-紫翼-
二章:星に願いを

23.あのカーテンを開けば



 カーテンの合間から白い光の筋が手を伸べて目覚めを誘う。優しさも痛みも何もかもを飲み込んだ夜は過ぎ去り、歌うような日差しの中に新たな一日が始まっていく。
 体に染み付いた時間通りに目を覚ましたスアローグは、脳裏に重たいものを残しながら身を起こした。いつものように二段ベッドから降りて、未だ深い眠りの内にある下段のシーツの塊を一瞥する。そして部屋を見渡して目を剥いた。
 既にコーヒーの香りで満たされたテーブルで、膝を組んで本に目を落とすは――茶髪の少年。
 反射的に時計に視線を飛ばし、時刻を確認する。エディオを見る。また時計を見る。
 三度ほどそれを繰り返したところでやっと、現在時刻は普段スアローグが起きるのと寸刻も変わらず、またエディオは世の始まりからそこにいたような佇まいで椅子に座っているという現状を把握した。把握したからといって、そこで『やあ、おはようエディオ。今日も良い天気になりそうだね』と、にこやかに言えるわけがなかったのであるが。
 小さく息を呑んで目を逸らしたスアローグは、のろのろと緩慢な動きで洗面台に行き、鬱陶しい長髪を結紐でくくって顔を洗った。頭が寝起きの混乱でうまく廻らない。
 冷たい水で無為に顔をこすり続け、いい加減目が覚めた辺りで布で念入りに水滴を拭って、初めてスアローグは苦々しく口を開いた。
「……早朝講習じゃなかったのかい」
 それはある意味での糾弾だったのかもしれなかった。互いに互いを避けることで、二人の均衡は保たれていたのだ。負い目を胸に生きてきたスアローグは、いつ彼からどう詰られようと黙って受け入れるつもりでいた。幼い頃の己のやり方は、非難されて然るべきだったからだ。しかしエディオはそうはしなかった。代わりにスアローグを徹底的に避けた。だから、彼がそう望むのならと、それに合わせて同じように自分も彼を避けたのだ。
「普段から週に三回。今日は無い日だ」
 低く短い返答に、そんな答えが欲しいんじゃないよとスアローグは内心で呟いた。彼の言う通り早朝講習が毎日あるわけではないことは知っている。しかしそれ以外の日についてもエディオは同じ時間に出て行き、教室で自習をして過ごしているのだ。今日のようにこの時間まで部屋にいるエディオなど、高等院に入ってから見たこともなかった。
 何と言っていいのか分からず憮然としたまま、スアローグは渋々席につく。そして、淹れてあるコーヒーを見て眉を跳ねさせた。
「君が淹れたにしては――薄いね」
 いや、単に普通の分量で淹れてあるに過ぎないのであるが。しかしエディオは言葉通り『泥のような』コーヒーを好む為、普段だったらポットから溢れんばかりに挽いた豆が盛られている筈だ。
 エディオは落としていた視線を上げてそれを眺め、面倒くさそうに口をもたげた。
「味がしねえ」
「そりゃあ、いつも君が飲んでるアレに比べたらね」
 言いながら彼がこんな濃さのコーヒーを淹れた意味を考え、戸惑いつつもスアローグは小さく告げた。
「貰うよ」
「ああ」
 ぎこちない会話には息苦しさが付きまとう。スアローグがコーヒーで唇を湿らせながらいよいよこの場をどう離脱するか考え出した頃、エディオはそれを声で遮った。
「奴は起きてこねえのか」
 スアローグはふと目を瞬いてエディオを見た。しかし、すぐに彼が紫の少年の寝起きの悪さを知らないことに思いあたった。エディオは毎朝早くに出ていってしまうため、彼の目覚めを見たことがないのだ。
「――放っておくと夕方まで寝てるよ」
 口元を歪ませるように笑いながら嘯く。喉の奥につっかえるものはあったが、それでも笑えた自分に驚いた。もう、彼の前で笑うなど出来る筈がないと思っていた。
「面倒くせえ奴だな」
 エディオが溜息をつくように零した。
「……全くだね」
 自然と口が動いた。カーテンの隙間から零れる朝の気配のせいだと思った。心が何故だかこんなにも軽いと思えたのは。
 薄い影がかかったような部屋に、霧を晴らすように光が差し込んでくる。あのカーテンを開けば、一気に部屋の淀みは立ち消えるだろう。人の心にかかった影は、その程度では消えないかもれないけれども――。
「本当に分からない人だよ、本当に」
 噛み締めるように口ずさむ。エディオは髪をかきあげた。
「スア」
 はっとしてスアローグは顔をあげた。すると、見る者を射抜くような緑の瞳とかちあった。ぞわりと胸の内から沸き起こった寒気に似た何かが、全身を伝っていく。
 いつだったか、そう呼べと言った日があったのだ。今となっては、自分の城塞を崩されないように誰にも呼ばせることがなくなった呼称。
 その響きは幼い日の匂いの奔流にスアローグを投げ込んだ。何でも出来ると思っていた子供。何かを抱えて生きていた子供。何も知らずに交差して、傷つき、そして互いに逃げ出した。
 そんな、遥か昔の出来事が、一息に足元から脳髄までを駆け抜けて――。
「起こさなくていいのか」
 ふと目を見開いて現実への帰還を果たしたスアローグは、やや狼狽したように視線を泳がせた。そこには獣のような目をした荒んだ子供ではなく、成長して静謐な光を湛えた茶髪の少年が座っている。
 時は過ぎる。物事は織り成され、失われていく。同じことを繰り返しているように見えて、変わらぬものは何一つとしてない。
 ――まさか。変わるはずがないだろう。
 スアローグは内心でかぶりを振る。何が変わろうが自分が変わることはない。他人は他人だ。相手が何を考えていようと知ったことではない。これからも彼らとは距離を置いて付き合い続けるだろう。己の平穏を守るが為に。行けもしない彼岸に密かな憧憬を寄せ、数値だけで表しきれない自分を抱えながら。
 しかし現実に、こうして古傷の象徴と友人のように会話をしている自分がいる。そして彼の前で笑えたそのとき、何かが氷解していくのを感じていた。
 もしかしたらいつの日かまた、他人の心に恐れずに触れることができるようになる、そんな日が来るのだろうか――。
「うん、そうだね。そろそろ起こそう」
 悟ったふりをして揺れる心を持て余しながら、スアローグは曖昧に笑った。答えはでない。時はやはり続いていく。しかし、心をほんの少しだけ溶かしながら。
 スアローグは歩いていって、カーテンを思い切り開いた。決壊した光の波が部屋に押し寄せ、陰影が濃淡を浮き彫りにさせる。そのあまりの眩さに目を細める。
 息を吸って、彼の名を呼んだ。今日という一日を始める為に。
 その日常がいつまでも続くよう、それが許されるよう、神に祈りを込めるように。


 ***


 髪を肩の辺りまで切ってしまいたいと、その時ほど考えたことはなかった。
 雑踏にもまれ、窮屈そうに肩をすぼめながら、セライムは闇夜をに輝く歓楽街を歩いていた。賑やかな通りには猥雑な光がちらつき、その分だけ影は一層濃さを増し、濁った空気は酒と食べ物の匂いで満たされている。そこを人を縫うようにしてうろついているのだから、教師に見つかれば大目玉である。
 故に装いも目立たない私服に変えてみたものの、腰まである金髪を隠しおおすことは出来なかった。己の容姿を武器にする術を知らない彼女は別段、切ってしまうことに抵抗はなかったのだが、あいにく同居人がそれを許してくれないのだ。
『そんな綺麗な髪を切るなんて冒涜もいいところだわ!』
 髪を切りたいと一言でも口にすればこれである。しかしキルナにはよく髪をとかして貰ったり結って貰ったりしているので、強くは言えない。正直、セシリアの耳の下で揺れる髪を見るたび羨ましく思ってしまう。
 せめて、と考えて後ろでそっけなく束ねてみたものの、やはりこの長さでは目立つだろう。知り合いに遭遇しないことを神に祈るばかりだ。
 セライムは、灰色の女を捜していた。父親のことを知っている風だった、今にも折れてしまいそうなあの女性だ。どこか悪いのだろうか、目を閉じれば思い出すのは肉付きの悪い顔と指を紅く染めた血の鮮烈な色。グラーシアにいるということは、国立病院を頼って来たのだろうか。
 しかし、国立病院に行ってもそのような人物を見つけることは出来なかった。結局はこの迷夢のような場所を手探りでさまようしかなくなる。
 慣れぬ匂いに顔をしかめながら酒場や横道を一つ一つ覗き、灰色の影を探し続けてもう幾晩が経ったろう。そろそろキルナに感付かれてしまううかもしれない。焦りは彼女の足を追いたてる。知らず知らず、彼女は歓楽街でも奥まった場所に踏み込んでいた。


 屋根の上から迷える少女を眺めて、シェンナは色の無い表情を浮かべていた。ここ数日、毎日のように通ってくる少女をそうやって見守るのが日課になっている。自分を探しに来ているのだと分かっていたが、とても顔など合わせられなかった。
 ならばこうして見ていないで帰ってしまえば良いのだ。なのに諦めて帰るまでと、この目が少女を追い続けるのが自分でも不思議だった。そうだ、何故気付かなかったのだろう。紫の少年はよくその名を呼んでいた。なのに彼女の顔を間近で見るまで気付かなかったなんて。彼女が――あの男の娘なのだと。
 体を蝕む死の足音が聞こえ始めてから、彼女の中では何かが変わってしまった。紫の少年の監視をやめ、ぼんやりと物思いの中にたゆたうのが日常となった。
 所詮、このいびつな体は外の世界で生きてはいけないのだ。夜の虫が光を求めて炎に近づき燃え尽きるように。あんなに憧れていた外の世界に出てみれば、待っていたのは残酷な運命であった。
 では、何故自分は生まれてきたのだろう。何の為に生きてきたのか。何を残せるというのか。
 ――生きる理由が欲しいと言った私に、あの方は。
 ルガの呟きが、耳にこびりついている。彼は知っていたのだ、己の命の灯火がそう長くもたないことを。
 華やぐ町並みを眼下に、その香りを乗せてくる風を肺腑に送り込み、そうしてシェンナは顔を歪ませる。
 どうしてルガがそうやって生きる理由を受け入れ、それに従っていられるのか理解できなかった。紫の少年を守ってどうするのか。待っているのは誰の気にも止まらない孤独な死ではないか。紫の少年は、自分が守られていることすら知らないのだ。
 それに、彼女にはドミニクがいた。まだ一人では生きられない子供だ。とても、これから彼に降り注ぐ運命を告げることなど出来なかった。
 何をすべきか見つけられない灰色の瞳は、月夜の中に孤独に揺らめき、震えて歪む。時が進んでいくのが恐ろしかった。このまま何もかも止まってしまえばいいと思った。

 ふとそんなとき、彼女の憔悴した顔は眼下の光景を捉えた。ぼんやりとした頭で、その不穏な空気を感じ取る。
 金髪の少女が、数人の男に囲まれていた。男たちはどちらかというと学者風で、大分酒が入っているようだった。遊ぼうよ、とか一人なの、とか耳障りな声が聞こえてくる。
 対して少女は困惑したように顔をしかめ、首を振ってやんわりと拒絶した。そして毅然とした佇まいで、何かを問うた。自分のことを聞いているのだろう。
 その姿に、記憶の奥底が指でなぞられる。真っ直ぐに伸びた背筋が、目線が、表情が。生の光を宿した瞳を初めて知ったあの記憶が、鮮烈な輝きを放つ。
 だが、そこでぴくりとシェンナの眉が動いた。
「――そいつの居場所知ってるからさ、連れてってあげるよ。こっちにおいで」
 赤ら顔に下卑た表情を浮かべて、にたにたと笑う。他の者たちもにやつきながら意味ありげに視線を交し合う。
 どくりと心臓が一つ鳴るのを感じてシェンナは僅かに身を乗り出した。金髪の少女は眉を潜めて迷っているようだ。しかし、それは焦りゆえか承諾に傾きかけている。冷静に考えればあの男たちの意図など分かるだろうに。
 少女が真剣な顔で頷きかけた瞬間、もう我慢が出来なかった。シェンナはひらりと身を翻し、グラーシアの夜を舞った。

「なにをしているの」
 足音も立てずに近づいてきたシェンナに、男たちはその容姿に驚愕し、セライムもまた息を呑んだ。フードも被らずに出てきてしまったことに今更気付いても、もう隠す暇はない。
 後ろで髪を束ねた金髪の少女は、嫌でも悪夢を思い起こさせた。もう忘れようと思っていた、一つの歪みだ。しかし、垂れ流された記憶から一つの名前を呼び起こした。血を吐くように告げた。
「こちらにきなさい――セライム」
 刹那、どっと堰がきれたように、胸の内を何かが駆け抜けていった。たがが外れて、体が浮いているような心地だった。月明かりと街灯が交錯して酷い眩暈を起こす。足は勝手に動いた。暗がりだろうと関係なしに。
 決まりが悪そうに顔を見合わせる男たちに構わず、シェンナはセライムの腕を取って歩き出した。セライムは不安げな表情でついてきた。まるで怖い場所に連れていかれるのを恐れる子供のように。
 歓楽街の奥、人も少ない夜道は熱気も薄れ、遠くに聞こえる喧騒が僅かに耳をかきならす。
 宵闇の紺に支配されたせせこましい道を暫く無言で歩いて、やっとシェンナは足を止めて振り向いた。セライムが、びくりと肩を震わせた。
「あのまま騙されたらどうなっていたか、分かっているの」
「――」
 刺すような叱責に、気高い顔立ちが頼りない子犬のようになって力なく項垂れる。
「あんな場所、あなたのような何も知らない小娘が一人で歩いていい場所ではないことくらい分からないの。身の程を弁えなさい、あなたはただの学生でしょう」
「……ごめんなさい」
 蚊が鳴くような謝罪を受けて、初めてシェンナは自分が憤慨していることに気付いた。そして、同時に酷く混乱した。何故助けてしまったのだろう。罪滅ぼしの真似事でもするつもりか。彼がよく語っていた、たった一人の娘に――。
 酷い運命の巡り合わせであった。自分に罪を償えとでもいうのだろうか。しかし、どうやって? 何をして贖うのだ。
「あの……」
 セライムが、胸の前で両手を握り締め、意を決したようにこちらを見上げていた。このような暗がりでも眩いとろけた金髪。逃げることを知らぬ意思を秘めた青の双眸。見れば見るほど、父親にそっくりだ。
「ありがとうございます。私、セライム・ユル――いいえ。セライム・デジェムといいます。あなたのことを探していました」
 叱責を受けたというのに、口調ははっきりとしていた。悲壮なまでの意思がそうさせているのか。不安に震える唇で、少女は言った。
「父――アラン・デジェムのことをご存知ですか」
「……」
 シェンナは逡巡した。この場から逃げることは可能であった。以前の彼女なら、迷うことなくそうしただろう。
 しかし、逃げてどうするのだろう。彼女には何も無い。このまま何も残せずに死を待つだけの身だ。
 ならばそれよりは、目の前の少女に真実を告げて裁きを受けるべきか。そうすれば、ほんの少しだけでも自分を残して逝けるだろうか。
 結局のところ、自分はこの歪みを人に伝播することを望んでいるのだ。いびつなものを広げない為にと紫の少年を監視していたのに、そうせずにいられない己の心に、シェンナはぞっとした。膝を抱えて丸まっていられない自分が、少女の青い双眸に映って震えている。
 心から、何かが剥がれ落ちていった。
「知っているわ。10年前に会ったもの」
 セライムの瞳が、ゆるゆると見開かれる。父を失って、さぞ苦しんだことだろう。得られない真実にもがいたことだろう。あのときのことは全てが今宵のような闇の中に埋もれてしまった。
「……知りたい?」
 セライムは痛みに耐えるように、ぎゅっと目を瞑った。僅かな街灯に浮かび上がる少女は穢れなく、銅像のように美しかった。
「教えて下さい」
 それに比べて、己の姿のなんと浅ましく忌わしいことか。
 シェンナは頷いて、少女を促した。ここのところ、長時間立っていると妙に疲れるようになった。気持ちのせいかもしれなかったけれども。
「こちらへ」
「――あの」
 背中にかかった声に、シェンナは僅かに振り向いた。真剣な顔で、セライムはこちらに強い眼差しを向けていた。
「名前を、教えて下さい」

 ――君。名前は?

 この体に生まれてから後、名を尋ねられたのは二度目であった。それも何年ごしのことだろう。
 不思議な感慨をもたらした問いに、何故か感情が震え、思わず顔を背けて、彼女はぽつりと零した。

「シェンナ」

 ――シェンナ。良い名だ。まあ、うちのセライムには敵わないけどな。

 心を覆うものがまた一つ、音も立てずに剥落していく。




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