-紫翼-
二章:星に願いを

15.自分探し



 グラーシア学園高等院の一角に設けられた自習室にて、二人の生徒が肩を並べていた。彼らが兄弟であることは一目瞭然だ。同じ灰がかった茶髪を一人は短く跳ねさせ、もう一人は顔の輪郭を覆うほどに伸ばしている。一見雰囲気の違う二人であるが、その顔立ちやまとう空気は同質のものであった。
「そっちはどうだ、噂の紫頭ってやつは」
 髪を短く跳ねさせた兄は、計算高そうな瞳を金属のように煌めかせ、含み笑いと共に問う。彼は朝からいやに上機嫌な様子であった。
「全く駄目だね」
 対する髪を長めに伸ばした弟は、細い瞳に険を含ませ、憮然とした返事を返した。近寄りがたい硬質さを持った顔を不快そうに歪め、軽く前髪をかきあげる。
「期待外れも甚だしい。何が編入試験を唯一突破した秀才だ、実際は愚昧もいいところだ。何をしにここに来たんだか」
「へえ。まあ、そんなところだろうよ。高等院からぽっと入ってくる奴なんて、ろくなのがいない」
「全くその通りだね」
 仮面を思わせる冷笑を浮かべたクラーレットに、兄であるアレックも薄く口元を歪めた。聖なる学び舎の制服を乱れなく着込み、容姿も程良く整った二人は、人の目には真面目で誠実な生徒に映る。そして彼らはその事実を他の誰よりもよく理解していた。
 世界中から天才の卵たちを集めると謳うグラーシア学園では、兄弟揃っての入学は非常に珍しい。それも、双方とも一際目立つ才を持つとなると、この兄弟を見る者の目は羨望と妬みに満ちるのが常であった。
 そんな環境で、兄弟が一方で期待に答えようと賢くあることを望み、もう一方で他の連中を憐れみの目で見るようになったのも不自然ではない。兄弟にとって、周囲の人間とは己を飾り立てる脇道の花でしかなかったし、それ以上になることも彼らは許さなかった。その為だったら、いくらでも学問に身を捧げることができた。
「こっちはいいものが手に入った」
 アレックはちらっと周囲に気を配ってから、そっと鞄の中から古びた紙束を取り出した。それを見て、クラーレットも目だけで辺りを伺う。しかし試験期間中でもない自習室に人は少なく、こちらに意識を向けられている様子はなかった。
「――兄さん。また論文を勝手に持ち出したのかい」
「奴らの節穴の目を掻い潜るなんて簡単なことさ。それよりも見ろよ」
 端の方がすっかり茶色く変色した論文の表紙の題名にまず眉を潜めたクラーレットは、古い紙を破かぬよう慎重にページをめくった。神経質そうな文字が一片の乱れなく綴られたそれらに目を通していく内に、僅かにその身が硬くなる。珍しく指先を震わせる弟の様子に、兄は満足げに口の端を引き上げた。
「面白いだろ」
「……へえ。当時はこんなものが研究として認められていたんだね。これは、成功したのかい?」
 取り繕うように一度目を離して冷静に問うたクラーレットは、中間を飛ばして最後のページを開いた。その色素の薄い瞳に浮かぶのは、光となった好奇心だ。
 急いで考察を読みふける弟に、アレックは隣から注釈した。
「ああ。驚いたよ、既に論理は完成してる。ただし、結局実験には至っていない――必要とする魔力が人間が扱える値を遥かに超えている為だ。いや、もしも実験まで成功していたら」
 やや興奮気味に身を乗り出す兄の隣で、静謐に、しかし内なる野心を秘めた弟は最後の一文字を読み終えて、薄い唇を戦慄かせる。
「世界は変わっていたろうね」
 半ば呆然と呟く弟の横で、アレックは愉しげに頬杖をついた。
「まさか俺もこんな論文が眠ってるなんて思わなかった。卒業までに、この話をもう少し掘り下げようと思うんだ。もっと少ない魔力での実用が可能になれば」
「……」
 クラーレットは黙って分厚い紙束をめくった。書いた人間の鋭い眼差しが伝わってくるような硬質な文字の羅列と要所に入れられた図が、まるで魔力を持ったかのように胸に訴えかけてくる。これを実用化すれば、自分たちの名は大陸を越えて――否、時代を越えて轟くことになるだろう。地位も名声も欲しいがまま、それどころか杯から溢れるほどに降り注ぐだろう。
「ねえ、兄さん」
「なんだ?」
 積極的な兄と、落ち着いた弟。傍から見ればありふれた兄弟でしかない二人は、ありふれた夢を、しかし人一倍の野心と同時に飼っていた。
 誉れ高い学び舎で学んだだけではまだ足りぬ、名誉と栄光。彼らを羨望の目で見る者は許せても、彼らより高みにいる者の存在を、彼らは許せなかった。例えば、クラーレットの所属する研究室にいる紫色の少年。無欲そうな顔をして、大した努力もしていないだろうに今や研究室で最も教授に近いところにいる。そんな愚かな人間を見下せるだけの土壌を彼は欲していた。何故なら、自分たちが誰よりも何よりも秀でているのだと、虚栄心が彼らの心を満たしていたからだ。
「……必要な魔力値はいくつ?」
 クラーレットは薄い笑みを湛えて怪訝そうな兄を見返す。
「少なくとも四桁は必須みたいだ。それも断続的な注入が必要だから、とても人間じゃ」
「できるかもしれない」
 遮るようにして、クラーレットは窓の外に視線を投げた。熱意を胸に秘めた彼の拳が、机の下でぎゅっと握られる。
「当てがあるのか」
「――まあね。確かめてみないといけないけれど」
 己が優位に立つ為になら、どのようなものも踏みつけていくつもりだった。この世界にあって良いものは限られている。そして、劣っているものは優位なものに席を譲らなければいけないのだ。
 あの研究室で召喚術を完成させるのは、自分でなければいけない。
 自らが所属する研究室で起きている不可解な点を頭の中で素早く整理し、推論をだしながらクラーレットは表向きは大人しく微笑んだ。瞳の奥に、底知れぬ誉れへの渇望を秘めるままに。


 ***


「我が右手、汝が右手、神の祝福を掲げ大地を照らせ。禍の矢から一陣の風となり、我が身を守り賜うよう――精霊の御名において」
 体中が風になったように、外界との境が曖昧になっていく。大地を踏みしめる感覚が消え失せ、指先が冷たく霧散する。
 しかし、そこで流されてはいけないのだ。精神を、一つの美しい球形を描くように集中させる。破裂しそうになる白い光を見つめ、耳を澄まし、操るのではなく寄り添うように、ゆっくりと膨らませていく。
 今だ、と喉の奥が叫んだ瞬間、指で弾くように球を放った。空気の流れが一方に向けられたように収束し、耳鳴りと共に光線がすぐそこにある水晶目がけて殺到する。同時に水晶のすぐ下で赤い針が勢いよく振れるのを視界の外れで認識した。目盛りは大体、1200に届かないくらいか。
 ――と思った矢先。
「阿呆」
「でっ」
 ぼかっ、と間抜けな音で俺の手に集っていた力は瞬時に四散した。だが、その事実に嘆く余裕もなく俺は殴られた頭を抱えた。とってもいい音がしたけど、いやなんていうか、すごく痛い。
「なっとらん。僅かたりとも集中を乱すなと言ったろうが」
 黒い杖を手に、同じ色のローブで顔を隠すままに罵倒してくれるダルマン先生。部屋が狭いから互いの距離も近くて、そして臭いも痛烈だ。
「……さっきは自分の目で数値見ろって」
「お主の頭は押し出し式か。自分の目で数値を見るのは当り前だ、集中を乱すなというもの至極当然のこと」
 相変わらず無茶苦茶を言ってくれる。
「なんだ、文句でもあるかの? ん?」
「シア風に言えば千の月をかけても語りつくせない程度にはありますけど、言っても無駄なんで黙ります」
「クク。千の月を瞬きと変えることもできぬか。黙しているがいい、そのような赤子にも劣る舌」
 ああ言えばこう言ってくれる、素敵な先生である。
 俺は頭を振って、魔術を行使した後にくる独特の倦怠感を振り払った。随分と慣れたもので、この程度で吐き気を覚えることはもうない。真に遺憾ではあるが、この一目見れば一生忘れようにも忘れられない禍々しい異臭を放つ老人のお陰である。
「ところで、先生」
 今日、俺が珍しくも自らここに来て真面目に魔術の訓練をやっているのは、決して先日の一件からの逃避ではない。ダルマン先生に聞きたいことがあったのだ。うるせえ黙れさっさと練習に打ち込めと罵倒される前に、俺は言葉を繋いだ。
「魔術のことで聞きたいことがあるんですけど」
「なにかね?」
 泣く子も黙るダルマン先生であるが、魔術に関しては造詣が深い。流石召喚術の研究をやっているというべきか、魔術の話になれば割とこちらの話を聞いてくれるのである。
 だから、ちょっとばかり不安を抱えながら、俺は自分でもふざけてると分かっている質問をあえてぶつけてみた。

「……鍵を開ける魔術とかってご存知ないですかね」

 しーん、と音が聞こえてくるくらいの静寂が落ちた。
「……」
「……」
「のう」
「はい」
「お主、バカか?」
 直球でバカにされた。
「あの、もう少し言い方をオブラートに包んで頂けたら」
「愚か者。そのような真似が出来たら世の治安はないも同然。己の部屋の戸締りも安心できない、そのような世界に住みたいかお主は、ええ?」
 案の定、予想通りのお説教をくらうと同時に杖の先で頬をぴたぴたされて、顔を歪めながら委縮する俺である。
「何故そのようなものが必要か」
「いや……その、こっそり入りたい部屋がありまして」
「ふん。姑息よの。扉の一枚や二枚、破壊してしまえばいいではないか」
 そんな暴力手段に訴えたくないから、無駄と分かっていても訊いたのだ。それに、扉が破壊されていると気付けばすぐに人が飛んでくるだろうし。
「難しいですね」
「全く妙なことをいう。そもそもお主、何をするつもりだ」
 相変わらず薄暗い小部屋には実験器具が散乱し、混沌の様相を呈している。俺は頬を指でかきながら、苦々しく答えた。
「――自分探しの旅です」


 結局、ダルマン先生にも事情を話すことになった。それにしてもこの人、俺が人間に扱えない魔力を持つ事実に何故今まで何の疑問も持たなかったのだろう。普通、俺の魔力を見た瞬間になんなのお前って感じになるだろうに。
 無論、記憶を失くしていることも全部打ち明けた。するとダルマン先生は、枯れ木のような指で顎をさする。
「ほう。中々奇妙な境遇よの」
「……お陰さまで」
 膝を抱えながら皮肉を返すと、同じくしゃがみこんだダルマン先生は考え込むように杖の先端で床の魔方陣をつく。
「そんなわけで、国立病院の一室に忍び込みたいわけなんですけど」
「堂々と行けばいいではないか。その友人とやらを脅すでも何でも良いし、お主なら襲い来る医者など敵ではなかろうに」
「……あの、もう少し平和的に考えて頂けませんか」
 国立病院内で繰り広げられる俺と医者陣との阿鼻叫喚の図が脳裏を駆け抜け、思わず頭を抱えた。そんなことしたら、二度と日の光を見れなくなりそうだ。
 それに、エディオを脅すというのは論外として、頼んで会わせてもらう案も俺としては避けたいところだった。エディオは俺を疑っている。頼んだところで、俺のことを信用してもらわない限り会わせてはくれないだろう。エディオがあの女性を大切に思っていることは、言動から察知できる。それで諍いになればスアローグがまた機嫌を悪くするという負の連鎖が待っているに違いない。
 ああ。なんて面倒臭いんだ。
「臆病者めが。平和的に解決するとでも思っているのか」
 抱えていた頭から手を離してダルマン先生を見上げると、ローブの向こうからぎょろりと大きな瞳が冷ややかな視線を投げてくれていた。
「お主は出生不明。最悪、お主の過去の行いで件の女の気が違ったのかもしれん。既に事は十分深刻じゃろうて? それを何だ、お主は間に合わせの手で済ませようとしている。何を賭しても収集をつけるという気概が足りんのだ。血を流さずに戦えるとでも思っているのか」
 容赦ないダルマン先生の叱咤に、うう、と俺は膝に顎を乗せる。姑息だよなあ、と思うところは自分でもあったから、一言も言い返せない。
 やっぱりエディオと再び対峙するのが良いのだろうか。最近、あいつは完全に俺を避けているようで、ほぼ毎日研究室に泊まっている。それを捕まえて、拳で語り合うことも辞さない覚悟で俺が記憶を失くしていることを訴えるしかないだろうか。いや、一方的に俺が殴られまくりそうだけど。ああ、痛そう。
「全く。この軟弱めが。だからなめられるのだ。時には演技でもパッとしたところを見せい」
「――善処したいとは思ってます」
 ダルマン先生が言うくらい思い切ったことができればいいんだけど。
 口が変な形に歪むのを自覚しながら、俺は弱々しくそう答えるしかなかった。


***


 その晩のことである。
 夜も暮れて、鷹目堂の閉店作業を終え店を出たとき、軒先に立っていた人影に思わず足を止めることになった。
「あれ」
 髪が夜風に優しく弄ばれる中、首を傾げた俺をそいつはゆったりと笑って出迎える。
「――こんばんは、ユラス先輩」
 輪郭を覆うように灰がかった茶色の髪を伸ばしたクラーレットが、街灯の下に青白く照らされて立っていたのだ。
 思わず一瞬言葉を失って、――俺なにかやらかしたっけ、ああなんかもう心当たりありすぎで逃げだしたい、とか色々と脳裏を駆け廻らせている内に、そいつの方から用件を口にしてくれた。表情には穏やかな微笑みを絶やさずに。
「少々、お話をよろしいですか」
「……ああ、うん」
 俺は一度懐中時計を取り出して、それから頷いた。高等院の門限まではまだ余裕があるし、今はスアローグともなんとなく気まずくて、すぐに戻る気にはなれなかったから丁度良い。こいつも苦手といえば苦手だけど。
「わざわざ待っててくれたのか」
「いえ。時間を見計らったので。それに、先輩に是非聞いて頂きたい大切な話なのです」
 鈍色の街灯に照らされた夜のグラーシアは、夏の足音が聞こえてくるというのにどこか寂しげだ。人通りもほとんどなく、クラーレットの声が澄んだ暗い空気によく通る。
「よろしいですか」
「ああ。どうせ暇だし」
「ありがとうございます」
 その一言に妙な寒気がしたのは、夜風のせいだろうか。しかし、時は俺に考える時間を与えてはくれない。
 細い眼を糸のようにして笑うクラーレットは、俺を促すように歩きだした。俺も、青白いそいつの姿を見ながら後に続いた。




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