-紫翼-
二章:星に願いを

25.持たざる者



 ――何が起きている。
 そう問うても、湧き上がるのは新たな疑問ばかり。既に内戦など遠いものになり、魔術の法規制が進み治安も保たれた現代に、あまりに似つかわしくない現実が闇となって広がっている。

 始めに違和感を感じたのは、校舎を出たときだった。職員室に呼び出されて先日の件の処分として三日間の謹慎を言い渡され、何も言い返すことが出来ずにそれを受け取った後、兄と夜の正門前広場に足を踏み入れた。
 中央にそびえる学園の創立者ウェリエル・ソルスィードの銅像は、夜になると更にその威圧感を増す。それを見て、どこか嫌な予感を覚えたのだ。
 そして物言わぬ銅像は足元に、一つの影を従えていた。

 そう。まさに、銅像の分身が命を吹き込まれて動き出したかのようであった。髪を頭の高いところでくくった長身の男は宵闇に己の体をさらし、こちらを無表情で見つめていたのだった。
 彼と目が合った刹那、足の裏から脳髄まで体温が消し飛ぶのを感じた。突き抜けたそれは、恐怖すら通り越した確信であった。
 ――殺される。
 まるでその辺の虫けらでも見るような冷淡な瞳に色はなく、病的に細い体は壊れた機械人形を思わせた。隣の兄もまた、呑まれたように目を剥いていた。
 しかし、次の瞬間には更に恐ろしいことが起きた。まるで吸い込まれるように、あるいは霧のように、男はその場から消えてしまったのだ。瞬きを一度するほどの合間の出来事だった。
 そのときに、戻って報告し、保護でも何でも求めるなりすれば良かったのだ。
 しかし己のプライドがそれを許さなかった。彼らはそのまま帰途についてしまったのだ。

 互いに無言だった。何故だか人通りはなく、風ですら息を潜めるそこは、異様な静けさに包まれていた。
 ぽっかりと夜空に浮かんだ月が、青白い瞳となって大地を睥睨する。二人分の足音だけが響く空間にまず始め、奇妙な空間のねじれが生まれた。
「――?」
 何かがおかしいと、心の隅では思い始めていたのだ。しかし、それが決定的なものとして胸に落ちたときには、何もかもが遅かった。
 硝子玉を転がしたような、耳鳴りに近い音が何処からともなく聞こえた。――兄が倒れるのと同時に。
 極限まで引き伸ばされた時間で、前のめりに倒れた兄を、腹の辺りに穿たれた黒い穴を、血溜まりが石畳をゆるゆると伝って広がるのを、声もなく見下ろした。
 吐き気も恐怖も、麻痺した体は受け付けず、ただ一瞬の出来事に壊される日常に彼は愕然とした。己が歩む道は全てが定められていて、こんな光景はその予定にはなかった筈だ。逃げることを忘れて、クラーレットは背後を振り向き、見上げた。
 風がないからか。やけに世界は鮮明に映った。建物の塀の上に、ぞっとするような黒い影が月と同じように冷ややかな視線を注いでいる。その手に、刃のような光。
 空気がぶれる。魔術行使特有の、体に直接伝わってくる律動は冷たく研ぎ澄まされ、――クラーレットは初めて恐怖を自覚した。
「――っ」
 足が棒になったように動かず、もどかしげに数歩よろめく。そんな彼に、影は無慈悲であった。
 収束した大気が光線となり、銃弾のごとく放たれる。音もないそれは、この上なく残忍で一方的な殺戮であった。
 こんなことがある筈がない、とわめく心が、激痛に口を封じられる。足が弾け飛んだと思った。感覚が完全に失せたのだ。嘘のように体は薙ぎ倒され、大地の冷たさが絶望となって指から全身に駆け上る。
 動かねば、と本能が叫ぶが、やっとのことで訪れた激痛がそれを許さなかった。足はまだ体の一部でいてくれているようだが、ぴくりとも動かない。
 無理だ、と口の中で呟く。これが自分の終わりなのだと、彼は確信した。周囲に人はいず、声もでない。惨劇には音すらない。馬鹿みたいに自分はこうしてのたれ死ぬのだ。
 ――己を信じて生きたというのに。何がいけなかったのだ。
 最後にそんな問いが脳裏を駆け抜けたが、答えなどあるはずもなく。次の衝撃の前に、クラーレットは意識を失った。最後に見えたのは、突然現れたもう一つの黒い影。
 震えているように見えるのは、影がまとう黒いローブだ。彼が動くたびに、体の一部分のようにうごめく。
 あれは――。
 しかし、何が起こっているのか理解することは叶わず、意識は弾けて落ちた。


 漆黒のローブを引きずるように暗がりからひたひたと歩みだした老人は、無骨な黒檀色の杖を音もなく掲げた。
 目に見えぬ力の流れが瞬時にして集まっていく。彼を中心に空気がどよめき、はらりと破かれた羊皮紙が暗闇を舞う。
 だが、不意にそれが散り散りに切り裂かれた。刃となった風は、老人の腕より凶暴な力となって放たれた。

 闇の中では、全てが黒に染め上げられる。男は素早く印を切って見えない膜を作る。男に向かって放たれた刃は、まるで闇のカーテンに吸い込まれるように霧散した。それを見たローブの老人は楽しげに肩を揺らした。
「クク。――その馬鹿共は、排除対象ということかの、異形の者よ」
 しわがれた声が、染みが浮いて干からびた唇から零れる。
 枯れ木のような体をローブに包む老人――ダルマンは、灰色に染まった長身の男と対峙して、薄く口の端を吊り上げた。
 対する彼は無言だった。倒れる生徒二人を庇うように背にしたダルマンは、くぐもった笑みを漏らす。
「貴様、随分手荒なことをしてれたものよの。生徒二人を消すことなどお手の物か」
 返事は刃と共に。灰色の男が手を掲げ、ダルマンもまた杖を振りかざす。しかし、二人の意図はそれぞれ違った。灰色の男は目の前の魔術師を消し、全てを闇に葬る為に。そしてダルマンは、小うるさい蝿を払うように杖を横に振るった。
 刹那、触れ合った瞬間に火花のような光を散らした二つの力は、押し流されるようにして街灯の一つに降りかかった。破裂音と同時に街灯は砕け散り、それでも殺せない魔力の流れが伝播するように四方の街灯から灯火を奪っていく。何かが焼ける嫌な匂いが広がる。濡れた紙に落としたインクのように、暗黒はそこから一気に侵食をはじめ、――聖なる学術都市は闇に包まれる。
 だが、その場が黒に塗りつぶされようと、対峙した者たちは睨みあったまま動じた様子も見せなかった。
「感謝せい。貴様とて、人に姿を見られてはならぬのだろう?」
 既に相手を影絵としてでしか認識することの出来ぬ中で、ダルマンは哄笑する。だがそのとき、異変を察知してぴくりと眉をあげた。
 塀の上からこちらを見下ろしていた灰色の男の輪郭が――ぶれる。まるで打ち落とされた鳥のように体が流れ、どさりと地に投げ出される。
 激しく咳き込む中に水音がまじった。灰色の男は立ち上がろうとして失敗し、再び地に倒れ伏す。魔術行使すら弱々しい光となって震える指先から散っていくばかり。
「……お主」
 ダルマンは低く呟いて、闇に紛れながらそちらに近づいた。灰色の男は手負いの獣のようにぎらつく瞳を向けてくる。月明かりの僅かな光源に、血で濡れた口元とやせこけた頬、ほとばしるような敵意を秘めた視線が描かれる。
 ダルマンは、ふっと目を細めた。
「貴様の素性、目的を言え。あるいは、助けてやらんこともない」
 杖の先を男の鼻先に向け、淡々と言い放つ。灰色の男は不快を示すように眉根を寄せた。対する黒いローブの老人は愉悦の微笑みを浮かべる。
「ほう、そのような顔も出来るのか。まるで人間のようだ」
「――っ」
 石畳に触れた灰色の指がわななく。灰色の男は明らかな怒りを秘めて腕を懐にやろうとした。しかし、漆黒の杖で頬を殴打されて地に叩きつけられ、それも叶わない。
 ぜいぜいと呼気を荒げ、それが一瞬止まり、彼は激しく血を吐き戻した。力を失った腕では体を支えることも出来ず、己の吐いた血溜まりの中に倒れ込む。
「さあ、どうする。生か死を選べ、異形の者よ」
「……」
 瞼が落ちていく。歯を食いしばって抗おうとするが、もどかしげに指先だけが虚空をさまようばかり。しかし、その口は閉ざすままに。

 そうして焼け付くような瞳を残し、ルガは意識を手放した。


 ***


 嘘もなければ真実もない虚無より生まれいずる者がその手に持つは、やはり虚無。
 ごうごうと鳴り響く機器の駆動音は、終わらない悪夢じみた禍々しさで耳の中にこびりつく。
 耳を塞いで目を閉じても、進む時計の針は止められない。

「お前は失敗だ」

 声があった。
 はじめの絶望であった。

「お前の体ではとても成人するまで持たないだろう。だが、助かる道はある」

 言葉があった。
 はじめの希望であった。

「学べ。己の体を。検体たる自身を知るのだ。己の身を、己の力で生かせ」

 指令があった。
 はじめの苦痛であった。

「そして研究に協力するのだ。成功体が出来れば、お前の体も助かるかもしれぬ」

 虚無より生まれた持たざる者がそうやって得たのは、絶望と希望、そして苦痛。
 一体、何人の者がそこに蠢いていたのだろう。記憶はもやがかかって頼りない。
 そこにいる者たちは、誰も笑わなかった。全てが数値で表され、評価された。眼を焼くような明るい部屋に閉じ込められて、ひたすら学んだ。そうでないと長くは生きられないと何度も言われたし、自分でもそれがよく分かった。体は酷く不安定で、異常で、いびつだった。
 昼と夜があることを知ったのは、体が十分に成長してからだ。それまでは太陽の存在も知らず、疲れれば眠り、食事は出されたときに食べた。世界は狭く、明るく、暗く、どこまでも壊れていた。
 己が助かる為に己を実験体とし、己が生きるために己の一部を殺し、その何もかもを当たり前として。
 そしていつか。

 いつか、あの人に褒めてもらいたかった。
 だから、心は朽ちなかった。


 ***


「目覚めたかの」
 外部からの刺激に、はっとルガは眼を見開いた。全身が緊張に強張るが、体は他人のもののように動かない。
 しかし、動けたとしても、何も出来なかったろう。首元に冷たい杖の切っ先を突きつけられていては。
「――」
 ルガは素早く視線だけを動かして周囲を探った。仰向けに寝かされている為、把握は容易い。
 空気が酷く淀んでいる。意識を失っている間に、室内に移動させられたようだった。狭く仄暗い部屋は、生まれ育った場所を思い起こさせる。机や実験道具、書物や薬品で溢れかえった様子は、まるで隠者の庭だ。黒いローブの男は椅子に腰掛け、こちらを冷ややかな視線で見下ろしていた。卓上の蝋燭一本のみが浮かびあがらせる部屋には、耳が痛くなるような静寂が落ちている。
「全く、こそこそと私の周りを嗅ぎ回りおって。逆につけてみたらこれだ。二人もの手当てはとんだ手間だったぞ。貴様があやつの守護者か」
 ダルマンはローブの下で足を組み替えたようだった。
「何故血を見てまであやつを守る?」
 ルガは答えずに眼を閉じた。心を無にし、考えることをやめる。幼い頃から彼はそうやって苦痛に耐えてきたのだ。この人間に話すことなど、何もなかった。
 訪れる沈黙に、ダルマンは鼻から息を抜いて低く囁く。
「……物言わぬ人形、か。ただの人間を前に成す術もなく倒れている心境とは如何なものかの、化け物よ」
 心を覆っていた膜に剣を突き立てられた気がした。昔の彼であったら、無言で眼を逸らし、その刃を受け流したことだろう。しかし、弱った体が、その心が、それを許さなかった。呼応するように唇が震え、僅かに顔が歪むのを抑えられない。
 ダルマンはそんなルガを見て面白げに笑う。
「ククッ。悔しいかの。そう思う心が貴様の胸にあるというのか。子供二人を何とも思わず手にかけようとした貴様が。これは興味深い」
「……」
 ルガは弱々しく目を開いて逆光に暗い影を落とすダルマンを見上げた。
「私が何者か知りたそうであるな? 安心するが良い、私は外の世界になど興味はない。あやつの正体が誰だろうと、貴様がどのような異形だろうと、構いはせん。ただ、周囲を好きにうろつかれるのが目障り、それだけだ――まあ、」
 そこでダルマンは一度切って、にんまりと口元を歪める。
「黄金の卵の力は非常に魅力的だがな。故に貴様のやり方が気に食わぬのだ」
 ダルマンはするりと椅子から滑るように腰を浮かせ、横たわるルガの脇に立った。影が灯火と共に揺らめく。

「何故、あの二人を殺すなら初めから殺さなかった」

 問いは矢のように降り注いで、胸に刺さる。しかし、漆黒のローブに身を包む小柄な影は追撃の手を弛めなかった。
「貴様、見ていたのだろう。あやつの慟哭の咽びを。聞いていたのだろう。あやつの心が軋みをあげる音を。そこで助けに入れば良かった。なのに貴様は動かなかった。そして何もかもが終われば、今後の不安因子の排除か」
 淡々とした紡ぎは、氷のように冷たく感情がない。
「全く矛盾している。貴様はあやつを守護したいのか、破滅に導きたいのか、どちらなのだ。そしてその体、見る限りもう長くは持たん。貴様は終焉までに何をやり遂げようとしている?」
 ルガの脳裏に去来するは、嵐の夜の記憶。生きる理由を望んだ。体を突き動かす引き金が欲しかった。所詮、陽の下で長く生きられぬ身だとは分かっていたのだ。だから、せめて終わりまでに価値のある時を過ごしたかった。
 ――しかし、どちらにしろあるのは虚無だ。
「私は」
 掠れて声が途切れる。昔から、喋ることが苦手だった。内容に困るのではない。喋るという行為そのものが、心に重たい負担となるのだ。己の胸から何かを外に出すということが。
「……彼を、守らなければならない」
「馬鹿め。このままではいつか、あやつは壊れる」
 それでいい、壊れてしまえばいい。そう身を奮って叫ぶ声がある。自分に持たないものを持つ彼。あの人は、彼ばかりを見て自分には見向きもしなかった。そのなんと疎ましかったことか。
 だが、彼の守護を願ったのもまた同じ人だ。故に願いは達成されなければならない。己の身が果てるその日まで。
 それでは、己の身が朽ちた後――彼はどうなるのか。
 己は一体、何が残せるのか。
「――揺れているのか。なんと愚かな」
 ルガの迷いを見取ったたか、ぽつりとダルマンは呟いた。
「愚かだ。少しは骨のある奴かと思ったが、全くの期待外れも甚だしい。貴様の頭は何の為についている。何の為に理性がある。その力を何故、理に則して使えぬ。一貫して動けず馬鹿げた思惟に揺すぶられる。理想は理想でしかないのか? そのようなものがあれば、それが本物の化け物だとでもいうのだろうか」
 言葉には糾弾よりも、苦しみを吐露するような音色が混じり、かぶりを振る様子に力はない。
 ダルマンは生気を失ったように俯いたまま、暫く黙っていた。今だったら動こうと思えば、老人の裏をかいて動けたろう。しかしルガは衰弱した体と心をもてあまし、ただ灯火に揺らめく天井を見つめていた。老人が言うように、自分の有り様はこれ以上ないほどに滑稽だった。
 どのくらいの時が経ったのだろう。不意にダルマンは鼻から息を抜いて、椅子に再び腰掛けた。
「お主、名は持っているか」
 思いがけぬ質問に、ルガは僅かに灰色の瞳を動かした。思えば、人に名を尋ねられたことは初めてだったかもしれない。
「……ルガ」
 ダルマンは机にあった拳銃を無造作に放り投げてくる。乾いた音が耳にやけに響く。
「立て。そして行け。どうせお主はそう長くない。勝手に悩み勝手に生きるが良い。今宵、私は何も見なかったことにする」
 そう言われた途端、まるで呪縛から解かれたように体は動いた。ルガは眩暈を覚えつつも体を起こし、落ちた拳銃を拾い上げて弾を確認した。弄られた形跡はなく、ここで老人を撃つこともできた。
 だが、彼はゆるりと顔をあげて、縋るような目で漆黒のローブに横顔を隠す老人を見つめた。
「……あなたは、何を知っているのです」
 ダルマンの肩が震える。笑っているのだろうう。
「何も知らんといったろう」
「では、彼に何を望むのです」
「――クク」
 笑い声は乾いてどこか空しく、ぼやけた世界に妙に響く。
「私もつくづく老いぼれたの」
 それは同時に、何処にも行くことのできない彼の灰に染まった心にも静かに響いた。
 彼が語るは、未来を紡ぐことの出来ぬ己には、あまりに眩い世界。

「いびつで心もとない、あやつの行く先を見てみたいのだ」
 その先を見れぬ己は、何を成すべきだろうか。




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