-紫翼-
二章:星に願いを

13.望んだ世界



 俺が望んだ世界は、崇高でも何もない。ただ、当たり前のものがある居場所で過ごす、同じような日常だ。
 記憶を失ったばかりの俺の周りで、世界は目まぐるしく流転し、俺はそれらを認識することで精一杯だった。それでも時を経て、俺は望んだ。記憶を無理に取り戻すのではなく、今ある現実を受け入れて、優しい日常を過ごせたら、と。
 そうすることで、俺は安定できたのだから。
 けれど、それも馬鹿げた独りよがりだったのかもしれない。
 そんなことを、エディオに胸倉を掴まれたとき、頭のどこかで考えた。


 俺たちは、寮の自室で睨み合っていた。笑えないことに、俺は壁に背をつけて息を詰まらせている。エディオに襟元を掴まれて叩きつけられたためだ。
 スアローグは突然の出来事に色を失って、立ち尽くしていた。この部屋にあった、そして俺が存続を願った薄い氷の膜は今や完全に叩き壊され、張りつめた空気は耳鳴りを覚えるほどだ。
 俺が鷹目堂から帰ってきたとき、既にエディオは部屋で待っていた。普段から研究室に泊まることも多いあのエディオが、だ。
 そして、固まる俺に向けて、凍りつくような無表情で言ったのだった。
『――テメエ、何者だ』
 その意味が分かっても、意図が分からなかった。
 非日常に足を踏み入れてしまった俺が混乱する間に、エディオは歩を詰めてきた。整った顔に、刃のような表情を張りつかせて。
 底冷えする眼光に息を呑む間もなく、俺は壁に叩きつけられていた。衝撃が痛みを遠のかせ、ただ俺は目を瞬いた。そしてやっと状況の深刻さを認識して、逆光に深い影を落とすエディオを見上げたのだった。
「……エディオ、説明してくれないか」
 頭の奥がじんと痺れる。俺は口元が奇妙な笑みを形作るのを自覚しながら、掴まれた胸倉からエディオの手を離そうと指をかけた。絞殺されかけた昨日の今日だ、他人にその辺りを触られるのは、笑えるほどに気分が悪かった。
 エディオは気に障ったように頬を震わせ、逆にもう一度壁に叩きつけてくれる。
「ふざけるな」
 刃の肌が煌めくような、昏い声。本当に意味がわからなかった。スアローグは――動けないだろうな。見る限り完全に足がすくんでいる。俺一人でどうにかするしかないようだ。
「俺が何をした」
「それを聞いてる」
 ああ、もう本当に。
 何が起きているんだ。
「昨日、女の人に絞め殺されかけただけだ」
 心が悲鳴をあげている。何故こんなことに、と。
 俺が望んだのは、こんな世界じゃない。

「――テメエ、その人に何をした」

 ごぽごぽごぽごぽ。

 ぱっと視界が眩んだ気がして、俺は自分を保つために無意識に反論していた。
「昨日が初対面だ。その昨日ですら何もしてない」
 そうでなければならなかった。なのに、内側から知らない声が聞こえてくる。もしかして、と小さな燐光が瞬き、みるみる不安となって喉元まで膨れ上がる。
 手足の感覚が遠のいている。蹲りたくなるような眩暈は、思考を白く焼くほどに痛烈だ。
「その前に会っていないのか」
 整った面立ちに宿る怒りは、胃が縮むような凄味を持ってして、その全てをこちらに向けている。
 その前。こいつが言う、その前とは、俺の空白のことだろうか。
「……覚えてない」
 殴られるだろうな、と思ったら案の定、体が飛んでいた。床に叩きつけられてから、頬がかっと熱くなる。口の中が切れて血が溢れだし、思わず咽込みながら俺はエディオを見上げた。
「ふざけてんじゃねえ」
 牙を剥くような言葉は刃となって降り注ぐ。だからこちらも、頼りない錆びた小刀を手に立ち向かうしかなかった。
「記憶がないんだ、俺には」
 怒りに震えるエディオの拳が再び降ってくる前に、声を連ねる。
「ここに入ってくる前から、全てだ。逆に聞くぞ。お前は俺が何をしたと思ってるんだ」
 信じてくれないことは目に見えていた。だが、その間にも心に突き立てられたナイフが俺に問う。

 俺は、記憶を失う前に、何をしていた?

 考えなかったことだ。否、考えることをやめていたことだ。
 それは、予感があったからだ。黒く心を蝕む悪寒と共に。俺は、全てを忘れる前に、許されないことをしていたのではないか、と。
 許されないこと。それは、何だ。
 闇が、広がっている。
「テメエ」
 ああ。信じてない顔だ。そりゃそうだろうな。俺がいつもみたいにふざけてるとでも思ってるんだろう。こちらに向けられたエディオの目には、殺意すら込められている。
 俺は、口元を拭って立ち上がった。思っていたよりも体が痛くなかったのは、心が麻痺しているからか。
 顔を逸らしたら、また殴られるだろう。だから、周囲に気を配っているわけにはいかなかった。信じてくれないなら、こちらから斬り込んでいくしかない。
「――あの人は母親か、お前の」
 昨日、むせ返りながら後ずさる俺に聞こえてきた呼び声。その中の一つは、確かに耳に残っていた。
 エディオは癇に障ったようにぎちっと歯を鳴らせる。頭の辺りから、全身に冷たいものが流れだしていく。考えろ。今まで俺を避けていたこいつが、突然こんな行動にでた理由を。
「昨日、あの後――その人が、俺のことを何か言ったか」
 答えを聞いた瞬間、俺は壊れるのかもしれない。今の俺に、真実を受け止めるだけの覚悟は多分ない。目を閉じて過去から逃げだした俺には。
 しかし過去は追ってきていたのだ。俺のすぐ後ろまで。耳を塞いで蹲って幻想を見ていた俺に、侵食するように手をかけるそれは、思いがけないところにいた。
 俺は、こいつの、母親に。
「あの人があそこにいるのは、俺のせいか」
 何かをしてしまったのか。

 ぶつん、と頭の中で何かが切れる音がした。

 世界が暗い。
 お前のせいだと。言葉でこの胸を貫かれた。
 明るくて暗い部屋で、紫に染まった視界で。
 お前のせいで。お前のせいで。

 ――お前など、存在しなければ。

「出鱈目言ってんじゃねえッ!」
 ああ、この感じ。知ってる。
 口の中に広がる血の生々しい味に覚えはないけれど。
 でも、こんな風に糾弾されたことなら。
「聞いてんのはこっちだ、テメエは何者だ、何をした!」
 憤怒と憎悪に満ちた音色は、こめかみを冷たく痺れさせる。
 分からないことで、こんなにも苛立ったことはなかった。俺はどんな罪を犯したのか。それが分かれば、いくらでも罪を裁いてもらえるのに。
 ああ。
 でも、どっちにしろ、もう。
 俺は、いない方がいいのか。
「……エディオ」
 気がついたら、再び胸倉を掴まれていた。今度は、ずっと強い力で。首を絞めるように。
 そうやって透明な罪に苦しむのなら、いっそのこと。
「俺が死んだら満足するか」
 エディオの顔が、翳るように歪んだ。元から張りつめていた奴だったからか、剥きだしの表情はずぶりと心の膜を侵食してくる。何もかもが淀んでいた。呪縛からの解放は、時を止めてしまう以外にないのかもしれない。
 例え、記憶を失って全てを忘れてしまったのだとしても。きっと、俺が犯した罪は消えないのだから。
 エディオは教えてくれない。俺が何をしてしまったのか。でも、それを知ることができないことも罰なのかもしれない。
 だからここで、息を止めてしまっても。

「――やめてくれ」

 悲鳴のような、それでいて詰まるような声がした。エディオがぴくりと動きを止め、俺もそちらに顔を向けた。
 スアローグが唇を震わせながら立っていた。眉間にしわを寄せて嫌悪と恐怖をないまぜにした様子で、スアローグは俯いた。
「……どっちも、見てられないよ」
 押し出すような言葉に、部屋を沈黙が襲う。だが、唸るようなエディオの眼光に、スアローグは怯えたようにたじろいだ。
「テメエがそれを言うか」
「――」
 何かをスアローグが言いかけて、数歩下がる。その身に矢を受けたかのように。
 エディオはそんなスアローグを肩で呼吸しながら見つめた。その鮮やかな緑の瞳の奥で、何を考えていたのかは分からない。小さく舌打ちすると、すぐ傍にあった椅子を蹴り飛ばした。息が止まるほど荒々しい音をたてて机にぶつかり、いくつか物が落ちて床で割れる。頬を歪めたスアローグは目を逸らすままだ。
 荒れた部屋を一瞥することもなく、無言でエディオは部屋を出て行った。がたん、と扉が閉まってからも、封じられたように時は動かなかったけれども。
 俺は背を壁につけたまま、呼吸を落ちつけていた。そこで初めて、自分も息があがっていたのだと気付いた。心臓が破裂しそうなほど、しきりに鳴っている。まるで何年もここに縛りつけられていたかのように。疲労した足はまるで鉛のようだ。
「……スアローグ」
 動かない淡い金髪の友人の名を低く呼んだ。スアローグは反応しなかった。だが、ぼそりと小さく零した。
「もう沢山だ」
 弱々しい吐露は、逆に静寂の空間に重たく投げかけられる。ゆるゆるとかぶりを振って、スアローグは自身の腕を掴んだ。
「やるなら僕の見えないところでやってくれ。巻き込まれるのはご免だ」
「おい」
「君がやったことも、彼のことも、何も知りたくないし教えるつもりもないよ。僕には関係ない」
 スアローグは初めて見るようなぎらつく眼差しをこちらにくれた。しかしそれは、他に刃を突き立てることで自らを立たせるような、今にも崩れ落ちてしまいそうな表情だった。無言で見返す俺に、長い前髪で顔を隠したスアローグは己の中に閉じこもった。
「外の空気を吸ってくるよ」
 一方的に告げて、エディオと同じように出て行く。俺には、その姿を見送る気力もなかった。
 扉が閉じてしまえば、空間は完全に閉じる。気が遠くなるような静寂がやってきて、俺はずるずるとその場に座り込んだ。
「あー」
 壁に頭をもたれて、天井を見上げる。見なれた染みさえ、今は異質に見える。空気は淀みきって、明かりが灯っている筈なのに酷く視界が暗い。
 正面に意識を戻せば、倒れた椅子と荒れたテーブル、落ちて割れたカップが、遠い世界のもののように転がっている。この部屋にあったはずの薄い均衡が、完膚なきまでに破壊されたにふさわしい様子だった。
 いや。壊したのは――俺だ。
 過去にいたはずの俺。今はもう覚えていない、もう一人の俺。
 エディオに何があったのか知らない。あの女性が何者なのかも。
 けれど、彼女がああなった原因は、過去の俺にあるようだ。冷静なエディオがあれだけ逆上するようなことを、俺が。
 瞑目しても、過去の自分が何をしたのか見つけることはできないけれど、これが現実であることに変わりはない。
 俺は、記憶を失う前に何かをしていた。
 俺は誰だったんだろう。
「うう」
 ちりっと頭の隅に電流が走る。それ以上考えるなと、胃の奥が熱く警告を放つ。しかしそれも限界で。
 やはり、俺に平穏を生きることは許されないのだろう。フェレイ先生や友人たちに甘えて、のうのうと暮らしていたけれど、元より陽の下に生きられる身分じゃなかったんだろうな。

 ねえ、平和面して生きててさ、罪悪感とか感じないの?
 お前は本来、こうして生きることを許されない。
 許されない存在なんだよ。

 いつか言われたことは、真実だった。
 髪に指を差し入れる。忌々しい、紫色の髪に。
 ならば、目の前に広がっているこの光景も必然だ。真実から逃げだした俺にふさわしい。
 体中から息を抜く。ああ、最悪だ。
 手の甲についた血の色が、とても自分に流れていたものとは思えなかった。俺は、人間じゃない。なのにどうして赤い血が流れているんだろう。
 それをなんとなしに眺めながら、これからのことを考えた。頭は全く働いてくれなかったけれど。
 気がついたら瞼が落ちている。体中がどんよりと重たく、指先一つ動かす気力も沸かなかった。
 意識がゆったりと闇の中に落ちていく。紫色の海の中に、死んだ魚が沈んでいくように。
 このまま明日の朝など来なければいい。そんな幻想に絡め取られて、しかしどこかで逃げられないことも知っていて。
 けれど今はもう何を考えることも出来ずに――。




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