-紫翼-
二章:星に願いを

17.久遠の時



 紫色の夢を見た。
 そこでは久遠の時が流れていた。終わらない劇が続いていた。
 誰かが何かを言っている。体は冷たい。凍りついたように冷たい。
 ぼんやりと漂っている内に、何もかもが摩耗していく。濁り、淀んだそこには残滓の欠片が散りゆくのみ。
 そして崩壊が訪れる。

 どこから間違っていたのか。誰かが問うた。
 何が間違っていたのか。誰かが嘆いた。

 明るくて暗い場所。光と闇が混じりあう。
 ごぽごぽごぽごぽ。
 気泡が天に向けて昇っていく。
 その先に光があることを知っているのだろうか。そうしてこの身も昇っていく、昇っていく――。


「――う」
 遠いところで何かが瞬いた気がして、覚醒の訪れぬままぼんやりと顔をあげる。目を半分も開けないままに茫洋としていると、暫く経って段々状況が分かってきた。
 そうだ、ここは第二考古学研究室の、俺の席。来てみたら誰もいなくて、その上ダルマン先生の部屋にも鍵がかかっていたので、仕方なく席についてたらいつの間にか突っ伏して寝てしまったのだ。
 あの誘いがきてから、クラーレットは一度も研究室に顔を見せなくなった。シアはお陰で息高らかにしている――かと思えば、あいつもあいつでここのところ、来る頻度が落ちている。
 そんなわけで俺だけが、毎日ダルマン先生に殴られながら魔術特訓を受けさせられているわけである。
「……いないといないで、暇だよな」
 勝手なことを思いながらも、することがなかったので立ち上がって外にでることにした。

 陽光が特に眩しい季節である。ぐんと気温のあがる昼下がりは、上着を着ていると汗ばむほどであった。
 グラーシア学園の最も奥まった場所には、俺が所属するような潰れる寸前の研究室や、倉庫、学生活動用の建物がぽつぽつと並んでいる。雑草は生え放題だし、錆びたスクラップは転がっているしで、とても聖なる学び舎とは思えない様相である。
 そういえば、クラーレットに渡されたメモにもここから少し離れたところの建物が指定されていたっけ。
「うう」
 ちりっと頭の片隅が焼けるように痛んで、指で押さえる。あまり考えないようにしていたことだった。神の力を得る研究――その響きが、心の一番奥深くを重く打つ。具体的なことを何も聞いていないというのに、鉛のように胃の奥に堆積している。
 かぶりを振ってそれらを払い、何となくその辺を散策する。グラーシア学園の敷地は広大で、ちょっとでも道を違えば全く知らない場所に行きつくほどだ。風に身を任せるままにぼんやりと歩いていると、エディオが見えた。
 ……。
「え?」
 いや、待て。
 エディオ?
 固まる俺から離れたところで、エディオもこちらに気付いたようだった。ぴくっと形の良い眉が動くのが見える。
 なんだ、なんであいつがこんなところにいるんだ。
 混乱して目を何度も瞬く俺は、エディオから敵意ある眼差しを向けられて、息を呑んで身構えた。昼間だというのにひやりと体が冷たくなる。
 しかし、向こうが口を開くことはなかった。エディオは焼けつくような視線を残して、踵を返してしまったのだ。
「お、おい?」
 声をかけるが、振り向いてもくれない。このままではいけないのに。言わなければいけないことがある。伝えなければ、信じてもらわなければいけないことが。
「――エディオ!」
 叫ぼうとした喉が掠れて、思ったよりも大声はでなかった。だからか、エディオは足を止めることもなく、建物の影に去って行った。
「……」
 追おうか、と考えて、足が震えていることに気付く。情けないことに、あの夜のことを思い出した体は糸で繋がれたように動きを鈍らせる。眩暈がするほどに淀んだ空間、胸倉を掴まれた息苦しさと、刃のように襲いかかった糾弾と――。
「――くそ」
 立ち止まっている場合ではないのに、血を流すことをためらってはいけないはずなのに、追いかけることができない。
 顔を歪めてやっと一歩を踏み出すが、既にエディオは幻だったというように気配すらも消えている。
 ああ、もう。いつまでこんな状態でいるつもりなんだ。俺もエディオも。
 苛立つままに首を回すと、ふと目に止まるものがあった。後ろで一つに括った髪を揺らしながら一つの建物を見上げている――あれは。
「……え、シア?」
 今日は妙なところでばかり知り合いと会うようだ。シアはスクラップの影に膝を屈めて(隠れているつもりだろうか?)油断なく建物の様子を窺っている。何やってるんだ、あいつ。
 ちらちらと二階建ての建物を観察している挙動不審なシアのところまで行って、とりあえず呼びかけた。
「おーい」
「きゃうっ!?」
 背後から猫に肩を叩かれたネズミよろしく、シアは文字通り飛びあがってくれる。同時にがしゃんと派手な音をたててシアが隠れていたスクラップの山が崩れ、おお、と思っているとシアは突然服を掴むようにしてすがりついてきた。
「ゆ、ユラスさん、なんてことを!?」
「……何やってんだ、お前」
「とにかくこっちですぅ! 早く来てくださいっ」
「え? な、なんだ?」
 よくわからないまま引きずっていかれた。


「前々からあの胡散臭さが気になっていたんですぅ!」
 第二考古学の研究室に戻った俺の前で、シアはばん、と机に手をついて力説した。
「……胡散臭いって誰がだ?」
「口にするのもムカつくくらいの男ですぅ! 今年入ってきた、あのふざけた顔!」
「クラーレットのことか」
「ああもう、耳にするのも腹が立つくらいですよぅ!」
 胡散臭さだったら俺やダルマン先生もどっこいだと思うのだが、まあそれは置いておくことにする。ついでに後輩相手にふざけた顔って、ちょっと言いすぎじゃなかろうかと思ったけど黙っておいた。話が長引くこと請け合いである。
「で、どうしてあんなとこにいたんだ」
「どうしたもこうしたも」
 シアは不機嫌をそのまま張り付かせた顔でずいっとこっちに迫ってきた。数歩後退する俺に、鼻息荒く眼鏡をいじりながら、シアの猛攻撃が始まった。
「あの人一体何様ですか王様大王様魔王様いいえあんなミジンコ以下の下等生物踏み潰されてしまえばいいんですぅ!! かと思えば突然無断で来なくなるじゃないですかぁ、ふざけてるもいいところですよぅあの澄ました顔見なくていいのは暗雲が晴れたようにスッキリしましたが、まるで自分が一番偉いみたいな態度で勝手に来なくなるなんて許せませんああ雷が落ちて地割れに巻き込まれてお昼ごはんにあたって腹を下してしまえばいいんですぅ!!」
「……あ、ああ」
「それでそれで!! 来ない間何やってるのかと思って後つけてみたんですよぅ! ふんっ、ろくなことやってると思ってませんでしたけどねぇ、なぁんか妙なんですよぅっ。こそこそこそこそこそこそこそこそあそこの部屋に得体の知れないもの持ち込んで!」
「個人研究で何かやってるらしいぞ」
「そんな脳みそ沸いた考えでよくもまぁ首席がとれたものですねぇ!? 信じられないですぅ、だからあんなけったいな会話してたんですねぇ、意のままの能力持った人間作るとかなんとか!?」

 ――意のままの能力を持った人間。

「……え?」
 胸の内を直接触られた気がして、顔をあげる。勝手に強張る頬が、俺の表情を険しくする。
「待て、シア」
「はい? なんですか」
 突然声を低くした俺に、シアはきょとんとした顔で後ろでまとめた髪を揺らした。現実ですら揺らぎそうな気分で、確認するように何度も瞬く。声が、ぞっとするほど震えていた。
「人間を……作るって?」
 去年の秋の出来事が、脳裏を駆けて行く。王座に続く道に並ぶように浮かんでいた、数多の人形たち――。
「そうそう、あそこって建付け悪いですからぁ、話丸聞こえなんですよぅ。そしたら、人間に力を埋め込んで云々とか、あと――」

 そんな、おぞましいものを作るはずが、作れるはずが。
「人間の改造、とか? 人間の潜在的な力を開放とか――って。何考えてるんだかわかりませんよねぇ」

 そして、世界が暗転する。


 ***


 時の流れから隔離されたそこでは、何もかもが止まっていた。
 母の様子は、奇妙なほどに変わらない。外の空気に触れないためか、老いを忘れたように、未だ白い。人形のように横たわって眠っている。
 エディオは口を閉ざしたまま、母の手に自らの手を重ねていた。その時間だけが、彼に唯一僅かな安らぎをもたらしてくれる。
 母はこうして時のほぼ全てを眠りの中で過ごす。起きていることは、また歌を口ずさんでいることはまれのこと。母は眠る。永遠の時をこのままで。
 なのに、外に出た自分だけが成長する。見下ろした母は酷く小さく、頼りなげに映る。昔は自分の全てを抱いてくれるほどに大きな存在だと思っていたのに。この空間に投げ込まれた異質な自分だけが、そうやって歳を重ね、思考を巡らせ、苦悩する。

 紫の少年の到来を始めて知ったのは、高等院に入学した春、学園長に呼ばれたときのことだ。
『あなたと同い年の男の子が編入することになったんですよ』
 妙に嬉しげな声に眉を潜めながら、その話を聞いたものであった。
 誰が編入してこようと彼にとっては無関係であったし、まして懇意にしたいなどと思ったこともなかった。
 自分の存在は人を傷つける。己のいびつな心は、他人に触れさせてはいけない。過去の経験から、彼はそう認識していたし――それに、例えそうでなくとも、紫の少年の性格は彼にとって理解しがたいものだった。
 へらへらと笑っては考えなしに動く、何の為にグラーシアにやってきたかも定かでない、紫の髪と目を持つ少年。
 あまりに重たいものを背負う自分とは正反対の、根のない生き方は、遠い世界のものに映った。吸う空気は同じでも、生きる世界を同じとしない。だから放っておいた。今になって目の前に立ちはだかる闇になるなんて、思いもしないで。

「……母さん」
 ひび割れた呼びかけは、掠れてぼやける。ベッドの傍らに腰かけたまま、エディオは永遠の時にとろけるように動かない。
 つい先ほど、母がその名を呼んだ紫の少年に会った。彼は生粋の紫水晶をはめたような眼でこちらを見ていた。周囲の色と相反する、不思議と印象に残る色で。
 真偽を正さなければいけなかった。
 自分から母から、幸福を奪った相手だったとすれば。
 ――だとすれば、どうするべきだろう。
 真実を知って、嘘を吐き出させて、そうしたらどうなるのだろう。
 彼を目の前に、エディオの鮮やかな緑の瞳は曇る。唇を引き結んだまま、怒りに身を任せることしか知らない自分が、そこにいる。
 救いも報いもない、終わらない苦悩だけが目の前に大海となって広がっているようだった。途方にくれてどちらに船首を向けていいかもわからず、黄昏に佇むしかない。
 向けた背に、名を呼びかけられた。紫の少年のそれは、悲痛な呼び声だった。
 何故そんな音色をしているのか分からなかった。
 彼は一体何者なのか、更に分からなかった。
 耳の奥底で、悪魔のように昏い声が囁く。
『人の潜在的な能力を開放する。そうすれば、魔力限界値を越えた魔術を扱うことができるんだ。今まで救えなかった人を救えるようになれるかもしれないだろ、面白いとは思わないか』
 金属をすり合わせたかのような嫌な音だ。
 けれど、もしもそれで母を救うことができたら。母が目覚めたとすれば、全てが分かる。何もかもの真実が、手に入る。
 母のためなら何でもできた。それが彼の生きる理由であったし、願いは彼そのものと同化していた。俯けば、整った顔に艶やかな茶髪の房が落ちる。
『あの論理の応用で出来そうなんだよ。先にそっちやってみようと思っててさ、――ああ、大丈夫。実験は段階的にやるよ、お前が被害を被ることはない』
 ありえないと心で呟きながらも、耳は傾く。馬鹿げた話が、奇妙な温度を持って奥底に迫る。真実の切望と、希望を手繰ろうとする指先が、その話を受け入れようとする。
 眠る母を見つめる彼の唇が、僅かに震える。
 どうすれば、どうすれば――。

 がたん、と音がして、現実に引き戻されたエディオは猫のように素早く振り向いた。
 扉が開いて、若い看護師が能面のような顔をのぞかせていた。
「面会時間、そろそろ終わりよ」
「……はい」
 ここにいると、外に流れる時がよく分からなくなる。もうそれだけの時が過ぎたのか。
 エディオは素直に頷くと、母の手をそっと掛布の下に戻した。母は眠っている。今も、昔も。
 あのとき抱きしめてくれた腕に、力はなく。
 時折零れる歌と名は、心を掻き乱すばかり。

 病院を無表情のまま抜け出せば、夜はとっぷりと更けていた。淀みを知らない空気が唇を優しく乾かす。
 寮に戻る気はなかったから、足は自然に学園の正門に向かった。列をなして石畳を照らす街灯に、影が長く延びては消え、また浮かぶ。
 一人であることは慣れていた。だから、闇に沈む白亜の学園に自らの足音が響くことを、彼は当たり前のように感じていた。
 中央棟の奥にある高等院校舎を抜け、最も暗い場所へ。明かりの量はぐんと減り、ぽつぽつと建物の窓から零れる光で、やっと陰影が浮かび上がっている。
 エディオは足早に階段を登り始めた。古びたそれはぎしぎしと悲鳴をあげる。耳障りの悪い音に顔を歪めながら、上った先の一番奥の扉を開いた。
「やあ、エディオ」
 出迎えるは、光の中に立つ二つの影。
「決心してくれたか」
 アレックが、持っていたペンをくるくると回しながら笑いかける。
「どうぞ楽にして下さい。始められるのなら、今すぐにでも第一段階の実験を始めたいのですが、よろしいですか」
「はは。すげえんだよ、俺の弟。もう実験手法まとめたってさ。いいよな、エディオ」
 無機質な世界だ。ひたひたと肌に触れてくる、硬い空気。
 エディオは小さく返事をして、それ以上は何も言わなかった。


 ***


 意識して呼吸を整えながら鷹目堂から出てきた俺を、その日再び迎えにきた人がいた。クラーレットではない。
「……」
 俺は、その人と三秒睨み合って、とりあえず踵を返すことにした。
「待て小僧」
「……拒否権はありですか」
「権利とは義務を負ってこそ主張できうるもの」
 ダルマン先生は、夜の暗がりに溶け込んでしまいそうな黒いローブの下で、禍々しい笑みを浮かべてくれる。
「様子を見にいくのだろう?」
「……」
 俺は鞄の持ち手を握り込んで目を逸らした。噛みしめた唇が苦い。
「ふん、浅はかで手ぬるいお主の考えを見通せないほど愚かだと思ったか」
「あの会話、聞いてたんですね」
「人間を超える人間を作ろうとしているそうだの」
 俺は薄く笑って頷いた。ずきずきと心が痛い。夜の冷めた空気が、服の間から体にまとわりつく。
「――興味、ありますか」
「阿呆か」
 カン、と石畳を杖でついて、ダルマン先生は一蹴した。
「そのようなもの、作ってどうする? 隷従させたところで奴隷にでもするか。それとも我々と同じ暮らしをさせるのか? 人間に異質なものとの共存ができるわけなかろうが、絶滅したエルフの二の舞になるに過ぎん。それにお主を見てるとよく分かる、力を持とうと愚かな奴は愚かだ」
「……そうですよね」
 空を仰いで、僅かに輝く星たちを探す。不意に泣きたくなって、息苦しさに胸深く夜風を吸いこんだ。そう、そんなものを作ったところで、あるのは悲劇だけだ。
「俺は行きます。なんか嫌な予感がするんで」
「お主が行かなくとも成功するなど思えないがの」
「――」
 俺は、何かを言いかけて口を噤んだ。ダルマン先生は冷徹な光を投げかけてくる。まるでこちらの真意を探るように。
「どうして」
 喉が勝手に動いていた。
「どうして、作ろうと考えたのか――知りたいです」
 この予感は何だろう。何かが終わっていく予感だ。
 誰かの声がした。知っているけれど思い出せない声。こびりついて離れない。ぼやけた先に、映る何か。
「理由など、きっとないぞ」
 ダルマン先生は、目深に被ったローブで横顔を隠してそう言った。
「人は愚かだ。周囲に認められたいばかりに己を堕とす。興味に没するばかりに恥を忘れる。――そして、そうなった人間ほど幸福な存在はない。考えることをやめてしまうのだからな」
 いつだったか、伯爵と呼ばれた科学者に会ったことを思い出した。
 幸福そうに笑っていた。人の苦しみも知らないで。
「お主はそれを責めるかの」
 ちらっとこちらを見るダルマン先生に、俺は俯いて唇を噛み締めることしかできない。
「……わかりません」
 ダルマン先生の皺くちゃの口元が、歪むように笑った。先生はそのまま、空を見上げてぼそりと呟いた。
「若い頃はのう」
 遠くを見るようにするダルマン先生は、吹き抜ける風の中で何故か不意に小さく映る。普段気にしたこともないこの人の年齢を、ふと感じさせる響きだった。
「我が理論に共鳴して数多の学生が我が元に集ったものだ。だが使える奴に限って、単にこの研究に関わったという名誉が欲しいだけ、あるいは顔色一つ変えずに犯罪まがいのことまでしてのける。人間とは嫌になるほど愚かよの、本当に」
 俺の返答を待たずに、ダルマン先生は歩きだす。ゆらゆらと古びた黒いローブをなびかせながら。
 それを少しの間呆然と見送って、慌てて後を追った。先生は俺がいることなどまるで気にしないそぶりで、足音もさせずに行ってしまう。
「のう、ユラス・アティルド」
「はい」
「お主、理由を知ってどうする」
 夜の静まり返ったグラーシアに、星の光すら霞む冷たい光を浴びて、俺はごくりと唾を呑んだ。
「知ってから、考えます」
「……お主らしいの」
 くくっとくぐもった笑みを漏らして、ダルマン先生は振り返らずに行く。
「先生も行くんですか」
「感謝せい。お主一人では心許ないからの。大切な黄金の卵を壊されてはたまらん」
 漆黒に染まるローブが、闇へ誘うように揺れている。
 俺は腹の底が焼けるような予感に表情を強張らせながら、それに続いた。

「――先生」
「なんだ」
「人間の潜在的な力を解放って、つまりは人に扱えない筈の魔力を持つ人間も作れるってことですかね」
「お主は自分がその成功例だとでも?」
「……記憶、ないですし」
「だからどうした」
「いや、だって」
「女の股から生まれようが木の股から生まれようが、この世に出れば誰しも孤独。気をもむ必要などあるまいて」
「……まあそうですけど」
 研究室までの道すがら、俺の不毛な問いかけにダルマン先生は相変わらずそっけなくかわしてくれる。
「お主、己の出生を知る意志はないと言ったであろう。なら良いではないか。今あるお主の力を持ってして、成すべきことを成せば良い」
「成すべきことってなんですか」
「お主の頭には脳みその代わりにバターでも入っているのか? その程度自分で考えい」
 黒い飾りのついた長杖が地面につかれるたびにさくさく音を立てる。夜のグラーシアは、研究に没頭する者しか残らない為に静まり返っているのだ。
「静かですよね」
「お主の口は無駄しか言わんな」
「喋ると気が紛れるじゃないですか。黙ってると色々考えこみますし」
「甘言ばかり弄しおって」
「でも、楽です」
 その一言にも万の言葉で蹴散らされると思ったが、予想に反してダルマン先生はふう、と息を抜いた。
「……お主、ここには合わぬな」
 呟きは、どこか虚ろな響きをしている。どういう意味だろうと思って尋ねようとしたとき、ダルマン先生は足を止めた。
 俺もつられて立ち止まり、闇に紛れて無表情に立ちはだかる建物を見上げた。間違いない、クラーレットに言われた建物だ。
 二階まであり、いくつかの部屋に分かれているようだが、使われているのは一室だけのようだ。当たり前か、こんな学園の中でも最も奥の外れにある部屋をわざわざ使おうとする生徒は少ないだろう。
「しゃらくさいな、建物ごと吹き飛ばすか」
「ちょ、ちょっと待って下さい」
 遠慮なく護符を懐から取り出したダルマン先生を全力で止める。俺は話し合いに来たのであって、破壊に来たのではない。それに、まだ中がどうなっているのか全く分からないのだ。電気がついているから、誰かしらいるだろうし。
「様子見てきます」
「ふむ、浮遊術くらいなら朝飯前か。頼もしいぞ」
「え?」
 光源がほとんどないので、ダルマン先生の表情はローブと相まってよく見えない。だが間抜けに聞き返す俺に、先生はきっと小馬鹿にしたような表情を浮かべてくれたに違いない。
「部屋は二階。中を窺うなら窓を見るしかない、さっさと行け、ほれ」
「でっ」
 杖の先で尻の辺りを叩かれて、前につんのめる。なんだ、この馬並みの扱いは。

 渋々、俺は周囲を見回して人の気配がないことを確認してから、魔術行使を試みた。ダルマン先生の言う通り、二階の窓まで行くくらいしか様子を見る手立てが思いつかなかったのだ。浮遊術だったら、朝飯前とはいかないが無理なものでもない。それに、連日の猛特訓が功を奏したらしい。びっくりするくらい簡単に、俺の体は大地から解き放たれてくれた。
 ほう、と珍しく感嘆したように声を漏らすダルマン先生を横目に、俺はおっかなびっくり二階の高さまで上がって行った。へっぴり腰になるのは勘弁して欲しい。高いところに足場もなく浮遊しているって、かなり怖いのだ。
 窓にはカーテンがかかっていたが、よくよく見ると僅かな隙間があいている。ごくりと息を呑んで、俺はそっと中の様子を片目に映した。




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