-紫翼-
二章:星に願いを

14.母が呼んだ名前



 こんな日が鷹目堂の休業日だなんて、全くついてない。
 鞄の持ち手を握り込んで、俺は白い建物を見上げていた。あらゆるものを内包しながら、今日も無表情で立ちはだかっているグラーシア国立病院である。
 昨日の一件の為にとてもではないが寮に戻る気になれなくて、かといってあの研究室にいく元気も出ず、うだうだと足を彷徨わせた後にやっと辿り着いた場所だ。
 そう。あの女の人がいる処。
 彼女は俺のことを知っていたのだろうか。
 俺はあの人に、何かをしたのだろうか。してしまったのだろうか。
「そのくらい教えてくれたっていいのに」
 思わず弱音が口の端から零れた。
 昨日のエディオの剣幕は、有無を言わさず俺憎しって感じだったから、結局俺が何を疑われたのかは分からないままなのだ。ある意味、真実を教えられるよりもきつい。
 だから、自分の足でそれを知ろうと、ここまでやってきたはいいのだけど。あの女の人がこの巨大な建造物のどこにいるのか分からないし、先日の様子では通常の面会も制限されていそうだ。今のところ赤の他人である俺が行ったところで、会わせてくれるはずもないだろう。
 己の胸に指先を這わす。今日は、エディオは勿論スアローグとも口をきいていない。針の進みが鈍ったような時の中をぼんやりと過ごし、そこから抜け出すために来てみたはいいのだけれど。
 その先の一歩が、踏み出せない。ここまで来て、事実を――恐らくは自分の罪を認識することを心底恐怖しているのだと気付く。
 記憶を失ってしまったから、もう今の俺に罪はないのだと。そんな甘ったれたことを胸から消せないでいたのだ、俺は。それで過去が塗りつぶせるわけがないのに。
 見つめ続けていると、頭痛がする。
 だから逃げるようにその場を辞した。


 人と顔を合わせるのが億劫で、自然と体は研究所が密集する地区に向かっていた。
 そういえば、こんなことが前にもあった気がする。あのときは確か、この辺りで――。
「あ」
 開けた場所に行きあたって、俺は景色がぶれるのを感じた。長い時間忘れられていたようなそこには、風に揺れる木の下にベンチが備え付けられている。
「……懐かしいな」
 一年前、人に扱えるはずのない魔力を持つことを知った俺はここで項垂れていたんだっけ。なんだか随分昔のことのようだ。そのときは――確か、見知らぬ人と喋った。学者風の男の人。夕焼けに照らされて、体中を橙色に染めていた――。
 あの人は、今頃どうしているんだろう。まだグラーシアにいるだろうか。
 そう思うと、ふらりと体がそちらに吸い寄せられた。一年前と同じようにベンチに腰を下ろして、息を抜く。そうやっていれば、またあの人が来るかもしれないと思ったからだ。
 爛れた胸に新緑を歌う風が染みる。さわさわと、上方で木の葉が泳ぐ。きっと俺がいてもいなくても、同じようにここの時間は流れていたんだろう。
 今日の空はあまり鮮やかでない。気持ちがそう思わせるのかな。陽が落ちようとしているのに夕暮れに染まることはなく、ただゆるやかに景色は明度を落としていく。
「――アンタ」
「ふっ!?」
 ぼんやりと黄昏れていた俺は、飛びあがる勢いで悲鳴をあげた。慌てて首を回すと、思いがけない人がいて言葉を失う。煙草の匂いが、ふっと風に乗ってやってくる。
「……ヴィエル先輩」
 桃色の髪を腰の辺りまで流したヴィエル先輩が、煙草を手に怪訝そうな表情をこちらに向けていた。どうやら通りがかりらしい。そういえば、先輩が所属している研究所はこの辺りにあったっけ。
「お、お久しぶりです」
 曖昧に笑う俺を見て、ヴィエル先輩は眠たげな瞳をすっと細めた。心の内を見透かされている気がして、うろたえて俯く。
「何やってんのさね」
 ヴィエル先輩はいつもの調子で煙草を咥える。違ったのは、今はグラーシア学園の制服を着ていないということだけだ。
「――はい」
 ひきつって歪むように笑った口元が、苦しい言い訳をぼそぼそと零しだした。
「同室の奴と喧嘩して、ありがちな青少年のごとく一人夕暮れに黄昏れてます」
「アンタが喧嘩?」
 意外そうな返答に、もう頭を抱えるしかなかった。
「……俺、もう死ねばいいんじゃないかって感じです」
「――」
 俺のぐったりとした返答にヴィエル先輩は答えず、ベンチに備え付けられた錆びた灰皿に短くなった煙草を押しつけた。そうして、もう一つあるベンチに腰かけて再び新しい煙草を咥える。
 時間は相変わらず中々動き出さない。初夏に差し掛かろうとする風が頬をくすぐり、それを瞑目したまま受け止める。ヴィエル先輩は暫く何も言わずに、虚空に向けて細く煙を吐き出していた。
「原因は」
 ふらりとやってきた問いは短い。
「たぶん俺です」
 手持無沙汰な俺はベンチに落ちた葉を拾い上げて、半ばやけっぱちで答える。
「俺が何したかは知りませんけど。俺の何かが気に障ったみたいです」
「何かって何さね」
「……てめえの胸に聞け、みたいな感じでした」
「心当たりは」
「あるような、ないような」
 我ながら、情けない返答である。煙草の先から、不安定な煙が頼りなくゆらゆらと立ち上る。それをなんとなしに眺めて、葉を弄びながら口を開いた。
「そいつ、悪い奴じゃないと思うんです。だからなんとかしなきゃいけないんですけど――分からないことを償えって言われたって、どうすればいいんですかね」
 そんな問いに、答えなどあるはずはない。あるとすれば、理解できない理由を正すことか。そう、つまり、俺の記憶を――取り戻すこと。記憶を失う前に俺がやってきたことを、白日の下にさらすこと。
 苦悩する俺を眺めていたヴィエル先輩は、ふうっと煙を吐き出した。何かな、と思っていると、考え込むように視線を彷徨わせ、そうして先輩はごく静かに言い放った。
「アンタさ」
「は、はい」
 改まった言い方に思わず背筋を伸ばすが、そんな俺など意にも介さぬ様子で先輩は続ける。
「喧嘩した奴と和解したいの、自分が救われたいの、どっちさね」
「……」
 ヴィエル先輩の声には、温度がない。だからこそ、それはざっくりと胸を切り刻んだ。
 息を止められた心境で先輩の顔を見返すと、相変わらず何を考えているのか分からない横顔が薄暗い世界を突き刺すようにしている。
「アンタが救われたいだけなら、その辺でくすぶって適当に行動起こして満足してればいいだろうけど」
 淡々と紡がれる言葉たちを、俺は額に手をやりながら受け止めた。そうでもしないと、自分を支えていられなかったからだ。
 ヴィエル先輩はそこで言葉を切って、煙草を咥えた。夜に向けて冷めていく空気の中、薄青の背景に沈んだベンチの背もたれは、熱をゆるやかに奪っていく。
「……俺は」
 苦々しく口を動かしたときだった。
「何をしている」
 新たな呼び声に俺は顔をあげて、そして、へにゃりと顔が歪むのを感じた。神経質なまでに身なりを整えたグリッド先輩が、眼鏡の位置を指で直しながら歩き寄ってくるところだったのだ。そういえばこの人もヴィエル先輩と同じ研究室に入っているのだとシアが騒いでいたっけか。
 グリッド先輩は、卒業してからも変わらぬ不機嫌さで、俺を怪訝そうに見やり、そしてヴィエル先輩に目をやって、もう一度こちらに戻して、盛大に眉を潜めてくれた。
「……何をしているんだ、ユラス・アティルド」
「あ、いや……あはは」
 たすけてヴィエルせんぱーい、と横目でヴィエル先輩にサインを送ると、珍しく先輩はちらっとこちらを見やって口を開いた。
「トモダチと喧嘩したってサ」
 火に油を注いでくれたヴィエル先輩であった。
「……む。諍いか? それで気落ちしているのか」
 グリッド先輩は古文書でも読むような顔つきでじろじろ見分してくれる。時が過ぎるのを祈るばかりの俺である。
「そのような下らないことで学生として全うすべきことが疎かになるのは問題だな。さっさと片付けてあの研究室をどうにかしたまえ」
 いつも通りのグリッド先輩の物言いであった。事情を知らないにしても、ばっさりと俺の人生を賭けた悩み事を下らないと叩き斬ってくれて、なんだかもう塵芥にでもなった気分である。
「……はい、仰る通りでございます」
 だが機械のように返答しながらも、俺は口の端で笑ってしまった。そうだよな、うだうだと悩んでいても何にもならないのだ。やらなければいけないことは、沢山ある。俺が何かしらの罪を背負っているのだとしたら、それは真実を正し、裁かれないといけないのだ。あいつの為にも、そして俺の為にも。例え衝突したとしても、俺が壊れてしまうことになったとしても、その先の和解に手を伸ばさなければ、現状は何も変わらないだろう。
 それに、仲違いしたままこの先の卒業まで過ごすのは、――悲しいことだ。
「そもそも高等院二年にもなって喧嘩をしているとは随分と暇なようだな。そのような時間があるならより良い論文を書くことに費やす為に――む、何を笑っている」
 ちょっと暗かったから、俺の表情の変化にも暫くグリッド先輩は気付かなかったらしい。なんだか、先輩のお説教を聞いたら体の力が抜けてしまった。
「いえ、なんか、元気がでました」
 グリッド先輩は、不可解そうに顔をしかめて、とにかく、と眼鏡を押さえて踵を返した。
「それから、相談する人選にも気をつけることだな。真面目に仕事をしない奴のお陰で迷惑を被っている。ろくに成果も出さずにあそこにいられるとは考えないことだとお前からも重々伝えておけ」
「はい」
 憮然としたグリッド先輩の物言いに苦笑しながら頷く。なんだかんだでヴィエル先輩のこと気にしてるんだな、この人。何処吹く風というようにヴィエル先輩は新しい煙草に火をつけているけれど。
 グリッド先輩は厳然とした足取りで行ってしまった。煙草の匂いが、鼻の奥をくすぐる。
 ゆるゆると明度を落としていく紺色の空を見上げて、俺は目を細めた。


 ***


 耳が痛くなるような静寂を裂いて、硬い足音が共鳴する。息を呑むほどに高い天井まで届く本棚が乱立する様は、堅牢な城砦を思わせた。紙が痛むのを防ぐ為に極限まで抑えられた照明が、それらを禍々しく浮かばせている。
 聖なる学び舎グラーシア学園。その中でも最も規模の大きい図書館の奥まった場所には、正式な書類の提出と荷物検査を経なければ学生であっても入ることは許されない。
 そこには、グラーシア学園の生徒が卒業時に提出を義務付けられている卒業論文が保管されていた。創立から百年を越える学園の全ての生徒分である。故に無論、この学園を卒業し、偉大な業績を残した著名人のものも残っている。
「どうしたんだよ」
 エディオが顔をあげると、ここで大声を出すのは憚られるのか、低く囁いてきた少年の不思議そうな視線とぶつかった。中央の閲覧所を囲むように本棚が占拠する中、彼らは研究の一環で過去の論文を探しに来ていたのだ。
 エディオは表情を硬くしたまま、なんでもないという風に視線を元に戻した。無愛想な彼の様子に、もう一人の生徒――医学専攻のアレックは慣れているのか、それ以上は言わない。ただ、手が止まっていたのを咎めたかっただけなのだろう。エディオの今日の作業ぶりは、傍から見ていても非効率そのものだった。
 ふん、と鼻を鳴らして、アレックは本棚から慎重に論文を取り出す。貸出は禁じられているが、それらは許可を得た上で転写することが認められていた。

 あらゆる持ち込みを禁止されている為、頭に入れた記憶を元に論文を探すエディオの瞳は闇に沈んでいる。彼は幼い頃から、滅多に人前で激情を露にしなかった。己の抱えた淀みが流出するのを酷く恐れる故に、その心は閉じたままである。
 いつだったか、心を開いたが為に、彼は他人に傷を負わせてしまったことがあった。心に潜む狂気にも似たもので、一人の人間を痛めつけた。だから、二度とそうはすまいと思っていた。
 しかし、と胸の内が囁く。昨晩の出来事もそう変わりないのではないのか、と。
 だが燃え滾った部分が、違うと声高に叫ぶのだ。あの紫の少年。記憶を失っただのと言い訳をして目を逸らした彼が苛立たしく、思考を掻き乱した。
 母が呼んだ名前。自分のものではない、彼の名前。
 紫の少年は言った。お前は俺が何をしたと思ってるんだ。あの人があそこにいるのは、俺のせいか。
 ――俺が死んだら満足するか。
 真実を知りたいのはこちらだったし、何よりも、自分が死んだらと簡単に口走ることが許せなかった。現実から逃げだすような真似は、最もエディオが忌み嫌う事だった。
 しかし、彼の紫水晶に似た瞳がぞっとするような暗さを湛えていたのも確かだった。あそこで死んでみせろと言えば、本当に自ら命を絶ってしまいそうな危うさを、彼は秘めていた。
 否。そのようなことはどうでも良い。彼から真実を聞きださなければならないのだ。何故自分がこのような目にあったのか、何故母はああならなければならなかったのか。
 真実を知り、罪人にはしかるべき罰を。
 その為なら、自分は――。
「おい、見ろよこれ」
 ふとエディオは暗がりの中から引っ張りあげられた。アレックが、一冊の論文を手に研究者としての面白げな笑みを宿している。彼とは友人と呼べる付き合いはしていない。ただ同じ医学を専攻する生徒として、上辺のみ友人のように話しかけてくる。その瞳には、あわよくばこちらを踏み台にのしあがろうとする野心が見え隠れしていることに、エディオは気付いていた。彼は、医学を専攻する為に必要な学費を一人で払い続けるエディオの経済力に目をつけているのだ。
 アレックが見せてきた論文は、かなり古いもののようで紙が劣化している。だが、指し示された論文執筆者の名前に、エディオの眉がぴくりと跳ねた。
「今の学園長、確かフェレイ・ヴァレナスだったよな? これ、発表の年代的に言って家族か誰かじゃないのか」
 見れば確かに、執筆者の姓はヴァレナスとなっている。だが、エディオはそれよりも名の方に違和感を覚えていた。記憶の片隅、その音はどこかで聞いたことがあるのだが――思い出せない。
 考え込んでいる内に、アレックは論文を閲覧所に持って行って手続きをとり、ページを開いていた。利口そうな瞳が、文章を追うごとにゆるゆると見開かれる。入っていた本棚の位置からして、医学か生物学の内容だろうが、興味を引く内容だったのかもしれない。
「――気のせいか」
 口の中で呟いたエディオは、僅かな違和感を胸にしまい込んだ。現学園長は事実グラーシアの卒業生であるから、その家族が学園卒であってもおかしくはないし、家族であるなら学園長の口からいつかその名を聞いたのかもしれない。
 まるで何かに取り憑かれたようにみるみる没頭していくアレックを他人のように見やりながら、エディオは口を開くことをしなかった。




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