-紫翼-
二章:星に願いを

08.闇に生きた者



 鷹目堂の閉店時間が早いその日、俺は帰りに買い物でもしていこうと大通りを歩いていた。
 だが、周囲への警戒は怠れない。いつ何時にあの黒いローブが襲来してくるのか、分かったものではないからだ。拉致されたら最後、門限ギリギリまで帰れなくなるし、下手をすると本当に帰らぬ人になってしまう。
 ああ。自由なる俺の暮らしは、一体何処に行ってしまったのだろうか。
 憂いを込めて空を見上げれば、そこにはのびやかに広がる雲たちと、小さな影。
 その影は、まるで俺と目が合ったかのようにくるりと一度旋回して、一直線にこちらに突撃してきた。
「――ん、のぉっ!?」
 ああ、これは嫌な予感――と考えたときには、俺は紫の鳥セトの特攻を顔面にくらっていた。なんとかのけぞって直撃は免れたが、代わりに背中がびきりと引きつってくれる。
 周囲の人が驚いて振り向く中、セトはすました顔で俺の肩にとまった。そしてまるで俺の頭が邪魔だと言わんばかりに、ごりごりすり寄ってくれる。俺の肩にとまるには、こいつはちょっと大きすぎるのだ。
「……おーいセト、お前は俺をその辺に生えてる木と勘違いしてないか?」
 セトがとまった肩の反対方向に首を折りながら、樹木でないことを示すために歩き出す。しかし、セトはむしろ楽ちんだと言うように堂々と胸を張っているのだった。周囲からくすくす笑い声が聞こえてきて、もう帰りたくなる。
 心から溜息をついて、俺は仕方なくセトの紫の翼を撫でてやった。何でこうなるんだ。
「セライムもなんかおかしいし」
 そうだ。今日は、本当はセライムと共に改めて新聞社の事務所を尋ねるはずだったのだ。だが、セライムはここ最近様子がおかしい。何かをずっと考え込むようにしているし、今日のことも、面と向かってあいつは言ってきたのだ。
 ――すまない、ユラス。このことは、暫く私一人で調べてみたいんだ。
 あいつらしくない思いつめた表情で、しかしはっきりと、あいつは俺の助力を断ってきた。何かがあったのだろうか――だが、軽々しく聞ける様子ではなかった。
 難しいものである。人付き合いというものは。

「あれ、ユラス君」
「うん?」
 首を傾けたままなので、呼びかけてきた人を認識するまでにやや時間がかかった。
「あ――」
「やっぱユラス君だっ。あはは、珍しい鳥だねぇ。飼ってるの?」
 ばったりと出くわしたのは、いつぞやにダルマン先生から逃亡しようとした俺を助けてくれた、あのお兄さんだった。
「えーと、レンデバー、さん?」
「さん、とかつけなくていいよ。それとも僕、そんなに歳いってるように見えるかなあ?」
「い、いえ」
 慌てて俺は首を振った。髪が触れるのか、セトが煩わしそうに身を揺すらせる。お前、俺を何だと思ってるんだ。
 お兄さん――レンデバーは、今日は丸っこい帽子を被り、薄い生地の上着をさらりと羽織っている。そういえばと思って、俺は若干慌てた。
「あ、あの、この前の服――」
「うん? ああ、いいって。あれ、君にあげるよ。グレイヘイズに新しいの買ってもらったし。ねえ、グレイヘイズ?」
「……たまには自分で買いに行くという選択肢を持って頂きたいものです、レンデバー」
 ぬっ、と突然大山が立ちあがるように灰色の影が被り、俺は背筋を泡立たせて数歩下がった。
 レンデバーの背後から大魔神のごとく顔を見せたのは、金髪を刈り込んだ頑強な男の人であった。歳は恐らく、30を越えた程度であろう。見上げるような巨体と、服の上からも分かるほどに盛り上がった筋肉、そして岩で人の顔を作り出したような厳めしい顔立ちが、見る者にこれ以上ない威圧感を与える。
「紹介するよ、彼はグレイヘイズ。僕の護衛兼秘書」
 嬉しそうにレンデバーが腰に手をあてて言うと、そのグレイヘイズという人も無言で会釈をしてきた。ガクガクと俺は壊れた人形のように頷くしかない。だってこの人にかかったら、俺なんて雑巾絞りの要領で体を引きちぎられることに間違いない。
「……ど、どーも。軍人さんみたいですね」
「よくお分かりで。元軍人です」
「へっ」
 この都市に住む人と比べるとびっくりするくらい焼けた肌をしたその人は、俺を見下ろして僅かに表情を緩めた。
「陸軍に数年ほど。今はただの小間使ですが」
「やだなあ。召使みたいに言うなんて心外だよ」
 子供っぽく頬を膨らませたレンデバーは、俺の腕を掴んで大股で歩き出した。
「いこ、ユラス君。君とはお話してみたかったんだ。グレイヘイズは先に帰ってていいよ」
「――って、ぅえ!?」
「了解しました。夕食までには戻って下さい」
「――ちょ、んなっ!?」
 俺の悲鳴など全く無視して、物事は進んでいく。護衛の筈であるグレイヘイズは、止めるどころか踵を返してしまうし、俺はほぼ無理矢理連れていかれる。足が長い人だから歩くのも早く、俺が体勢を崩すと不満げにセトが翼をはためかせた。なんて理不尽なんだ。
「おいセトっ、暴れるなっ」
「へえ、その鳥、セトっていうのかい」
「ええそうなんですけどっておい、突っつくなっ! いやごめんなさい突かないで下さいッ! そこ耳だッ」
「あはは。おもしろい相棒だねえ」
 不機嫌も露わに俺の髪をついばみにかかってくれるセトを思わず振り払うと、やっとのことで退いてくれる。そのままセトは、ひらりと翼を翻してどこかに飛んでいってしまった。
「……何しに来たんだ、あいつ」
 俺をからかいに来たようにしか思えないのだが。相変わらず、謎な鳥である。

 そんな一悶着があって、俺たちは結局菓子屋ディヴェールに落ち着いた。レンデバーが、俺のお勧めの店を教えてくれというから、そこになったわけである。セライムが働いている喫茶店でも良かったんだが、今のあいつの様子が脳裏に浮かんで、なんとなく足が向かなかった。
「良い店に辿り着くには、地元の人に聞くのが一番だ。あそこで君を助けて本当に良かったな」
 くすくすとレンデバーは琥珀色の瞳を猫のように細めて笑う。しかし、何故俺と話がしたいなどと言いだしたのだろう。そう問うと、レンデバーは冷たいお茶を口に運びながら、正面に座る俺に悪戯っぽい視線をくれた。
「だって、聖なる学び舎グラーシア学園の生徒でしょう? まさか生きている内に、在学生と話ができるなんて思いもしなかったよ。興味あるんだ、君たちに」
 そう語るレンデバーは、自分の身の上を話してくれた。どうやら商人の息子らしく、家から独立して商売を始めようと、国内各地を渡り歩いているらしい。特にグラーシアは学者の都市として栄えている為、良い商談があるのではないかと前から目をつけていたそうだ。
 しかし、身なりの良さや、こんな若さで護衛が雇えているのを見るに、きっと元からかなりの金持ちなのだろう。話ぶりも切羽詰まった感じではないし、仕事も娯楽の一つと考えているようだ。
 俺たちのテーブルに乗っているのは、暖かい紅茶でなく、新鮮なハーブの水出し茶であった。透明のポットに大小鮮やかな緑のハーブが透けていて、見た目にも涼しい。今日みたいに気温も上がる日には、冷たくて爽やかな香りのするこのお茶が気分をほぐしてくれる。
 苺のタルトをフォークでついばみながら、俺は暫くレンデバーの質問攻めにあっていた。グラーシアでの暮らしぶりに、よほど関心があったらしい。身の上などを聞かれはしないかと冷や冷やしたが、レンデバーは俺個人のことについてはあまり触れてこなかった。
「へぇ、そんなに一杯課題がでるんだ。今時の学生ってのは、良い御身分でもないんだねぇ」
「俺なんかはいい加減な研究室に入ってるんで、楽な方です。でも医学とか専攻したら早朝講習もあるし、かなり忙しそうですよ」
「そう? 君も色々大変そうに見えるけど」
 面と向かって言われると、乾いた笑いしかでてこなかった。やっぱり俺、傍から見ても慌ただしい生活を送っているのだろうな。主にあの黒ローブの教授によって。
「それに、若いころから働いているなんて感心するよ。僕なんか遊んでばかりだったし」
 レンデバーは言いながら、小さな冊子を取り出した。表紙を見ると、リーナディア合州国の観光案内誌のようだ。こんなものがあったのか。
「この雑誌、グラーシアのことはあんまり書いてないんだよね。ここに書いてないところで、なんかお勧めある?」
「ここはあんまり観光向けって都市じゃないですからね」
「もうちょっと遊びたいよー。せっかく来たんだし」
 唇を尖らせて長い足をばたばたさせるレンデバーは、こうやって見るとなんだか年下のようだ。冊子を受け取ってページをめくると、グラーシアの観光案内の内容が飛び込んでくる。
 大きく取り上げられているのは、グラーシア国立図書館であった。血に濡れた11年の戦火をかいくぐり奇跡的に焼け残った貴重な文献なども所蔵する、国でも最大の図書館――。続いて、著名な研究家の研究室をそのまま資料館として公開しているところ――って、都市にこんなところがあったなんて知らなかった。あとはちまちまと郷土館や博物館などが数件並び、次のページは違う都市の案内に入ってしまっていた。
 うん。まあ、やっぱりグラーシアは観光には向かないところなんだろうな。案内の中にも、無闇に夜道を一人で歩くなとか書いてあるし。閉鎖的な住人を抱え、また一方で人の出入りが激しいこの都市は、割と治安が悪いのだ。それに、月のない夜道を一人で歩いていたりしたら、どっかの科学者にさらわれて人体実験をされたなんて噂が実しやかに語られていたりもする。本当かどうかは知れないけれど。
 案内誌に載っているグラーシアの地図には、レンデバーがつけたらしき書き込みがしてある。それのある点に目が止まって、俺は慌てて指差した。そこは、都市の南東に位置する歓楽街だったからだ。
「あの、もしかしてここ行ったんですか」
「ん? ああ、グレイヘイズと行ったよ。面白いところだったなぁ」
 歓楽街といえば、悪いお兄さんがたむろするところである。ヴィエル先輩くらい貫禄があるお方なら、行っててもまあそうかと思うが、このお兄さんは大丈夫だったんだろうか。まあ、あの護衛がついていたら、どんな敵がでてきても片手で血祭りにあげそうだけど。
 口を開け閉めしている俺に、レンデバーはべっこう色の髪をいじりながら笑いかけた。
「あはは、そんな顔するほど怖いところじゃなかったよ。飲み屋さんが並んでてさ、賑やかで人も多くて女の人も一杯いたりで、これぞ夜の街って感じ?」
「そ、そうですか――でも、正直他に観光して楽しいところっていっても特に……」
「そうかぁ。真面目にお仕事しなさいって神様のお告げかなあ」
 冊子を返すと、レンデバーはぱらぱらと暇そうにページをめくって、最後の辺りで手を止める。そうして、新しい玩具を見つけた子供のような笑みを浮かべ、顔をあげた。
「ねえ、ユラス君。ゲームをしようよ」
「へっ?」
 レンデバーはニッと口の端を吊り上げて、広げたページをテーブルごしに見せてくれる。そこにあったのは、リーナディア合州国の歴史と、歴代大総統名一覧であった。
「天才と分類された君に挑戦だ。初代大総統ウェリエル・ソルスィードから、現大総統ヴェンダー・ハリュメナまで、全員の名前を言えるかい?」
「え――」
 俺が目を瞬くと同時に、ぱっとページは閉じて隠されてしまう。切れ長の瞳にこちらを探るような光を宿しているレンデバーの前で、俺は頬をかいた。歴代大総統名、言えないこともないか――?
「もし君が勝ったら、今度ここのケーキをショーケース一列分、一つずつ全部奢るよ」
「やります」
 間髪いれず答えた。男には、やらねばならない時があるのである。
 でもなんでこの人は俺が甘党であることを知っているのだろう。まあ、現時点でケーキを三つ頼んでいる俺を見ればわかるんだろうけれど。それにしても察しがいい人である。
「でも俺が負けたらどうするんですか」
 ショーケース一列分といったら、ケーキは軽く10個を超える。その代価には何をやらされるんだろうか。
「うーん」
 レンデバーは髪を指に巻きつけながら、ちらっと窓の外に視線をやった。うう、なんか怖い。
 だが、その答えは全く予想だにしない方向に転がって、俺の目を見開かせた。
「じゃあさ、僕の友達になってよ」
「へ」
「うん、そうしよう。僕さ、これからここでお仕事するでしょ? そしたら困ることも出てくると思うんだ。そういうときに、君に相談に乗ってもらったり、助けて貰ったりしてもいいかな」
「……」
 いや、満面の笑みでそんなこと言われたって。
 俺、その辺にいるただの学生だし。
「あの。俺、あんまり役に立たないと思いますけど」
「いいよ。地元の人に味方がいるとそれだけで心強いし。友人として、君が出来る範囲でいいんだよ」
「……そのくらいだったら、別にゲームとか関係なしでも構いませんけど」
「あはは。ユラス君は優しいなあ」
 俺を眩しそうに見るレンデバーは、とても悪い人には見えない。俺も助けてもらったし、困るようなことがあれば、助けになりたいと思う。
「じゃあ僕は何もいらないや。君が負けても、何もしなくていいよ。じゃあどうぞ」
 若干温くなったお茶のカップを弄びながら、レンデバーは興味深げに俺を見つめた。
 まあ、この人がいいならいいか。そう思って、俺はゲームを始めることにした。頭の中の本棚から、歴史のページを引き出して、名前を紡ぎ始める。
「分かりました。えっと、まずは初代大総統、ウェリエル・ソルスィード。次は、二代目の大総統――」
 レンデバーは、何度も頷きながら紡がれる名前を聞いていた。


 ***


 体が重いのは、季節のせいだと思っていた。一年前の、何もかもが壊れてしまった春の日のことを思い出してしまうからだと。
 シェンナは、不意に感じた眩暈に足をもつれさせ、灰色のフードの下にある同じ色の頬をこわばらせた。ここのところ食欲がわかず、あまり物を口に入れていないからかもしれない。
 早いものだと思う。あの崩壊の日から瞬く間に時は過ぎ、季節は急ぎ足で巡り、再びこの季節がやってきてしまった。そして、今だに紫の少年は人間として、己の正体を知ることもなく過ごしている。
 それが嬉しいのか、哀しいのか、彼女には分からなかった。彼女に希望と絶望の両方を与えた少年だ。胸の中にわだかまるものは、故に彼女を縛り付ける。彼の監視という目的。今の彼女はその為に生きていると言えるかもしれない。
 闇に生きた者の末路としては、それも似合いかと、心の不鮮明な部分が呟く。所詮、この呪われた体では陽の下を歩くことはできないのだと。
 しかし、シェンナはだからといって、ルガのように自らの命をかけて動くような真似はできなかった。彼女には、ドミニクがいた。年の離れた弟のような存在であるドミニクだけは、幸せを知る生き方をして欲しかった。
 だがドミニクは去年の秋の一件の後、塞ぎこんだまま隠れ家から出てこようともしない。話しかけても返事はほとんどなく、このまま憔悴は彼を死に追いやるのではないか思うほどであった。しかし、おおよそ人並みの愛情に触れずに育ったシェンナには、自分でそれを与えられる自信はなく、ただ薬を飲ませ、食事をとらせることしかできない。
 いずれにせよ、彼女の心は灰の中に沈んだままであった。
 その日に覚えた眩暈も、だから初めは軽い不調からきているのだと思った。だが、平衡感覚を取り戻したと思った次の瞬間の衝撃に、彼女は電流が走ったかのように目を見開いた。
「――っ」
 ぎゅぅっと世界が遠ざかってゆき、全身が凍り、体がねじれるような痛みに噎せる。ごぼっ、と嫌な音が喉元から唸り、反射的に口元を押さえた手の指の間から紅い液体が滴った。
 何が起こったのか理解した頃には、もう立っていることもままらなかかった。
 灰色のローブに、赤黒い染みが散る。彼女は抗うこともできずにその場に座り込んで、目を固く閉じ、それが過ぎ去るのを待つしかなかった。
 血の味に舌が痺れる。苦悶の表情を浮かべたまま、暫くするとようやく痛みは収まってくれる。立ち上がったシェンナは、ふらふらと足を踏み出した。体に力が入らない。衝撃が全ての思考を麻痺させて、まるで夢の中にいるようだ。それも、この上ない悪夢の中に。
『まさか』
 荒い呼気を放つ喉が、空気を求めて喘ぐ。渇いた咳は同じ味。歪む世界。壊れていくもの。同じではいられないもの。

 ――そう、お前たちは。

 モノクロームの瞳の奥底で、暗がりに佇む人影が、表情を浮かべずにこちらを見下ろしている。まるで何かに取り憑かれたように、唇だけが動いている。

 ――お前たちは。

 衝撃が背筋を走った。
 シェンナは、踵を返して走り出していた。所々赤黒く汚れたフードがあっという間にめくれ、灰色の髪が零れ出る。だが、そんなことを気にしている余裕はも今はなかった。よたつく体はろくに言うことを聞かなかったが、それでも歯を食いしばって帰路を急いだ。
 そこに辿り着くまで、どの程度の時間を要したか、自覚はなかった。ただ、前の年の春から潜んでいた住処に飛び込むと、ひったくるように注射器を取り出して採血をした。あの場所から、必要なものは持ち出してきてある。
 質素な机を埋め尽くすは、見慣れた大小のガラス容器や器具。なのに、手慣れているはずの作業をする指が震える。がちゃがちゃと不用意にガラス容器がぶつかって音を立て、いくつかの入れ物が倒れて液体を垂れ流しにする。だがそれには目もくれず、シェンナは最後に目を見開いたまま液体をガラス棒で白い紙の上に落とした。

 ――お前たちは、失敗だ。

「……」
 しんと静まり返った世界に、耳が痛くなる。体が宙に浮いているような現実感のなさがまとわりつく。
「――!」
 だが、あることに思い当るとシェンナは奥の部屋に駆け込んだ。そこには、同じ色をした少年が蹲って眠っていた。頬に、何かが伝った筋。だがシェンナは、無言で少年を叩き起した。
「――ん、え、シェンナ? なに?」
 突然腕を掴まれて顔を歪めるドミニクにも、シェンナは先ほどと同様のことをした。腕に注射針を立てられることなど、呼吸に等しい行為であった為に、ドミニクはそう嫌がったりはしなかった。ただ、シェンナの目の光がいつもと違うこと、そしてその口元が血で汚れていることに、幼い少年は不安げに顔を伺う。
「シェンナ……?」
 自分の血を使って何かの実験を行う背中をぼんやりと見つめて、ドミニクは呼びかけた。だが、そんな声ですら今の彼女には届かない。
 ばん、と彼女は突然荒々しく机を叩く。すくみあがるように、ドミニクが震えた。ここ数カ月で、すっかり憔悴して痩せた体が、怯えた様子で縮こまる。
 シェンナは、唇をわななかせて試験結果を見下ろしたまま動かない。

『……時間がない』

 掠れたようなルガの声が、耳のどこかで響く。彼は、あの時既にこの事実を知っていたというのか。
「ねえ、シェンナ……?」
 いびつなものに、許される場所はなく。
 想いも体も、ただ風化するしかない。
 ならば、何もかもを抱えたまま消えていくしかないのだろうか。
 試験紙の色は、無機質に事実のみを語りかける。
 ――彼らに許される時間は、もう、残り少ない。




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