-紫翼-
二章:星に願いを 11.氷上に成り立つ均衡 「……悪かったな」 包帯の端を始末して、ボルドゥさんは疲れたように呟いた。全く医者に見えない風体であったが、治療の手際の良さはまるで魔術でも見ているかのようだった。痣が浮いた首に包帯を巻いてもらった俺は、未だ混乱したままぼんやりと座っていることしか出来ない。 「にしてもまあ、縁があるもんだな。またお前の手当することになるなんてよ」 そう言いながらボルドゥさんは時計にちらっと目をやった。一度考え込むように目を閉じ、そうしてのっそりと立ち上がる。 「時間あるなら付き合え」 「え、ちょっ」 「本当はな、まだ休憩中なんだよ。終わるまでにヤニ吸わねえと、夜までもたねぇ」 ぼりぼりと頭をかきながら、ボルドゥさんは診療室から出ていってしまった。慌てて鞄を引っ掴んで、俺も続く。白衣のポケットに手を突っ込んだボルドゥさんは階段を上って、屋上に続く扉に手をかけた。 ぱっと景色が開ける。広がる青空と吹き抜ける風、そして干されたシーツが気持ち良さそうにはためくグラーシア国立病院の屋上からは、高く作られたフェンスごしに都市の風景が一望できた。ボルドゥさんは、ふっと目を細めて、暫しぼんやりと立ちつくす。 「この景色、どう思うよ」 「……いや、まあ――綺麗ですね」 月並みな俺の返答に、ボルドゥさんは含み笑いをして歩き出すと、ポケットから取り出した煙草に火をつけた。吐きだした煙は、風と共に青い空気に溶けていく。 「あー。うめえ。この一本があるからやってけるってもんだ。お前も吸うか」 「い、いえ。いいです」 慌てて手を振ると、あっそう、とつまらなそうにボルドゥさんはフェンスに背をつけて空を見上げた。こちらまで煙の匂いが漂ってくる。俺たち以外に人はおらず、吹き付ける風の音だけが場を支配している。 「……あの。さっきの、女の人ですけど」 「悪りぃ。患者のことについては言えねぇんだ」 俺の言葉に重なるようにして、ボルドゥさんははっきりと言った。口ごもる俺を見て、皮肉げに目元を歪める。 「しかもあの連中の事なかれ主義は異常だからよ。お前さんが警視院にでも行って主張しない限り、恐らく事は公にならねぇ。まあなったとして、やつらに徹底的に潰されるのがオチだ。ここの医者は汚えからよ――悪いな。俺が謝って許されることじゃねえんだろうけど」 ボルドゥさんは静かにそう告げて、沈黙した。俺は暫く灰色の地面に目を這わせて、一度唾を飲み込んでから首を振る。 「……いえ」 俺が遭遇した出来事は、おおよそただの不幸な事件で済ませられるものではないだろう。あのときボルドゥさんが来ていなかったら、多分もっと恐ろしいことが起きていた。だが、それを公にはできないとボルドゥさんはきっぱり告げたのだ。こんな場所に連れだしたのだから、きっと罵倒を投げかけられることを覚悟で。 だからか、俺の答えを聞いて意外そうにボルドゥさんの目が瞬いた。そうして、こちらを探るように人の悪い顔で笑いかけてくる。 「お前さんよ、殺されそうになったってのに。どっかのバカに似たのか人が良すぎんぜ。損する性格だな」 面と向かって言われると、口の中が苦くなった。何も言えないのは、早く先ほどのことを忘れてしまいたかったからかもしれない。忘れようにも忘れられないあの顔が、目に焼き付いているのだけれど。そして、こちらを見て目を見開いた――。 「……エディオ」 「ん?」 「寮で同じ部屋にいる奴なんです、あそこにいた学生」 ボルドゥさんは、僅かに何かを言いかけて、それを煙草で塞いだ。煙と共に吐き出される声は、どことなく暗い。 「そうか」 それ以上、何も言う気はないようだった。医者として余計なことは言わない、良い先生だ。 「ってか、なんでお前さんあんなところでフラフラしてたんだよ」 「あ、それは」 ティティルの見舞いに来たのだと告げると、ボルドゥさんは納得したように呟いた。 「ああ、古本屋のせがれか」 「ハーヴェイさんのこと知ってるんですか」 「ろくでもねぇ縁だよ」 いけしゃあしゃあと煙草を吹かせながら嘯く。俺はちょっと笑って、あることに思い当った。 「じゃあ、ハーヴェイさんに会っても、俺が事件に遭ったことは言わないで下さい。多分、気とか遣われちゃうんで」 「お前さんね」 俺の言葉を聞いている内に血色を悪くさせ、顔を覆うようにしてボルドゥさんは呻いた。 「勘弁してくれ、その物言いはあのバカにそっくりだ。あんなのが二人もいたらついていけねえ」 あのバカ――とボルドゥさんが言う、俺の保護者になってくれている人を思い出して、俺は頬をかいた。フェレイ先生は俺なんかの手が届かないくらいの人であるから、あんな風になれたらそれは良いことだと思うのだが。 フェレイ先生とボルドゥさんは、どうやら縁がある仲らしい。とはいっても、フェレイ先生は元々病院にはほとんど来ないし、ボルドゥさんも忙しそうだから、普段会っているようには見えないのだけれど。思えば、病院嫌いのフェレイ先生が医者と知り合いというのはなんだかちょっと不思議だ。 「ま、お前さんには可愛げがあるだけまだマシか」 ボルドゥさんは煙草の煙を上の方に吹きだして、何かを思い出すように薄っすらと笑った。 「綺麗な空だよなぁ」 見上げると、確かに目を見張るほどに澄み切った空が広がっている。他のものに阻害されない、開けた青。あまり日差しが似合わないボルドゥさんは、それを眩しげに受け止めて、また煙草をふかしていた。 *** 男子寮の自室に戻ってからは、ベランダで暗くなっていく外をぼんやりと眺める以外にやることがなかった。 吹き付いては渦を巻く風に唇が乾いてかさつく。包帯ごしに首に手を触れると、じんわりとした痛みがあった。 「あー」 手すりに腕をついて、髪に手を差し込む。エディオが帰ってきたら、どんな顔で迎えればいいだろうか。 見た様子では、あいつは俺に襲いかかってきた女性と関わりがあるようだった。意識が朦朧としていたからぼんやりとしか覚えていないけれど、あいつは確かに女性に付き添って去っていったのだから。 そして、笑いながら俺の首に手をかけた女性。あの女性の様子は、まともには見えなかった――。 「うー」 なんだか見るからに複雑そうな話である。厄介なことになってしまった。 俺に何かできることがあるなら助けになってやりたいが、そもそも俺はエディオに嫌われているというか無視されているというか。そんな感じなので、あまり今日のことに関してエディオに詰め寄るのも良くないだろうし。 「困った」 今日のことなど忘れてしまって、普段通りにしていればいいんだろうか。でも、あの女性のことはとても気になるし――。 そのとき、がちゃん、と背後でドアノブが回る音がして、慌てて俺は振り向いた。ぼうっとしている間に辺りはすっかり暗くなっていたようだ。帰ってきて電気をつけたスアローグは俺がいるのに気づいてぎょっとした。 「なんだ、帰っていたのかい。電気もつけないで」 「あ、ああ」 俺はうろたえながら部屋にあがって、窓を閉めた。だが、スアローグはすぐに俺の首に巻かれた包帯に気付いたらしく、怪訝そうに眉を潜めた。 「何かあったのかい」 「……まあ、色々と」 制服のケープを緩めるスアローグを前に、俺はソファーに腰掛けて背を預ける。そうだ、スアローグに相談したら何か知っているかもしれない。こいつ、エディオとの付き合いも長そうだし。そう思って、今日あったことを話すことにした。 「国立病院でさ、エディオに会ったんだ」 「――」 ぴたりとスアローグの体が糸に引かれたように固まる。だが俺はその意味も分からず、首を傾げながら続けた。 「その、女の人に付き添ってる感じだったんだけど、その人が――」 「ユラス」 言葉を選びながら話していた俺を、スアローグは短く止めた。顔をあげると、スアローグはこちらに目を合わせず、感情を押し殺すように俯いていた。その口元は、いつものように皮肉げに笑ってはいない。強張った拳を握りしめて、スアローグは静かに言った。 「……その話は、やめてくれないかい」 そこに含まれる明らかな苛立ちに、俺は体が冷たくなるのを感じながらスアローグを見つめた。思い起こされるのは、去年の出来事。そうだ、あのときもこいつはエディオと病院の関連について、話すことを拒否したんだった。 硬化した時間は息苦しく、苦悩に歪む。スアローグは心を閉ざすかのように、部屋の隅ばかりを見つめている。 「スアローグ、お前」 「やめてくれ」 先ほどより強い口調で止められる。それを紡ぐ胸が上下している。スアローグはかぶりを振って、逃げ出すようにケープを脱いで壁にかけた。 「……そのことは、話したくない」 まるで、初めて会った人の声のようだった。鋭い拒絶は、俺との間に見えない盾となって立ち塞がる。 何かを知っているのは、瞭然としていた。だが、見た感じこいつはこうなったら絶対に話さないだろう。元々、あまり重たい話はしない――いや、むしろそういう話を避ける奴だった。 「そっか、悪い」 だからそう言うしかない。思わず膝を抱えて、顎を乗せる。スアローグは作業のように服を替えて作り置きのコーヒーをカップに入れた。いつもそこで俺の分も入れてくれるのだが、今日はなかった。そのくらい機嫌が悪いんだろう。 ああ。なんだか面倒臭い。こいつ、エディオと何があったんだろうか。考えてみれば、スアローグは幼学院の頃からエディオを知っているだろうに、今までほとんどそのことが会話に上ることはなかった。 腹の底から溜息をついたとき、再び扉が開いた。げっと口元が反射的にひきつったが、無情にも時は待ってくれない。現れたのは、件のエディオ本人であった。 針のむしろに座っている気分で、どうしたものかと俺はちらっとスアローグの様子を伺った。おかえり、と機械的に言ってそれきりスアローグは課題に意識を落とす。エディオの方は、俺を一瞥したが何も言わず、まるで無人の部屋に帰ってきたかのような仏頂面で目の前を通り過ぎて行った。そのままいつものようにケープと上着だけ脱いで寝てしまう。 ……今まで、そんなに気にしたことはなかったのだけれど。 俺がいる部屋って、これ、結構異常なんじゃなかろうか、とか考える俺である。 いや。俺がそもそも色んな意味で異常なのだから、通常がどのようなものなのか、はっきりとは言えないのだけれど。でも、これはまずい気がする。 「いっ」 テーブルのスアローグとベッドのエディオを交互に見やっていたら、首がじんわりと傷んだ。そこからあの時の恐怖が再びじわじわ胸にせりあがってきて、膝に顔を埋める。なんだか、頭が痛くなってきた。 安寧の日々を過ごしたいのであれば、今日のことは、何もなかったことにしておいた方がいいのかもしれない。今まで、そうやってこの部屋の均衡は保たれていたのだろうから。 「安寧の日々、か」 喉の奥で呟いた。 ――情けない男じゃのう。 俺に向かってそう言い放った、黒い声が沸き起こった。 ぎゅっと膝を抱える力を強める。そう言われたって、俺はやっぱり変わらぬ平凡な日々を送りたい。分からない過去の暗いところなど、考えたくない。この均衡を壊してまで、真実を得たいとは思えない。 だから、きっと俺は何も言わない方がいいんだろう。 スアローグが口を閉ざし、エディオがこちらを見ず、俺が手を出さなければ、きっとあと一年は何事もなく過ごせるはずだ。 だから、だから。 もう、今日のことは忘れよう、と俺は吐き出した息と共に決意した。氷上に成り立つ均衡を、この足で割ることのないように。 Back |