-紫翼-
二章:星に願いを

28.ドブネズミ



 学術都市グラーシアの中心部に、豪奢な装いで都市外からの客人を迎える宿がある。都市でも最も高級な旅館の一つであるそこが抱える料亭は、要人の会合に使われることも多い。
 使用人は既にこちらの顔を知っているらしく、足を踏み入れれば流れるような振る舞いで奥の部屋に通される。
 学園長はそれに会釈して、濃紅の絨毯が続く回廊を抜けた先にある部屋に入った。
 そう広い部屋ではないが、贅の限りを尽くした内装は目を見張るほどだ。壁には美しい山々が描かれた絵画。天井からは銀と硝子のシャンデリアが煌々と輝き、白く眩い卓布の上の食器やグラスに煌きを散らす。年代物の艶を放つ木製の椅子は五つ。会合の為に、向き合うように配置されている。
 既にそこには、一人の先客が席についていた。彼は学園長を見るなり目を輝かせ、嬉しそうに腰を浮かした。
「やや、これは学園長どの」
 小さな目を人懐こく細める熊のように大柄な男は、グラーシア市長のチャローズである。学園長は微笑んで会釈した。
「お久しぶりです、市長。相変わらずお早いですね」
「いや、早く来すぎて手持ち無沙汰でね。やっと話し相手が現れましたよ」
 太い声で肩を揺する笑い方は親しみ深く、学園長は眉を下げて笑いながら使用人に案内されて市長の隣の席についた。
「しかし、ここのところ妙なことばかりで。一体何事ですかな」
 学園長が腰を下ろすと、使用人が去っていくのを見計らって市長はそう問うた。
「そうですね。市長もお忙しかったでしょう」
「あなたほどではないですよ、学園長どの。怪我をされた生徒さんの具合はいかがですかな」
「ええ、命に別状はありませんでしたので――」
 そこまで言いかけて、学園長は新たな来訪者の気配に顔を向けた。
「失礼」
 物を噛み含んだようなくぐもった声で、使用人に付き添われて入ってきたのは、枯れ木を思わせる老人であった。杖を片手に今にも折れてしまいそうな体を支えているが、上品な着衣に乱れはなく、目つきは鷹のように鋭い。笑みを忘れた口元を引き結んだ老人は、見る者を畏怖させる賢者の顔つきで、体を折って一礼をした。
 学術都市グラーシアの南に聳える国の知の集大成、グラーシア国立図書館の館長ウィーネンである。
「これは……! ようこそ若輩どもの場にいらっしゃいました。ささ、どうぞこちらに」
 恭しく会釈する学園長の横で、市長がやや慌てたように椅子を勧める。無口な図書館長は目礼をして、市長の逆隣の席に腰を下ろした。それと同時に、カツカツと主張するような足音が聞こえてくる。
「フン。妙な顔が揃いも揃いましたな」
 部屋に現れると開口一声、皮肉げに言い放ったのは、警視院の制服に身を包んだ壮年の男である。つるりと禿げあがった頭部の下で、真っ白の眉を吊り上げ、不機嫌そうに頬を歪める。中背の体格を覆う無駄のない筋肉の様は、服の上からでも分かるほどだ。制服を着ていなければ、逆に警視官に止められそうな風体であった。
 そんなグラーシア警視院本部部長ラヴェームに、市長はやや狼狽したように笑い、学園長は礼儀正しく会釈し、図書館長はすっと目を細めた。
 軽く鼻を鳴らせた警視院部長は、足音をさせながら図書館長の隣にどっかりと腰掛け、忌々しそうに顔を横に向ける。
「おい、ここは煙草吸っていいのか」
 不躾な質問に、使用人は淀みない動きで灰皿を持ってきた。
「失敬」
 警視院部長はそれだけ言うと、口をへの字にして顔を外に向けたまま、煙草に火をつける。会話することなど何もないとでも言いたげだ。
 困った風に市長は頭をかいて、助けを求める視線を学園長に送る。学園長もまた苦笑した。普段から、警視院は都市内に出没する天才という名の奇行者を追い回しているのだ。天才たちの元締めである自分たちを見れば皮肉の一つや二つ言いたくもなろう。
 微妙な沈黙が落ちた部屋に、そわそわと市長が熊のように大柄な体を揺らす。その場の雰囲気に耐え切れないらしい。
 だが、沈黙は長くは続かなかった。最後の来訪者が、ぬっと開かれた廊下から姿を現したのだ。
 それと同時に、その場の空気が緊張にとって変わる。四人のグラーシアの要人たちは、それぞれの目で現れた男を観察した。
「――失礼。わざわざお集まり頂き感謝する」
 そう低い声で言い放ったのは、屈強な体を窮屈そうに服に包んだ偉丈夫であった。歳は既に40を越えているだろうか、しかし周囲に与えるのは年齢による肉体の衰えではなく、むしろ底知れぬ威圧感だ。流石に軍服は着用していなかったが、生粋の軍人としての匂いは全く消えていない。
 最後の来訪者を迎え、背後の扉が使用人によって閉められる。曲がることを知らぬような目つきでその場にいる者たちを見回すと、彼は勿体ぶったように口を開いた。
「陸軍少将、ディラン・アルゲス。国より極秘に任務を預かり、この都市に参った。リーナディア合州国軍としてこの件は――」
「ごたくはいいからさっさと本題を話して下さいませんかね」
 ぴしゃりと低い声に被さるように言った警視院部長に、ディランは口を噤んで眉を歪めた。だが、ものともせずに警視院部長は剣呑な視線を向ける。
「こちとら忙しいもんでね。どっかの頭がぶっとんでる連中の相手をせにゃいかんのです。それにさっさとせんと、そこのご老体がへばりますよ」
「ちょ、ちょっと!」
 顔を真っ青にさせた市長が、思わずと言った風に立ち上がる。しかし、警視院部長はにやっと不敵に笑っただけだった。
「……私のことは、構わなくとも結構」
 発言したのは、図書館長本人だ。しわがれた聞き取りづらい声で、ゆっくりと噛み含めるように続ける。
「しかし、軍のお方。私ぁあんたたちがあんまり好きではない。炎は本という知を焼く。無知で凶暴な戦火が、今までにいくつの賢者の書を灰にしたことか。用が済んだらさっさと炎と共に去って欲しい、私が望むことぁそれだけです」
 おろおろと所在なげに首を回す市長は、出鼻をくじかれて不快そうに黙っている軍人を宥めるように、頬を引きつらせて笑った。
「と、とにかく。どうぞお座り下さい」
「――」
「ま、まずは私どもの自己紹介からですね。ええと――」
 ディランは無言で卓につき、ぎらつく眼で市長から紹介される四人の顔を見渡す。そうして、それらが終わると溜息をつくように言った。
「では、ご希望通り手短に話そう」


 ***


 一通りの話が終わると、卓は鉛のような重苦しい沈黙に包まれた。煌々と輝くシャンデリアですら、その輝きが翳って見えるほどに。
「――話になりませんな」
 口火を切ったのは、警視院部長であった。先ほどの数倍は陰険なものを含んだ表情で、ディランを睨めつける。
「理由もなしに無条件で命令を呑めと言われましてもね。見るからに怪しい液体を、説明もされず飲めといわれて飲む馬鹿に見えますか、私たちが」
 攻撃的な口調であったが、他の三人もそれを咎めはしなかった。それほどまでに、政府から派遣された軍人の語る言葉はあまりに不明瞭で、一方的だった。
「え、ええと……つまりあなたが仰りたいのは、この都市に何らかの災いの種があって、それを取り除く為に我々に内密に協力せよと?」
 言いにくそうに市長が確認すると、ディランは軍人らしく、鷹揚に頷いた。
「そう難しいことを言っているのではない。我々の言う通りに情報を提供し、我々の行動の邪魔をしない。望みはそれだけである」
「断ればどうなりますかな」
「国に未曾有の危機が訪れる」
「具体的にお願いします」
「機密事項につき答えられない」
 警視院部長とディランが刃を打ち合わせるように睨みあう。警視院部長は純白の卓に腕を乗せ、唸るように顎を引いた。
「――この前もあんたたちの我侭に付き合って一斉調査をかけましたが、それでも飽き足りませんか。冗談ではありませんぞ。この地はあんたたちの箱庭でもないし、私たちはあんたたちに隷属しているわけではない。理由を話して頂けない限り、警視院としてこれ以上の協力は出来ませんな」
「国の危機とあなた方の詮無き誇り、どちらが大切なのだ」
 は、と笑った警視院部長は、肩をすくめて手早く煙草に火をつけた。肘掛にもたれかかり、煙を吐き出して、首を振る。
「ならばやってみますか。あんたたちに、ここの調査なんて出来るわけがないと思いますがな」
 意味ありげな笑みを見せる警視院部長に、ディランが気に障ったように眉をしかめると、別方向から遠慮がちに発言する者がいた。
「あの……大変恐れ入りますが、その、調査対象というものに目星はついているのでしょうか」
 無言でディランが鋭い眼差しを向けると、ひゃっと市長は一瞬肩を飛び上がらせたが、声を小さくしながらも続けた。
「ええと、お話を伺っておりますと、どうやらこの都市内に怪しげな何かが入り込んでいる、というように受け取りました。しかし、目星がついておらず調査するといいましても、怪しげな人物や集団といいますとあまりに多すぎて……いや、お恥ずかしい。しかし、この都市はちょっと特殊ですから」
「市長、聞き捨てなりませんな。ちょっと特殊じゃないです、この上なく異常、と言って頂きたい。普通の都市では年に何度も小爆発や異臭騒ぎが起こったりはしないのですぞ」
「ああ……いやはや」
 警視院部長にまで睨まれて更に萎縮する市長は、愛想笑いを浮かべて体を揺すった。
「まあ、そんなわけで。しろと言われればご協力は出来ないこともないのですが、ええと、ただ、私どもとしましてもそのように漠然としたお話だと、民間人への説明にも困りますし」
 もごもごと消え入りそうになりながら言う市長に、容赦なくディランは眉間にしわを寄せた。
「そのような危険物を放し飼いにしているから困るのだ。何の為に市長や警視院がいると思っている」
 糾弾を受けた警視院部長は椅子に背を預け、くぐもった笑いを漏らす。
「そう思うならここに一ヶ月住んでみると良いですよ、天才ってのがどういうものか、よく分かる。とにかく話にならんということです。この都市に介入したかったら、理由と狙いをはっきり口にして貰わんとね。我々にも我々のやり方があるのです」
 戦場のように緊張した場の空気に、ディランは苛ついたように首を振って、それまで端の席で沈黙を守っていた人物に顔を向けた。
「あなたの考えをお聞かせ願いたい、学園長。――随分とお若いようだが、その髪の色は南の大陸の出身か」
 話を振られると、ゆるりと学園長は顔を向けて、細い目で微笑んだ。人懐こさはないが、静まり返った面持ちは全てを包容するような懐の深さがある。
「はい、父はこの大陸の者ですが、母が南の生まれで。このような容姿ですが、国籍はリーナディアに属します」
「そうであったか。ならば祖国のために、子供たちを守る者として思慮ある判断を望もう」
 学園長は一度瞳をゆっくりと瞬き、その場にいる者たちを見た。そうして、体を正しく椅子に収めるままに、静かに告げる。
「……はい、私の考えとしましては」
 そんな様子を面白げに眺めている警視院部長を尻目に、学園長は一度視線を白い卓布に落とし、ゆったりと穏やかな言葉を紡いだ。
「そう、あなたが仰るように私には生徒をあらゆる危険から守る義務があるのです。だからこそ、自ら毒杯をあおるわけにはいきません」
 あまりにさらりとした物言いに、暫くはその意味に気付けなかったディランが、ひくりと頬をしかめる。学園長は構わず、やわらかい声で続けた。
「我々は学究の徒。この地はあらゆる権力や文化に影響を受けることを許されぬ学びの楽園。それが、属する国であろうと権力の下にされるがままでは、掲げた理想も名が折れるというもの」
 軍人が口を開きかけたが、学園長はそれを許しはしなかった。笑みを消した、静まり返った表情でとうとうと告げる。
「初代大総統ウェリエル・ソルスィードの願いは、グラーシアの変わらぬ繁栄。故に我等はこの地を障害から守る為、この地の僕として隅々まで目を渡し、冷たく輝く美しい都市の均衡を保ち続けてきました。それは今までのグラーシアの実績を見れば瞭然としたこと。例え、この地に国家を転覆させうるものが潜もうと、逆に言えばそのような危険極まりないものは、鷹の目を持つ我等の隙を掻い潜ることは出来ないでしょう。
 既に我々は、今日の都市に奇妙なものを感じ取っています。この場に揃う方々も、グラーシアを憂う想いは同じ。日々の生活を捧げ、力を尽くしているのです。我々の都市の淀みは、我々の手で払拭しましょう。そこにあなた方の協力があるのなら、それ以上頼もしいことはありません。しかし、あなた方に諂ってまで力を請うほど、我々は無力ではないのです。
 ウェリエルの理想の下、この地の集うは有象無象の人や想い。あるときは放免し、あるときは厳罰を下し、我々は我々のやり方でこの地を律してきました。そしてこれからも、集う者ある限り我々はこの身を捧げましょう」
 学園長はそこまで言って、ゆるりと目を閉じる。若々しい顔立ちが、ふと老人のような色を帯びる。
 淡い水色の髪にシャンデリアの煌きを被せ、しかし静謐な瞳の色を変えることなく、彼は言い切った。
「グラーシアとは国の為でも人の為でもなく、学者の純粋で高潔な欲求の為にこそ門戸を開くのです」
 話し終えても、誰も発言する者はいなかった。屈強な軍人は半ば呆気にとられて黙り込む。
 すると警視院部長は苦虫を噛み潰したように、それでいて半ば諦めたように口元を緩め、若々しい男の論に肩をすくめて返す。そうして、これだけ論じて尚静まり返っている彼に投げやりな視線をやった。
「……学園長。この軍人は私ではないのですぞ、もう少し手加減しては如何か」
 誇り高い軍人は表情を険しくさせて警視院部長を睨んだ。しかし、学園長の方は困ったように微笑むだけだった。
 ディランは、学園長に視線を移す。そして穏やかな佇まいとは裏腹に、その瞳の奥に宿る苛烈な光を見た。まるで彼の周囲だけ時の流れが違うようだ。透徹な目線は、まるでこちらの心の奥底まで見透かすかのよう。体温の感じられぬ細い体をローブに包んだ姿に、思いがけず背筋に悪寒が走る。
 しかし、学園長は笑っていた。全てを見通しながら、それでいて全てを許し、覆い隠してしまえるような、この上なくいびつな微笑みで。
「私もここにいる方々と思いは同じです。あなた方の手の内を見せて頂かないことに、協力はできません」
 学園長はそう結んで、軽く会釈をした。


 ***


「だから言わないことではないのです」
 聖なる学術都市の夜は、いつになくひっそりと息を潜めていた。会合に来ていた者の内、最後に建物を後にした軍人は、ぴたりと足を止めて油断なく周囲を見渡し、忌々しげに舌打ちをする。
「ネズミか。何処にいる、姿を見せろ」
「あはは、君の命令に従う義務はないですよ。君もよく知っているでしょう」
 心底嬉しそうにくつくつと笑う声が、無人の夜に響き渡る。建物の周りには街灯や彫像、生垣が並んで視線を困惑させる。完全に気配を消しているのか、声の元が何処にいるのかは見当もつかなかった。
「いやあ、しかし傑作でした。あの学園長も中々やりますね。流石は聖なる学び舎の主といいましょうか」
「貴様」
 ディランの瞳に敵意がこもり、怒りの余りに肩が小刻みに震えた。
「ふふ、そう怒らないで下さい。それに、あなたも失策を犯した。彼らは誇り高い人間たちです。手先で操ることなど出来はしないのですよ」
「……他にどのような手がある。真相を話すわけにも行くまい」
「あなたはここを何処だと思っているのです」
 青年のような明るくやわらかい声は、夜の空気に染み込み奇妙な音色となって織り成される。
「天才にも種類があるのです。ここに住まうは、あなたが思うような机上の理論で支配された者だけではない。現実を曇りなく見通す天才もいるということです。放っておけば、彼らは自力で真実に辿り着くでしょう。――いいえ」
 かぶりを振ったのだろうか。怪訝そうに眉を潜めるディランの下に、声は僅かに震えて届く。

「既に、彼らの内の誰かは真相を知っているかもしれません」

「ありえない」
 鋭く切り裂くように、軍人は反論する。だが、声はそれに怯むこともなかった。
「その台詞はここでは通用しませんよ。ここは不可能が可能になる都市です。何が起こるか分からない、氷と闇の美しき学問の庭。論理は時に、いびつなものすら隠してしまう」
 歌うような音色が耳朶を叩く。
「ふふ、悔しいでしょう。あなた方ですら真相が知れず、こうして地を這いずりまわっているのです。なのに彼らの内の数人は、それを知った上で狂言を演じていたのかもしれないのですからね」
 抑えきれない震えが、彼の拳を戦慄かせる。声は益々愉快そうに続けた。
「管轄が違うのですよ。この地であなたたちに出来ることはありません。吼えるしか脳のない犬どもは黙ってお帰りなさい」
「黙れ、ドブネズミ」
 しん、と辺りが静まり返った。庭園に囲まれた豪奢な建物は、沈黙に覆われて鬱蒼とした影を落とす。瞳に明らかな軽蔑と怒りを込めて、ディランは牙を剥いた。
「ドブの中に永遠に潜んでいればいいものを。無闇に外に出れば天罰が下るぞ」
 それに対する返答はなかった。代わりに、静かな応答があった。
「――今回、僕は個人的な用命で動いています。故に、僕の行動の全権は僕に帰する。それをお忘れなきよう。ご存知でしょうが、僕はとても残虐です」
 そう優しく忠告した後、くすっと転がる笑い声。軍人は、嫌なものに触れたように頬を歪め、一歩下がる。風のない夜の暗がりは、時すらも止まったかのよう。
「それでは、良い夜を」
 軽やかな挨拶と共に、声は闇に溶けて消えていった。


 ***


「――おっまたせー! 楽しかったー!」
 ひらりと身軽に塀を飛び越えてやってきたレンデバーに、グレイヘイズはちらりと一瞥を投げて返す。
「どうでしたか」
「いやーもう、すごいよね。あの人たち、よりにもよって、ディラン・アルゲスをよこしてきたよ」
 グレイヘイズの岩から掘り出したような厳しい目が僅かに見開かれた。レンデバーはそれを見て面白げに笑う。
「案の定グラーシアの偉い人たちにボコボコにされてね。からかってやったら、ドブネズミって言われた」
「それはまたセンスのない」
 煙草に火をつけながら言うと、レンデバーはそうでしょうと子供のように胸を張ってくれる。グレイヘイズは煙を吐き出し、軽く肩をすくめた。
「まあ、そのボロボロに言われた場面とやらは見てみたかったですね。私も従軍中、彼のことは嫌いでした」
「うん。写真にとって後世に残したかったよ」
 二人で顔を見合わせ、くつくつと笑う。
「ではドブネズミに仕えるグレイヘイズ君。君の首尾を聞こうか」
「ええ。そんなドブネズミにふさわしい家を見つけておきました。若干臭いですが、そこは我慢して下さい」
「えー、やだ」
「行きますよ」
 グレイヘイズは主人の不満を無視して、荷物を持って歩き出した。そうでないと、この主人はやれ庭つきがいいだのやれシャンデリアがついてないと嫌だのと気まぐれを言い出すに決まっている。
 足はそのまま、都市の東南方向に向かう。この都市に住む者なら知らぬものはおらず、それでいて口にだすのを憚る場所だ。美しい都市であるがため、そちらの世界を見たくないのかもしれない。人間の原始的な欲求を満たすための世界を。
「……ユラス・アティルド、かあ」
 背後を長い足で歩くレンデバーの呟きに、グレイヘイズは目を瞬いた。
「アティー……。でもルドってなんだろ、うーん。ねえグレイヘイズ、アティルドの意味分かる?」
「何のことです?」
 ちらりと振り向くと、レンデバーの猫のような瞳が街灯の光を宿してにんまりと笑う。
「うん、国立図書館で調べてきたんだ。この国の古い言葉。それっぽいのはいくつかあったんだけどさー」
「ああ。古語からきているのですか、あの名は。学者のやりそうなことですね」
「んーん。『ユラス』は全く意味不明。何かの造語かな――。ただ、アティーが『成功』って意味っていうだけ。でも、それっぽい符号じゃん?」
 べっこう色の髪を指にくるくると巻きつけながら、首を傾げる。
「調べたらさ、やっぱりディスリエ地方にそんな苗字はないみたいだし。この大陸の人がつけたのかな。一体どこの子なんだろう」
 まるで世界そのものが暮れてしまったような夜だった。人通りはなく、二つの影だけが石畳に細長く描かれる。
「僕の予想がもし当たっていたとして」
 グレイヘイズの後ろに隠れるように歩きながら、レンデバーは、ぽつりと呟いた。
「彼は、何が自分に課せられているのか、知っているのかなあ」
「……彼は何も知らない、と?」
「この物語は闇から闇へと語られた。最初の歪みから――じわりじわりと広がって、ついには壊れ、けれど誰の目にも真相は破片しか見えていない。それは、彼も例外ではないんじゃないかってさ」
 細い足で蹴飛ばされた小石が、乾いた音をたてて転がっていく。それをなんとなしに眺めて、グレイヘイズは薄く笑った。
「調べることが多すぎて、混乱しますね」
「あはは。充実した人生を送れることを感謝しよう、グレイヘイズ。ところで、まだつかないの?」
 レンデバーはひょいとつま先を伸ばして、隣につく。その仕草はネズミというよりまるで猫だ。グレイヘイズは心から思う。この主人は、追いかけられる被食者ではなく、巧妙に罠を仕掛けて獲物をしとめる捕食者なのだ。全くあの軍人はセンスがない。
「かなり奥まった場所になります。その方が動きやすいので」
 そこまで言って、グレイヘイズはしかし、と眉を潜めた。
「戦闘には向かない場所ですね。この辺りは道も複雑で障害物が多すぎる。もう少し重火器が揃っていれば心強いのですが」
「こらこら、グレイヘイズ。ここは戦場じゃないぞう」
 言葉と裏腹に、レンデバーは楽しげだ。グレイヘイズもまた、心地良い緊張を感じていた。戦いは、これからが本番であった。

「ここはあらゆる権力や文化に影響を受けることを許されぬ、学びの楽園なのだ」
 少しずつ幅を狭めていく夜道の先に、そうして二つの影は消えていった。




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