-紫翼-
二章:星に願いを

27.あの空に



 あまり寝ていないせいか、体が気だるく気分が優れない。追っていた書類の文字が一瞬ぼやけて見えて、ライラック理事長は眉間を指で押さえ、ぎゅっと目を閉じた。
「大丈夫ですか?」
「あ――はい、申し訳ありません」
 学園長室の応接用ソファーは、しっとりとした革製の上等品故に、座っているとそれだけで眠気を誘う。この疲労の中で、その誘惑はいかんともしがたく――、いや、とライラック理事長はかぶりを振った。今はそんな場合ではないのだ。
「犯人には未だ目星がつかないそうです。被害者の生徒の意識は戻ったそうですが、事情聴取には――酷く怯えたように、何も覚えていないと」
「――そうですか」
 学園長は紅茶を飲みながら渡された書類に素早く目を通す。ここ数日間はほとんど家に帰っていないというのに、その表情に疲労は見えない。ライラック理事長はそれが不思議でならなかった。一体、どんな体の構造をしているのだろう。
「生徒の精神状態が気がかりですね。こちらからも学業復帰に尽力しましょう」
 学園長はいくつかの指示を流れるように口にする。それを一つずつ確認して、ライラック理事長は思わず苦笑した。相変わらず、流石としかいえない手腕である。
 そして、この瞳だ。普段はのんびりと笑っている筈なのに、ふとしたときに苛烈な光を露にする。
「……許せませんね。罪もない生徒に、酷いことを」
 聞く者の胸を強く叩くような低い声に、ライラック理事長は頷いた。
「はい。一刻も早く犯人が捕まるといいのですが」
 頬を険しくさせて、ライラック理事長は次の話に取り掛かる。同日に起きた、停電被害の後処理のことだ。
 こちらも、原因は生徒が襲われた事件にあるのだと警視院から聞いていた。その場で使われた強力な魔術が、送電を狂わせたのだという。
 学園ではさしたる被害は出なかったものの、各方面からの被害報告書に隅々まで目を通すのが律儀な現学園長の常だった。いくつかのことを確認する学園長に答えながら、ライラック理事長はふと、学園長の服装がいつもと違うことに気付いた。
 質素な薄手のローブを好んで着る学園長を初めて見る者は、大抵礼服を着たライラック理事長の方を学園長と間違える。しかし今日の学園長は、ローブであることに変わりはないものの、上品な紋の入った服を着ていた。
「学園長。今日はお出かけですか」
 問うと、学園長は目を瞬いて、よく分かりましたねと笑った。ライラック理事長が冗談まじりに服装のことを指摘すると、髪に手をやって苦笑する。この学園長は、身なりについては驚くほどに無頓着なのだ。
 彼の才能を見出したオーベル老はその昔、頭を抱えながらライラック理事長に愚痴を漏らしたものである。奴に決定的に欠けているのは女の扱いと服のセンスだ、と。
 故に学園長が上等なものを着る日といったら、学園の主要な祭事と、学園外の人物との会合くらいなものである。それでもオーベル老の涙ぐましい努力の成果らしい。
「……こういうの着ていかないと、後でオーベル先生に怒られますからねえ」
 いや、それが当たり前ですからと内心で呟きながらも、学園長がふと表情を真剣にしたため、居住まいを正した。
 学園長は、周囲に視線を配り、一度立ち上がって学園長室の開きっぱなしの扉を閉めた。それを見てライラック理事長は眉を跳ねさせる。扉を閉めて話をするなど、この学園長にしてはよほど珍しいことであった。
「口外厳禁でお願いします。表向き、今宵は市長と食事ということになっているのですが」
「――はい」
 ソファーに腰掛けた学園長は膝の上で手を重ね、顎を引く。どうも厄介な話のようだ。
 ライラック理事長は口元を引き結んで、話を聞き漏らさぬよう耳をそばだてた。
「政府陸軍の少将に、極秘で呼び出されているのです。このグラーシアの要人全員が」
 そうして学園長は、困りました――と結んだ。


 ***


 ベランダでセトの翼を撫でてやりながら、俺はぼんやりとその紫色を眺めていた。
「……びっくりだぞ、セト」
 ハーヴェイさんの気遣いで、俺はかなり早い時間に寮に帰された。日の長い夏、まだ陽光が残る時間帯だというのに、エディオやスアローグも部屋に戻ってきている。当たり前か、まだあの事件の犯人が捕まっていないのだ。門限も早まっているし、研究室でも措置がとられているのだろう。
 俺は部屋から逃げるようにベランダに出て、丁度やってきたセトにこうして語りかけていた。人にはとても話せない事柄だからだ。
「セシリアから衝撃発言だ。あいつに論文と石を渡したのは、もしかしたらセライムの父親かもしれないって」
 一つ一つ言葉にするたびに、それらが胸の底に膿となって溜まっていく。パズルのピースが、ゆったりと悪夢を形作っていく。
「……セライムの父親も、俺に関わってたかもしれない」
 帰ってこなかった父親へのどうしようもない感情を露にした、嵐の日のセライムの姿が思い浮かんだ。そして、青薔薇の庭を背景にした石の煌きと――。
「だからあいつ、最近おかしかったんだな」
 セトの吸い込まれそうな光沢を持つ紫色の羽根は、手摺の上で置物のように動かない。セトは瞳を無表情に細めて、俺の声を黙って聞いていた。いや、鳥が喋れるわけがないんだけど。
「……俺のせいなのかな」
 小さく呟く。セトはやはり、動かない。
「あー」
 項垂れて頭を振ると、紫色の前髪が視界で煩わしく揺れる。セトの翼と全く同じ。近くと遠く、二つの色が交じり合って、滲んでいく。

 何故、俺は記憶を失ったのだろう。あの目覚めの直前、何が起きたのだ。
 俺が俺になったのはいつだ。あの目覚めより前か後か。
 ずれていたものが、かちりと音をたてて填ったのはいつだったか。
 まばゆい光に包まれて、いびつなものが形を得た。あれは、いつのことだ。
 誰かの声がする。言い含めるように、幾度となく繰り返されたそれは、何もかもを飲み込んで――。

「……う」
 ずきりと頭の奥に痛みが走る。軋むような音と共に、頭を握り潰されたような激痛に変わって、思わず膝から崩れ落ちる。
 ――思い出すな。思い出してはいけない。
 知らない音だ。なのに、心の全てを支配されている。
 金属をすり合わせるような嫌な音をたてて、心を縛る鎖が悲鳴をあげる。だというのに、もがけばもがくほど血は流れるばかり。
 ――知らないふりをしていろ。当たり前のように生きていればいい。
 ――それをする為の舞台は、既に整えられているのだから。
 ――こんなにも明るい世界が、目の前に広がっているのだから。
「違う」
 夏の陽光に視界を焼かれ、けれど目蓋を閉じることなく、否定する。瞳を閉じれば、また紫色の闇に囚われるからだ。
「真実を……追わないと。それで、」
 ――それで、どうする。
 ――罪に取り憑かれて絶望し、断罪と共に風と散るか。それが望みか。
「……う」
 ぐるぐると意識が廻る。意識が蝕むように混じってくる。逃げ出してしまえと蠱惑的に囁く意識が、手を伸べて爪をたててくる。
 それでも、と身を振り絞って、俺はそれを否定した。
「壊れてしまうとしても、それでも、俺は」

 ――なら壊れればいい。

「――っ!?」
 視界がぱっと明るくなる。それを覆うは、純然たる紫。額に僅かな痛み。目を見開くままにそれを認識する。
 ああ。
「……セト」
 その場に座り込んだ俺の目の前で、セトが翼をはためかせていた。俺は暫し呆然と、それを見つめ――そうして、何が起こったのか理解した。こいつが額をつついて俺を現実に引き戻してくれたのだ。
 こめかみに浮いていた汗を重たい腕で拭って、俺は薄く笑った。
「ありがとな」
 喉の辺りをくすぐってやると、セトは瞳を閉じて身を委ねてくる。夏の日差しが燦々と降り注いでいるというのに、見下ろした都市には人気がなく、どこか空虚だ。
 まるで隠れ家のようになった日陰に体を沈めながら、セトの翼を撫でる。
 俺は記憶を失っている。生まれてからこの都市にくる間の16年間の記憶だ。
 しかし、――そうだ。それを知れば、俺はきっと壊れる。
 それを何処かで知っていたから、無意識に色んな言い訳をして記憶から逃げ続けていたのだろう。
 見上げた空は抜けるように深い青。大地で起こる有象無象の者たちの饗宴など構いもせずに、孤高の色を湛えている。
「な、セト」
 呼びかけると、セトは返事をするように首をもたげる。
「俺が記憶を取り戻して、今の俺と違う俺になって――、罪を裁かれたらさ、あの空に行けるのかな」
 何もない場所で、風に吹かれながら、何を考えることもなく、一人で――。
 ふっと吹き出す。じっとこちらを見つめているセトを撫でて、俺はかぶりを振った。
「悪い、俺らしくないよな。俺はもうちょっと楽観的だったはずだ」
 頬をかいて一人で苦笑して、両手でセトの体を包むようにする。セトは嫌がる様子もなく、じっとしていた。
「立ってられるだけ、立っていよう。あの人も言ってたしな、先に進めって。それで壊れるならそのときだ」
 予兆は、胸の中からじわじわと沸き起こってくる。杞憂に過ぎないのかもしれないが、それにしては――どうして俺の周囲に、こんなにまでパズルのピースが転がってくるのか。
 記憶が戻る日は、全ての罪が突きつけられる日は、そう遠くはないのだろう。運命はきっと転がっているのだ。俺が迷おうが立ち止まろうが、関係なく。なら、俺はその運命をこの目で見極めたい。
「今の俺の最後まで笑ってられるよう、頑張ろう。セト、お前は見ててくれな」
 紫水晶を嵌め込んだような瞳を穏やかにさせて、セトはこちらから顔を背けることはなかった。俺が記憶を失ってからというもの、ずっと一緒にいてくれた大切な仲間だ。何をするわけでもないけれど、でも、俺の近くにいてくれた。
「……セライムと話をするよ。あいつもきっと、俺のこと疑ってるはずだから」
 疑っている、という言葉にじくりと胸が痛んだが、笑ってごまかす。大丈夫、まだ行ける。
 うん。まだ、俺は歩いていける。
 そうして俺は暫くセトの翼を撫でながら、沈黙の都市を眺めて過ごした。


 ***


「……」
 キルナはベッドに足を組んで腰掛けたまま、ちらりと手元の本から視線を流した。
 その先には、机に向き合ってペンを持ち、課題に手をつけているセライム。
 ――否。その写真、とでもいうべきだろうか。セライムは時を停止させたようにペンを握ったまま白紙を凝視している。まるではかどっているようには思えない。
 ソファーではチノが体を丸めてすやすやと眠っている。高等院の門限が緊急事態につき幼学院並に早まったため、ここぞとばかりに惰眠を貪っているのだ。お陰で部屋はいつにない静寂に埋没している。
 停電の日からのセライムは、まるで起きていても眠っているかのようだった。普段の利発さが霧散し、抜け殻となった体だけが惰性だけで動いている。キルナの目にはそんな風に映った。
 しかし理由を聞いても、機械のように言葉を右に左に流すばかり。一向にはっきりとした態度を見せず、食事すら忘れるほどであった。
 キルナは一人、こめかみに指をめり込ませる。見る限り、父親絡みのことで何かあったのは自明だ。ここ最近、こそこそ一人で外出しているのは把握していたが(当人は隠し果せていると思っているだろうが)何処に行っているのかは見当がつかなかった。
 長い付き合いで、金髪の少女がどれほど向こう見ずな行動をしてしまうか、キルナにはよく分かっていた。生真面目で真っ直ぐとしているのは良いのだが、時に度が過ぎてしまうのだ。
『――何かやらかしたのかしら』
 まさか停電の件に関わっているのではあるまいが、それにしても不安であった。だが、そこでセライムを問い詰めるほどキルナの頭は愚かではない。
『仕方ない子ね』
 そう喉の奥でぼやきながら、視線を本に戻して算段を練る。といっても、あの少女を尾行するなど造作ないことであるのだが。
 心配すべきは、厄介なことに巻き込まれていないか、それだけだ。ここのところ妙な事件ばかりが起きているのだ。起きれば二度と忘れられないようなことが、不可思議なほど連続して――。
『いつからだったかしら、変なことが起き始めたのは』
 キルナはふとそんな疑問に突き当たって、過去の記憶をまさぐる。
『――去年の秋の……屋敷が放火された、あの事件』
 否。それよりも前に、不思議なことは起きていた。それは確か――。
『ユラスが誰かに襲われて、病院に運ばれたわ。文化祭のときだったかしら』
 よくよく考えれば、今回と似たような話であった。停電こそしなかったが、学園の生徒が何者かに襲われ、重症を負ったのだ。結局犯人は見つからなかったようだが――。
 それより前に、何か起きたろうか。
 キルナは目蓋を半分閉じたまま思い巡らし、胸の中でぽつりと呟いた。
『高等院に進級した春――ユラスの編入』
 それは、キルナの胸の内に小骨のようにつっかえている謎だ。突然学園長の知り合いの息子ということで入ってきた少年。まず驚いたのが、この大陸にはない彼の容姿だった。そして、もう一つ驚いたのが――。
『……フェレイ先生に、どうしてあんな異国の子が預けられたのかしら。いいえ、先生はそもそも、そっちの大陸の方に知り合いなんていたのかしら』
 聖なる学び舎の学園長フェレイ・ヴァレナスは、グラーシアの関係者以外との付き合いが極度に希薄であった。幼い時分に学園に入学してから、ずっとこの地に住んでいるのだからそれも頷けようが、ならばどういった経緯であの少年を預かったのだろうか。
 どちらにしろ事情が複雑そうだったので、彼の調子に合わせて詳細は聞かないでおいたが、今考えても不思議な話である。
 そして、彼がこの地にやってきてからではないだろうか。グラーシアで、奇妙なことが起こり始めたのは――。
『まさか。考えすぎだし、ユラスに失礼だわ』
 キルナは思いつきを一笑に付して、本のページをめくった。とにかく、今心配なのはセライムだ。出来うることをしなくては。
『あたしがしっかりしなきゃ』
 飛び回る二人の同居人を見守ってやることこそが、彼女が背負った役目だ。キルナはもう一度セライムに目を向けて、よし、と瞬きをすることで自身の力とした。




Back