-紫翼-
二章:星に願いを

09.父の影



 ソファーの手すりに足を乗せる形で眠っていた彼は、ふと僅かに眉根を寄せた。細い指先が強張り、長い睫毛が同時に震える。
 暫しのまどろみを、彼は繰り返しているようだった。やがて覚醒が訪れたか、薄く開いた琥珀の瞳は、飛び込む光を受けて鬱陶しげに歪められる。
「……嫌な夢だ」
 レンデバーはべっこう色の髪をかきあげて、半眼のまま意識を部屋に巡らせた。
「グレイヘイズ、僕どれくらい寝てた?」
「半時ほどです。食事はテーブルに用意してありますので」
「ん」
 グレイヘイズは部屋の端の机で資料と向き合っている。見かけによらずこの男はこういった書類仕事が得意であった。
 二人が滞在しているのは、学術都市グラーシアの宿の一室だ。しっとりと落ちついた調度品によって整えられた広い部屋は、庶民が出せる値段ではとても泊まれない。だが、レンデバーはそんな部屋の使用者とは思えないほど不機嫌そうな顔で、のっそりと起き上がってテーブルの上の冷めた料理に手をつけはじめた。だらしなく椅子に浅く座り、頬杖をつきながらフォークでサラダをつつく。
「グレイヘイズ。おいしくない」
「我慢してください。こういった場所の食事とはそんなものです」
 黙々と積まれた資料を整理していたグレイヘイズは、溜息をついて立ち上がった。彼の主人は、気まぐれで我儘で、そしてこれ以上なく寝起きが悪いのだ。

 部屋のカーテンは隙間なく閉め切られている。外からは、雨が降り注ぐ音が絶えず聞こえていた。
「調べれば調べるほど、奇妙な臭いがしますね」
 グラスに水差しを傾けるレンデバーの向かい側に腰かけたグレイヘイズは、放物線を描く透明な水の流れを眺めながら低く告げる。彼は、自分の主人が酒を飲むところを見たことがなかった。
「今のところ、保護者は学園長の名前になっています。戸籍の方も、どうも胡散臭いので調べてみましたが、行き当たった人物は既に海外に逃げていました」
「鼻がきくねえ。で、学園長って人は?」
「ええ。こちらはまだ調べ始めですが。立場が立場の人物なので、時間がかかるかと」
 あっそう、とレンデバーは投げやりに言ってグラスで舌を湿らせた。
「――ユラス君か。面白い子だったな、友達になってくれたし」
「レンデバー。今後あまりお一人で会うのは勧められません。彼についてはまだ分からないことが多すぎます」
「んーん。色々分かったよ」
 冷めたパンを不味そうに齧るレンデバーに、グレイヘイズは不思議そうに眉を潜めた。オヴェンステーネ家の放火事件を調べる内に、そこにいた生徒の一人が紫の少年であったことが判明してから、二人は彼についての情報を調べていたのである。
「話してるとただの何処にでもいる子供みたいだったよ。知識はあるけど、それを使いこなす知能は人並みだからかな。ただ、言動に関しては軽率でないところがいいね。知り得ぬことは沈黙する。秀才の傲慢は欠片もない――むしろ、秀才であることを不安がっているのかなあ」
 もそもそと食事を進めながら、レンデバーは考えにふけるように切れ長の目を細めた。
「だからさ、どの程度の知識があるのか試してみたんだけど。面白かったよ、歴代大総統の名前言わせたら、行った政策名までぴたりと当てるのに、ある一点から先は突然黙り込んじゃったんだ」
「……ある一点とは」
「ロズウェンまで言えたから、多分40年そこそこ昔くらい。変でしょ? そこまで完璧なのにそれ以上は分かりません、ってさ、自分も不思議そうな顔して言うんだ。その後歴史の話したんだけど、まるで近世の知識がさっぱりない。何十年前かに記された書物と対話してるみたいな気分だったな」
「40年」
「そう、40年。素敵な符合だ」
 レンデバーは確信的な笑みを浮かべて、くつくつと肩を揺らす。雨の夜、部屋の灯りに照らされるその姿は、身の細さと相まって病的な禍々しさがある。グレイヘイズはそれを正面から受け止め、ちらっと扉に目をやってから口を開いた。
「しかし、どう繋がっているかは分かりませんね。まだ情報が少なすぎます」
「うん。僕もそう思うよ――君はどう思う?」
 不意にレンデバーは誰もいない扉に首を回した。グレイヘイズは既に手を懐に差し込んでいる。
「君がつけてきてるのは分かってたけど。立ち聞きは僕、あんまり好きじゃないや。出ておいで」
 キィ、と扉が軋みながら開く。まるで勝手に開いたように。その先に人影はない。グレイヘイズが獲物を見定めるように顎を引いた、その瞬間であった。
 耳が痺れるような爆音と、グレイヘイズが机を蹴りあげ盾にし、レンデバーが飛びずさるのは全てが同時。机は瞬時にして砕け散って煙となり、周囲は灰色に閉ざされる。だがグレイヘイズは顔色一つ変えなかった。
 どちらが先に撃ったのかは分からない。だが、二つの銃声が同時に放たれると、僅かな血飛沫がぱっと舞った。痛みに僅かに頬を歪めたのはグレイヘイズだった。それでも瞬時に床に伏せるようにして標的を見定め、立て続けに引き金を引く。もうもうとあがる煙の中、見えるか見えないかのところにある何かに向けて。
 転がりながら応戦するこちらの動きを束縛しようと、何かが動く。魔力の波動を感じた瞬間、グレイヘイズは舌打ちをしながら護符を取り出し歯で引きちぎった。誤魔化す程度でも、抵抗する術を唱えなければならない。
 しかし、恐ろしいことが起きた。魔術は発動までに印を切る動作が必要な筈だ。なのに、瞬時に膨れ上がったそれが形を成す。空気の振動と共に魔力が収束して解き放たれたその速さに、グレイヘイズは呼吸を止める。だが、それよりも先にグレイヘイズの頭上を光の矢が走った。ィン、とガラスのような音と共に尾を引くそれは、煙の中の侵入者目がけて殺到した。当たれば小指ほどの穴が骨まで貫通するそれらを侵入者は素早くよけたが、そこにグレイヘイズの放った銃弾が飛んだ。ガラスの窓を突き破って影が飛び出すまで、扉が開いてからはたったの数秒。やっと晴れてきた視界の中、グレイヘイズは油断なく拳銃を構えたまま物陰に潜み、辺りは暫く静寂に包まれた。
「……行っちゃった」
 ひらりとレンデバーがベッドに上って座り込む。グレイヘイズも、そろそろと手を下ろして拳銃をしまった。
「僕たち、もう大蛇の尻尾踏んずけたかな。グレイヘイズ、大丈夫?」
「深くはありません」
 左の上腕を赤黒く濡らしたグレイヘイズが、事務的に報告する。レンデバーは魔術を放った右手を冷やすようにひらひら振りながら、部屋の惨状を見渡した。木端微塵の机と割れた食器が散乱し、一部の壁はまるで蜂の巣だ。
「ここの不味いご飯ともお別れだね。あーあ、もう逃亡生活かあ。やんなっちゃう」
 ぼやきながら、ベッドの下に置いておいた荷物を取り出す。グレイヘイズも、手早く傷の止血をすると、同じように荷物を持った。彼らはいつでもこの建物を出ていけるようにしていたので、出発の準備はすぐに整った。
「一度上に連絡をしましょう。ここの部屋についても、手を回してもらわないといけません」
「えー? やだ、絶対怖いおじさんに文句言われるし」
「我儘を言わないで下さい」
「やだ、やだー」
 子供のようにだだをこねるレンデバーに、グレイヘイズは深い溜息をついた。先ほど、あれだけの魔術を行使してのけたとはとても思えない振る舞いである。かと思うと、ぴたりと止まって口元に指をやる。
「うん、でもそうだな。この件に関わると何故か死体になるって噂は本当みたいだ」
 楽しくなってきたねぇ、とレンデバーは嬉しそうに言ってのけて、既に意味をなさなくなった扉を潜り、グレイヘイズもそれに続いた。
 侵入者が消えた外の雨は、今だに止む気配がない。


 ***


 はっと目を見張った彼の前で、セライムは両手で鞄を持ったまま深々と頭を下げた。
「お久しぶりです。――わざわざ来て頂いて、すみません」
「い、いや」
 小太りの男は、取り繕うように頭をかいて、親しげに笑う。リーナディア合州国の有力紙の一つの事務所では、狭い部屋に絶えず電話のベルが鳴り続け、対応に追われる社員たちの会話や足音で賑わっている。
 彼はそんな背後の様子にちらっと目をやって、上の応接間が使えるからと言ってくれた。
「びっくりしたよ。随分大きくなって……」
 ウィスタという名の彼は、この新聞社の記者であり、またセライムの父親の友人でもあった。もう若いとはいえないが、太った顎の線と小さな垂れ目が、彼の雰囲気を柔和にしている。彼はセライムを見て、小さな目を細め、ふと寂しげに呟いた。
「――お父さんにそっくりになってきたな、本当に」
 セライムは、笑うような泣くような、そんな瞳で言葉を受け止めた。

 応接間は下の階と違って静まり返っている。ウィスタは慌ただしい生活を送っている為、ズボンの裾も若干汚れているし、シャツも砕けたように着崩している。しかし、気さくで頭の良く回る男でもあった。彼は、目の前の少女を観察して、しみじみと息をつく。
 湯気を立てるコーヒーを挟んで、二人は応接間で向き合っていた。セライムは膝の上で手を重ねたまま、眼を伏せている。波打つとろけた黄金の髪を腰の辺りまで流し、一昔前の騎士のような彫の深い顔に憂いを乗せる少女の様子は、見れば見るほど父親にそっくりであった。
 セライムが彼を訪ねてきたのは、これが初めてではない。あれは、彼女がまだ中等院の生徒だった頃だろうか。そのときもまた、彼女は幼いながらに思いつめた顔で、この扉を叩いてきたのであった。何処から見つけてきたのだろうか、自分の父親の失踪事件の切り抜きをありったけ握りしめて。
 その記事のほぼ全てを手がけていたウィスタは、彼女の父親の昔からの親友であった。
「もう10年になるのか。おじさんも歳をとるわけだ」
「すみません、お忙しい中」
「いいよ。あいつの娘さんたってのお願いだ」
 彼女からの連絡でグラーシアまでやってきたウィスタは、柔らかい調子で笑う。そして、表情を改めてまっすぐに友人の娘の顔を見つめた。
「それで、話って何かな」
「去年の秋の、オヴェンステーネ家放火事件は知っていますか」
 落ちついた声で、毅然とセライムはそう問うた。
「ああ、オレのとこの管轄じゃなかったけど、簡単な経緯くらいなら」
 セライムは続けて、その事件に自分が関わったこと、そして、その屋敷に住んでいた少女が言ったことについて、ありのままを伝えた。ところどころ、声を震わせながら。そして論文を持ってきた男の話の下りで、ぴくりとウィスタの片眉が跳ねた。
「まだ、お父さんのこと、諦めていないのかい」
「……」
 固く両手を握りしめて、セライムは唇を引き結んだ。前見たときは涙すら浮かべていたあの瞳が、今は痛烈なまでの意志を宿して見返してくる。
 ウィスタはとりあえず座りなおしながら、胸の内の言葉を探した。目の前の少女は、時を経て、賢く真っ直ぐに育っていた。今なら、前に言えなかったことも理解できるだろうか。
 彼は一呼吸を置いて、重たい口を開いた。
「――分かったよ。セライム、君はもう十分に話の分かる大人だ。オレは前にあいつのことを聞かれたとき、いくつか言わなかったことがある。まずはそれを話そう」
 弾かれたようにセライムは体を強張らせた。だが、それ以上は何も言わず、挑むように頷いてみせる。
 そんな父を想う少女の姿には、悲壮すら漂っていた。その胸の内にはどれほどのものが詰まっているのだろう。せめて与えられる誠意を、ウィスタは慎重に言葉にした。
「オレは、あいつが失踪する直前の最後の連絡を聞いてる。あいつはウィーネ州の小さな農村で事務所に電話をかけてきやがった。取材してる内に別件でおもしろいものを見つけたから追ってみる――そこまでは話したよな?」
「はい」
「失踪届がでてからは、オレも血眼で探したよ。あいつとはよく組んで仕事したしさ。記事もいくつも書いた。――だがな、セライム。ここから先は、まだお前には言っていなかった。すまない、これを伝えるにはあの時の君は幼すぎた」
 新聞記者として様々なものを見てきた彼の小さな目は、目尻のしわと共に苦悩に歪む。声を潜めるようにして、彼は続けた。
「ある日のこと、上司に言われたんだよ。――この事件には今後一切関わるな、これは友人としての忠告だ、とね。この意味が、分かるかい」
 静かな口調に、刃のような煌めきが走る。セライムは固く唇を噛み締めて俯いた。沈黙が、重苦しい空気と共に部屋に落ちる。
 ウィスタは深く溜息をついて天井を見上げた。更なる追い打ちであることを知りながら、彼は次の言葉も告げなくてはいけなかった。
「それから、オヴェンステーネ家の事件もね――これがまた、記者界でもいわくつきの事件なんだよ。捜査は中途半端に打ち切られる、情報がこっちに回ってこない、そして深入りしようとした奴の何人かが消息を絶った。今じゃ、怖くて誰もその事件に触れようとしない」
「……確かにおかしかったです。私が証言したことと警視院の見解が違うところも沢山ありました」
「セライム。脅すつもりはないが、君たちは幸運だったと思っていいのかもしれないよ。君たちは口封じをされなかった。子供だからかもしれないけれど」
 低い音色にぞっとしたのか、セライムは不安げに視線をさまよわせた。安心させる言葉が喉元まで出掛かったが、彼はそれを押しとどめた。今はいない友人の、大切な娘を守るために。
「あいつは、君と同じように好奇心旺盛だった。俺なんかの百倍は肝も座ってたし、正義感に溢れてた。だがおそらく、そのひたむきな心が、あいつに不幸を呼びこんでしまったんだ」
 ウィスタは目を閉じるだけで、昔日の記憶を鮮やかに思い起こすことが出来る。張り込んでいた政治家の家の娘に手を出して上司と散々喧嘩をし、そのまま彼女を妻に迎えてしまったときの無駄に勝ち誇った顔。会えば妻と娘の自慢ばかりをして、こちらを辟易とさせた。負けん気の強さと、物事をまっすぐと見据える青の双眸、そして一度決めたら何処までも走っていってしまう彼のあの顔が、未だに忘れられない。
 だからウィスタは首を振った。闇を前に屈した己にできる、わずかな罪滅ぼしだと思って。

「いいか、セライム。それ以上は踏み出すな。あいつのためにも、絶対に」


 ***


 長く波打つ金髪が、湿った風に混じる雨粒を受ける。傘に表情を隠すようにして、セライムは俯いたままだった。
 父の友人の言わんとしていることは、彼女にはよく理解できた。父はきっと、何かとても恐ろしいことに関わっていたのだ。そうでなければ、あの強かった父が帰ってこなかったはずがない。
 だから、乗り越えないといけないと思っていた。今はいない者の影に足を掴まれて、どこにも行けないようでは、きっとこれからは生きていけないだろう。
 そう思っていたのに。

 ――実のところを申し上げると、初めにその方を見つけたのは私なのです。今から10年前のことになりますわ。
 ――あなたによく似た顔と姿をされた、男性でした。心当たりはありませんか。

 もうどこにも落ちてはいないだろうと思っていた手がかりは、見つかってしまった。
 紫の少年に手伝ってもらっていたときも、セライムはきっと新しい糸口など出てくる筈がないと思っていた。何年か前に、自分で徹底的に調べ、父の影を追い求めたのだ。そのときに見つからなかったのだから、今更探したところで何か変わるのだろうか、と心のどこかで考えていた。
 なのに、パズルのピースは突然手の平に落ちてきて。
 それだというのに、そのピースも手の中を滑り落ちて消えてしまった。
「どうして……」
 現実は、残酷すぎた。世界は彼女に僅かな希望を与え、それを手の平を返すように踏みにじる。ようやく降ってきた手がかりは、再び彼女を絶望に落とすことしかしない。
 しとしとと降り注ぐ長い雨の中、心が重たく湿っていく。傘を握り込んだ指が震えていた。彼女の唇と同じように。
 恐ろしいのは、それだけではなかった。もしも、もしもセシリアが出会った男というのが、父なのだとしたら。彼が持ってきたという石のことを知っている様子であった紫の少年は、父について何かを知っているのではないだろうか。彼は記憶を失っているという。それなら、もしかすると――彼の、失くした記憶の中に。
「――」
 そんな筈はない、そんなわけはない。彼はただの友人だ。父の失踪に関わっているなど、認めたくない。
 セライムは首を何度も振り、そう胸に言い聞かせた。
 まるで灰色の海に投げ出されてしまったかのようだった。途方に暮れるまま、もう目も耳も閉じてしまえばいいのかとすら思う。何も知らないふりをして、何も考えないようにして、生きていくのが楽なのではないかとも思う。
「……おとうさん」
 自分を置いてどこかに行ってしまった父を、いっそのこと恨んでしまえたら。
 そうすれば、楽に生きられるだろうか。

 ここ暫く続いていた雨が、暗さと共に少し勢いを増してきた。帰って、課題に手をつけなければいけなかった。キルナに、まだやってないのと怒られてしまう。
 雨の中をわざわざ出歩く者は少なく、普段から殺風景な大通りは廃墟のようですらあった。ここは学びの都グラーシア。冷たい掌の上に生きるは、学究の徒。あるいは――途方にくれた迷子たち。
 セライムは、ふっと瞳を揺らした。道の向こうに、誰かが膝をついて屈みこんでいるのだ。傘はさしておらず、代わりにその身を灰色のローブにすっぽりと包んでいる。
 気分が悪いのだろうか。セライムは水に濡れた石畳を蹴って、そちらに駆け寄った。
「大丈夫ですか」
 近寄ると、やはり灰色のローブは小刻みに震え、乾いた咳を繰り返していた。覗く手はぞっとするほど細く、そして思っていたよりもずっと年齢の若い滑らかな肌をしている。
 自分が濡れるのも構わず傘を差し出したセライムは、その場にしゃがみ込んで顔を覗きこんだ。
「どこか、気分が――」
 言いかけた台詞が途切れる。そのときばかりは、セライムも息を詰めてそこにあった顔を凝視した。灰色のローブの中にいたのは、若い女であった。細い輪郭に、色のない薄い唇。モノクロームの硬質な瞳。そして、同じ灰色をした肩まで伸びる髪。
 何もかも、彼女の姿は色を消失している。古い写真でも見ているかのように。そして、痛ましいほどに痩せた彼女の口元は、血で汚れていた。
 セライムは鮮烈な赤に混乱した。すぐに病院に行かせなければと思ったが、一瞬でも目を離せば彼女は雨に溶けてしまうようにすら思えた。彼女の存在はそれほどまでに希薄だった。
 だが、セライムが言葉を失っているのと同時に、灰色の女もまた、これ以上なく目を見開いていた。まるで、あるはずのないものを見るような顔で、彼女は停止していた。
 お互いの顔が近い。灰色の女は、口元を歪ませた。


「――アラン?」


 ぱっと、セライムの視界が焼けた。耳に飛び込んできたその呼び名が、ざわりと胸を粟立たせた。雨の音が失せてゆき、代わりに今しがたの単語が耳の中で何度も木霊する。
 父の、彼女の父の名前であった。
「――なんで」
 言葉がもつれて、思うように動かない。目の前の女が、何故その名を知っているのか。それを、確かめなくてはいけなかったのに。
 女は一瞬で我に返ったようだった。灰色のローブを翻し、突き放すように彼女は立ち上がった。ふらついて隣の壁に手をついて、モノクロームの瞳でセライムを見下ろす。
 その顔は、泣きだしそうに歪んでいた。驚きと混乱を浮かべたまま、灰色の女は驚くような速さで印を結んだ。
 背筋が凍るような感覚は、周囲の力が収束していることを示す。それも彼女一人に向けて。こんな短時間で肌に感じられるほどの魔力を操る人間を、セライムは見たことがなかった。ふわりと灰色のローブが波打ち、灰色の女は大地の束縛から解き放たれる。
「ま、待って――!」
 セライムが手を伸ばしたが、遅かった。一瞬にして灰色の女は空を渡り、雨の中に消えてしまった。だがその姿が消えた方角を、セライムはじっと見つめていた。その身が濡れるのも、もう何も感じられなかった。
 あの方角は――歓楽街。
 セライムは、唇を噛み締めて走り出した。

 パズルのピースがまた一つ、手の平に落ちる。


 ***


 ようやく雨が止んだその日、俺が働く鷹目堂にひょっこり姿を現したのは、レンデバーだった。
「……」
「何、そんな豆鉄砲くらった鳩みたいな顔して。僕が来たら迷惑? 迷惑かな?」
「い、いえ」
 ずい、と近寄られて、俺は数歩下がりながら首を横に振った。するとレンデバーはしたり顔でニッと悪戯っぽく笑う。
「僕ね、夢と希望に満ち溢れた冒険活劇が読みたい」
「……そういう本でしたら、そっちです」
 ここが二階で良かったと思う。一階にはハーヴェイさんがいらっしゃるので、なんとなく知り合いが来ても喋りづらいのだ。
 レンデバーは老舗の佇まいに甚く感心したように、へぇとかふぅんとか言いながら置いてある本を漁っている。物色の邪魔をする気にはなれなかったので、俺は少し離れたところで本の整理をすることにする。働き始めて一年も経ったので、そんな仕事も慣れたものだ。おお、と一際驚いた声がしたので振り向くと、レンデバーが一冊の本を取り出して表紙に見入っている。
「これ、『炎の天使』の初版じゃん! しかも発禁にされた方の」
「ああ。それですか」
 炎の天使とは、かの大貴族ウッドカーツ家と最後まで戦い、哀しく散っていった女将軍プリエルの物語を書いた伝記である。数十年前の小説家が書いたもので、プリエルが戦の折に敵側から炎の堕天使と呼ばれ恐れられたことから、そんなタイトルがついている。読んだことがないから、どの程度正史に基づいているかは知らないが、特に戦と恋愛の描写が過激すぎて一度発禁処分をくらっているそうだ。その後、読者たちの運動で復刻し、今は悲恋ものの王道として定着している。物語の主軸が、ウッドカーツ家というよりはプリエルとその恋人にあるからである。最後は二人とも非業の死を迎えるのであるが。
 俺は本を棚に詰めながら、そういえばそんな本ハーヴェイさんがどっかの古本市で発掘してきたっけな、と思いだしていた。ハーヴェイさんは、珍しい本があるとポンポン買うのだが、一度自分で読むとあっさり店に安価でだしてしまうのだ。その為にこの店には妙にマニアックな本が掘り出しものとして置いてあり、一部の生徒や学者に好評を博している。店が繁盛しようと、顔色ひとつ変えずにどーんと構えていらっしゃるのがハーヴェイさんなのだが。
「じゃあこれちょうだい」
「……それ、夢と希望に満ちた冒険劇ってより、愛憎に満ちた策略劇って感じですけどいいんですか」
「いいの。面白そうだし」
 客がそう言うのなら、こちらも文句は言えない。カウンターに戻って、一度本を受けとり、会計を済ませる。安すぎないかと言われたが、苦笑で返すしかなかった。ハーヴェイさん、自分が気に入らない本はぎょっとするような値段で叩き売るのだ。あんまりこういうドロドロした話はお好きではないらしく、ここに置いてある恋愛系の小説は大抵安い。まあ、その安さにつられて中等院の女子生徒たちがよく買っていくから、いいっちゃいいんだろうけど。
 階段の下から何やら慌ただしい声が聞こえてきたのは、お釣りを渡して本を包んでいるときのことであった。鷹目堂への来客を告げる扉の鈴が甲高く鳴り、老人の叫び声が二階まで聞こえてくる。
「大変じゃあ!」
「ん?」
 俺とレンデバーは顔を見合せて、お互い首を傾げる。とりあえず階段を途中まで降りてみると、一階で血相を変えて肩で呼吸しているお爺さんがいた。あれは確か、雑貨屋のカルメーロ爺さんだ。
 普段温厚な目を血走らせ、杖で体を支えるカルメーロ爺さんの様子に、只ならぬものを感じて俺はハーヴェイさんを見た。一階の会計所にいたハーヴェイさんも、怪訝そうに立ちあがる。だが、駆け寄る前にカルメーロ爺さんが叫んだ。

「ティティルが、病院に運ばれたっ! 屋根から落ちたそうなんじゃ!」




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