-紫翼-
二章:星に願いを 21.ただの友人 『スアは賢いな』 汽車が止まる町までは馬車で一日。やっと普及してきたエンジン付きの四輪車に乗せてもらえば半日。 これといった特産品もなく、農業だけで細々と成り立つ村の丘に、古ぼけた教会がある。 ふっくらと耕された土と、横たわる干された木の匂い。柵の中でたむろう羊たち。代わり映えのしない草原。 そんな田舎の真っ只中で、父に褒められながら頭を撫でてもらったのを覚えている。 小さな村では、男三兄弟の次男ほど忙しい身分はない。騒がしい世間をうまく渡るために、彼は多種多様の姿に化けなければいけなかった。 兄の前では弟でいなければならず、弟の前では兄でなければならない。それでいて両親や村人の前では子供でいなければいけないのだ。 村は余所者が来れば一日で噂が村中に広がるくらいに狭かった。そして安息日の礼拝に来ない村人はいなかった。村人の関係は密だった。 頭を垂れて祈りを捧げる彼らを眺めながら考えたものだ。この人間たちは、神に頼らないと生きていけないのか、と。 確かに神は便利な存在だ。祝福を下さるとか、死んだら迎えにきて下さるとか、大地を見守って下さるとか。畑を豊作にして下さるのも神らしい。しかし、ならば何故毎年豊作ではないのか。何故人は事故などの不幸に見舞われるのか。 そんなよく分からないものにすがって、本当に救われるのか。疑念はいつも頭を埋めていた。 しかし、彼はそのようなことを口に出したりはしなかった。教会の子供がそんなことを言ってはいけないことくらい心得ていた。むしろ率先して模範となるよう努めなければいけないのだ。祈りの文句は、呼吸をするようにすらすらと紡げた。 『天にいまします我等が救いの神よ』 人が喜ぶこと悲しむこと。父が平日開いていた私塾に来る子供たちを見れば、学ぶことは容易かった。話をよく聞いてやり諭してやれば人が簡単に動くことを知った。どんな人間でも、大人さえも、彼は思いのままに動かすことができた。 喧嘩を仲裁し、年下の面倒を見、年上には敬意を払う彼の様子を見て、父もこれはと思ったらしい。 グラーシア学園を受験しないか、と持ちかけられたとき、スアローグは父の言いつけならばと文句なく頷いた。 『我等に罪を犯す者を我等が許すごとく、我等の罪をも許したまえ』 祈りの言葉は知っていた。ただあの頃にその意味を本当に知っていたかは、もう定かではないけれど。 *** グラーシア学園へ子供を送り込んだという名誉に沸いた故郷の者たちに祝福と共に送り出された先、スアローグは堂々たる学び舎の佇まいに息を呑んだ。しかし他の子供と同様に、すぐに胸は弾んだ。 選ばれた子供たちが集う、大陸の最高学府。己の才を試すに相応しい場所であった。 そして、幾月も経たない内に賢い子供は簡単に友人たちを掌握した。 知っていた。人がどうすれば喜ぶか、どうすれば悲しむか。自分に理解できない感情などなかった。人の心は複雑そうに見えて、結局は全てつまらない嫉妬か憎悪に集約されるのだ。それを解きほぐしてやることなど、彼にとっては朝飯前だった。例えそれが、小さな村の住人でなく、聖なる学び舎の子供たちだったとしても。 結果、彼の周囲にはいつでも人がいるようになった。羨望の目線を集めた。選ばれた子供たちの中でも、選ばれた子供になったという自負心は、心地よく胸の辺りをふわふわと暖めた。神なんていらなかった。世界は人の手でも十分に律することができる。そして律するのはこの自分に他ならなかった。 いつも一人でいる少年と出会ったのは、いつの日のことだったか。 その生徒は、誰とも話そうとせず、休み時間は本を読み、終業時間になると忽然と姿を消すのが常だった。癖のある茶髪で横顔を隠し、僅かに覗く鮮やかな緑の瞳は思いつめるように下ばかりを向いていた。 エディオという名を持った少年は、教室内でも孤立していた。誰も彼のような暗い人間と付き合いたがらなかったし、彼もまた闇に没するように何も言わなかった。 救ってやろうと思ったのだ。 他人を求めない人間などいるわけがないし、自分に救済が出来ない筈がないとも自負していた。 「ねえ、君」 本に落としていた目線をあげて、彼はこちらを見た。きっと彼は驚くに違いなかった。いつも友人に囲まれている人間に話しかけられたのだ。突如降りかかった光に目を瞬かせるに違いなかった。 「……」 しかし、彼は驚きも笑いもせず、魚のような目でこちらを凝視するだけだった。用があるなら早くしろ、とでも言わんばかりに。 スアローグは怯まなかった。 「エディオはいつも一人でいるね」 休み時間の教室はざわついている。子供たちのはしゃぐ声。スアローグの調停が、この空間を生み出した。 だから、そこに淀みなどあっていいわけがなかった。 「僕のことはスアって呼んでいいよ。友達になろう」 勝者がするような満面の笑みを浮かべたスアローグに、エディオは無表情のまま本を閉じて立ち上がった。がたり、と拒絶するように椅子が床と擦れる。 「エディオ?」 煩わしそうに幼い顔を歪めたエディオは、背を向けて足早に去っていった。 残されたスアローグは何度か目を瞬いて、これは時間がかかりそうだと考えた。怒りや悲しみを存分にぶちまける心よりも、閉じた心を開く方が難しいのだ。 だが、出来ないとは思っていなかった。 *** 「……これは、どういうつもりだい」 差し出された包みを受け取らず、スアローグは表情に僅かな敵意を混ぜて問うた。 「明日の夜、ユラス先輩を食堂に連れ出して下さい。あとはこれを」 その意図することは紫の少年に詫びたいとの意思には到底結びつかない。そしてクラーレットは最後まで言わなかった。代わりに手の平で握れてしまえそうな包みをついと近付けて来る。 「何だい、それは」 「知りたいですか」 くすり、と計算高い顔をした男子生徒は蜘蛛の巣にかかる蝶を見るような笑みを浮かべた。 冷気に閉じ込められたように、スアローグは口篭って差し出されたものから目を逸らす。 「お知りになりたくなければそれで結構です。何も考えずに言われた通りにして下さい」 クラーレットは反論を言わせなかった。ふっと無造作に一歩近寄って、囁くように問う。 「聞きましたよ。最近、よく研究がはかどっていらっしゃるようですね? なんでも国立の研究所から誘いがきているとか」 固まった彼の顔から血色が抜けていく。 「……僕の父は国の役人でしてね。後ろ盾のいないあなた一人を社会的に駆逐するなど容易いのです」 耳障りの悪い、じっとりと濡れた声だった。クラーレットは、反応を伺って満足げに微笑む。 「怯えないで下さい。あなたに望むことはそう多くありませんし、それに――」 スアローグの手に何かが触れた。半ば無理矢理に包みを渡されたのだと遠いところで考えながら、彼は悪夢のような囁きを聞いた。 「彼はただの友人なのでしょう?」 汗ばんだ手の平が、包みを頼りなく握り締める。 *** 教室以外でエディオを見つけるのは最難事だ。他人と付き合いらしい付き合いをしない彼は、いつも一人で何処かに行ってしまうのだ。 しかし、だからこそ自分にしか彼の友人になれないと考えた。 「エディオったら」 世話が焼けるな、と口の中で呟いて、茶髪の影を探し回る。エディオはそこらの子供と比べても背丈が頭半分は高い。一度発見すれば見失うことはないのだ。 彼は人目を忍ぶように学園の裏庭で本を読んでいた。聖なる学び舎はとても広く、裏庭の方には使われていない倉庫などもあったから、やれ科学者がこっそり人体実験をやってるだの、やれ異世界に続く穴があるだの、とにかく噂には事欠かなかった。だから生徒も近寄らないと思ったのかもしれない。 「こんなところにいたんだ」 明るく声をかけると、鮮やかな緑の瞳は陽光を吸って不思議な光彩を放ち、こちらを見上げた。真っ直ぐな視線は、見る者を射抜くかのようだ。 スアローグは一瞬どきりとしたが、すぐに笑って首を傾げた。 「いつもここにいるのかい」 「……別に」 さっと瞳の色を曇らせるようにして、エディオは目を文字に落とす。彼が読んでいるのは、子供向けの本ではないようで、細かい文章がびっしりと穿たれている。 スアローグは彼の隣の敷石に腰掛けて、空を見上げた。 「エディオはいつも本読んでるよね。本、好き?」 「……別に」 文字を追う視線を話さぬまま、エディオは機械のように返答する。スアローグはくすりと頬を弛めて膝を抱えた。 「そんなに勉強して、何かなりたいものがあるのかい」 ぴくっとページをめくりかけていた指が止まる。長めに伸ばした前髪に隠れて、表情は伺えなかったけれども。 「僕は科学者になりたい。エディオは何になるつもりなんだい」 顔を覗き込むと、彼の口元は引き結ばれたままだった。午後の陽だまりは、時の刻みもゆるやかな中にある。 「……医者」 ぼそりと零れた呟きに、返答があったことに対する喜色が満面に浮かんだ。そして、その答えにも胸は高鳴った。 「医者か、すごいな」 医学はグラーシア学園の中でもほんの一握りの人間しか学ぶことのできないのだという。感嘆の溜息は、心からでたものだった。それをエディオがどう思ったかは彼の知るところではないけれども。 そして、孤独に本ばかり読んでいた彼のことをもっと知りたいと思った。だからスアローグは重ねて問うた。 「君だったらすごい医者になれるよ。毎日勉強してるしさ。でもどうして医者に?」 それは純粋な好奇心だ。穢れのない問いかけ。そして、未だ恐れを知らぬ者の、ただ光だけを持つ言葉でしかなかった。 スアローグは気付かなかった。エディオがそのときに自分に向けてきた瞳の色を。酷くくすんだ、疲れて痩せた表情。荒廃した心は、明るく輝くものに時に憎悪さえ向ける。自らに与えられなかった光を、滅茶苦茶にしてしまいたい願望に囚われることがある。それを、自らに力があると信じて疑わぬ幼い子供は知らなかった。 「……知りたいか、スア」 訊ねてきた彼は無表情だったが、スアローグは素直に頷いた。エディオは立ち上がった。 「来い」 目の前を横切る影が陽を遮り、一瞬、胸をざわめかせた。しかしスアローグはその胸騒ぎの正体が何であるのか掴めず、彼を追って腰をあげる。エディオはまるで大人のようにゆったりとした歩き方で、もう数歩先に行ってしまっていた。追いつくには、早足で行くしかなかった。 「何処に行くんだい」 風に髪を遊ばせる後姿は、何も答えなかった。ウェリエルの銅像を横切り、正門を越え、そしてスアローグの知らない道に入った。 スアローグは慌てて時計塔を見た。幼学院の門限は早いのだ。 「ねえ、何処に行くんだい。門限は五時だよ」 エディオは口を閉ざしたままだ。知らない通りは、少し歩いただけで随分な距離を来たような錯覚に陥らせる。そこを自宅の庭を歩くようにエディオは行ってしまう。帰りたくなったが、ここで帰ればエディオとの友人関係は破綻するだろう。そんなことを彼の自尊心が許すわけもなかった。口をへの字に曲げながらも、スアローグは必死に後を追った。 彼がやっと足を止めてくれたのは、奇妙な建物の前だった。酷く簡素な白い長方形の建物が並び、壁沿いを縦横無尽にパイプが伝う。同じ形の窓が並ぶ様は、どこか牢獄めいた印象を見るものに与えた。 「……病院?」 「来いよ」 眉を潜め、目を丸くするスアローグの前で、淡々とエディオは招く。 「理由、聞きたいんだろ」 幼い二人の子供は、目線をかち合わせた。スアローグは、体が勝手に震え出すのを感じた。暗闇の中の泉のような、冷たく底のない瞳に己の姿が酷く小さく映っている。初めて触れた得体の知れないものは、白く汚れのなかった彼の心をじわじわと侵食した。足元から氷の蔦が伸びてきたかのように、体が大地に縫いとめられて動けなかった。 「来い」 固まってしまった幼子に痺れを切らしたように、エディオは腕を掴んで無理に引っ張った。ぎくりとスアローグは目を剥いたが、逃げられなかった。 「――」 何かを言おうとしたのに、口が他人のもののようになって動かない。視界がちかちかと点滅する。化け物に食べられるように、彼は白い建物の内部に飲み込まれた。目の前の人間が何を考えているのか分からない。だから、どうすればいいのか分からなかった。幼い少年は無力だった。 あちこち曲がって何度も階段を上って、泣きそうになりながら引きずられて、ついに部屋に辿り着く。妙に白い空間だった。重たい空気の中、ごうごうと機械音が唸るばかりで居心地が悪い。 エディオはこちらの反応を伺うように、ちらっと一瞥してきた。そこには闇が渦巻いていた。やり場のない怒りを、手当たり次第にぶつけるしかない危うい闇。その表情は、奇妙な形に歪む。子供がするには、吐き気がするほど禍々しい形に。 彼は言った。 「母さん、友達を連れてきたよ」 *** 人の心の掌握など、容易いと思っていた。 世は理で廻っている。ならば、その理を律するのは自分だと。 それは拙い夢だ。優しく甘ったれた幻想の空しさに気付いたのは、その思い上がりで傷を負ってから。 人の心は暗い。ぽっかりと、空洞に黒い液体が満たされたようなものだ。そしてそこに何が入っているのかなど、他人からは分からないのだ。 そんなこと、知らなければ良かった。見なければ良かった。 他人が抱える想いなど。解決出来ない気持ちなど。 理で解決出来ないというのなら、では何がそれを救うのか。 今はただ、何もかもから心を剥がして、茫洋とたゆたっている。 人と関わることが、恐怖になった。内心を打ち明けることなどもっての他だった。他人の心など、二度と覗きたくなかった。 世は理で廻ってはいない。歯車は何時だって狂いながら軋み声をあげ、今にも弾け飛びそうに回っている。安寧の均衡など、紙より薄く砂の城より脆い。 ならば、目を逸らすことしか逃げる道はなかった。安易に手に入る光だけを、上澄みをすくうように拾いながら。 紫の少年は、故に友人足りえた。 決して彼との関係は世に言う親友だとか、知己だとか、そういったものではなくて。 触れたくないことを語らない彼と共にあるのは、楽だったというだけで。 それで、世界は安定したのだ。 *** 「スアローグー」 「なんだい」 「腹が減った」 「その辺にあるものでも食べたまえよ」 「うー」 ソファーにだらしなく寄りかかったまま、不毛なやりとりをする。寮の自室にて、スアローグは相変わらずコーヒーを飲みながら課題に手をつけている。 スアローグは、ここのところずっと何かを考え込んでいるように見える。俺とエディオがこの部屋でやらかしたあの日から、――塞ぎ込んでいるというのか。一見いつも通りに見えるが、長い間一緒にいるとなんとなく分かる。 ここしばらくこいつとは気まずい空気が流れていたのだが、時というものはそれすらも風化させてしまうらしい。切れかけた縁は何気ない会話を交わすところまで回復していた。日常が戻ってきているのだ。 エディオも、相変わらず帰りが遅い。あいつの母親は――あれから、全く目を覚まさなくなったそうだ。発作を起こすこともなく、不可思議な歌を口ずさむこともなく、ただ何かを待つように眠っているらしい。何が彼女を目覚めさせるのかは分からない。 しかし、きっといつか目覚めさせると、エディオは掠れた声で言った。不器用だが、それでも真っ直ぐな奴なのだ。少しずつではあるが、日常的に俺たちは話をするようになってきた。 何故だろう。見た目はそう変わらない生活だけれど、少しずつ色んなことが動き出している。そんな気がした。 それにしてもこのスアローグだ。自分の問題でもないのになんでそんなに落ち込んでるんだ、と不思議に思ってエディオに話したのだが、あいつもまたその話になると茶を濁すようにはっきりしない。なんだ、この二人、一体何があったんだ――って、聞いてもスアローグは絶対に答えないだろうし。 ある意味、俺だけのけ者にされた気分である。 「うー」 一人ソファーでごろごろ転がる。普段だったらスアローグから突っ込みの一つや二つがあるのだが、流石に今は来ない。 「でっ」 油断していたら、ずるりと腰が落ちてそのまま床に落下した。痛い。 簡素な作りの部屋であるから、衝撃の音は割と大きく響く。スアローグもこれには何か言ってくるかな、と思って腰をさすりながら見上げた。 しかしスアローグはペンを持ったままこちらを一瞥するだけで、再び自分の世界に埋没してしまう。 うん、と思って俺は唇を突き出して首を傾げた。なんかこいつ、いつもに増して妙じゃないか? まるで何かから逃げるようにスアローグはペンを走らせている。 俺はもう一度ソファーの上によじ登って、布地に鼻を押し付けた。 答えは、未だに見つからない。俺の過去も、結局は闇の中。そして、淀みはこうして目の前に広がっている。 明日が見えないって、こういうことなのかな。 ゆるりと瞼を落とした俺は、そんなことを考えながら意識を暗がりに向けた。 Back |