-紫翼-
二章:星に願いを

10.壊れたオルゴール



 しんと静まり返った空気は、ひたすらに重い。誰もが黙り込んで、どう声をかけたものかと視線を彷徨わせている。俺は息苦しさに溜息をついて、胸のところにある小さな頭を撫でてやった。ティティルは、ベッドに座ったまま俺に抱きついて離れようとしない。服に顔を埋められているから、小さな震えが直に伝わってきて、意図せず顔が歪んだ。
 グラーシア国立病院の病棟はカーテンで区切りがされていて、更にそこにベッドと見舞人がいるのだから、なんとなく窮屈だ。ハーヴェイさんは椅子に座って腕を組み、ミューラ先生も不安げにティティルを見つめている。
 ティティルの怪我は、幸いにして命に別状があるものではなかった。頭を打ったそうで、様子見の為に入院したのだが、一日経った今日も異変は見られない。だから病院側も、すぐに退院できる見込みだとは言ってくれた。だが、問題は――ティティルが建物から落ちた理由にあった。
『変な人を見たんだ』
 身軽なこいつは、その日も屋根の上を通り抜けて一人で遊んでいたらしい。しかし、そのとき、妙な人影を見つけて驚いて足を滑らせたのだという。
『灰色の髪をした男の人』
 それを聞いたときは、俺の心臓はとび跳ねた。いつか出会った灰色の子供のことかと思ったのだ。だが、ティティルが言うには成人の男性だったらしい。その灰色の男性というのが、時計塔の頂上に立って地上を見下ろしていたというのだ。
 駅前の時計塔といえば、都市の大抵の場所から見えるほどの高さがあり、しかも屋根にまで昇る道などない。生半可ではない高さの場所に立ったその人は、風に服をはためかせ、そして――突然、そこから飛び降りたのだという。
 ティティルが覚えているのはそこまでだった。思わず足の力が抜けて、そこで屋根から落ちてしまったのだから。
 だが、調べてみても、あの日に時計塔から誰かが転落したなどという話はなく、目撃者すらいなかった。だから、病院の人たちもそれを子供の見間違いだと片付けた。
『違うっ! 本当に見たんだよっ』
 ティティルは何度も食いついたが、大人たちは取り合わない。両親であるハーヴェイさんとミューラ先生も、複雑そうな顔でそんなティティルを諭した。
『なんで信じてくれないんだ、本当に見たのに――!』
 涙を見せるまいとティティルは俺に抱きついたまま動かない。灰色の髪という単語に反応した俺が、一番ティティルの話をまともに聞いたからかもしれない。悔しさに肩を震わせている幼い少年の茶色い巻き毛を撫でてやりながら、俺は何度目になるか分からない溜息をついた。俺も、正直なところ、真実かどうかは分からない。こいつが嘘を言って大人をからかうような奴じゃないのは分かるけれど、それにしても言い分が荒唐無稽だ。
「ティティル。とにかく今は皆、お前が無事だったことに、ほっとしてるんだ」
 言葉を選びながら語りかけると、ぎゅっと服を掴む手が強くなる。
「……兄ちゃんも、信じてくれないのかよ」
 俺はちょっと困りながらも笑った。涙ぐんだ鼻声は、心にナイフのように突き刺さる。
「いや、俺は本当だと思う」
 そう言うと、ハーヴェイさんがぴくりと眉をあげ、ティティルも疑いの目を向けてきた。ああ、ハーヴェイさんの視線がちょっと怖い。適当なこと言うんじゃねぇよとか、あとでブチ殺されるだろうか。
 でも、俺は内心ではこう考えてもいたのだ。
「ここはグラーシアだ。よく異臭騒ぎとか小爆発とか、なんか色々起きるだろ。だから、そういうこともあるんじゃないのか?」
 時計塔の屋根の上まで行って、そこから町を見下ろした後、飛び降りて浮遊術でどっかに消える――そのくらいだったら、俺にもできそうだし。似たような人が一人二人いたって、むしろ嬉しいかもしれない。
 ティティルは非常に微妙な顔で見上げてくれた。俺の思考の適当さに対する疑いと、信じてくれた嬉しさがないまぜになって、純粋に喜べないみたいだった。ぽりぽりと俺は頬をかく。
「まあ、これからは屋根に登ったりするな。変な奴見つけたら冷静にとっ捕まえなきゃ大人だって信じてくれないし」
「……適当だな、兄ちゃんは」
 ぐす、と鼻をすすりながらゆっくりと顔を離したティティルは、拳で赤い目元をぬぐった。泣き腫らした顔で俺を睨むと、そのままベッドに入って頭まで布団をかぶってしまう。
「寝る」
 掛布ごしにくぐもった声で言ってから、ティティルは沈黙した。もう話す気はないらしい。とりあえず肩を撫で下ろして、俺は向かいにいるハーヴェイさんとミューラ先生に軽く会釈した。
「じゃ、俺はそろそろ行きます。お大事に――ティティル。明日、また来るから」
 返事はなく、代わりに掛布がぎゅっと引きあがる。思わず喉の奥で笑いながら、俺はもう一度会釈してカーテンの外に出た。
「ユラス君」
 振り向くと、思わずといった風に口を開いたミューラ先生が、こちらをひたと見つめていた。
「ありがとう」
「……いえ」
 俺が笑うと、ミューラ先生もふんわりと笑った。ハーヴェイさんが隣で仏頂面のまま、口をもたげる。
「明日は通常営業だ」
「わかりました」
 昨日今日と、鷹目堂は臨時休業となっていた。俺は頷いて、病室を後にした。


 ***


 グラーシア国立病院は、何度も案内を確認しなければ迷ってしまうくらいに広い。その上、いくつ角を折れても同じような光景が続くばかりで、なんとなく不安になる。たまに看護師のお姉さんや患者の人とすれ違うが、歩くたびに消毒液の匂いがつんと鼻をつく、息が詰まるような場所であった。今後とも、あまりお世話にはなりたくないと思う。まあ、病院の居心地が良いってのもまた問題だから、この程度でいいんだろうけれど。
 長い廊下には、同じ形の扉がのっぺりと続く。人影はなかった。人の気配がなくなってしまうと、むしろ怖くなってくる。なんか、突然扉が開いて化け物がでてきたりとか――いやそんな失礼なことを考えてはいけない、でも怖い。ああ。
 一人煩悶しながら恐る恐る足を踏み出し、なんとか通り切る。階段を降りてしまえば、出口はもう遠くない。
 そう思って階段にさしかかったとき、俺はふと顔をあげた。
 静寂の建物に放たれた音はよく通る。だがそれがあまりに場違いなものだったので、俺は思わず足を止めた。女性が紡ぐ音の連なり――これは、歌だろうか。
 だが、それにしては奇妙な旋律だった。甘ったるい音色なのに、鼻歌のように音が安定しない。子守唄のような優しい歌が、壊れたオルゴールじみた錆びをはらんで、妙に胸をざわめかせる。
 なんとなく嫌な感じがして、俺は階段を降りるのをためらった。別の階段を探してそちらから帰ったほうがいいかもしれない。しかし、それにしても歌っているのは患者だろうか。
 だが俺がそんなことを考えている内に、思いがけず歌声はふらりと近づいてきた。かつん、かつん、と階段を叩く足音が上ってくるのに、砂の中にいるように身動きがとれなくなる。
 歌っているのは誰なのか知りたい好奇心と、耳を塞いでこの場から立ち去った方がいいと叫ぶ恐怖心と。二つの衝動が胸でぶつかって、いよいよ足は動かない。そうして俺は見下ろす形で、歌を紡ぐ女性を――見た。
 踊り場の窓から降り注ぐ白い光を浴びて、その人はほっそりとした頬に笑みを刻んで現れた。背に流した茶髪が、彼女が歩くたびにこの世のものとは思えない様子でなびく。服は、思った通りの白い患者服。その清潔な白が、歌う人を別世界の住人に見せていた。若い人ではない。ミューラ先生より年上の婦人だ。だが歌いながら歩くその姿は、まるでうっとりと夢を見る少女のよう。
 俺とその人は、階段ごしに目を合わせた。女性は、聖母のようにふんわりと微笑んで、僅かに首を傾げた。蛇に睨まれた蛙のように、俺は動けないまま、心が冷たく凍りつくのを感じていた。何故だ、目の前の人は笑っているはずなのに。
 こつ、こつ、と髪を揺らして、その人は一歩ずつ距離を詰めてくる。綺麗な顔立ちの人だった。陽の光など知らないような青白い肌に、遠いところを見るような瞳、口元には相変わらず儚げな微笑みを湛えている。
 歌は、気がついたら止んでいた。いつ止んだのか分からないほどに、俺はその人に呑みこまれていた。
 至近距離に立たれて、女性としては随分背が高いことに気付く。俺はその人を見上げて、僅かに会釈した。頭のどこかで、現実に戻ろうとしていたからかもしれない。
 刹那、俺は何かの異変を感じ取った。ひゅっと風が動く。作り物のような女の人の髪が、現実感を剥ぎ取るようにふんわり揺れる。
 おかしいな、と思ったときには何もかも遅かった。
「――っ!?」
 視界が瞬くように点滅する。首元にその人の手が巻きついて、恐ろしい力で締めあげられていた。反射的に体ごと振り払おうとするが、首元の手は万力となって俺を離さない。明確な殺意にぞっと背筋が冷えて、助けを求めようとした。だが潰された喉は掠れた音を繰り返すばかり。
 混乱に、目の前が暗くなってくる。女性は笑っている。くすくすと、肩を揺らせながら。瞳はまるで夢を見ているかのよう。うっとりと、幸福な夢を。
 ――何が起きているんだ!
 喉元に食い込む指を引き剥がそうと手をかけるが、力が入らない。指の先の感覚が痺れたようになっている。体を捩ろうとして、逆に首が悲鳴をあげる。
 だがそんなとき、誰かが階段を上がってくるのが薄れる視界の端に映った。
「……あー、ったく、ホントやってらんねー……ん?」
 その人の着る白い服が、やたら網膜に焼き付く。無我夢中で手を伸ばす。その人が、目を剥いて一瞬固まり、次の瞬間弾かれたように階段を上ってくるのが見えた。
「おいッ!?」
 背の低い男の人は、女性に取りつくと力任せに俺から引き剥がした。ぱっと茶髪が宙を舞う。女性は、何が起きたか分からないような顔で目を瞬き、手をこちらに伸ばした。
「おおお」
 獣じみた声が、降ってくる。体中の力が抜けてその場に蹲る形になった俺は、激しく咳込んで空気を求めて喘ぎながら、その手から離れようと動いた。目には涙が滲んで視界もままならなかったが、男の人が代わりに叫んでくれた。
「おいッ!! 誰かいないのか!!」
 女性を取り押さえながら廊下に向けて太い声で叫ぶ。女性は体を束縛されると、狂ったようにわめきながら暴れだした。半ばのしかかるようにして男の人はその体を床に押さえこんでいる。
「ボルドゥ先生!?」
「人を呼べ!! すぐにだっ!!」
「は、はい!」
 廊下の向こうで騒ぎを聞きつけて走ってきた看護師の女の人が、事の緊急性を見て踵を返す。
「あああああ!!」
 泣き叫ぶような大声と共にこちらに向けて伸べられる、やせ細った白い手。俺は恐怖に体がすくみあがって、じりじりと壁際まで後ずさった。別の方から人の気配と呼び声が聞こえてきたのは、そのときだった。
「ルーシャさん!!」
「――母さんッ!」
 白衣を着た若い男の人が複数人と、あともう一人が硬い床を蹴って駆け寄り、女性にとりつく。彼女は髪を振り乱して激しく暴れたが、何人もの男性の前ではすぐに取り押さえられた。
 そして、白衣を着ていない一人――白いケープの下に濃紅の上着を着た、茶髪の少年がちらりとこちらに振り向く。目が合った瞬間、俺たちはそれぞれ言葉を失った。だが、そのとき腹の底に響くような怒声が場を打って、口を開く機会すらも失せてしまう。
「――にやってんだよこのボケが!!」
 俺を最初に助けてくれた、医者らしき白衣の男性だった。どこかで見たことがある人だ。その人は、後からやってきた医者の胸倉を掴んで壁に叩きつけた。衝撃に歪む若い顔が、弱々しく呻く。
「申し訳ありません……ベルトが緩んでいたようで、少し目を離した隙に」
「は、ごめんで命が返ってくるとでも思ってんのかよ。あと少し遅かったらどうなってたか、その腐った脳みそでも分かるだろコラ」
 顔をぎりぎりまで寄せて低く囁くと、若い医者は益々泣きそうな顔をした。舌打ちと共に離されると、そのままへたり込んでしまう。
「チッ、この脳なしが」
 暴れていた女性は、注射を打たれて意識を失ったようだった。だらりと弛緩した顔を、長い茶髪が覆い隠している。忌々しそうにそれを見た――俺を助けてくれた人は、こちらを見てふと眉を潜めた。
「お前、学園長んとこの」
「あ……」
 ようやくはっきりしてきた意識の中で思い出す。その人は、去年の秋に入院したときの俺の主治医だ。確か、名前はボルドゥ先生。ぼさぼさに生やした赤茶の髪と猫背が印象的な、ちょっと退廃的な雰囲気の人だ。
「も、申し訳ありません、ボルドゥ医師。この件につきましては、また追って連絡を――」
「さっさと行け」
 恐る恐るといった風に述べた若い医者をボルドゥさんが一瞥で追い払うと、彼らはそそくさと女性を連れて行ってしまった。そして、グラーシア学園の制服を着たそいつも。
「待っ――」
 立ち上がろうとして、体が前に流れる。血がまだ行き渡っていないのか、思い通りに安定しない。再び地面に手をつく俺を振りかえらずに――。

 エディオは、女性に付き添うようにして彼らと共に去って行った。




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