-紫翼-
二章:星に願いを 22.彼の友人 月明かりの下、白銀に似た粉が煌く。スアローグは冷たい光を浴び、風に飛ばされぬよう手をかざしながらそれを注視した。 都市が喧騒を忘れて寝静まる時間帯だ。しかし、とてもではないが眠る気にはなれなかった。 「……ポマスの粉末」 注意深く顔を近付けて、鼻腔をくすぐる独特の香りに唇だけの動きで呟く。 ポマスの粉末とは、古来から伝わる有名な魔術用品だ。諸々の薬草を調合し、干して粉末にしたものである。 効果は、興奮作用による魔力の増幅。過度の摂取は危険だが、少量であればその辺で売っている魔術師向けの栄養剤にも入っている。蝋紙に包まれたそれも命に関わる量ではない。それにここは魔術規制の結界内だ。この量では外で飲めば意図しない魔術が暴発する可能性もあるが、結界内ではそれも抑制されてしまう筈だった。 あの生徒が何を狙っているのか分からず、困惑してスアローグはかぶりを振った。 瞳を伏せれば、瞼の裏には透徹な笑みが映る。月のように温度のない、それでいて絶対的な意志を持った笑みだった。 「――」 包みを戻して、濁った吐息をつく。何も考えずに言われた通りにするのは容易い。周囲がどうなろうと、自分にとっては知ったことではない。上辺だけの友人だったら、失っても作れる。己だけが変わらずにあるのならば、変化の流れの中でも立っていられよう。だから――。 ぱっとスアローグは血の気を引かせ、反射的に包みを懐に隠した。首を回すと、道の先に人影。男子寮の廊下の一角だったから、生徒であることは一目で分かった。そして、月光を横から浴びて顔の半分を闇に隠すその影が、エディオであることも。 研究室からの帰りらしかった。向こうも怪訝そうに目を細めている。 顔を先に逸らしたのはスアローグの方だった。奇妙な静寂が、張り詰めた空間に落ちる。 詮索されるか、それともあの日のように感情の塊をぶつけられるか。 どのような言葉の刃ですらも、受け入れるつもりだった。何もかもが引っ繰り返ったあの日から。傷ついた心を暴いた自分がその罰を受けるのは当たり前のことと、彼は黙ってそれを待っていた。もう、何年も何年も。 しかし、エディオは何も言わない。目を逸らしたままだから、どんな顔をしたのかも分からない。こつり、と踏み出す音が反響して、肩が跳ねた。だが茶髪の少年は口を閉ざしたまま、自室への扉を開いて姿を消す。 閉まる扉の残響がすっかりなくなるまで、――否。なくなった後も、スアローグが面をあげることはなかったけれども。 溝は未だ埋まる様子を見せず、二つの影法師は未だ彼岸をゆらめき続ける。 罪を生み出したのは、一歩を踏み出したが為だ。 ならば、もう関わらなければ良い。あんな痛みを見せられるなら、人の心など理解できなくとも良い。それでも生きていくことは可能だ。 あれから何年も経って、今もこうしていられるように。 苦痛も何もかも、感じなくなってしまえば良いと思った。この冷たい白亜の都市のように、心が氷に閉ざされてしまえばと。論理だけの世界に埋もれてしまえれば。 そうすれば、過去の悪夢に苦悩することもなく。 ――これから起こる悪夢を思い煩うこともないのだ。 銀色の光に撫でられて、淡い金髪が白く染まる。その下の瞳は歪んでいた。親を見失った頼りない子供のように、時を過去で止めたまま。 気ままに振舞う、紫の少年はただの友人だ。心に土足で踏み込んでこないから、友人であることを許したに過ぎない。 「僕には関係ない」 だから、彼を裏切ったところで。 「傷つく理由もない」 人は世界に氾濫している。だから、誰かがそこにいてくれるだけでいいのだ。それ以上の関係なんて、重荷になるだけで。 「彼のことなんか、知らなくたって」 知ることでその苦悩に呑まれてしまうよりは、知らないで憎悪を受ける方を選ぼう。 「他人がいれば、独りでもいい」 故に事象を天秤にかければ、選択すべきものは火を見るよりも明らかだ。 「――」 もしも自分が裏切れば、彼はどんな顔をするだろう。 そんなことは分からない筈だった。だって、自分は彼のことをあまりに知らない。彼が何を思い生きてきたかなど、理解しようと思ったこともない。 なのに、表情は鮮烈に脳裏に焼きついた。彼は必ずそうするだろうと、ぞっとするほどの確信があった。 何故だと問いを投げても、心は返答をよこさない。 理解していない筈の紫の少年が、喧騒の中に立っている。 彼は言うだろう。始めは驚いたように目を見開いて、けれどそれをゆっくりと細めて、何もかもを透明な紫の銀板に映しこんで。 うん、そうか――と。口元に寂しげな笑みを浮かべながら。 「――っ」 表情に、ひびが入る。手で顔を覆った。小刻みな肩の震えが止まらなかった。 痛みなど感じなくなってしまえばいいと思っていた。 なのに体を蝕むこの息苦しさは何だ。 指の合間から見える、冷えた石造りの回廊。夢見た光も切望した闇もそこにはなく、震える自分だけが現実にいる。 そして、その現実を失うことを恐れる自分が、そこにいる。 *** 「ただいまー……?」 夕暮れが夜の闇に変わろうとする時間に帰宅すると、部屋は真っ暗だった。がらんとした部屋を前に、声の終わりが喉の奥に引っ込んでいく。 「うん?」 手を伸ばして電気をつけると、無人の自室が無粋な明かりに浮かび上がる。いつもだったらスアローグが机で本を読んでいるか課題を片付けているのに。 「どこいったんだ、あいつ」 スアローグは普段から、神経質なくらいに決まった生活パターンを繰り返す。朝起きる、コーヒーを淹れる、俺を起こす、登校する、研究室に行く、決まった時間に帰る、寮で読書か課題、そして寝る。少なくとも自発的に変則的な行動をとるなど、ありえなかった。というか、そういうことになると、途端に駄目になる。一度歩調が乱れると、とことんはまってしまう奴なのである。 不可解なものを感じながらケープの胸元を弛めつつ進んでいって、とりあえず鞄をベッドに投げ出す。どさりという音が妙に胸に響いて、顔をしかめた。無音の空間は何処となく落ち着かない。 ソファーに浅く腰掛けて、いつもスアローグが座っている椅子の辺りをぼんやりと眺める。 「ここのところなんか妙だったしな」 何処か現実感が剥落した室内で、いたたまれなくなって立ち上がった。なんだか心配だった。あいつ、最近――得に昨日は何か思い詰めてる様子だったから。 探しに行ってみようか。でもあいつのことだから、こういうときに会いに行ってもうまく逃げられるだけかもしれない。 そんなことを少しの間考えて、――まあ、夕飯を買いがてらちょっと探すか、と結論付ける。普段はスアローグが何かしら買ってきたり作っておいてくれるのだが、今はその当人がいないため夕飯がない。素人の俺が何か作るんだったら、買ってきた方が早いだろう。 着替えるのも面倒だったので、そのままふらりと外に出た。夜の生ぬるい風がケープの裾をはためかせる。 ちょうど帰ってくる生徒が多い時間帯だった。上の階の廊下から響く足音や、談笑する生徒たちのざわめきが、質量を持ったかのように寮全体を満たしている。 「お」 俺は、運良く見知った顔を見つけて声をかけた。隣の教室の奴だが、スアローグと顔見知りらしく、その縁で俺も会えば挨拶するような仲になったのだ。 「なあ、スアローグ見なかったか」 「え? ああ」 帰宅途中だったらしく、そいつは一瞬きょとんとして思い巡らすように首を傾げた。 「さっきすれ違ったよ。あいつと一緒にいた。えーと、なんだっけ、あいつ、あの有名人」 有名人、と聞いて寸刻記憶を思い巡らしたが、スアローグが一緒にいそうな有名人というと俺自身しか思い浮かばなくて残念な気持ちになる。 だが、そのとき飛び込んできた名前に俺は耳を疑った。 「そうそう、奴だ、クラーレット・ユーリズ。食堂を出て、大講堂の方に行ったよ」 「エディオ! 丁度良いところにっ」 全身を風にして走る途中、正門前でエディオを見つけて駆け寄る。俺は眉間にしわをよせたエディオに事の次第を説明した。あの兄弟、よりにもよってスアローグを巻き込もうとしているらしいのだ。 スアローグは本当に何も知らない。俺が妙な力を持ってることも、記憶を無くしていることさえも。だから問い詰められても答えられないし、その時点で何をされるか。 「一緒に探してくれ」 「……」 エディオは、街灯の下で押し黙っていた。その態度に苛ついて語気を荒げる。 「ヤバいって分かるだろこの状況っ! 頼むから!」 「……俺は」 ぼそりとエディオは何かを言いかけて、苦しげに目を逸らす。スアローグのことになると、いつもこうだ。 ああ、もう。こいつら二人、何があったっていうんだ。 「分かった、もういい」 埒が明かないので、仕方なく俺はそう見切った。俺だって全能じゃない。こいつらのしがらみの中身を都合よく察するなんて出来ない。 でも、何があろうとスアローグが大変なことに変わりはないのだ。 俺は返事を待たず、踵を返した。 *** まさか一人で来るとは思っていなかったのだろう。言われた通りにあの紫の少年を連れてくるものと確信していたらしい。彼らは食堂の最も奥の席にいた。こちらを見て、信じられないものを見たような顔をしていた。 なんだい、化け物でも見たんじゃあるまいし。 口の端を歪め、いつものように皮肉げな笑みを浮かべる自分に、スアローグは内心で苦笑していた。全く、自分もどうかしている。 人は化学式ではないのだ。一と一を足せば二になるとは限らない。数字だけで理解できるわけがない。人の全てに論理が適用できると慢心して信じきるのは馬鹿のすることだ。 その真理を誰よりも知る自分が、その真理を誰よりも忌避し憎む自分が、それに乗って動いたのだから皮肉以外の何でもなかった。 歩いていく。一歩、また一歩。夕飯時の食堂は混み合っている。ここで紫の少年に何か起こさせるつもりだったのだろう。 席に座っていたのは、クラーレットともう一人。顔を見る限りはおそらく兄の方だ。 テーブルの横に立つ。四つの目がこちらを向いている。不可解そうに、怪訝そうに。 思い切って息を吸った。 「昨日の話だけどね」 あの紫の少年は、謎の塊だ。何処から来たのかも、何を考えているのか分からないし、何をしようとしているのかも皆目不明。敵を作ってもおかしくない。そしてそこから自らを守る手立ても知らない癖に、自由気ままに振舞う。手痛いしっぺ返しをくらっているのも当たり前だ。 世話が焼ける同居人。けれど重要なことは一人で勝手に悩んで勝手に行動するから、まるで自分にとっては劇画でも見ているようだった。ろくでもない話だけをして笑っていればいい、都合の良い友人だった。 それで良かった筈だ。一歩を踏み出せば、彼の心に触れてしまえば、また足元を崩される。闇に汚染される。だからいつ袂を分かとうと、大した問題ではない。大事なのは自分を守ることなのだから。 なのに、上辺だけを滑っていくはずだった彼は。 ――懐から取り出した蝋紙を見せびらかすように胸の前に掲げ、思い切り破り捨ててやった。高価な品だろうが、知ったことではない。落ちたそれを踏みつけて、スアローグは唸るように言った。 「お断りだ」 「――」 兄のアレックが、絶句している。そして、何かを言おうと青冷めた顔に怒りを含ませた。しかし牽制するように、クラーレットが冷静に口を開いた。 「ただの友人ではなかったのですか」 自己統制のとれた、透明な眼差しだ。何でも出来ると言いたげな顔だ。幼い日の自分を見ているようで、吐き気がする。 「冗談じゃないよ、こんなこと」 立ったまま言い捨てた。 「そうだ、僕は彼の友人だ。それ以上でもそれ以下でもない。うんざりだよ、僕に関係のないことに巻き込まれるのは。僕は僕の日常を守る、それだけだ」 なんて愚かなことを口走っているのだろうと頭のどこかで考えながらも、喉は臆面なく言い切ってくれる。守るべきものは己の存在だけの筈だった。しかし――。 互いのことを知らず、知ろうともせず、それはとてもいびつな関係だったのだろうけれど。 影で嘲りながら、空しいものと思いながら、それでも笑っていたことに違いはなかった。 「だから好きにするといい」 喧騒の中で、淡々と告げてスアローグは背を向けた。馬鹿だ、ありえないくらいの馬鹿だと自分を罵倒しながら。彼は今、そこにある日常と引き換えに未来を捨てたのだ。 「先輩」 「ついてくるな」 スアローグはエディオのような相手を凍りつかせる眼差しが出来ない我が身を呪った。拒絶すらもやんわりとしたものしか知らない。だが、身を振り絞って言い放つと少し気が楽になった。どうでも良くなったのかもしれなかった。 人をかきわけるようにして食堂を後にする。もうこの時間帯だと紫の少年は帰ってきているかもしれない。自分がいないことを訝しんでいるだろう。 慣れないことをした胃が鈍く痛んで、思わず全身を使って溜息をついた。こんなことは金輪際、二度としたくなかった。 何かが背中に触れたのはそのときだった。 「動かないで下さい」 鋭く研ぎ澄まされた氷の刃が、耳朶を叩く。穿たれたそこから、体温が消し飛んでいく。 背に押し付けられたひやりと硬いものと、重量を感じさせない隣の気配。霧散した思考の中で、何かを言わなければと思った。しかし赤く明滅する世界の中ではそれすらも許されず。 「こちらへ」 「――何の、つもりだい」 背に押し付けられたものが何であるかを察し、その事実に何も考えられなくなる。隣でクラーレットが笑っている。優しく冷たい微笑みを。風に揺られた灯火のような弱々しい抵抗をしても、有無を言わさぬ振る舞いで連行される。反対側にはアレックがまわった。足はもつれながらも、結局は二人に従わざるを得なかった。 こんな人通りの多い場所で、どうして。何を。頭でそうわめき散らしても、浅い呼吸となって全てが消えていく。 学園内とはいえ、夜闇が支配する時間帯だ。クラーレットは持っているものをうまく手で隠していた。傍から見れば軽く促すように手を相手の背にやっているようにしか見えない。 行き着いた先は大講堂の辺りだった。そこまで来ると人通りは途絶え、建物の影に入ってしまえば全ては闇に塗りつぶされる。 ようやく足を止めたクラーレットは、ぽつりと呟いた。 「――先輩は、何か勘違いをしていらっしゃる」 感情の見えない台詞に首を回しかけた瞬間、突然胸倉を掴まれて壁に叩きつけられた。痛みより先に衝撃が全身を襲い、喉元すら硬直させる。 不快げに鼻を鳴らしたアレックは手を離し、隣でクラーレットが持っていた銀に光る小刀を懐にしまう。あまりに非現実的な光景に、スアローグはただ目を見張った。遠い場所から届く僅かな光源に逆光になって照らされた二人の顔は、暗い。 「僕たちは懇願したのではありません。命令したのです。先輩は己の身の程をご存知ないのですか」 すらすらと流暢に滑り出す言葉に、頬が震えて歪む。そんなスアローグを冷ややかに眺めながら、クラーレットは続けた。 「誰が強者なのかも分からない人間がグラーシアの生徒を名乗るなど、不愉快極まりないですね」 そこに宿る虚栄に、スアローグは眩暈すら覚えた。ろくに失敗も絶望も経験したことのない顔だ。周囲から羨望と畏敬の念を注がれるのが当然と思っているような。 だから、暫くの沈黙の後に皮肉が口をついてでた。 「学生ぶぜいが強者ぶって神様気取りなんてね。猿山の長でしかないことが分からないのかい」 愚かな振る舞いと知っていて、挑発的に言わずにはいられなかった。クラーレットの目がぴくりと瞬き、憎悪に細められる。それを見て視界が眩むような不快感を覚えた。大嫌いだった。全てが全て思い通りになると信じ込んでいる人間が。 いつだったか、礼拝にやってくる従順な農民たちを醒めた目で眺めていた子供を思い出す。その手に力も光も何もかもがあるのだと、愚かな虚構に酔いしれていた。今はそんな有り様を疎んじている。憎んですらいる。それが自分の過去であったからだ。妄想に囚われて人を傷つけてしまった、己自身だったからだ。 「甞めた口きいてんじゃねえよ」 現実に亀裂が入るような低い恫喝に、腹の奥がぎゅっとすくむ。だから嫌なのだ、もっとうまいかわし方があった筈だ。今まではあらゆる手を使い面倒事を避けてきたのだから、今回もそうすれば良かった。従順な態度で彼らの言うとおりにしておけば良かった。なのに、なんて馬鹿を犯しているのだろう。 ――ユラスの考えなしなところが移ったかな。 恐怖に震えながらも、喉の奥で笑った。 「スアローグっ!」 そのとき飛び込んできた声に、二人が僅かにたじろぎ、スアローグはゆるゆると顔をあげた。 *** 駆けつけたとき、俺はぞっとしてその場に立ち尽くした。 生垣と建物の間の暗い場所に、壁を背にするスアローグと、それを取り囲むようにする兄弟。明かりがほとんどないせいか、誰もが青白い人形のように見えた。 「……スアローグ」 掠れた呼びかけに、スアローグは憔悴した顔を向けてきた。なんてことだ。こいつは本当にただの同居人でしかないのに。 あとで謝って――済むだろうか。縁を切られるかもしれないな。仕方ない、俺の身から出た錆なんだから。 とにかく今は助けないと。それにしてもこの兄弟、こうまでして俺を陥れたいのか。 「あのなあ……」 頭を抱えたくなって言いかけた俺に、クラーレットが一歩踏み出した。 「良いところに来て下さいました」 俺は深い影を落とす目の前の生徒と向き合った。無表情にも見えるが、貫くような目線には憎悪がこめられている。俺という存在全てを否定したいとでも言いたげな目つきだ。 「あの時のように、彼を救ってみたら如何です」 生ぬるい風が、対峙する俺たちの合間をすり抜けていく。動かない俺にクラーレットは酷薄な笑みを見せる。俺にここで魔術を使わせようという魂胆だろう。スアローグが本当に何も知らないことを見抜いたに違いなかった。そのスアローグの前で俺の力を見せようというのだ。俺の魔力は一般人が見たら気味悪がるだろうから。 どうすべきかと、俺は視線をさまよわせた。 しかし脳裏にあらゆることを浮かべても、ろくな結果が予想できない。 平和的に解決できるわけがないとは分かっていた。現にこうして攻撃されているのだから。だから――反撃するしかない。 できるだろうか。いや。迷っている暇などない。 瞼を軽く閉じる。 フェレイ先生、ごめんなさい。俺、今だけ嫌な奴になります。 そう心の中で呟くと、胸に冷たいものが染み渡る。みるみる体の隅々までそれは伝っていく。激昂ではなく冷徹さを持ってして、俺は目を開いて現実を俯瞰した。 息を吸って、吐く。もう一度吸って、弾丸を喉に装填した。顔が自然と険しくなる。俺は、目の前の人間を叩きのめす為に口を開いた。 「……何言ってんだか分からないな」 じくりと胸の奥底が痛むが、泣き言など弄してはいられない。だからその苦痛すらも卑屈な笑みに変えて、俺は腕を組んだ。クラーレットが鼻白んだようにこちらを見る。 「あくまでしらを切るおつもりですか」 「何言ってんだ、お前」 醒めた視線を送ってやると、――俺にそんな顔をされるとは思っていなかったらしい。クラーレットは面白いくらいに挑発に乗ってきた。 「人外の力を持つことをそうまでして隠すとは。大切なご友人の前では恐ろしくて出来ませんか」 声が怒りと焦燥で震えていた。逆にこちらの胸の内は静まり返っていく。 「彼はあなたをただの友人と言いましたよ」 俺を追い詰めるような物言いに、ぱっとスアローグの顔色が変わった。でも、何も思わなかった。 「――当たり前じゃないか」 ああ、分かってる。ただの友達って、お前らしい表現だし、お前は実際にそう思ってたんだろう。 でも。だとしても。俺にとっては大切な日常の欠片だ。そんなのは友人じゃないと他人は言うかもしれないけれど、相手を心から信用してなくたって、理解していなくたって、大切だと思えばそいつは大切なんだ。 「ただの友人。何がおかしい? 友人であることに程度が関係あるのか」 ニッと笑みを見せると、スアローグは僅かに口を開いて何かを言いかけた。見開いた瞳が揺れていた。俺は肩をすくめて、クラーレットと対峙する。 冷静沈着な瞳が、燃えるような強さを秘めて月の下で輝いていた。己の力を信じ、己こそが頂点と自負したが為に他人を認められなくなった瞳だった。 その気持ちもなんとなく分かるけど、手を抜くわけには行かない。 「それにさ、俺が人外の力だって? 証拠でもあるのか」 ぴくりと気勢を殺がれたようにクラーレットの肩が震える。 「僕たちがこの目で」 「誰が信じるんだ、そんな証言だけで。他人に言ってみろ、笑われておしまいだ」 クラーレットは言葉に詰まって、化け物を見るような敵意を向けてきた。だから、表情を消して続けた。 「もしも俺がお前たちが言うような力を持つならな、言葉で説得なんかしないさ」 顎を引いて、声を低くする。そうだ。俺が――本当に化け物だったら。 「お前らをここで消す。跡形も残さない。あー、スアローグは精神操作でなんとでもなるかな」 けれどそんなことは出来ないのだ。本当に化け物になりきれてしまえれば、ある意味楽だったのかもしれないけれど。 でも、出来ない。俺は、この日常を知ってしまったから。だから、それを守る為に戦うのだ。 「感謝してくれ。俺が、ただの人間であることを」 口にしたそれは願いでもあった。特別な力も空白の過去もいらなかった。凡庸な人間であれるなら、どれほど幸福あろうか。 ――そう。己のいびつさを知ってしまっているからこそ。俺は心から普遍を渇望する。 「ふざけたことをっ」 憤りを露にしたクラーレットが、懐から何かを取り出した。銀色の肌を艶めかせる小刀の切っ先が、ぎらりと輝く。 「力を見せてください。こいつの手を二度と論文が書けないようにしてやったっていいんです」 俺と共に目を剥いたのは兄のアレックも同じことだった。まさかクラーレットがそこまでするとは思っていなかったのか。心臓が止まる思いで、俺は血を滾らせながらそれを阻止しようと一歩踏み出した。逃げようとしても足が動かないスアローグが、顔を歪ませて固く目を閉じる――。 「何をしている!」 野太い声が天地を引き裂くように響き渡った。その場にいた全員が時を止めた。 はっとして振り向くと、大柄な人がこちらに駆け寄ってくるのが見える。あれは学園の教員だ。しかしなんでこんな建物の影にそんな人が来るんだ。 「貴様ら、ここで何をしていた!!」 降り注ぐ叱責も耳に入らず、ぽかんとしていると、少し離れたところにエディオが見えた。あ、と思って口を開く。しかし、音もなくエディオは背を向けて歩いていってしまった。それを呆然と見つめていると、不意に腕を思い切り掴まれた。 「でっ!?」 「こっちに来い、全員だ!」 来たのはよりにもよって、筋肉自慢で有名な教師だった。何を思ったか俺まで加害者扱いされて、ずるずると職員室に引っ張られていく羽目になった。 *** 何故かアレックとクラーレットの他に俺までこってり絞られることになった。見事なまでのとばっちりである。 兄弟とは別だったが、生活指導の教諭と担任のレイン先生からとうとうとお説教をされて開放されたのは小一時間も経った後だ。聖なる学び舎の学徒たらん行動というのは云々、と耳にタコが出来るほど聞かされて、ややげっそりしながら職員室を後にした。 だが、そこで思いもよらない人物を見つけて立ち止まる。エディオだった。煌々と明かりが輝く廊下で、壁に背をもたれて暇そうに腕を組んでいた。 「……部屋に帰ってたんじゃなかったのか」 エディオは無言で目を逸らし、足元に置いた鞄を持った。さては、先に部屋に返されたスアローグと二人では気まずいからここにいたに違いない。 俺は鼻から息を抜いて、こっそり笑いながら歩き出した。エディオは黙ってついてくる。 「お前が先生呼んでくれたんだろ。助かった。ありがとな。あのままじゃ、またこの前の二の舞だった」 「何も考えないで行くからだ」 「……ご尤もでございます」 苦虫を噛み潰した気分だった。 あの兄弟はどうなるのだろう。俺もスアローグも全てを喋ったから、下手をしたら停学くらいの処分は下るかもしれない。 男子寮の門をくぐり、安っぽい明かりに照らされた階段を上る。だがいよいよ部屋の前に来たとき、数歩遅れていたエディオが立ち止まった。 「どうしたんだ」 振り向いて問うても、エディオは憮然として動かない。そこまで顔を合わせたくないってか。 仕方ないから、片頬をあげて不敵な笑みを浮かべ、言ってやった。 「お前ね、この化け物さまがついてこいって言ってるのに断る気かね、んん?」 無表情が常のエディオの顔に、若干の渋みが広がった。呆れてるっぽい。 「……シャレになってねえ」 「ん、そうだな」 不思議と今は肩の力を抜いて笑うことができた。エディオはまだ動かなかったけれど。ああもう、こいつら二人、何があったんだ。 「とにかく来いって」 俺が促すと、エディオはためらうように視線をさまよわせた。そうして何かの境界を越えるように、そっと動き出す。 鍵を開けて、俺はノブを捻った。中の明かりが薄青に黄色の筋を投げかける。 「ただいま」 一瞬、不安に心臓が高鳴ったが、そこにはテーブルに向き合ってコーヒーを飲むスアローグがいた。 いつもと同じ光景だった。そうだ。当たり前にあった、優しい光景だ。 「……おかえり」 スアローグは、唇を尖らせるようにそっけなく返して、またコーヒーを口元に運んだ。怪我がなくて本当に良かった。 俺が入ると、後ろから若干気後れしたようにエディオが続く。スアローグは刹那、息を呑んで目を見開いたが、それ以上は何も言わなかった。 俺たちは円形のテーブルを囲んで、三人で座る。 「……」 「……」 「……」 会話が、ない。 そういえば、俺たち三人、同じ部屋になって早一年半。一度たりともこうして同じ席についたことがなかったんだ。 よくよく考えなくとも、妙な仲だったんだよな。全員黙るのも仕方ないか。 スアローグはひたすらゆっくりと冷えたコーヒーを味わっているし、エディオは腕を組んで部屋の隅ばかりを見つめている。俺はそんな二人を暫く観察して、全身から溜息をついた。 「――腹減ったな」 そう言って立ち上がる。俺が喋らないことには、事態は蟻の一歩くらいも動かない。 部屋についている簡易的な台所を適当に漁る。この辺りはスアローグの管轄だから、どこに何があるのかよく知らなかったけれど、戸棚をあければちょっと古いパンと具になりそうな瓶詰めくらいは発見できた。 「よし」 「……ユラス?」 「待ってろ」 怪訝そうなスアローグの呼びかけを切り捨てて、格闘を始める。料理は正直ほとんどやったことないが、せめてセライムのようにならなければいいのだ。食べれそうな組み合わせで適当に混ぜて適当に味付けして適当にパンに挟んで適当に盛り付けた。 「ほれ」 これ以上手抜きはありえないと胸を張って言えるサンドイッチを、テーブルの上のものを押しのけて出してやる。俺とエディオの分のコーヒーを新しく器に注いで、俺はどっかりと椅子に座った。 「さて、食べるぞ」 割と多めに作ったから、大きな皿にパンは山盛りになっている。お世辞にもおいしそうとはいえない見栄えだったが、俺が一切れつまむとエディオも腕を伸ばしてきた。この沈黙をやりすごすのに食べ物は丁度良かったからかもしれない。スアローグも渋々一つとって、かぶりついた。 「……」 咀嚼しながら、ものすごく微妙な顔をしてくれた。 「ユラス。不味いよ、これ」 「……うむ。確かに」 俺も食べて思う。なんだか味もあまりしないし、パンはもそもそしてるし、ソースはべちゃべちゃしてるし。やっぱり、適当に作るもんじゃないよな、料理って。 でもまあ、食べられないほどのものでもなかった。エディオは機械仕掛けの人形が燃料補給するみたいな仏頂面で淡々と食している。スアローグもまた、不満を言いながら全部食べてくれた。食べることをやめても、やることがないからだ。 不味い食事をコーヒーで流して、皿がすっかり綺麗になるまで、ほとんど会話はなかった。スアローグとエディオは目も合わせようとしないし、奇妙な沈黙が重たく部屋を支配する。 でも、それでもいいと思った。だって、こんな俺たちが一緒に夕飯を食べているというだけでもう奇跡なのだから。 ゆっくりと時が過ぎていけばいい。俺たちは、薄い氷の上にいることに変わりはないけれど。 ――それでもそこに、平穏は確かに存在するのだから。 Back |