-紫翼-
二章:星に願いを

12.嘘



『セライム』

 とろけた飴色の記憶の中で、大きな掌が頬を包む。
 二度と戻れない日々の向こうで、岩山のように気高く、午後の風のようにやわらかい影法師が揺れている。
 あれは、何もかも夢だったのだろうか。そんな風に思えるほど記憶は優しく、甘く、見えない茨で胸を締め付ける。
 目の前には、ひとひらの希望の欠片。触れれば溶けてしまう儚い雪の一粒。
 それらにすがってまで真実を追い求める覚悟はあるのだろうか。最後まで駆け抜ける勇気は、自分にはあるだろうか。
 それとも残り僅かの解き放たれた時間を、息を潜めて過ごすべきだろうか。
 胸の内に問いかける。だが答えは、薄らと霧がかかったようにおぼつかない。

「セライム」

 記憶の果てからでなく、現実に振りかかった声にセライムは顔をあげた。静寂に落ちた女子寮の自室、キルナが苔色の瞳でこちらを見下ろしていた。
「――うん、なんだ?」
「それはこっちの台詞」
 キルナは表情を緩めて、ベッドに座るセライムの隣に腰かけた。
「最近どうしたの? 元気ないじゃない」
 小柄なキルナは、自分よりもずっと大人びている。幼いころに両親を亡くし、妹と二人で生きてきた彼女は、年頃の娘にはない落ちつきを持ち合わせていた。
「うん。少し、いろんなことを考えていた」
 だからこそ、セライムはそれに甘えないよう、平静を装って笑ってみせる。親を亡くしているキルナに、血は繋がっていなくとも親のいる自分が、行方不明の父親のことについて相談するのは躊躇われたからであった。
 しかし、こうしていると思うことがある。自分も、父親がもうこの世にいないと知っていれば、ここまで影に囚われることはなかったのだろうか。キルナのように、強くなれただろうか。
 例え真実の欠片が降ってきたところで、現実を生きる為にそれを振り払うことが、できたのだろうか――。
「セライム」
 やや低い声に、心を直接触られた心地でセライムはぴくりと反応した。顔を向けると、キルナが呆れた視線を送ってきている。
「あたしが隣にいること忘れて自分の世界に没頭しないでよ、もう」
「あ、ああ……すまない」
 慌てて視線を床に這わす。しかし、言葉はうまく続かなかった。雨の日に出会った灰色の女性は、歓楽街の方に向かったのを見たきりだ。あの後、歓楽街に足を運んで探したのだが、猥雑に建物が乱立するあの地区で人一人を探すのは無謀にすぎた。結局見つけることができず、それからはぼんやりとした日々が続いていた。
 もう一度あの辺りに探しに行こうと何度も考えた。しかし、そこで恐ろしくもなったのだ。真実を知ってしまうことで、本当の絶望が待っているのではないかという恐怖。または、追い求めたところで、あの新聞記者と話したときのように、真実を得られずに希望の灯を吹き消されてしまうのではないかという不安。
 そして、灰色の女性は都市内であるにも関わらず、護符を使った様子もないのに空中浮遊という高等魔法まで行使してみせたのだ。得体の知れない彼女が父を知っているとすれば、父とどのような関係にあったのだろうか――。
「あんたね、人の話聞いてる?」
「う」
 こつん、と軽くこめかみを小突かれて、セライムは再び現実に引き戻された。目を瞬かせてキルナを見ると、先ほどの倍は呆れた表情を浮かべている。
「す、すまない」
「もう。なんでこんなに手がかかるのかしら」
 キルナは溜息をついて足を組みかえると、割れ物に触れるような慎重さで口を開いた。
「……お父さんの話、新しいことが分かったの?」
「――」
 キルナには父の知り合いの新聞記者に会ったことをだけ告げていた。灰色の女性については打ち明けていない。都市内で護符も使わずに浮遊術を行使した人間など、セライム自身も信じられなかったからだ。
 セライムは隣に座るキルナを見た。幼い頃に出会ってから、本当の姉のように思っていた友人だ。最も信頼していたし、だから心配させたくはなかった。
 いち、に、と胸の中で小さく数えて、セライムは息を吸った。
「いや――結局、よくわからなかった」
 幸いにも声は震えず、苦手な嘘はすんなりと喉を滑ってくれる。キルナはそんなこちらをじっと見つめて、小さく返事をした。
「そう」
 延びてきた手に頭を引かれて、キルナの肩にもたれかかる。針でつつかれたような胸の痛みと、触れた暖かさが混じって、セライムは僅かに顔をしかめた。
 そして、同時に決意した。明日から、双子の目を盗んで歓楽街に行ってみよう。あの、灰色の女性に会おう。そして父のことを聞いて、キルナに嘘をつかなくていい日を取り戻そう。甘ったるい夢にすがる為でなく、過去を乗り越える為に真実を探すのだ。そうだ、自分は強くならなければならないのだから。いつか、この地を去るその日までに――。
「キルナ。もう遅いから寝よう」
 立ち上がって告げると、セライムは洗面所に向かった。一度決めたら、もう迷う必要はない。今日はたっぷりと眠って、明日に備えなければいけなかった。
 金髪の少女の後姿を見送ったキルナは、ふう、と息を抜いて頭の髪飾りを抜いた。淡いエメラルドグリーンの豊かな髪が解放されて肩に落ちる。それを手で整えながら、ちらっと壁の隅に目をやって、小さく彼女は呟いた。
「――ったく、なんであそこまで嘘がド下手なのかしらね」
 無論、それは前ばかりを見つめる少女には届かない。


 ***


 この光景は何だ。
 世界を歪めるような眩暈は、いつまで経っても慣れることはない。
 幸福が奪われるのは一瞬だ。
 守れなかったものは、己の責。
 誰も助けてくれるはずがない。他人のために生きるものなどいない。故に、この手でこの足でこの体で。守らなければいけなかった、その筈だったのに。
 女性は眠っている。
 女性は、母だ。

 最古の記憶に映るそれは、いつの頃のものだったろう。古ぼけた、狭い家に母と二人きり。周囲に他の人間の気配はなかった。まるで何かから隠れるように、谷と谷の合間にぽつりと家は経っていた。今考えれば、猟師か何かが使っていた空家だったのかもしれない。
 家は殺風景だった。母は普段から息を潜めるように言葉少なだった。しかし、愛情は人一倍あったのだと思う。母はことあるごとに抱き締めてくれた。町に買い物にでて帰ってきたときでさえ、出迎えた自分を見ると涙を零して腕を伸べてきた。
 あの頃から、歯車は狂っていたのだろうか。今となっては分からない。何もかもが完全に狂った、この今では。
 絶対に開けてはいけない封筒があった。それは暖炉の裏側に隠してあって、母は記憶に刷り込むように自分に言い聞かせた。本当に困ったことが起きたときにだけ、これを開けなさい、と。そう抱きしめながら、耳元で囁いた。簡単なことで開けては絶対にいけないと。

 そして記憶は途切れる。

 幸福が奪われるのは、たったの一瞬なのだ。
 それが、本当に幸福であったのかは、分からないけれど。でも、きっと。
 自分はあそこに帰りたいと思っている。

 血がどくどくと流れ出ていた。

 守れなかったのは、己の責任なのだ。
 それが、誰に守れと言われたものでなかったのは、確かだけれど。でも、きっと。
 自分にもっと力があれば、時は淀まなかったと思っている。

 大人たちが集まってきた。母はどこかに運ばれた。

 誰も、助けてくれるはずがないのだ。
 それが、真理であるのかは、分からないけれど。でも、きっと。
 血を見て動揺した彼らが、血が消えると同時に踵を返すのを見た自分にとって、それは現実であった。

 病院で、金がいると言われた。母を救うには、金がいるのだと。
 開けてはいけない封筒を破って、中身を取り出した。見知らぬ冊子が入っていた。大人に見せて、これでいいかと言った。大人たちは目を見張って、十分だと言った。十分すぎるとも。
 冊子は、通帳だった。自分の名義と、天文学的な数値がそこに刻まれていた。
 母は命を取り留めた。
 だが、それだけだった。


「母さん」
 エディオは鞄を脇に置いて、横たわる母を前に喉の奥で呟いた。いくら呼びかけたところで届かないことは知っていたから。
 白いベッドに、長い茶髪が散っている。力なく投げ出された体は眠りについているかのように見えるが、目は開いていた。時折みせる瞬きだけが、彼女が生きている証であった。
 母の手足は目を逸らしたくなるような物々しい拘束具で繋がれている。そして、抵抗したことによる痛々しい傷が白い肌を紅く染めていた。呼ばれた自分が来るまで、随分暴れたらしい。鎮静剤を打たれた現在は糸が切れた人形のようになっているが、前見たときよりも増えている手足の傷がエディオの薄い唇を歪めさせた。
「昨日の一件から、ずっとこのような様子だ」
 主治医が平坦な声で言う。己の管理に非があったというのに、謝罪の色もなく淡々と事実を述べる。
 だがエディオは口を閉ざしたままだった。彼は分かっていた。もう、医者たちが母を見放していることを。正気を失ってから既に10年近く、母は施せる治療は全て試した上で未だベッドに繋がれている。
 エディオは母の白い顔に目を落したまま、その瞳がこちらに向くのを待つままだ。彼に出来ることは、そうやって母を見つめ、語りかけ、そしてこの狂った光景を己の中に閉じ込めるだけであった。
 つと、弛緩していた母の唇が微かに動いた。ひび割れたような声を、やせ細った喉が紡ぐ。意味をなさない言葉の羅列が、高く、低く、歌うように震えて広がる。
 医者は鼻から息を抜き、二三言葉をかけて出て行った。エディオは椅子に座って、母の言葉に耳を傾けた。
「――あなたはだれ」
 母の声が、意味を成す。舌足らずの少女のような声で、母は虚空を見つめて問う。
「ああ。ごめんなさいね。今コーヒーをいれるわ。お外は晴れているのかしら」
 表情にはいつの間にか恍惚が浮かび、手を述べようとしたのか、拘束具に阻まれてベッドが僅かに軋む。
「ふふ、ヘリオート? おいたはいけないと言ったでしょう。わたし、あなたのこと」
 あなたのこと、あなたのこと、あなたのこと。
 母は、幾度も繰り返す。知らない名前を繰り返す。目を見開き、体を戦慄かせ、周囲の空気をざわめかせる。エディオは、尖ったガラスに触れるように母の髪に手を伸ばす。
「母さん」
 この光景は何だ。
 幾度となく問いかけた答えは未だ、返ってこない。
 迷夢に足を踏み入れたのは、いつのことだったか。
 あの日、母を守ることができなかった。これはその罰だ。
 母を救うために、己の全てを注ぐ日々。しかし終わらない道を駆けていくのでは、本当に進んでいるのかも定かではなく。
 いつまでこの足で歩けるだろう。
「おおお」
 獣じみた声で母が吠える。ぎしぎしとベッドが揺れる。病室は空虚だ。母を刺激するものは全て取り払われ、窓ですらカーテンが閉じられ、人工的な白い明かりで満たされている。
 母は、自分を見ない。
「母さん」
「――ラス」
 髪に手が触れるその瞬間、エディオはびくりとその指を戻した。母はうわ言のように繰り返す。
「ユラス、ユラス」
 平衡感覚を失ったかのように、彼は暫く無言で母を凝視していた。
「ユラス」
 白い肌に、涙の筋が落ちていた。
 母が紡ぐ名前は、ヘリオートでしかなかった筈だ。それが誰のことを指すのは今まで分からなかったけれども。
 なのに、何故それを声にするのか。自分の名前ですら、呼ばれたことがないのに。それに、昨日の出来事で――母があの紫の少年の名を耳にすることはあったろうか。
「……」
 エディオは、膝の上に戻した拳を、爪を食い込ませるように固く握りしめた。
 母は、置き去りにされた子供のように一つの名を繰り返すまま、泣いている。




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