-紫翼-
二章:星に願いを

16.ないものねだり



 普段よりも重たく感じられる自室のドアノブを捻り、溜息を喉の奥に押し込んで扉を潜る。
 同時に数日前までにあったいつもの光景を夢想し、それが滑稽な願望でしかないことを目で見て知る。現実は確かなものとしてそこに横たわっていた。スアローグは相変わらず机に座って眉間にしわを寄せながらペンを走らせている。課題を片付けているんだろう、こいつ、割と忙しそうだから。
「おかえり」
 スアローグはちらっとこちらを見て、短く挨拶した。返事を待たず、すぐに自分の世界に戻ってしまうけれども。
「ああ」
 俺は是とも非ともいえない相槌を打ち、前を通り過ぎて逃げるように奥に向かう。寝床へと獣が穴倉に隠れるように入り込んで、そのままがっくりと枕に顔を埋めた。制服のケープと上着くらい脱がないと皺になるのは分かっていたが、指の先にも力は入ってくれなかった。

 面倒なこととは、二つも三つも重なるものである。
 まず、この現状。部屋には崩壊後の砕けた残骸が、張り詰めた空気と共に堆積している。エディオはほぼ完全に帰ってこない。スアローグもまた、己の殻に閉じこもったように事務的なことしか口にしなくなった。
 そして、どこからこの関係を修復する為に動こうかと考えていた矢先に起きた――先ほどの出来事である。


「先輩は将来的に何を望んであの研究室にいるのです?」
 鷹目堂からの帰り道、肩を並べて歩くクラーレットは、そう口火を切った。
「教授にあのように期待され、日々魔術の特訓に励んでいるというのに、あなたは召喚術に興味はないと仰いましたね。では結局のところ何がしたいのですか」
 俺はそれを受けて頬を指でかき、とりあえずポケットから飴を取り出して口に放り込んだ。疲れているためか、甘いものを食べないと、最近特に頭がよく回らない。
 クラーレットの言いたいことはよく分かった。優等生であることを至上としているようなこいつは、俺の行動を理解することができないんだろう。エディオが初めのころそうやって、俺を避けたように。
「うん、そうだなあ」
 何度も痛みを経験した胸は、不思議なことに思ったよりも波打たなかった。真剣な顔でこちらを見るそいつの隣で、なんとなしに空を見上げる。
 夜風に心地よく体が冷えていくのを感じながら、俺は薄く笑った。グラーシアの夜は静かだ。その寂しげな冷たさは、ふと疲れた体に優しく寄り添ってくれる。
「俺が欲しいのは、ありふれた日常――かな」
 ぴんとクラーレットの瞳が一度跳ねて、怪訝そうに細められる。嘘が通じそうにない奴だったから、俺は正直なままを伝えることにした。
「学校行って、他の奴と話して、どたばたしてさ。笑ったり、悩んだりする、普通の日常が過ごしたいだけだ」
「何故です」
 細い針を、鋭く投げかけられる。ちくりと微かな痛みを覚えて苦笑しながら、俺はクラーレットの反論を聞いた。
「才があって何故をそれを外に示そうとしないのです。そうやって生きて、大衆に没していたいとでも仰るのですか。凡庸から脱する努力をしないことを、恥とは思わないのですか」
「お前は、功績を認められて世に名を知らしめたいのか?」
 は、とクラーレットの口元が笑うように歪められた。こちらを侮蔑するような視線を一瞬投げかけ、そうしてクラーレットは真っ直ぐに前を見据えてきっぱりと言い切った。
「当たり前です。その為の足がかりとしてこの地に来たのですから」
 まるでありふれた人生を否定するような物言いは、しかし俺の心を刺激はしなかった。俺が元々、複雑な出生を秘めているからかもしれない。
 そう考えると、喉の奥が空しく笑う。俺が日常の崩壊を恐れているように、こいつは何も起こらず過ぎゆく日常を恐れているのかもしれなかった。結局のところ、互いにないものねだりなのかな。
「先輩がそうお考えなら、尚更不思議です。何故グラーシアに? ありふれた日常を求めるのなら、ここでなくとも良かったでしょう」
「それはまあ、成り行きだ」
 俺はきっと差出人不明の推薦状がなかったら、この学園には入らなかったろう。だからといって、ここに入ったことを後悔はしていないけれども。
「それでも、ここにも俺が欲しいものはちゃんとあるからさ」
 今はその日常を守るために必死で努力してるんだけど、それは言わないことにした。口にしたら、なんだか恰好悪くなりそうだ。
「――理解できません」
 紡がれるクラーレットの僅かな苛立ちに、そりゃそうだよな、と俺は内心で考えた。俺たちは他人だ。人の心なんて分かるはずがないし、この程度で俺の内面まで推し量ることなんてできないだろう。俺がこいつの胸の内を推測でしか考えられないように。分かりあえない仲というものは存在する。
 そんなことを考えている間に、クラーレットが内心で何を思い巡らせていたのかは定かでない。だが、暫くの沈黙の後、ゆるりと言葉は滑り出した。
「僕と兄は今、個人的にある研究を始めようと考えているのです。成功すれば、グラーシアが――いえ、世界が震えるほどの研究です」
 溶け出す飴の味が、ねっとりと口内に絡む。クラーレットは細い眼でこちらの反応を伺い、僅かに笑ってみせた。
「きっと先輩も見れば驚くと思います。もしよろしければ、お力添えを頂きたいと考えているのですが」
 ひやりと首筋を撫でられた気分で、俺は眉根を寄せてクラーレットを見返した。クラーレットは平坦な口調で続ける。
「先輩の才はこんなところで燻らせて良いものではありません。僕たちに協力することで、新たな世界の扉に手をかけた一人として歴史に名を刻んでみませんか」
「……なんでまた俺なんだ」
 面倒事の予感に顔をひきつらせながら問うと、クラーレットは色白の頬を銀に輝かせながら微笑んだ。
「毎日、ダルマン教授と先輩が何をしているのか、不思議に思っていました」
 心臓が嫌な悲鳴をあげて収縮し、背筋が凍りつく。それを表にださないように努める俺に、容赦なく追及は降り注いだ。
「どうも魔術の訓練に明け暮れているようですね。お得意なんですか、魔術は」
「――」
 なんだか嫌な予感がする。壮絶に嫌な予感だ。
「ダルマン教授の古い論文を読みました。素晴らしい教授ですよ、あの方は。召喚術の論理をほぼ完成させ、後は必須とする魔力が足りないという結論にまで至っている。そして今になってあれだけ熱心に先輩に魔術を仕込んでいるということは、先輩の扱える魔術でその魔力を補う方法を見つけた――と考えたのですが」
 いかがでしょう、と至極穏やかにクラーレットは笑いかけてくる。呼吸が浅くなっているのを感じながら、俺は飴を噛み砕いた。言い方からして、俺が人に扱えない魔力値まで扱えるという事実はまだ知らないのだろう。既に疑ってはいるかもしれないけれど。
「そんなに怖がらないで下さい」
 奇妙な落ちつきを持ってして、クラーレットは諭すように言った。
「考えてみることをお勧めします。ダルマン教授はあなたを利用して己の研究を成功させたいだけ。しかし僕たちはあなたを歓迎します。成功の暁には、あなたの功績は余さず証明しましょう。僕たちの研究にも、途方もない魔力が必要なのです」
 真っ直ぐな言葉に眩暈を覚えて、瞼に指を被せる。何故だ、なんだってこんなに嫌な予感がするんだ。
 頭の奥がじんと熱くなるのを感じながら、小さく俺は尋ねた。
「――何の研究だ」
「神の」
 歌うように、やわらかく声は耳朶を叩く。元々あまり体温を感じさせない奴だった。しかし、続いた言葉には切望するような熱がこもって、俺の心にずぶりと食い込んだ。

「神の力を、得る研究です」


「うう」
 ベッドに突っ伏したまま、指を髪の隙間に差し込む。体が全体的に気だるく濁っている。
 俺はクラーレットからの助力の頼みに、考えさせて欲しいと言って逃げた。いや、本当は断ってしまいたかったのだけれど、嫌な感じが胸から離れなかったのだ。
 ――なんで、こんなに気になるんだ。
『先輩も見ればきっと驚くと思いますよ』
 ぞわぞわと足元から何かが這い上がってくるのを俺は感じていた。底知れぬ光を湛えた瞳への嫌悪と恐怖、それと同時に受けた――心を侵食するような、途方もない予感。
『――こちらの部屋を借りて研究を始めたので、よろしければ来て下さい』
 クラーレットは俺の反応をどう見たのか、何くわぬ顔で一枚のメモを渡してきた。
 グラーシア学園の学生には、届け出さえだせば個人的な研究や活動が認められていたし、申請が通ればその為の部屋も借りられる。メモにあった地図にも、学園の外れにあるそのような建物の一つが書いてあった。
『先輩と僕、そして世界の幸福の為に』
 貼り付けたような口元の冷静な笑みが、瞼の裏に映る。
「いやだー」
 忘れてしまいたい。聞かなかったことにしてしまいたい。心からそう思う。
 なのに、同じくして体が騒ぐのだ。放っておいてはいけない。禍々しい予兆が見える。もう一人の俺がそう叫んでいる。
 ごろりと転がって、手の届くところにある天井を見上げた。ケープを緩めながら、染みの色をぼんやりと眺める。
「――これ、予知能力ってやつなのかな」
 一人で内心に向けて呟いてみるが、答えは勿論ない。大昔には予知能力を持った人が云々、とかそういう話は聞いたことがあるけれど、俺は現代に生きるしがない青少年である。そんな都合の良いこと、あるわけがない。
 全身から空気を抜くように息を吐き出して、目を閉じる。そういえば、ダルマン先生が言ってたっけ。俺が持つ黄金の卵を狙う有象無象のものたちに、よくも今まで捕まらなかったものだと。ついに先生の言う通りになったということだろうか。
 考えれば考えるほど胸が詰まって、俺はシーツを顔までかぶった。
「行くのはやめとこう。うん」
 身を守るように丸くなる。休息が欲しかった。何も考えずに眠りたい。そうだ、何も考えなければいいんだ。今日の夜くらいは――。

 そして俺はこの後、すぐに行かなかったことを酷く後悔する羽目になる。


 ***


「やあ、きたのか」
 暗闇を裂くような明るい部屋は新たな来訪者を迎えていた。そこにいた彼は一度持っていたものを下ろして嬉しそうに笑う。
「まさか来てくれるとは思わなかった。お前、こういう個人研究には興味なさそうだったからさ」
 灰がかった茶髪を短く跳ねさせたアレックは、悪戯っぽく言う。だがエディオは頬をぴくりとも動かさずに、機械的に首を回した。
 まだ借りたばかりの部屋に、持ちこんできた実験機材が積んである。机の上には論文が丁寧に置かれ、その周囲を色とりどりの薬品の瓶が取り巻いている。
 そう広い部屋ではない。しかし、エディオにとってはそれで十分だった。

 ここのところ特に寮の自室に帰らなくなったエディオに、アレックがこの話を持ちかけたのだ。
『お前、部屋に帰りたくないのか』
 優れた洞察力に若干苛立ちながら黙っていると、彼は落ちつけよ、と小さく笑って一枚のメモを差し出してきた。
『俺さ、弟とここ借りて個人研究始めたんだ。良かったら来いよ。徹夜申請もとってるから泊まれるしさ』

 秀才で名の通るアレックは、自信たっぷりに笑っていた。そして今も同様に。
「荷物そっちな。これ運ぶの手伝ってくれないか」
 エディオは返事をせずに一度瞬きをして、彼に言われた通りに動く。箱には小動物が入る程度の試験管が詰めてあった。それを見たエディオの眉が、怪訝そうに潜められる。
「――何の研究をするつもりだ」
「後でそこの論文を見るといい」
 アレックは机の方に顎をしゃくった。そこにあったのが、数日前に表紙だけ見せられた卒業生の論文だということに気づいて、エディオは弾かれたようにアレックを見返した。
「たかが18歳の人間が書いた理論に」
「天才ってのは本当にいるんだ」
 返事を被せられるように紡がれて、エディオは口をつぐむ。アレックは心底面白そうな笑みを浮かべたまま、でもね、と続けた。
「それだけじゃ駄目なんだよ。だからこの論文も長い間、あんな暗いところに取り残されたんだ。天才の考え方を応用できる天才が、別に必要なのさ」
 あたかもそれが自分であるような口ぶりで、アレックは手際よく箱から次々と機材を取り出していく。そうして、歌うように聖書の文句を唇に乗せた。
「はじめに白があった。全ては白であり、白でしかなかった。精霊神はそこから光と闇を紡いだ。光は世界を照らし、闇は世界を浮かび上がらせた。精霊神の涙が海となり、命は世界に満ち満ちた」
 エディオは歩いて行って論文をめくる。煌々と照る灯りの下、白く輝く紙に黒い文字が刻まれている。そして深く読みこんだことを示すように、アレックのものらしきメモが随所に貼られていた。
「ここから新たな世界が始まる。はじめはきっと、箱庭に過ぎないだろうけれど。それでも世界はここから始まるんだ。俺たちは、神になる」
 冷たい指先が意図せず震えた。図書館で見たときは子供の絵空事と思っていたのに、それを目の前の少年は本気にしている。
『ありえない』
 強い警鐘と共に胸が騒ぐ。それは、論文を信じたアレックに対する畏怖だろうか、それとも論文の内容そのものに戦慄したのか。
「――こんな研究、世間から認められる筈が」
「生命倫理に悖るって?」
 こちらの言動を最後まで言わせず、むしろ挑発するようにアレックは腕を広げて高らかに言い放った。
「その程度の理屈なんか、絶対なる理論の前じゃ風塵に等しいね」
「……」
 新しい玩具を貰った子供のように燦然と輝いた瞳が、明るい場所でもどこか仄暗いエディオのそれとぶつかる。だが、アレックは怯んだ様子もなかった。
「何か文句でも?」
 馬鹿馬鹿しいと唾棄したくなるような、それでいて禍々しく胃の奥をすくみあがらせるような、非現実的な光景だ。
「人工生命体を作りだすことの、何がおかしい。科学者の夢じゃないか」
 ぞっと背が凍るような、あまりに愉しげな口調で彼は語る。
「理論は完成してる。あとは材料と実験と、それをする為の環境、資金が揃えば、世界は変わるんだ。――俺がお前に何を求めてるか分かるよな、エディオ」
 エディオは黙ったまま笑みを絶やさない少年を見つめた。こうなることは、心のどこかで分かっていたつもりだった。あの紫の少年を見るだけで吐き気がする今の自分の居場所として、高額の宿代を要求されることなど。
 しかし、と喉の奥が強く反発する。このまま放っておけば、恐ろしいことになると得体の知れない不安が語りかけてくる。放っておいても、所詮子供騙しの論理で成功する筈もないと心のどこかで思っているのに。
 だが、それ以上にエディオの険を含んだ表情には、ひとつの疑念が浮かんでいた。
「テメエ、医学専攻じゃなかったか。それとこれが何の関係がある」
「え?」
 まるで不意打ちをくらったように、アレックはきょとんと目を瞬いた。しかしそれも束の間、肩を震わせて吹き出す。
「関係なんてないよ。そもそも別に医者になりたくて専攻とってたわけじゃないし。まあ他になるものがなかったら、なってやっても良かったけどね」
「――」
 どくりと心臓が一つ鳴る。
「でも今はこんなに面白い題材が手に入った。俺に最もふさわしい研究だよ、もっと早くに出会いたかった」
 内側から、何かが壁を破ろうとする。
 砂のような壁をざくざくと削る。鮮血を迸らせながら。
「エディオもこっち側に来いよ。医者なんて忙しいだけの生活で楽しくないぜ。こっちは成功すれば欲しいものも何でも手に入る」
 己とは違うものが、目の前で笑っている。
 何もかもを注ぎ込んで己が目指そうとするものを、道端に落ちる石同然に扱う者がいる。
 外の世界がそういうものだと理解していることと、実際にそこから痛みを受けることは、必ずしも同義には属さない。
 血を吐くような想いも叫びも何もかも、胸に秘めて生きてきた彼にとって、その寸鉄は大切なものを叩き割るように打ちつけられ、――呼気が軋む。
「なんだよ。もしかしてお前、特別な理由があって医者になりたいクチか」
 口を閉ざすエディオに焦れたように、アレックは心の隙間にするりと入ってくる。つと細い瞳に、一片の嘲弄が浮かび、また笑みにかき消されていく。
「うるせえ」
「怒るなって」
 軽やかな物言いが更に癇に障ったが、拳となって動こうとする腕を意識して静止させておく。そんな彼の態度に、アレックは益々面白げに口の端を吊り上げた。
「じゃあエディオ。お前の目標に協力してやるよ。丁度いい案件があるんだ、被験者になって欲しい」
 アレックは言いながら、エディオの手から論文を抜きとって、ぱらぱらとめくった。図を交えて綴られた論理は、夢物語を現実へと昇華させるというのか。アレックは強い光を秘めるまま、そこに目を落とす。
「最終的には完全なる人工生命体を生成したいんだが、まずはもう少し簡単なところから始めるつもりなんだ」
 狭い部屋には、無粋な照明、重苦しい機材たち、鼻をつく薬品の臭い、そして二人の生徒を取り巻く不穏な闇。
 アレックは短く跳ねさせた灰がかった茶髪の先を揺らし、聖書を手に人々に問いかける神父じみた仕草でエディオに笑みを送った。
「――人にはない魔力。全能の力。欲しいと思ったことはないか?」




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