-紫翼-
二章:星に願いを

24.あなたの知る全て



 石畳の回廊が夜の帳に包まれて青白く浮かび上がる。シェンナと名乗った灰色の女は人の気配を嫌うように、石造りの橋の下、誰も手入れをしなくなった花壇の淵に腰掛けた。
 セライムはおずおずと隣に腰掛けて、女の横顔を伺う。
 どきりとするほどか細い体を灰色のローブに隠す彼女は、瞳も髪も肌すらも、色素の抜けたモノクロームに染められていた。肩の辺りで揃えられた髪が青白い燐光を浴びる様は、冷たい銀糸を束ねたようだ。
 職人が技巧を凝らして作り上げた石造が動くと、このような印象を与えるのだろうか。病的に痩せた頬に憂いを乗せ、老人のように静まり返った瞳を持つ彼女は、どこか無機質で、存在自体がぎこちない。
 父とは一体、どのような関係だったのだろうか。10年前となると、まだ彼女は少女だった筈だ。
「――何を聞きたいの」
 張り詰めた弦を爪弾くような声に、セライムは現実を取り戻し、膝の上で拳を握り込んだ。
 聞きたいことは沢山あった。父がいなくなった理由。父が何をしていたのか。父が何を考えていたのか。父が帰ってこなかったのは何故か。そして父は、どうなったのか。――まだ生きているのか。
 胸の奥底から噴水のように湧き上がる問いと寒気に、夏も近いというのにセライムは自分の体を腕で抱いた。真実を知るのは、やはり恐ろしかった。
「……私は、そんなにお父さんに似ていましたか」
 ようやく搾り出せたのは、核心から一歩退いた問いだ。しかし、シェンナは血を見たときのように眉根を寄せて、小さく呟いた。
「瓜二つ、といってもいいかもしれない」
 セライムは一度瞬きをして、おぼろげに残る父の面影を思い起こそうとした。あまりに幼い日の思い出では、曖昧な輪郭や温もりは思い出せても、顔の細部はもやがかかったようにおぼろげだ。更に彼女は父親の写真を一枚も持っていなかった。全て処分されてしまったのだ。祖父の意思か母の意思かは分からないけれども。
 胸に暖かいものと切ないものが同時に沸き起こる。この体に父の血が流れていることを嬉しく思い、それでいてやはり母は父に似た自分を見るのが辛いのだと思うと悲しかった。
 シェンナはそんなセライムを見て、寂しそうに呟いた。
「あの人も、そうやって苦悩していた」
 言葉の終わりが、激しい咳に変わる。セライムは慌ててシェンナの背中に手をやり、顔を覗き込んだ。
「大丈夫ですかっ」
 彼女を見れば、患う病が一時的なものでないとすぐに分かった。人を呼んだ方がいいかと周囲に気を巡らせたセライムだったが、それを遮るように手をかざしたのはシェンナ自身だった。
「……騒がないで」
 額に汗の玉を浮かべ、苦痛に耐えるように目を固く閉ざしたシェンナは、静かに告げた。
「どうということではない」
「そんな……でも」
 尋常ではない様子は、放って見ていられるようなものではない。セライムが戸惑いながら暗がりの中に瞳を揺らめかせると、シェンナはゆっくりとかぶりを振った。
「聞きたいことがまだあるのでしょう」
 ひび割れてはいるが、はっきりとした口調だ。セライムは言葉に詰まったように唇を引き結んで俯く。しかし、意を決したように顔をあげると、人の心を重く打つ声で、独白めいた問いの欠片を口にした。
「私はあまりにもお父さんのことを知らなくて――どこから聞いたらいいのか分からないんです」
 自嘲するように、頬に薄い歪みを乗せる。同時に月光に煌く泉のような光を瞳に秘め、彼女は毅然と続けた。
「父のこと、――あなたが知る全てを、話してくれませんか」
 ともすれば震えだしそうな指を握り締め、灰色の女性をしっかりと捉える。そうしてセライムは、自分自身を勇気付けるように、そっと笑った。
「それに、父を知るあなたのことも知りたい」
 シェンナの色のない瞳と、視線がかち合う。灰色の女は表情に乏しく、言葉が通じているのか不安になるほどに静まり返っていた。
 しかし、暫くの沈黙の後、シェンナはゆるりと目を閉じて無機質に呟いた。
「辛い話になったとしても?」
 その音色にどきりとしたのは真実だった。だが、セライムは臆することなく頷いた。
「構いません」
 つと、灰色のローブの下から作り物のような指が伸びる。シェンナは自分の胸を指で抑えて、逡巡するように視線を石畳に這わせた。そうして夜空を見上げた。月が冷たい輝きで現実だけを照らしている。闇の窪みに落ちてしまった過去は、月でさえも暴けない。その灰色の唇から紡がれない限りは。セライムは口を閉ざしたまま辛抱強く待った。
 そうして灰色の女は、言葉を紡ぐ。
「これだけは言える、アラン・デジェムは、私が出会った中では、最も強い人だったと」
 セライムは脳髄が痺れるような肉声に、体が震えるのを感じた。まるで石像が始めて心を得たように、表情と言葉は生々しかった。
「――あの地で生まれ、育った私にとって、彼との出会いは長い夢の始まりのようだった」
 物語が、闇夜に紛れて紡がれ始める。
「それでいて、悪夢の始まりだった」
 ふっと辺りが暗くなった。


 ***


「――というわけで」
 俺は手を付けていない紅茶の水面を見つめたままそこまで言い切って、恐る恐る顔をあげた。緊張のあまり突っ張った腕がいい加減痛い。しかし、それ以上に目の前の現実を認識することを俺自身が拒否していた。だって、どんな顔をしていらっしゃることか。
「大変申し訳ありませんでした、フェレイ先生」
 顔を完全にあげる前に、もう一度深々と頭を下げる。

 夜。フェレイ先生の自宅の書斎である。

 俺は、ここ暫くの出来事――クラーレットとアレックのこと、エディオとのこと、その他もろもろをフェレイ先生に報告に来ていた。いや、それだけだったら別にどうということはないのだ。
 だが、その中で俺は生活指導の教諭に捕まって説教をくらうという失態を犯している。俺の保護者はフェレイ先生だから、俺が怒られることはつまり先生の顔に泥を塗るということでもあるのだ。ああ、これで縁を切られるだろうか。グラーシアから放り出されるだろうか。路頭に迷ってひもじく膝を抱える生活が待ち受けるのか。
「……そうでしたか」
 がくがくと膝を笑わせていた俺に、穏やかな声が降りかかった。ちらっと顔をあげると、書斎の円卓の向こうでフェレイ先生がくすりと笑みを零している。
「まずは座って下さい。立っていては疲れるでしょう?」
 そのあまりに優しい音色に全能神から啓示を受けた気分で、へなへなとその場に座り込む。
 いや、本当に。
「すみませんでした、本当にすみません」
 床に手をついて謝る俺に、フェレイ先生は腰を浮かせて首を傾げた。
「そんなに謝ることはありませんよ。とにかく、一度座って下さい。紅茶でも飲んで、まずは落ち着きましょう」
「……はい」
 力なく頷く。フェレイ先生の家の書斎は全ての壁が見上げるような本棚で覆われており、それらを僅かな明かりがオレンジ色に染めている。たっぷりと鼻腔を包み込むのは、古い紙とインクと紅茶の香り。そしてそれらの主人たる先生は、円卓の奥の古びた椅子にゆったりと腰掛けて、俺をふんわりとした目線で眺めていた。
 未だ叱責を恐れて震える体を引きずるようにして席につき、淹れて貰った紅茶のカップをとる。フェレイ先生はどんなことをしても大抵笑っているから、時には逆に怖かったりするのだ。内心では何考えてんだコイツ馬鹿か何様だとか思われているかもしれない。
「すみません」
 ただただ、謝るしかない俺である。俺自身、今回は反省することだらけだ。ダルマン先生やエディオの助けがなかったら、本当にグラーシアにいられなくなっていたかもしれない。そうなっていたら、どれほどフェレイ先生に迷惑をかけることになったか。
 するとフェレイ先生は淡い水色の髪を灯火の色に染めて、困りましたね、と苦笑した。
「あなたが気に病むことは何もないのですよ。これからも、ユラス君のしたいようにして下さい」
「で、でも」
「きっと、それが最もユラス君を成長させてくれるでしょうから」
「……」
 俺は思う。きっと、一生かかっても俺はこの人に勝てはしまい。
 フェレイ先生は流れるような動作で紅茶を口に運んで、それにしても、と瞳を伏せた。
「ただ気になるのは、ユラス君の記憶についてですね――。本当に、自分は作られた存在だと?」
 静かな問いかけに、俺は唇が戦慄くのを自覚して、ぎゅっとそれを噛み締める。フェレイ先生に報告しながら俺自身でも物事を整理していたので、その真実は思っていたよりは冷静に受け止められた。
「はい。無から作られたのか、それとも力を植えつけられたのか――それは分からないんですけど。でも、あれを見たときに、懐かしいと思ったんです」
 笑い話のような事実である。しかし事実は事実であった。
 フェレイ先生は疑う様子もなく、静かな瞳で頷き返してくれる。俺は続けて口を開いた。
「エディオの母親――ルーシャさんと話をしたときのことは、あまり覚えていないんですけど、でも、――やっぱり俺は何か特別なもので、あの人が俺の過去に関わっていた風でした。結局、俺が具体的に何をしていたのかは分からず終いでしたが、……俺は」
 胸にじわりと暖かいものが染み込む。そう、あの女の人は何かを俺にしきりに伝えたがっているようだった。光に包まれた俺は確かにその声を聞いたのだ。切ないような、悲しいような、それでいて優しい音色で。
「俺は過去が分かっても分からなくても、乗り越えていかなくちゃいけないんだなって、思いました」
 ランプの灯火に、微笑みがちらちらと揺れている。フェレイ先生は、ふっと遠いものを見るような目をした。
「そうですか――エディオ君の親御さんが」
「なんか、すごいところで繋がってますよね。俺もびっくりしました」
「本当に」
 俺は頬を指でかいて、フェレイ先生を正面から見た。先生は相変わらず薄手のローブに身を包んで、ゆったりと椅子に座っている。顔立ちは若々しいのに全てを見通すような目をしていて、いつも思うことながら年齢が見えない。そして同じように、その瞳の奥でどんなことを考えているのかは、まだ目覚めて数年と経たない俺には何も分からない。
「先生」
「はい、どうしました?」
 気がついたら、俺は問いを紡いでいた。
「先生はどうして教師になろうと思ったんですか」
 フェレイ先生の細い瞳がふっと揺れて、困ったように微笑む。
「――そうですねえ、随分昔のことですから」
 フェレイ先生の昔、と頭で想像してみても、なんだかぼやけてしまって予想すら立てられない。する、と布擦れの音がした。先生は指を左腕にかけて、物思いにふけるようにゆっくりと口を開いた。
「誰かに何かを与えたかったのかもしれません。私はそれまで、他人から全てを享受するばかりでしたから」
 俺が目を瞬くと、フェレイ先生は笑って首を振った。
「そう、大した理由ではないのですよ。何を物申したいとか、何を変えようとか強い志を持っていたわけではないのです」
 そこまでフェレイ先生は流暢な音色で続けて、ただ、と小さく言った。
「ただ、人と交わりながら、人に何かを貰い、そして与えられることがあるならと思って、採用試験を受けたんです。――気がついたらこんなことになっていましたが」
 そう頭上を仰ぐ。そこには、知の吹き溜まりと紅茶の香りと、そして何も知らない俺がいる。
 俺は、この学園を卒業したらどうなるんだろうか。もうあと一年もないというのに、そのことに関してはまともに考えていない。
 このままだと、なんとなくその辺の研究所に入るのだろうけれど――。
 教師か、と、一つの選択肢を胸の内に落とす。もしも俺が教師になったら。

 一。生徒にナメられる、いじめられる、逃げ出す俺様、バッドエンド。
 一。他の教師にナメられる、いじめられる、陥れられる俺様、バッドエンド。
 一。そもそも相手にされない、全員から無視、泣き出す俺様、そしてバッドエンド。

「……」
 一人、頭を抱えた。駄目だ、どうやっても成功しそうにない。俺、フェレイ先生みたいに人望ないし。変な力も持ってるし。
「どうしましたか」
「……自分の未来が不安になりました」
 がっくりと項垂れる俺を見て、フェレイ先生は楽しげに笑った。
「大丈夫ですよ。ユラス君なら、きっと」
 そんなフェレイ先生を見上げながら、紅茶を口に運ぶ。どうやったらこの先生みたいになれるんだろうか。
「あなたはきっと、私など手も届かないような人になるでしょう」

 視界が沈むように暗くなったのは、そのときのことだった。
「うぇっ?」
 思わずカップをがちゃんと鳴らしてしまいながら、腰を浮かす。闇に包まれた部屋の中、机上のランプだけが、怪訝そうに周囲に気を配るフェレイ先生を橙色に浮かび上がらせる。
 部屋の壁にあった電気の照明が突然消えたのだと、理解が訪れた俺はフェレイ先生と顔を見合わせた。先生の古めかしい趣味が幸いしたようだ。机のランプだけが実際の火を使っていた為に唯一の光源となり、完全な暗闇から俺たちを守ってくれている。ただ、それでもやっと互いの顔が見えるくらいだ。
「どうしたんでしょう」
 フェレイ先生は不思議そうに立ち上がり、歩いていって俺の背後にある扉を開いた。しかし、その先もまた穴のように暗い。来たときは廊下にも明かりが灯っていたのに。
「……停電、ですか?」
「そのようですね。困りました」
 フェレイ先生は眉尻を下げて、すぐに復旧すると良いのですが、と呟いた。俺は立ち上がって窓を覗き、その先の光景にぎょっとした。
 いや。光景――ではない。そこには闇の海が広がっていたのだ。
「フェレイ先生! が、街灯も切れてますよ」
「本当ですね。都市全体で送電が止まっているようです」
 恐ろしく冷静にフェレイ先生が断じる。全ての明かりが消え、星空の下に僅かな陰影を見せる都市の不気味さに、なんともいえない嫌な感覚が喉元までせりあがった。
「こ、こういうことってよくあるんですか」
「そうですね――若い頃に時折ありました。研究所で事故が起きたり、火災で送電線が燃えた為だったと記憶しています」
 フェレイ先生は説明しながら手早く茶器を片付ける。学園に向かうのだろう。慌てて鞄を取る俺を見て、先生は穏やかな笑みを向けた。
「安心して下さい。前回の停電はすぐに復旧しましたから、今回もそう長くはないでしょう。これを持って寮に帰って下さい」
 そう言いながら古めかしい燭台を引き出しから出して、ランプから火を移して持たせてくれる。しかし、真っ暗の道を蝋燭一本を頼りに帰ると考えると恐ろしいものがある。口元を引きつらせながらカクカクと頷く俺に、フェレイ先生は苦笑した。
「大丈夫ですよ。落ち着いて。私も学園前まで一緒ですから。さあ、行きましょう」
 人間の原始的な恐怖を誘う闇など意にも介さぬ様子で、フェレイ先生はランプを手に淀みなく廊下に踏み出していった。本当にすごい人である。俺もごくりと唾を飲みながら遅れないように続き、帰路についた。
 外に出れば何やらあちこちざわめきや騒ぎが起きているが、幸い彼らが手に非常用の灯りを持っている為、割と明るいのが救いであった。それに人間というのは、他人でもそこにいてくれるだけで安心できるものである。俺はフェレイ先生と別れた後も、いくつかの人だかりや警視院の職員とすれ違いながら部屋に戻った。電気は朝方には復旧していた。


 ――そして翌日、俺の耳に飛び込んできたのは、アレックとクラーレットの二人が重症を負って入院したという話だった。




Back