-紫翼-
二章:星に願いを 26.そういう趣味 「もー最悪ーっ!! 実験中だったのに停電で全部パーだよ、折角遅くまでやってたのにユラスの馬鹿ーっ!」 「お、俺のせいーっ!?」 登校早々、朝っぱらからチノに首を絞められる俺である。隣ではスアローグがとばっちりを受ける前にさりげなく離れてくれる。 学園では、どの教室も昨晩の停電の話で持ちきりだった。なんせ都市全体の送電が麻痺したのだ。原因は未だ調査中だとか――こういう話は生徒たちの噂の恰好のネタになる。キルナも腕を組んで頷いた。 「本当びっくりしたわよね。あたし役所で手伝いしてたんだけど、もうあそこもてんてこ舞いよ。あんたたちは何処にいたの?」 「僕は部屋にいたけど、課題が出来なくて困ったよ」 スアローグは疲れた様子でかぶりを振った。そういえば昨夜のこいつ、俺が帰ってからはフェレイ先生から貰った燭台の灯りで根性で仕上げていたっけ。俺はすぐに寝たけど。 「セライムは何処にいたんだ?」 「……うん?」 俺が問いかけると、心ここにあらずといった具合で遠くを見つめていたセライムが、珍しくはっきりしない表情を見せる。 「ああ――えっと、すまない。何の話だ?」 「昨日の停電。大丈夫だったか?」 「あ、ああ」 ぎくりとしたように目を瞬き、取り繕うように何度も頷くセライムに俺は首を傾げた。何かあったんだろうか。するとセライムはますます慌てたように視線を泳がせる。 「い、いや、本当に何でもないんだ。本当だ。何もしてないし、誰にも会ってない」 「……」 ちらっとキルナに目配せすると、キルナもまたこの異変に気付いているらしく、軽く肩をすくめてみせる。セライムは座ったまま足元ばかりを見つめていて、何処か落ち着きがない。 「セラ――」 何処となく不安を覚えて声をかけようとしたそのときだった。 「おい、聞けよ! 高等院の生徒が二人、不審者に襲われて重症だってよ」 教室全体に聞こえるくらいの声で、廊下から飛び込んできた生徒が告げる。 「職員室がえらい騒ぎでさ、今日の一限は緊急集会かもよ」 ざわっと雰囲気が沸き立ち、俺たちも顔を見合わせた。確かに時計を見ると、いつもレイン先生が来る時間をとうに過ぎている。 第一報をもたらしたその生徒は、あっという間に他の生徒に取り囲まれて質問攻めにされた。誰が、いつ、どうして、と喧騒は一気に膨れ上がる。好奇心旺盛なチノもそちらに飛んでいき、キルナは腕を組んで机に腰掛けた。こういうことが得意でないスアローグが嫌そうに目を逸らしたので、俺は頬をかいた。 「……グラーシアって、こんなに物騒だったっけか」 「僕に聞かないでくれたまえよ」 「拉致されて実験体にされただの研究最中に行方不明だのって、噂ならいくらでも聞くけど、実際に起こったのは初めてだわ」 こんなときでも未だぼんやりと俯いているセライムを横目に、キルナは不安げに顔をしかめた。確かに、俺たちの住処であるこの都市で起きたのだと思えば胸が冷える話である。 「フェレイ先生、大変だろうな」 昨日は停電が発生してすぐに学園に飛んでいったから、もしかしたら家に帰っていないかもしれないのに。普段からおっとりとしているだけに、ちょっと不安だ。体を壊さないといいのだけれど。 そんなことを考えていると、俺の耳にとんでもない名前が飛び込んできたのだった。 「あいつだよ、一つ下の主席のクラーレット・ユーリズ! あと、その兄貴……名前なんだっけ?」 「おい、奴ら、なんかやらかして停学処分とかいってなかったか?」 「停電と関係あるのかしら。同室の人いないの? 何か聞いてるんじゃない?」 ひくっと隣でスアローグの体が固まるのが見えた。俺も同じくらいに硬直していたけれども。 「え……?」 視界が、ぱっと白む。 クラーレット。 ……あいつか? あのクラーレットか? 俺は思考を停止させたままスアローグと視線を交差させ、そして教室の一番奥に目をやった。そこでは、教室の喧騒などまるで気にせず一人で本を読んでいたエディオが、俺たちと同じように聞こえた単語に反応して目を瞬かせ、こちらを見返していた。 そうして静かに席を立ち、俺たちの方めがけて歩いてくる。 「おい」 「ひっ」 今更ながらに思うが、エディオは顔立ちが整っているだけに一つ一つの動作に妙な迫力がある。反射的に謝りそうになりながら、俺は両手を挙げて後ずさった。 「来い」 脅迫罪も適用できそうな形相で言ってくれると、エディオは背を向けて教室を出て行った。俺とスアローグが目配せをしあう横では、キルナが目を剥いている。 「え? ど、どうしちゃったのよ」 多分、エディオが自発的に話しかけてくることなど一度もなかったから驚いているんだろう。俺は遠い目になりながら腕を組んだ。 「ああ……行ってくる。帰ってこなかったら俺の墓には毎日ディヴェールのプリンを三つずつ備えてくれ」 「嫌よ、面倒臭い」 半眼でばっさり地に切り伏せられる。 「と、とにかく行こうスアローグ。あいつ待たせると怒りそうだ」 「え――うん」 いまいち煮え切らない顔のスアローグの腕を引っ張って、外に連れ出した。廊下もまだ教師の姿が全く見えないからか、生徒たちの噂話で満ちている。 エディオは出たところで待っていて、俺たちが出てくると廊下の奥まった場所に歩いていった。そこまで来れば、会話も他に聞かれないからだろう。俺たちは三人で顔を見合わせる。 ええと、とりあえず。 「俺じゃないです」 弁明してみた。 「テメエにそんな度胸があるなんて思ってねえ」 心底優しく擁護してくれるエディオに、色んな意味で泣きそうになる俺である。 「……スア、あれから奴らと会ったか」 スアローグはエディオの前で答えづらそうに口ごもったが、僅かに首を振ってみせた。 「いや……何も。無駄な外出は控えるようにしてたからね」 「俺たちの件と関係あるのかな、やっぱり」 そう思うと本当に嫌な話である。あいつらは――確かに無茶苦茶で酷いこともしてきたけど、そこまで断罪されることはなかったろうに。 「そうとは限らないよ。最近何かと物騒だしね」 「でもさ、優秀な生徒二人襲って何が目的だったんだ? 金だってそう持ってないだろうし」 「親が国の役人とか言ってたよ」 「テメエ」 エディオの声に顔を向けると、壁に背をつけたエディオは小さく口をもたげた。 「あの教授が噛んでねえか」 『あの教授』って。 「ダルマン先生のことか? いや、まさかそんな、生徒襲って怪我させるなんてそんなこと」 俺は暫く考えて、重々しく頷いた。 「しそうだな、ものすごく」 むしろ嬉々としながら次元の彼方まで吹き飛ばしてくれそうである。するとスアローグが怪訝そうに眉を潜めた。 「誰だい、それ」 「ウチの研究室の教授」 「……本当に実在したんだ、その人」 ダルマン先生は数十年単位で引きこもっている人だから、半ば伝説上の人物と化しているのである。スアローグは口元を情けない形に歪めながらも、腕組みをして俺を正面から見た。 「でも、証拠があるわけでもない。下手に動かない方が身のためだと思うよ、実際に僕たちは何もしていないんだ。今回の件は完全にこの前のとは別件だと思う」 俺はそれに頷きながら、ちらっとエディオに目をやる。 そうだ、この二人は本当に関係ないのである。あの兄弟が何の理由で襲われたにしても、こいつらが関与していないことは自信を持っていえる。 だが――俺は、関係あるかどうかも分からないのだ。 一年前に目覚めてからというもの、俺の周りでは不可解なことばかりが起こってきた。論文が消える、川を上れば連れ戻される、得体の知れない子供に殺されかける、伯爵に会えば火災、そして今回の出来事。まるで、誰かが隠れて俺のことを監視しているかのように。 だからかエディオは、物言いたげな視線を俺にくれていた。こいつは訝しんでいるのだ――俺の空白の過去が、今回の件にも関わっているのではないかと。 でも、どうしよう。俺には、俺の正体を知る術がない。次に何が起こるのかも、皆目わからない。 俺には、何もすることができないのだ。――俺には。 「……とりあえず、ダルマン先生には気をつけとくよ。スアローグの言うとおり、俺たちは普段通りにしてても大丈夫だ、きっと」 二人を交互に見て、頷いてみせる。 ――俺には、いつものように笑っていることしか出来ない。 *** 「先生、ダルマン先生?」 扉には鍵がかかっていて、叩いて呼びかけても返事がない。静寂に包まれた第二考古学研究室で、俺は溜息をついた。 あの生徒が言った通り、学園では緊急集会が開かれて事情が説明された。生徒名は公表されなかったが、それがクラーレットとアレックであることは細波のように噂に乗って耳に聞こえてくる。だが命に別状はない、と聞いて俺はほっと胸をなでおろした。また担任からは、暫くは学園への宿泊を禁止とし、寮の門限も早まることが伝えられ、落ち着いて行動するように言い含められた。 俺たち三人はやはりというか、とりあえず職員室に呼び出されていくつか質問をされた。あの件の後、二人と接触したか、周囲に不審な人間は見ていないか。 ……俺自身が一番不審なんだが、自分でそんなことを言ったら気が狂ってるとでも思われそうである。当たり障りのない返事をしていたら、向こうも元から大した情報が得られると思っていなかったらしく、すぐに開放された。 学園全体は奇妙な静けさに包まれているというのに、うろつく警視院の人の姿も相まってどこか落ち着かない。 俺は開放されると逃げるように研究室までやってきたのだが、シアの姿はなく、また例の黒ローブの老人もいる気配がしなかった。 仕方ないので外に出て、棒付き飴を咥えながらぶらぶらする。鷹目堂に行くにはまだ早いし、かといって都市に繰り出すにも、こんな事件があった翌日では気乗りがしない。 そういえば、この前会った細身のお兄さん――レンデバーはどうしているんだろう。最近、すっかり姿を見ていない。元気にしているだろうか。商談を探していると言っていたから、もう別の都市に行ってしまったのかもしれない。 「あれ?」 俺の視線が、建物の影に重なるように石縁に腰掛ける人影に吸い込まれた。白いケープの下には幼学院の生徒であることを示す深緑の上着。淡い亜麻色の髪を午後の風に揺らす、年端もいかぬ少女――。 「セシリア」 ぱっと、軽やかに短い髪が揺れる。長い睫毛に縁取られた若草色の瞳がこちらを驚いたように捉えた。 「ユラスさん。こんなところで何をしているのです」 「それはこっちのセリフだ」 俺は棒付き飴を口から離したまま、首を傾げる。昨日の騒ぎのため、今日の幼学院では午前中で授業が切り上げられ、集団下校が行われた筈だ。また、幼い生徒たちの集まる幼学院では、危険だということで無断外出も禁じられたと聞いていた。 そう言うとセシリアは、ふいっと目を逸らして俯いた。 「お忘れでなくって? 私はそのような集団に紛れていなくとも、己の身くらい己で守れますわ」 「お前も問題児だな。あんまり不審なことしてると俺みたいになるぞ」 「それは嫌ですね」 「……」 飴を咥えなおし、傷心を抱えて黄昏る俺である。 セシリアは、そんな俺を大きな瞳でじっと見つめて、小さく言った。 「ユラスさん。少し学園の外を歩きませんこと?」 「うぇ?」 「外の空気が吸いたいのです」 突然の申し出に、俺は顎に手をやって唸った。 「でもだな、幼学院じゃ外出も禁止されてるってのに堂々とそんな」 「どうせ他の生徒は怖がって外になど出ていませんわ。参りましょう」 言うなり、返事を待たずに歩き出してしまう。俺は慌ててそれを追った。 セシリアの言った通り、都市には何時にも増して人気がなかった。グラーシアの生徒が都市内で何者かに襲われたという話は、既に都市中に広まっているのだろう。そりゃ、そんな話を聞けば外に出たくなくなる。 「廃墟みたいだな」 これは、鷹目堂に行っても暇なだけかもしれない。しかしそれにしても、セシリアはどうしたのだろう。まるで何かを考え込むように俺の一歩先を歩いていく。風に遊ぶ軽やかな髪をなんとなしに眺めながら、俺はとりあえず後に続くしかない。 「不思議な都市です」 ふいにセシリアは、そんなことを呟いた。 「そうか? 今日が特別ってだけだと思うけど」 「普段から、この都市はおかしいですわ」 淡々とした返事だ。だが、俺にはよく分からない。目覚めてから初めてやってきたのがこのグラーシアだったから、俺にとってはここが普通なのだ。どこがおかしいと論ずるにも、対象とする他の地を俺はほとんど知らない。 セシリアはそんな俺の逡巡を知ってか知らずか、とつとつと語る。 「ここは、とても寂しいところです。学業に心を捧げている為でしょうか。満たされた心を持つ人が、酷く少ないように見えるのです」 「うーん」 空洞化した大通りをのんびり歩きながら、俺は口を引き結んで考えた。 冬に行った工業都市マリンバで、俺は溢れる人の熱気に圧倒された。もしもあれが普通なのだとしたら、確かにこのグラーシアの静けさは奇妙である。人と人の境が開いているというか、地盤が冷たいというか。しかし俺にはこれが普通だから、人の溢れる場所で育った人の気持ちは分からない。 でも、どうして突然こんな話をしだすのだろう。セシリアは俺の少し先を歩いているため、表情を伺うことができない。 ふとセシリアは歩を止めて、掠れた囁きを紡いだ。 「……あの方の心は、こんな都市によって壊されてしまったのでしょうか」 「――」 胸を押された気分で、背丈の低いセシリアを見下ろす。セシリアは長い睫毛を震わせて、手を胸の前で重ねた。 だから俺は、戸惑いながらも小さく問う。 「ここが怖いか?」 糸に引かれたように幼い少女の体が強張り、弾けるようにセシリアはむきになった顔をこちらに向けてきた。 「違います! ……違いましてよ。ただ、どうしてこの都市の住人は、この有り様を当たり前のように受け入れているのです。こんな冷たい場所に平然と住んでいるのです。私には、それが分かりません」 陽光を散らす瞳を歪ませ、そのまま俯く。 「――申し訳ありません。本当は怖いのかもしれません。この都市には、すがるものがなくて――それで今回のことが起きて、少し気が動転しているのかもしれませんわ」 そうして、ゆるりと視線をもたげて俺の顔をまじまじと見つめてきた。 「ユラスさんは平然としていらっしゃるのですね。今の私には、それが不思議ですわ」 静かな呟きが、誰もいない道に投げかけられ、そうして俺もほんの少しだけ顔を歪める。 実際、全くもって平然となんかしてなかった。心の中は荒れ狂っている。不安に押しつぶされそうになっている。だから先ほども、人を求めて外をさまよっていたのだ。 ああ、でも普通はこういうのって感情になって外に出るものなのかな。今のセシリアみたいに。俺は何処かで壊れているのかもしれない。俺の存在は、酷くいびつだから。 ――分からない。普通というものが。 「あれ、ユラス兄ちゃん?」 だしぬけに素っ頓狂な声が振ってきたのはそのときだった。俺とセシリアが見上げると、眩い陽光が視界を焼く。思わず目を細めている内に、そいつは軽々と屋根から飛び降りてきた。 「何やってるのさ」 「ティ、ティティル? お前」 鮮やかに着地を決めたティティルは、怪訝そうに俺を見上げている。まるで、なんでこんなときに外ぶらついてるんだとでも言いたげだ。 「お前こそ、何やってるんだ。危ないぞ」 「あっ」 ティティルは思い出したように飛び上がり、俺の服を掴んだ。すっかり怪我も回復して、いつもの調子を取り戻している。 「こっち来て! 見つかっちゃうっ」 言うなり、建物と建物の間の袋小路に連れ込まれた。セシリアも首を傾げながらついてくる。 ティティルは狭い道で油断なく周囲を見回し、一通り気配がないことを知ると、ほっと息をついた。その間に俺も気付く。ここは鷹目堂脇の小路ではないか。 「……お前、抜け出してきたな」 「うっ」 側面から見上げる形になった鷹目堂の窓の一つが開いているのを見つけ、そう言うとティティルは顔をひきつらせた。図星らしい。 「冗談じゃなく危ないから、今は外はやめとけ」 本気でそう言ったのだが、ティティルも負けじと言い返してくる。 「兄ちゃんだって外に出てるくせに。――あれ?」 ティティルはぽかんと口を開いたまま、俺の後ろにいるセシリアに視線を止めた。セシリアは俺の背に隠れるようにしていたのだが、軽く会釈して返す。 「……」 ティティルは暫く言葉を失っていた。薄暗い小路とはいえ、セシリアの容姿の端麗さは人を惹きつける。人形のように整った顔立ちは、現実感すら剥ぎ取るものだ。 そしてティティルは至極真面目な顔で俺の服を引っ張った。屈んでくれという指示らしかったので、膝を屈めると、ティティルは背伸びをして俺にそっと耳打ちした。 「……兄ちゃん、そういう趣味なの?」 思わずこけた。 「ユラスさん?」 全身の骨が砕けて冷たい地面に頬をくっつける俺に、セシリアが訝しげに眉を潜めてくれる。ティティルはにんまりと笑って腕を組んだ。 「ふーん、そうなんだ」 「ち、違う! なんだかとてもすごく違う!」 「えー。違うの?」 きょとんと首を傾げるティティル。信じていない目つきであった。 待て、俺はそういう意味でこいつと一緒に歩いているのでは断じてない、断じて。いや、そんなことを論じている場合ではなく。 「とにかくティティル、危ないから家にだな」 「やだ」 「ティティル」 「オレ、灰色の奴を探してるんだよっ」 噛み付くようにティティルは言って頬を膨らませた。あ、と思って詰まる。そうだ、こいつは先日、灰色の男を見て、思わず屋根から落ちてしまったのだ。 「早く探さないといなくなっちゃうかもしれないだろ」 そう言われると口の中が苦くなる。こいつが見た灰色の男の存在を信じてやったのは、他ならぬ俺だけなのだ。ここで無下にするのもどうなのか。だが、ふと俺はあることに気付いて、唇の端をひん曲げながらも続けた。 「あー……いや。まあ、そうそういなくなりもしないって。少し落ち着いてからだな」 「家の中なんてつまんないし」 「あー……うん。でもな、ティティル。ちょっとそれはやめておいた方がいいと思う」 「なんでさっ」 「あー……」 俺はぽりぽりと頬をかきながら、ちらっとティティルの背後に目をやる。 「……」 「なにさ、どうしたのさ」 腰に手をやるティティルに、十字を切ろうとして、やめた。というよりも、あまりに恐ろしくて出来なかった。 「ふへ?」 ティティルは間抜けな声をだして、とうとう後ろに振り向く。 「――」 その体がびくりと引きつり、凍った。 「……は、ははは。お、おお、お疲れ様です、ハーヴェイさん」 乾いた笑いを浮かべるしかない俺は、裏声で挨拶するしかない。 そこには、俺たちが会話をしている最中に家の裏口から音もなく出てきたハーヴェイさんが、岩のように聳え立っていたのであった。 「と、父さ」 「ティティル」 地獄の底から聞こえてきそうな呼びかけに、ティティルの体が縮んだ。頑強なハーヴェイさんの前ではこいつなど芥子粒に等しい。 だが次の瞬間、ティティルは心臓が止まりそうなことをしでかした。俺を突き飛ばして飛び出していこうとしたのである。 しかしティティルが弾丸のような速さで向かってきたと思ったその瞬間、無表情のハーヴェイさんの瞳がカッと見開き、背後に雷と豪雨が見えた気がした。それを認識した俺の体は、ほぼ反射的に動いた。 「ゆ、許せティティルっ!」 「わっ!?」 いくら全身で体当たりをかまされようが俺がひ弱だろうが、相手は年端もいかぬ子供である。足を踏ん張って腕で止め、服の首根っこを掴むと、ティティルはじたばた暴れた。 「離せっ! 兄ちゃんの馬鹿ーっ」 「お、お前のためなんだ、許せ」 それにここで取り逃がしましたなんてことがあったら、ハーヴェイさんにぶん殴られそうだ。ごめん、ティティル。 「ってこら、引っかくなっ。落ち着いたらまた探しに行けばいいじゃないかっ」 「やだ! 今すぐ探しにいくんだっ」 あくまで抵抗するティティルに、ちらっとハーヴェイさんを見ると、そちらも息を抜いてのっそりと歩いてきた。暴れるティティルを引き渡して、会釈する。ティティルは既に目を紅くして、今にも泣き出しそうで、心がじんわりと痛む。ごめん、本当にごめんと、胸の中で何度も謝る。 「じゃ、あとでまた来ます」 「馬鹿っ。兄ちゃんなんて嫌いだ! 兄ちゃんなんて――っ」 うう。そこまで言われると逆にこちらが泣きそうである。 ハーヴェイさんは暴れるティティルを丸太のような片手で取り押さえながら、そっと礼を言うように目を伏せ、裏口から家に入っていった。罪悪感が胸をきりきりと刺激したが、今は事態が事態だ。あいつの場合、身軽であるから一人で何処へでも行ってしまうし。 そう心の中で折り合いをつけて、ふう、と肺から息を吐き出した。それで完全にすっきりするわけでもなかったけれど。 「……元気な子」 後ろで一部始終を見ていたセシリアが呟く。 「こんな子ばかりだったら――」 次第に言葉は掠れて消えていき、意味をなさなくなっていく。俺が振り向くと、そこにはどこか寂しげな表情があった。 「ん、お前の同学年にもいるだろ、こういうの」 セシリアはこちらを一瞥して、ふっと笑った。 「――いいえ」 視線は虚空に逃げる。あるはずのない光を探すように。 「あんなに自由な子はいませんわ」 「そうか?」 俺は腕を組んで首をひねる。 「俺の近くにはいるけどな。自由に生きてる奴、っていうか、一緒にいて楽しい奴。お前の近くにはいないか」 セシリアは答えずに、視線を地に這わせた。それは無言の返答だ。 確かに、こいつは同じ学年の奴らと実際に同世代ではない。それにこいつの容姿では、好奇心は与えてもそれ以上を人に望ませないかもしれない。 俺も、もしかしたらそうなっていたかもしれないのだ。けれど俺には、初めにフェレイ先生の家で得た友人がいた。故に生徒たちの海の中で、容貌への奇異の視線にさらされながらも呼吸が出来たのだ。 でもそれができなかったこいつは、孤独なのだろう。守ってくれるはずの集団から逃げ出してきてしまうくらいに。精神が成人していたからといって、全てに耐えられるわけではないのだ。 もしも俺がそうなっていたら、どうだったろう。ああ、絶対に駄目だな。とても生きていくことなど出来ないだろう。 ここはセシリアの言うように、いびつな都市なのかもしれない。でも、俺もセシリアも、そんな都市よりもずっといびつな存在なのだ。 「うん、そっか」 小路から見える無人の通りをを眺め、頷く。 「初めは、全てが輝いている都市だと思いました。学問の独立を詠う最高学府、学びの楽園――」 セシリアの鈴が鳴るような透き通った声は、まるで歌うようでもある。 「けれど、今は何故あの方の心が壊れてしまったか、分かる気がするのです」 俺はセシリアを見た。しかし、セシリアの瞳は予想に反して、真っ直ぐ前を向いていた。 「大丈夫ですわ、私はそう簡単に屈しません。あの方と同じ道を歩み、その道を踏み外さないと心に決めています」 そうして、僅かに笑う。 「――でも、こんなに辛いとは思いませんでした」 僅かに声が震える。俺は目を閉じて、手を小さな頭に乗せた。 「子供扱いしないで下さい」 不満そうな声は、言っている本人は大人のつもりでも、しかし子供の声に他ならない。 セシリアは肩を落とすように息を抜いて、歩き出す。こちらを睨んできた頬が赤らんでいたのは気のせいかもしれない。 「もう、あなたといい、セライムさんといい――」 そこまで言って、何かを思い出したようにふと顔をあげる。 「ユラスさん」 「うん?」 「最近、セライムさんの様子はいかがですか」 「セライム?」 俺は目を瞬いて聞き返した。そういえばと、ここ最近ずっとセライムに何処となく元気がないのを思い出す。 セシリアは俺の顔を見て、答えを察したらしい。すると言いにくそうに、手を前で揃えて俯いた。 「実は――」 Back |