-紫翼-
二章:星に願いを

20.理想の友人



 未来には光が満ちているのだと信じきっていた頃があった。
 生きていくなんて簡単なことだと、当たり前のように思っていた。
 自らに力があることを、確信していた。世は理で廻っている。ならばその理を制するのはこの自分なのだと、目を輝かせていた。

 そうだ。そうやって、幼い子供は淡い夢を見る。
 思い上がりとは、それによって傷を負わない限り自覚することはできないのだ。


 ***


 不安の方が、きっと大きかったのだと思う。
 高等院に進級する春のことだった。聖なる学び舎グラーシア学園は全寮制だが、院が変わるごとに使う棟も部屋割りも変わる。そして春の長期休業を終えて配布された部屋割りに記されたスアローグの同居人は、溜息がでるような顔触れだった。
 荷物を置きに初めて部屋に入ったとき、既に茶髪の同居人の姿はなかった。立ち寄ったことを示すように少ない荷物だけが部屋の脇に置いてあるが、窓すら開けた様子がない。自分と話す気はさらさらないのだろう。だがそれを見て、緊張しっぱなしだったスアローグは、ほっと肩を撫で下ろした。彼の方から自分を避けてくれるなら、それ以上のことはない。
 もう、自分と彼の間に引かれた境界線をまたぐ日は来ないのだから。
「――さて」
 縦長の部屋はがらんとしていて殺風景だが、ところどころの染みや傷が歴代の生徒たちが使っていた跡を伺わせる。白茶けたカーテンくらいは替えた方がいいかもしれない。きっと長い間をここで過ごすのだから
。部屋を一度ぐるりと見回して、彼はもう一人の同居人が来ていないことを確認した。
 そう。問題はその生徒にあった。のらりくらりとしていれば、噂は耳に尾びれ背びれをつけて飛び込んでくる。何年ぶりかに編入試験を突破した謎の秀才。紫の髪、同じ色の目。奇妙な言動。あの寡黙で気難しく滅多に新たな雇い手を欲しがらない古本屋の主人に気に入られているらしい。あるいは、毎日のように甘味処をうろついている。学園長の保護下にいて――もしかしたら隠し子かもしれない。
 そんな容姿だったら隠し子のわけがないじゃないかい、とスアローグは思ったものだが、とにかく囁き声は留まることを知らず膨らみ続けているようだった。
 全く、何の巡り合わせでそのような生徒と同室になったのだろうか。
 とりあえず荷物を置いて窓を開くと、備え付けの安っぽい椅子に腰掛け、淡い金髪をかき回した。背をもたれれば椅子は小気味良く軋む。
 彼は別段、これから来るであろう同居人の奇行の一つや二つを案じているのではなかった。むしろ、風変わりな人間と話すことへの興味は他人よりもあったのだ。精神の一つや二つぶっとんでいたとしても別に構わないと思っている。
 しかし、会話をするのと同居人になるのでは話は全く違ってくる。
 幼学院から中等院と、彼は出会う友人たちと折り合いを付け、取り繕い、注意を怠らず、うまくやり過ごしながら生きてきた。人の心に触れることも、自分の心に触れさせることも、その恐ろしさから真似出来なかった。故に彼には知人はいたが親友と呼べる者は一人もいなかった。
 人の心は、重い。そして鋭い。ほんの少し深入りするだけで、闇は禍々しく笑って手を伸べてくるのだ。
 同じ部屋に長くいれば、感じずにはいられない。その心に触れずにはいられない。
 大嫌いだった。人間が持つ生々しい感情も、そこから生まれる淀みも。
 故に彼には心を通わす友がいない。
 それで十分だった。彼を理解するのは、彼自身で十分だった。それに自身を守る術を、彼はきちんと心得ていた。

 新しくやってくる同居人が彼にとって『面倒臭い』人間でなければいいのだが。コーヒーでも淹れようかと立ち上がりかけたそのとき、控えめにドアがノックされた。
「はい、開いてるよ?」
 客人だろうか。それとも、件の編入生だろうか。もしそうだったら、丁寧なことである。もうここは自分の部屋なのに。不安がっているのかもしれない。
 だが、胸に燻る不安ならスアローグも同じだった。さて、その先にいるのはどのような人間か。
 遠慮がちに扉が開いていく。隙間が広がっていく。閉ざされた部屋に、光が差し込む。

 そこにいた精神が一つや二つどころか空の彼方まで飛んでいったような少年は、その後スアローグにとっての理想の友人となる。


 ***


 嫌な感じがする生徒だった。スアローグはそういった空気には人一倍敏感だ。だから話しかけてきた生徒の目を見た瞬間、彼は警戒するように顎を引いた。
「……僕に何か用かい」
 そしてまた、話しかけた生徒の方も、彼の緊張を鋭く察知したようだ。礼儀正しく背筋を伸ばし、ふんわりと口の端を緩める。
「少しよろしいでしょうか」
「忙しいんだけど」
「大した時間はとらせません」
 スアローグは鞄を持ったまま逡巡した。目の前にいる生徒は学年章を見る限り一つ下の学年のようだ。計算高そうな顔つきが印象的だった。その瞳に底光りする輝きは見れば見るほど、ろくでもない用件を抱えているように感じられる。
 しかし、邪険にすれば付きまとってきそうな手合いであった。話だけ聞いてやるのが最善かもしれない。
「わかったよ」
 短く答えたスアローグに、クラーレットはにこりと笑って礼を言った。
 そして案の定、彼が持ち出してきた話は吐き気がするほどに最悪だった。


「ユラス先輩と同室と聞きましたが」
 道々を歩きながら、スアローグは眉を潜めた。こういうときに訊かれる質問は、大抵面白くないことばかりだからだ。
「うん、それがどうかしたかい」
 不機嫌が顔にでないように努めながらスアローグが小首を傾げると、クラーレットは神妙そうに俯いた。
「はい……実は、ユラス先輩の気に触れることをしてしまって」
「ユラスの?」
 思わず聞き返す。スアローグの知る紫の少年は、滅多に感情を荒立てない筈だ。この生徒は何をしでかしたのだろうか。
 スアローグは灰がかった茶髪で輪郭を隠す少年を見た。紫の少年が苦手だと嘆くのを聞いていた為、名前を聞いただけで彼が第二考古学研究室に所属していることは分かっていた。そして紫の少年は、苦手と思った人間に対しては一歩退くどころか逃げ出すことが少なくないことも。
 なのに、そんな彼を怒らせた?
「ユラス先輩は最近、どこかおかしいところがありませんか」
「――普通な点を探す方が難しいと思うけどね」
 正直なところを皮肉を交えて言うと、クラーレットはそうですね、と苦笑した。本人が聞いたら渋面を浮かべるに違いない。
「でも、先輩――」
 色白の顔にすっと煌く細い瞳が、首筋を撫でるような笑みを形作る。
「よく先輩は当たり前のようにユラス先輩とお付き合いできますね」

 ほら来た、と内心でスアローグは舌打ちをした。
 何も知らない他人は、そうやって平気で訊きに来るのだ。不可思議の塊である、あの少年について。
「ただの友人だよ」
 だから、いつものように返す。早く会話を打ち切ってしまいたくて、声が若干上ずったけれども。
「そうでしょうか? 僕はユラス先輩の機嫌を損ねてしまったので、是非お詫びをしたいのです。しかし、僕はあまりあの先輩について知らないので――」
「僕も同じようなものだよ」
 スアローグは前髪をかきあげて、何を考えているのかよく分からない後輩から目を逸らした。
「彼のことはほとんど何も知らない。彼も喋らないし、僕も興味ないし」
「何故です」
 問いが棘のようにちくりと刺さって、鞄の持ち手を握りこむ。クラーレットは予想外に突っかかってくる。
「知りたくないのですか、あんなに不思議な人のこと。僕にはとても興味深く見えます」
「……僕は君じゃないからね。気になるなら本人に聞きたまえよ」
「待って下さい」
 早足で逃げかけたところを止められた。
「本当に、何もご存知ないのですか」
 その声はじんわりと胸を伝って心に響く。目尻の辺りが熱くなる。
 知ってどうするのだ。他人のことなど。自分でない人間が何をしようと、関係ないではないか。好奇心は諸刃の剣だ。知れば均衡が瓦解する事実など、この世界には地を這う虫より多く存在する。
「ただの友人だと言ったろう」
 紫の少年の顔を思い出した。底が抜けたような笑顔。考えなしに物事に顔を突っ込んでは痛手をくらっていた。自分のことを話さず、同時に人の内心を探ることも知らないようだった。ただ、目の前にあるものを受け止めて、それらをたった一人で思い巡らしているようで――。
 右から左にくるくる移ろう。紫の少年の表層だけが、諾々と羅列される。
 しかし、それ以上は無音の空間。
「……なら」
 クラーレットが、まるで観察するように瞳を細めている。心の奥底まで見透かされた気がして、ぞっと首筋が冷えた。
 他人と深く関わることは恐れていたけれども。
 一番恐ろしかったのは、そんな自分を相手に見透かされてしまうことで。
「先輩に頼みがあります」
 余裕を含んだ笑みは、どこかで見たことのあるものだった。
 ああ、それは、それは――。

 遥か遠い昔の、自分のものだ。




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