-紫翼-
二章:星に願いを 19.あなたの翼 消毒液の匂いが染みついた色のない通りが無表情に続いている。そこを歩きながらぼんやりと、こいつにとってはここが家路と同じようなものなのだろうかと考えた。 エディオは俺と違って周囲には見向きもせず、入り組んだ通路を淡々と進んでいく。俺一人だったら、目的の場所に辿り着くまでに三倍の時間がかかったろう。増築を繰り返したのだろうか、グラーシア国立病院はいくつかの棟に分かれ、それらが渡り廊下で繋がれているため内部は非常に複雑だ。 手を握ったり開いたりしながらエディオを追っていく内に、精神科と彫られた案内図の前を通り過ぎる。 辺りは耳鳴りがするほどの静けさだ。窓がほとんどない為か、空気が重くて濃い。 唇の端を引き結んだ俺を、エディオがちらっと一瞥してきた。 「……や、なんか、静かだな」 会話すらも憚られるような静寂の中で囁くように言うと、エディオは視線を元に戻した。 「これが普通だ」 エディオの手には面会カードが握られている。本来、エディオ以外の一般人の面会は禁じられているらしい。俺はまあ、あれだ。お忍びで会わせてもらうというわけである。 歩いてる最中は、これから会う人への不安すら吹き飛ぶくらい緊張したが、幸いにして今のところ見つかっていない。エディオ曰く、見つからない時間帯というのがあるらしい。こいつは病院内のことによく精通しているようだった。あまり多くは語ってくれなかったけれど。 そうしていつまで歩くのか不安になってきた頃、ようやくエディオは足を止めた。病院内でも、最も奥まった場所ではなかろうか。扉のプレートには、そっけなく一人の女性の名札が差し込まれている。ルーシャ・ギルカウ。一体いつからこの部屋の住人となっていたのか、黄ばんだそれが物悲しく映る。 エディオが、面会カードに鎖で繋がれた鍵で扉を開き、俺もまた覚悟を決めて後を追う。 足を踏み入れたそこは、ただの部屋だった。 一度ここに入院したことのある俺は、そのときにいた病室のような光景がそこに広がっているのだと思っていた。 けれどここにはそんな想像など通用しない、無が落ちている。 すべては患者に刺激を与えない為なのだろう。白く区切られた部屋に、ベッドと、そこに横たわる人。換気の為の機器が動いているのか、僅かにごうごうと細波のような低い音が鳴り続けている。そんな目を楽しませるものなど一つもない、純白の牢獄が俺を出迎えたのであった。 「……」 立ち止まる俺より先に、エディオが進んで行ってベッドの縁に腰かけた。その様子は眠れる姫を迎えにきた王子のようでもあったが、横顔には愛おしさはあっても甘さがなく、死にゆく人に向けるような眼差しを湛えている。 こんな風に、気が遠くなるような時間をこいつは過ごしてきたのだろう。 そうしてエディオは首を回して、鮮やかな緑の瞳をすっと細めた。 「今は落ち着いてる」 「――そっか」 意を決して、俺も進み出る。海の中にいるような緩慢な動きになったが、それでも眠る女性の脇まで行って、顔をまじまじと見つめた。 時を止めてしまったように眠る青白い細面を彩る、散らばった長い茶髪。睫毛の先すら震える様子もなく、シーツの中に埋まっている。あの日、俺に手を延べて、この命を奪おうとした人だ。若くはないが、代わりに想像上の世界にある水晶じみた現実感のなさをくれる。まるで時の流れにここだけが取り残されてしまったかのようだ。 人の精神に関わる研究は今のところ他と比べてまだ未発達だと、フェレイ先生が言っていたのを思い出す。尽くせる手は尽くしたのだろうか、俯いたままのエディオの顔には痛ましいほどの疲労と、それでもかき消せない光が落ちている。 ――無理もないか。俺に、母親を想う気持ちはよく分からないけれど、でもきっと、それは捨てられないほどに大切なものだろうから。こいつが黙々と学業に打ちこんでいたのは、全てがこの人の為だったのだと、初めて思い知る。 けれど、今必要なのは悼みでなく真実だ。俺は眠るその人の顔を見つめて、頭の中の暗闇の部分と照らし合わせた。俺の過去に、この女性の揺れる影を探した。 「……」 風のない室内は、空調だけは行き届いている為か熱くも寒くもなく、ただ現実感を剥ぎ取っていく。エディオが黙って待っている間、俺は必死で記憶を手繰った。伸びた茶髪、白い顔をした美しい人。階段で出会ったときのあの表情。ひとつひとつを闇から思い起こす。 しかし、いくら糸を手繰ってみても、真実どころかひらめきの一つすら浮かんではこなかった。 何故だろう。この人は俺の名を呼んだという。ならば、俺はこの人を知っている筈である。 なのに琴線は震えない。戸惑って首を傾げるばかりの胸の内に、俺は唇を噛み締めた。俺はこの人に何をした、何をしてしまった――? 立ちはだかる岩の壁に拳を打ちつけるように、口を開く。 「……ユラス・アティルドと申します、ルーシャ……さん」 囁きにも満たないそれは、壁の向こうまで届くとも限らない。だがそれでも、俺は大きく息を吸って続けた。 「はじめまして、ではないと思います。あなたは俺を知っているようだから――俺、一年前に過去の記憶を失くしたんです。だから、俺はあなたのことを覚えていないんです」 抑揚の生まれない言葉の連なりは、閉じられた瞼の先に通じるだろうか。 「ただ……俺は、記憶を失くす前にあなたに酷いことをしなかったか、それだけが気がかりで」 指の先が痺れる。一番恐ろしい現実への予感に震えているのか。 「この手で、誰かを傷つけて生きていたんじゃないかって、それが――怖くて。今まで俺は過去から逃げて生きてきたんですけど、でも、もしも俺のせいで傷ついた人がいたんだったら、俺は罰せられないといけない」 俺は、罰が欲しいんだろうか、それとも赦しが欲しいんだろうか。 いや。きっと違う。 いつまでも、見えない罪に囚われ続けるのが、苦しいんだ。 「教えて下さい。俺が何をしたのか――」 空白が落ちる。 女性は相変わらず眠っている。 時は淀んだまま、闇の霧も晴れず、ただ重たく体にまとわりつく。 「……」 ああ。泣きそうだ。 そんな被害者面、できるわけがないから泣けなかったけれども。 喉の奥ばかりが熱を持って、やるせない気持ちの塊が、肺の奥にわだかまる。 俯く俺に、エディオが立ちあがって並んだ。 「思い出せねえか」 責める音色は含まれていない。純粋な問いだ。俺は唇の端を引き縛って顔を歪めることしかできない。 エディオは暫く黙っていたが、ふとこんなことを言った。 「母さんがテメエの他に、もう一人呼ぶ名前がある」 ぼそぼそと掠れた声でエディオは眠る女性の顔を見て呟く。 まるで、魔法のような言葉だった。 「ヘリオート」 *** 「――」 刹那、ぷつりと意識が途切れた。 暗闇の底に落ちていく感覚。否、己の黒い霧に呑まれただけか。 歪んで滲み、みるみる明度を失っていく世界の最果て、身を引き裂くような叫びがそこにあった。 ああ、そこは明るくて暗い場所。全てのはじまり。大きな歪みのひとつ。 悲哀も憤怒も嫉妬も憎悪も、何もかも飲みこんでたゆたっていた。 そこで、そうだ、その人は狂ったように吠えたのだ。こんな風に。 「……俺は、23号なんかじゃない」 「ユラス?」 外界が遠い。琥珀の中に閉じ込められたかのように、体が動かない。 奥底から湧き出す叫びが、喉の奥からほとばしる。 「俺はヘリオートだ。俺には名がある、人間だ――」 全身を声にするようにして、振り絞るように慟哭が続く。いつまでも続く。 「化け物。お前のせいだ、お前がいなければ、ルーシャは俺のものだった。狂ってる、何もかも、何もかも」 「おい、ユラス!」 「――お前など」 膝が崩れる。あの時とは違って、悪意に屈する。屈することができる。頭を抱えて、目を固く閉じて耳を塞いで、嘆くことが許される。 けれど、同じくして知る。例え逃げても這って謝罪しても、心を蝕む闇など止められないことを。むしろ、引き裂く刃は一層光を増す。 「お前など、生まれてこなければ良かった」 「あああ!!」 絹を力任せに裂くような悲鳴が重なって、みるみる体は落ちていく。闇の奥底に沈んでいく。 「母さんっ」 点滅する視界に揺すぶられる。飛び散る血、倒れた人々、銃声、また銃声。誰かの足音。目を焼くような白いシーツ、伸べられた手。あるいは頬をなぶる嵐。どれが現実なのか不明瞭だ。過去と現在が混じり合って、世界が壊れていく。 ひやりと冷たい手が頬に触れたのは、そのときだった。 ――起きなさい。 起きなさい、ユラス。 目を開いたその先に、誰かがいた。どこかで見たような眼差しだった。 *** 「諦めろ」 短い怒気に、女は怖じ入る様子も見せず毅然と言い返した。 「いいえ。私、行くわ」 声とは裏腹に愛おしそうに腹部に手を触れる女に、男は苛立たしげに首を振る。 「逃げられる筈がない。殺されるぞ、――奴らは腹の子を諦めれば許すと言ってる。従うんだ。それにもうすぐユラスの実験が」 「あなたの子よ」 真っ直ぐに伸びた茶髪が、闇の中で艶やかに光る。強い気勢を孕んで瑞々しく瞳を輝かせる女は、まるでそれ自体が宝石のようだ。 男は僅かにたじろいだ。彼を射抜く女の目線は、ただ燦然とした意志だけが宿っていた。冴え冴えと美しい論理を展開する唇の動きも普段と全く変わらない。 「あなたは自分の子を見捨てるの」 感情的に耳ざわりな吠え方をしてくれれば、どれほど楽だったろう。しかし、そんなものを超越した強かさで女はこちらを睨めつける。 女は女であった。そして彼は男だった。その地で彼らは人間であることを許されなかった。しかし、許されなかったからといって真理が歪むことはないのだ。 ――そうして男は顔を歪める。 「……不確定の二つの命よりは、確定した一つの命を」 「不確定じゃないわ。どちらも確定要素よ。私はこの子を守りぬく。そして私は一つよりも二つを選ぶ。けれど、ヘリオート。あなたがそう思うのなら、もう私のことは忘れて」 「ルーシャ」 「行くわ。急いでいるの。ありがとう、私は私を番号で呼ばなかった人のことを、一生忘れることはないでしょう」 突き放すように女は踵を返す。ぱっと鮮やかに茶髪が闇を舞う。凛と伸びた背筋が、みるみる遠のいていく。 見えなくなったのは男の方。女は行く。どこまでも一人で行く。 見えなくなってしまったから、男はどんな顔をしていたか分からない。 見えなくなった男と違って、女の顔は見えた。 美しく気高く、化粧気のなさが返って原始の輝きを放つような彼女の頬には。 美しく気高く、誰にも触れられないような冷たい魅力を持つ彼女の眼尻には。 ――幾重にも重なる涙の跡が伝っていた。 違う。これは違う。これは――俺の記憶ではない。 では誰だ。誰の記憶だ。 折れてしまいそうな震える指先は、心に楔を穿つ。刺すように冷たいそれは、覗きこめば囚われてしまいそうな哀しみ。 白い指先から伝ってくる、そして吸い取られていく。 ああ、この記憶は――あの人のものか。 あの人は、明るくて暗い場所から逃げだしたのだ。一人で。生きていけるだけの金を、闇からそっと盗み出して。 でも、逃げられなかった。 星の数ほどの追手がついた。彼女は負けなかったけれども。しかし、心は擦り減った。 布にくるまれた赤子を抱きしめて、ひびが入った誇りを壊れないように大切に抱えて、けれど乞わずにはいられなかった。 何故。何故、こんなことに――と。己の責と分かっていて、それでも孤独に悲鳴をあげる心には、あの時共にあることを拒んだ彼の顔が染みついて離れなかった。 強くあればあろうとするほど、弱さをつきつけられる。逃げてまで共にあることを望まなかった彼への憎悪と愛情は胸の奥底でわだかまる。例え命を落とそうとも、あそこに帰りたいと願う己の渇望をかき消してしまうことはできなくて。 ならばもう悲しみも苦しみも感じなくなってしまえばいい、壊れてしまえばいいと思いながらも、それはできなかった。何故なら彼女は守るべき者を持つ母親であった。そして彼女は、強かであった。 その身に鉛の弾を受け、倒れたところで注射針が腕に差し込まれるのを最後に、記憶は途絶えるとしても。 ああ。俺はそのとき、何をしていたんだっけ。 ――ユラス。あなたがユラスね。 雫が落ちたような、鈴が鳴るような優しい呼び声。知らない音色だ。 目を瞬く暇もなく言葉は覆い被さるようにして重なっていく。 ――あなたは悪くないの。 ――あなたは、悪くないのよ。 ――悪かったのは、私たち……。 違う、と叫ぼうとして、声では届かないことに気付く。今にも弾け飛びそうな頼りない繋がりの中で、彼女は何度も首を振っているようだった。 ――覚えていて。あなたを望んだ人々が、どれだけ愚かで滑稽だったとしても、それでもあなたは存在していけない理由にはならない。 ――許されないのは私たちの方。だからあなたは行って。多くを学びなさい。多くを知りなさい。 ――あなたの翼は、もう解き放たれたのだから。 ぱちん、と白い光が瞬いて何かが途切れる。押し流すそれは、白の奔流。隅々まで焼き尽くすように、激しくうねる。 頬に触れていた指先が跳ねるように震えて、俺は焦点を合わせた。白い部屋だ――輝きだと思っていたそれは、壁の色でしかなかったのか。 歪みながら元の形を戻していく目の前でかたかたと指先がわなないている。つい今まで触れていた、ほっそりとした指だ。眩暈と共に見上げた先ではエディオが目を剥いていた。その場に座り込んでいた俺はよろけながら立ち上がる。ベッドの上では、今まで眠っていた筈の人が瞼を開き、何かを紡ごうとしている。 「……ぉ」 歪めることも出来ない表情を彩るように、透明な涙が浮かんでは伝っていく。 「……エディ、オ」 歌にしては美しくなく、言葉にしては不均一なその呟きは、しかし今までに聞いた中では最も肉声に近い響きを孕んでいた。そうして彼女は、優しく告げた。 「幸せになって」 震えていた指先が、力を失う。 その人はゆるりと瞼を閉じて眠りについた。今までと同じように、白い部屋で、時の流れに忘れ去られるままに。けれど、それでいて何かを祈り、待っているような表情で。 *** 「ありえない」 険を含んだ表情が己の顔を醜く歪めていることに、彼は気付いているだろうか。しかし対峙したもう一人もまた、そのようなことを気にしている余裕はないようであった。目も口も閉ざし、己の世界に閉じこもるように腕を組んでいる。 「あいつは護符なしで魔術を行使した。どんな手品を使ったっていうんだ。それとも本当に魔力限界値を突破できる力を持っているとでもいうのか」 「……そのような先行研究はどこにもない、あの論文以外には。ましてやそれが成功していただなんて、秘密裏に誰かが研究を行っていたとしか思えないね」 「何者なんだ、あれは」 忌々しげにアレックが言い捨てると、逆に静まり返ったように無表情のクラーレットは体を椅子に沈めたまま思い巡らすように呟いた。 「出身地も経歴も何もわからない。わかるのは、学園長が後見人だということくらいさ」 「ふざけたこと抜かしやがって」 自習室に人気がないのをいいことに、アレックは苛立ちをそのまま言葉に乗せてぶちまける。 「あの理論は間違ってる? この研究は必要ない? ふん、どうせ自分と同じ力を持つ奴が他に出来ることを恐れてるだけだ」 「……むしろ」 ふとクラーレットは机に頬杖をついて、憂うように瞳を伏せた。 「むしろ、彼という秘密が漏れることを阻止しようとしたのかもしれない」 アレックが振り向くと、地獄絵図に等しい件の夜を経たにも関わらず、心を泉のように静まらせた弟がそこにいた。その口元は僅かに歪めてられてはいたけれども。 「――あれが特別な存在だと? あのような馬鹿げた人間が選ばれた者なのか」 誰にともなく問いかける弟に、得体の知れないものを感じてアレックは不可解そうに眉を潜めた。 アレックは心底、紫の少年を恐ろしく思っていた。人形のように特徴のない顔立ちに紫水晶の輝きを持つ瞳を燃え上がらせ、彼は何もかもを破壊していった。逆らえば殺されていたかもしれない。それほどまでにあの時の彼の力は神経の末端にまで印象づいて離れなかった。今になって言葉で彼を罵れるのは、むしろそんな自分を認めたくないからだ。 しかし、逆に瞳を濁らせたように無口になった弟は、合いの手を挟みながらもしきりに何かを考え込んでいるようであった。 「特別なのは僕の方だ」 「ん?」 彼の口の中の囁きは、兄には聞こえない。 「……彼は何故この学園にいるんだろうね」 代わりにクラーレットは薄っすらと笑った。自尊心で塗り固められた笑みは、それを壊されかけて今や奇妙に歪んでいる。 「馬鹿な奴。僕たちを口止めもせずに放り出すなんて。人が持たぬ力を持っていたところで、ただそれだけじゃないか」 「おい、クラーレット」 アレックが咎めるような顔をしているのを見て、クラーレットは鼻から息を抜いた。 「どちらにしろ、手は打たなくてはいけない。まさか兄さんは彼がこのまま僕たちを見なかったことにしておいてくれると思っているのかい? 僕たちは既に彼の秘密を一つ知ってしまったというのに」 頬にかかる髪を鬱陶しげに払いながら、ふいと窓の外に目をやる。 「――怖いのかい、兄さんは」 むっとアレックは鼻白んで取り繕うように弟を睨んだ。弟は、目を剃刀のように細めて日の照る外ばかりを眺めている。 グラーシアの夏が、ゆったりと近づいてきているのだ。クラーレットはそんな明るさの中にいられる人間が限られていることを知っていた。自分はその限られた人間でいなければならなかった。そして、限られた人間は、自分と自分が認めた人間以外に存在してはいけなかった。敗北ほど自分に似合わない言葉はない。 「強者がどちらなのか、思い知らせてやる」 誉れ高き聖なる学び舎の内で最も優れているのは、自分でなければいけない。それが彼の全てだった。 Back |