一日が過ぎ、昨晩の凶事に身をすくませるかのように都市は静まり返っている。己の足音の響きさえ、その一つ一つが鋭く尖って鼓膜を刺すようだ。
 自分のしていることを考えると、胸がちくりと痛むのをセライムは感じた。キルナに知られたらきっと大目玉だろう。緊急措置で高等院の生徒の夜間外出は禁じられていることは百も承知で、彼女は寮を抜け出したのだ。
 部屋には置手紙を残しておいたから、気を利かせてくれたなら教師たちには何も言わないでくれただろうが――。
 とにかく、今のセライムにできることは一刻も早く用向きを済ませて戻ることだった。チノやキルナには心配をかけてしまうことだろう。それでも、膝を抱えているわけにはいかなかった。

 停電が起きた昨晩のこと、シェンナと名乗った灰色の女との対話は途切れたままであった。視界が暗くなった途端、彼女は何かを察知したのか話を取りやめてしまったのだ。お陰で宙ぶらりんのまま寮の近くまで送られて、セライムは自室に戻ったのである。彼女はセライムを送ると、まるで闇に溶けるように姿を消してしまった。
『また明日の夜。国立図書館前に』
 彼女が言い残した言葉を胸に、セライムは大通りを下っていった。国立図書館は都市の中央を走る大通りの南の終点に門を開いているのだ。
 静けさと闇は、そこにあるだけで心を侵食してくる。普段から我が庭として駆け回っている筈の都市が、今はまるで歪んだ御伽噺の中に入り込んでしまったかのようだ。走っても走っても、辿り着くべき終点が見えてこない。
 頭が妙にふらふらした。何かがおかしいと思った。こんなに胸騒ぎがするのは何故だろう。
「――お父さん」
 口の中で、祈るように呟いた。どうか守って下さい、と強く念じた。頬に触れた掌の温かさを必死で思い出し、顔を歪めながら先を目指す。
 そして波打つ金髪を翻してセライムが図書館前に辿り着いたとき――、灰色の女はそこに立って待っていた。セライムは立ち止まり、ごくりと息を呑んだ。頬を風が叩く。
 女は灰色の瞳でこちらを見返していた。老人のように色を無くした彼女の表情は、セライムでなく、その向こうにあるとても遠いものを見ているようだった。


 ***


 ごうごうと耳をかきならす騒音は、あるときは終わりなき悪夢。
 また、あるときは優しい子守唄。
 何もかもを飲み込んで、闇はたゆたう。
 痛みと寂しさに泣いたこともあった。
 しかし、それが無駄な行為なのだと気付くのも早かった。
 冷たく閉ざされた世界に、仲間と思える灰色の体をした人間はもう一人いた。しかし、自分よりも少し前に生まれたその人は、いつだって自分よりも一歩だけ達観していた。
 話しかけても返答はない。研究のことにだけ興味を示す。そう、彼の瞳には理論しか映っていなかった。
 だから自分も彼のように、そのまま冷たくなってしまえば良かったのだ。
 そうすれば、こんな痛みも感じなかったのだ。

 小さな物音が全ての始まりだった。
 あの音がなければ、冷たいままでいられたはずなのに。
 なのに、運命はそれを許してはくれなかった。

 そのとき、湯浴みを終えて体を拭いていた自分は、何かと思ってそちらに歩いていった。
 自室に備え付けられた脱衣所は狭く、壁沿いに大きな戸棚が並んでいるだけだ。ごうごうと換気扇が廻る。無造作に、戸棚を右から一つずつ開いていく。
 そうして、最後の一つに手をかけ、開いて――驚いて息を呑んだ。
 こちらに向けられた黒い穴。ぴたりと拳銃の照準を鼻先に合わせ、それを構えた見覚えのない男が険しい顔でこちらを睨んでいた。
 ――しかし彼は次の瞬間、ぎょっとしたように一度目を剥き、視線を動かし、火がついたように頬を紅くして片手で顔を覆った。
「い、いや……! 違う、違うんだ。断じてそういう理由でここに隠れたんじゃないぞっ」
 その理由が、湯浴み後の一糸まとわぬ己の姿によるものだったということを、当時の自分は知らなかった。裸体なら、ここの者たちにいくらでも実験時に見せている。この男に見せたところで何とも感じなかった。いや――全ての感覚がまるで心に届いてこなかったのだ。
 狭い戸棚に窮屈そうに身を押し込んでいたのは、若い男であった。波打つ金髪を後ろでまとめ、犬の尾のように垂らしている。無精ひげの生えた顔は粗野で彫りが深く、よく日に焼けていた。外の世界を知らない己に、日焼けした肌というものは馴染みがなく、奇妙な印象だけが残った。
「……あなたはだれ」
 既に拳銃の口は明後日の方を向き、男は狼狽したように体を縮めている。無論、目頭を手の平で覆うままに。
 だが、こちらの問いに彼はやっと平静を取り戻したらしく、そろそろと瞳を覗かせて控えめにこちらを見返した。驚くほどに鮮やかな、青の双眸だった。
「お前――ここの人間か」
 知らない匂いがした。嗅いだことのない匂い。気持ち悪くて、思わず一歩足を下げた。
「動くな」
 拳銃の先が再びこちらを向く。その真っ直ぐな眼差しに、頭の奥が焼かれるのを感じた。こんなに強い視線を、今まで見たことがなかった。
 男は口の端を引き縛るようにして、低く言った。
「俺がここにいることを、誰にも言わないでくれ。それを約束して貰えるか」
「……やくそく?」
 聞いたことのない言葉だった。少なくとも、ここにいる限りは必要としなかった言葉だ。
「やくそくとは、どのような意味を持つの」
「え?」
 男は勢いを削がれたように、目を丸くする。そして、真剣な眼差しでじっとこちらの顔を見つめた。
 彼は囁くように問うた。
「お前、ここで生まれたのか」
「そう」
「外に出たことがあるか」
「外――それは、この部屋の外?」
「違う、この建物の外だ」
「……タテモノ。タテモノって?」
「青い空を見たことがあるか。風に吹かれたことがあるか」
「ソラ? カゼ?」
「――」
 男は言葉を詰まらせて、唇を震わせた。――なんてことだ、そう言ったように思えた。
 暫くすると男はかぶりを振って、何かを吹っ切ったように、こちらを見て微笑んだ。
「お嬢ちゃん。俺はここで誰が何をやっているのかを調べにきた。それも、非公式に、だ。分かるか?」
「侵入者なのね」
「おいおい、それは流石にオジサン泣いちゃうぞ。格好よくジャーナリストと呼んでくれ」
「……じゃー?」

『23号より。応答せよ、身体洗浄が遅れているようだが』

 部屋の壁の電声機から突然聞こえてきた声に、男は肩を飛び上がらせた。何故驚くのか、よく分からなかった。だから、歩いていって受話器をとった。
「……こちら、脱衣室」
 ちらりと、戸棚に入った男に目をやった。男はじっとこちらの瞳を見つめていた。侵入者だ。異常は起きている。ならば報告せねばならない。
 しかし、報告すればどうなるだろう。息を吸う。彼は自分の知らないものを多く知っているようだった。そして、あの瞳。胸の内に、何か小さなものが生まれてくる。息を吐く。じんわりと熱を持った、――これは何だろう。
『どうした。異常があれば報告せよ』
 思わず、言葉が口をついてでた。
「異常はない。支度が完了次第、第二層八番研究室に向かう」
 言ってから、心臓が飛び出そうになるのを感じた。人に嘘をついたのは、これが始めてだった。
『……了解した。第三検体知能注入試験は三十分後だ。早急に持ち場に向かえ』
「了解」
 震える手で受話器を戻し、振り向く。男が不思議そうにこちらを見て、――そうして、笑った。
「……ありがとう、命拾いした」
 かと思うと、ぽりぽりと頭をかいて顔を背ける。
「うん、えーと、とりあえず服を着てくれるか」
 じわりと胸に染み込むような音色に名前がつけられず、逃げるように戸棚から着替えをだして、身につけた。普段と代わり映えのしない白い服だ。古びた上着を羽織っている男は、まるで別世界の人間のように見えた。
「俺は、ここの秘密を知らなきゃいけない。それも、誰にも知られずに、だ。その為に、お前――いや、君の力を借りたい」
 男はそう言った。
「それと、君に聞きたいことが沢山ある。教えたいこともだ」
 男は真剣な顔でそう言った。
「暫くここに匿ってもらえるか」
 男は。
「君、名前は?」
 男は、不思議な――男だった。


 ***


 あの物音だ。
 それさえこの耳に届いていなければ――。
「――アラン・デジェムは、私がいた研究所に何処からともなく現れた」
 金髪の少女は唇を震わせながら、その研究所とは何処ですか、と問うてきた。
「それは、……言えない」
 あの場所はもう、誰の目にも触れるべきではない。時代の片隅でひっそりと朽ちていけばいい。始まりの地は、悪夢と悲劇しか生まなかった。
「彼は研究所を調査したがっていた。それもその筈、あの研究所は法も倫理も通用しない、今考えればまるで監獄のようだったから」
 そう。あの時はそれを何とも思っていなかった。それが当たり前であったから。
 しかし、彼と会って光を知ってしまった。それを忘れるため、心に蓋をして目を背けた。なのに、夢は終わらずこうして目の前に突きつけられる。
「何の研究を?」
「それも言えない」
 少女はもどかしげに俯いて、それでも臆することなく問いを重ねた。
「父は、どんな様子でしたか」
「――不思議な人だった」
 声が震えた。波打つ金髪。彫りの深い顔立ち。真っ直ぐと前を見据える青い双眸。それらはまるで、刃そのものだ。
「そこにいる者たちが知らないことを、何でも知っていた。研究所のことを調べながら、そこにいる者に何かを伝えようとしていた」
 じわじわと胸に痛みが走る。それは今まで形にしようとしなかったものだ。断罪されるにも裁く者がおらず、だから忘れるしかなかった。
 しかし、今は目の前に少女がいる。彼の娘だ。
「あなたのことも、話してくれた」
 少女は、顔を歪めながら問う。
「……父はそこで、どうなったのですか」
 心を金槌で叩かれるような、痛々しい声だった。幾度も絶望を味わって、憔悴した顔をしていた。
 全て、この歪みがあったからだ。そして、この手で更に事を歪めてしまった。
 やはり、自分たちは存在して良いものではなかったのだ。
 シェンナが口を開こうとした、そのときのことだった。


「待ちなさい」
 緊張を切り裂くように、高い足音をたてて進み出てきた小柄な人影が、街灯の下にさらされる。
 セライムは血の気が引く思いで、その名を呼んだ。
「き、キルナ!?」
 どうして、と尋ねる前に、きつい視線で睨まれて喉をひきつらせる。明らかな怒りを秘めた親友は、セライムを庇うようにして灰色の女と対峙した。
「……あなた、どちら様ですか」
 低い声に含まれる険の鋭さに、セライムは首を振って肩に手をかけようとした。
「ち、違うんだキルナ、この人は」
「セライムの父親を知っているそうですが、証拠でも?」
 キルナは慌てるセライムをよそに、問いを重ねる。だが、セライムも必死だった。
「私の顔を見て、お父さんの名前を言ったんだ。だから」
「それで信じたの? こんな時期になって、しかも、こんな妙なことが起きる頃合に、あなたに接触してきた人を」
 ふっと瞳を見開いたセライムは頬を震わせて、声を失った。そして灰色の女を見つめた。
 彼女は、キルナの突然の来襲に驚いた様子も見せなかった。ただ、静謐な瞳でこちらを見返していた。それを見ると胸がうずいて、セライムは顔を歪めた。何を信じたらいいのか分からなかった。
「あなた、何者ですか。セライムに近づいて、何が狙いです。こんな夜中に呼び出すなんて――セライムに何かあったら」
 キルナは背筋を伸ばしたまま、きっぱりと言い放った。
「あたし、あなたを絶対に許しません」
 しかし、灰色の女はたじろがない。全てを吸い込んでしまう灰色を瞳に張り付かせ、怒りに満ちた少女の顔を見返していた。
 キルナは得体の知れない嫌悪感を感じ、セライムを背にしたまま、足を下げる。一歩、二歩。
 セライムは、頭を抱えてうずくまってしまいたい衝動にかられながら、唇を震わせていた。視界がぼやけると思ったら、一滴の涙が頬を伝っていた。だが何によって感情が激しているのかも彼女には分からなかった。
「……私は、真実が欲しい」
 誰を信じればいいのだろう。セライムは、途方に暮れた幼子のように髪を夜風に揺らす。
「でも何が真実なのか分からない。あなたは、どうして」
 言葉は途中で途切れた。灰色の女が、ふわりと灰色のローブをはためかせたからだ。キルナの緊張が伝わってくる。
 しかし、不意に灰色に染まった表情が緩むのを見て、セライムは息を呑んだ。彼女はまるで絵画の住人のような諦観を秘めた笑みを乗せて、こちらを見つめていた。
「安心するといい、私はもう、そう長くない」
 笑っているはずなのに、嫌な予感が喉下までせりあがった。だが言葉にしようとすれば瞬時に霧散してしまう。
 酷い耳鳴りと眩暈の中で、セライムは続きを聞いた。

「あなたの父アラン・デジェムは既に、この世にはいない」

 びきびきと音を立てて、視界にひびが入っていく。

「――私がこの手で殺したのだから」

 目の前が、真っ暗になった。




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