-紫翼-
二章:星に願いを 07.手持ちのカード 「もう俺あそこ嫌だーっ!!」 普段の二倍の砂糖を入れたコーヒーを片手に、俺はテーブルに泣き伏した。おいおい泣いた。 「……へぇ、珍しく苦労してるんだねぇ」 スアローグは反対側の席で課題をこなしながら、皮肉げに笑う。そうして、白い紙に化学式をさらさらと書きこみながら、ふうと息をついて頭をかきまわした。 「クラーレット・ユーリズといえば、聞いたことがあるよ。確か一つ下の学年の首席だったと思うけど」 「首席?」 涙でややしょっぱくなったクッキーを齧りながら顔をあげると、スアローグはペンを置いて頷く。 「ほら、試験後に成績優秀者が張り出されるだろう? よくそこで見たものだよ、その名前」 そこまで言うと、椅子の背にもたれて口の端を片方だけ歪めてみせた。 「でも召喚術に興味持ってたなんて、人とは考えることが違うのだね。全く、考えなしの君とは大違いだ」 「う、うるさいやーい」 ろくに反論もできない俺は机に体を預けたまま、ずず、とコーヒーを飲む。俺があの研究室に行くことを決めた理由について、知っているのはこいつだけなのだ。 スアローグはそんな俺を見て、肩の力を抜くように苦笑した。 「そういえば、確か僕たちの学年に兄の方がいたはずだよ。こっちも秀才だって聞いてるけれど」 「へえ。兄弟でグラーシア生か」 「まあ、君にはいい薬になるんじゃないかい。少しは真面目にその召喚術とやらを完成させてみたまえよ」 「……お前はアレを見てないから言えるんだ」 今日の夢に出てくること間違いなしの黒ローブを思い出して、げんなりする。 「良いことじゃないかい。召喚術なんて完成させたら、多分数百年は名前が残るよ」 「俺は平穏なる人生を望むんだ」 「どの口が言ってるんだか」 スアローグは大袈裟に肩をすくめて、再びペンをとった。俺は明日からのことを考えて、この上なく泣きたくなったので、とりあえず新しい菓子の箱に手を伸ばした。 *** 「……ダルマン先生が?」 「ええ」 学園長がきょとんと目を瞬かせる。ライラック理事長は苦笑して膝の上で手を組みなおした。 「学内で不審者の目撃が多発していると聞いて調べたてみら、ダルマン先生だったというわけです」 「それは――珍しいですねぇ。あの先生、私が学生の頃から人前に出てこないことで有名でしたよ」 扉が開け放たれたままの学園長室は、主人の気質を表すように程良く落ち着いている。質の良い黒革のソファーに腰かけたライラック理事長は、そんな心地よさにほっとする思いで、額をハンカチで拭った。 「学外に出ているという話もありますし。警視院の世話にならないと良いのですが」 「それは流石にないでしょう? 相当有能な方で、若い頃は各方面で活躍されたと聞いていますよ」 「何年も洗っていないような黒いローブに身を包み、奇妙な笑い声をあげつつ悪臭を撒き散らせながら道々を徘徊しているそうなんです」 「……」 紅茶のカップを持ったまま、学園長の眉が、へにゃっと下がった。ライラック理事長も、深々と溜息をつく。 「若い頃の業績があるものですから、教授会の方でもどうも手を出しあぐねているそうで」 「それは、中々に困りましたねぇ」 「この際、理事会の方で手を打ちましょうか」 「いえ、流石にそこまでは……」 とてもその地位の者とは思えない顔で学園長が目を泳がせた瞬間、リリリ、とベルが鳴った。学園長室に繋がっている電話の呼び出し音だ。 「失礼」 学園長は軽く会釈して、応接用椅子から立ち上がると、ゆったりとしたローブの裾をさばき執務机の上の受話器を取った。 「――はい」 『ぶぅあっかもーーんッッ!!』 音声による暴風が、吹き荒れた。 受話器から放たれたそれは轟音となって、部屋中を震撼させる。普段から些細なことでは動じないライラック理事長が体ごと飛び上がり、学園長は受話器を耳から離して数歩よろめいた。その間にも受話器からは、ライラック理事長にすら聞こえる音量で怒声が鳴り響く。 『電話をとるのが遅すぎるッ!! 小僧の分際で私を待たせるとは何事かええいこれだから若いモンはッ!!』 「……も、申し訳ありません」 学園長は机に手をつきつつも、ぷるぷる震えながら謝罪を口にした。学園長にここまで暴言をつきつけられる存在は、世界広しといえどライラック理事長には一人しか思いつかない。先代の学園長であり、今の学園長の才をはじめに見出した――オーベル名誉教授である。今は一線を退き、首都アルジェリアンに住んでいるのだが、時折ふらりと学園を訪れては色々とやらかしてくれる。 『うん? そこにライラックの若造もいるのか?』 聞こえてきた声に、ライラック理事長はびくりと顔をあげた。学園長が、ちらっとこちらを見て、再び背を向ける。 「い、いえ。私一人ですが」 今日ほど学園長に感謝した日はない、とライラック理事長は内心で考えた。 『ふむ、そうかの』 現学園長と理事長の恐怖の根源たるオーベル老は、フンと鼻を鳴らす。ようやく声量も抑えられてきたようで、ライラック理事長は胸を撫で下ろした。 『学園長、よく聞け』 「――はい」 学園長はふとオーベル老が声を潜めたのに気づいて、応接椅子に座るライラック理事長を意識した。なるべく声が漏れないよう、受話器を耳に押し付ける。こういう時のオーベル老に持ちかけられるのが大抵良くない話であるのを学園長はよく知っていた。 『お前の去年の実績を見た。学園長、お前の外面の良さは嫌味に過ぎるほどじゃ。だがの、私は常々思っておった。お前には時に良心という足枷を切る気概が足りんのじゃ。ほいほい他人を信用するのは結構だが、今年はそれで通用するとは限らんぞ』 「……ええ」 ふっと学園長は目を伏せて、小さく返事をする。オーベル老はまくしたてるように続けた。 『そういえば、お前の助けた小鳥は今も元気か』 「――はい、とても」 『結構なことじゃ』 電話の向こうで低く喉を鳴らすような笑い声が聞こえてくる。学園長はそれを笑わずに受け止め、目を閉じたまま次の言葉を待った。 『最後にひとつ。これがまあ、今回の電話の主な用件なんじゃがな。暫く旅行に出ることにした』 至極平坦に、世間話をする口調で告げられたことを、学園長は微動だにせずに受け止め、短く返事をする。それを受けて、オーベル老は得意げに語った。 『キヨツィナの北部にでも行こうと思っとるのじゃ。古代オビンプス文化の遺跡巡りがしたくなっての、今日中には発つ予定じゃ』 「それは――随分と遠出をするのですね」 『たまには外の空気を吸わんと息が詰まるわい。濁った空気に汚染された都市の住人には分からんだろうがな』 これには学園長も若干苦笑した。そして、己の後ろ盾の語る言葉を胸の内で整理し、静かに口を開いた。 「わかりました。――お気をつけて」 『ふん。貴様に心配される筋合いなどないわ』 酷く憎々しげにオーベル老は言い放った。だが、不意に語気を強めて呼びかける。 『学園長。お前の役割はなんだ』 その瞬間、刹那のことであったが、学園長が僅かにためらうように唇を震わせたことに、オーベル老は気付いただろうか。否。気付いていたからこそ、あえて老人はその問いを口にしたのだ。しかし、受話器に吹き込まれた返答は、しっかりとしていた。 「この学園を守ることです」 『――よろしい。理事長と仲良くな』 それだけで、電話は一方的に途切れた。学園長は受話器を耳から離し、考えにふけるように目を閉じた。 オーベル老が世間話の一つもせずに、一方的に連絡をつけてくるということは、それだけで事は緊急性を帯びている。そして、一つ目の話では、今後は簡単に人を信用するなと暗に告げていた。 二つ目を飛び越して、三つ目の言葉は、単純な連絡に見えて、実際は強い警告を意味している。アルジェリアンに住まう老人が、突然遥か東の大陸に旅行に行くなど、まるで何かから逃げるようだ。それは二つ目の話を合わせて考えれば、学園長が助けた『小鳥』に関係しているのだと分かる。オーベル老は、その『小鳥』に関することで、学園長からとんでもない頼みを請け負っていたのだ。 また、彼が遠くの地に行くということは、その間オーベル老からの援助を受けられないということでもあった。最後のさりげない一言は、自分が不在の間は理事長をうまく使えということだろう。 手持ちのカードから、最強の一手が消えていく現実を前に、学園長は対して動じた様子もなかった。去年の春にそのカードを切ってからは、二度と使えなくなるかもしれないとは考えていたのだ。 「名誉教授はなんと?」 背中にふと声が降りかかって、学園長は振り向いた。普段と全く変わらぬ、陽だまりのような表情を浮かべたフェレイ・ヴァレナス学園長の姿で。 「ええ――お説教を貰ってしまいました」 学園長は受話器を置きながら、水色の髪を揺らして、困りました、と呟いた。 *** 月に一度の、教授と講師を含めたグラーシア学園高等院の職員会議を終えて、レインはミューラと肩を並べて歩いていた。 「もう。教授陣の言うことといったら予算予算、予算。予算の話のときだけ目を輝かせて、あとは寝てるだなんて! あの方々は生徒を何だと考えてるのかしら」 不機嫌さを隠すこともせずに眉を吊り上げるレインに、ミューラは苦笑して眼鏡の位置を直す。 「彼らだって、成果をあげなければ学園を追い出されてしまうわ。それにその分、あなたのように担任を持つ講師を信頼しているのでしょう」 「信頼ではありません。ただの無関心ですよ」 切りそろえられた青髪を払う彼女は、そう辛辣に言い捨てた。若さゆえの組織への反発だろうか。彼女よりずっと年上のミューラは内心でくすりと笑う。レインという同僚の潔癖ぶりは、職員内でも有名であった。今だって、周囲には何人も職員がいるというのに、平気で不満をぶちまけている。わざと、人に聞こえるように言っているようでもある。良くも悪くも、一本気な教師なのだ。 「あ、そうだ。ミューラ先生。この前、耳に挟んだんですけれど」 中央棟の会議室から、ミューラの持ち場である医務室まではさして遠くない。最後の階段を下りた辺りで、レインは思い出したように小首を傾げた。 「学園長とミューラ先生、学生時代に同期だったって本当ですか」 ミューラは睫毛を震わせて、一瞬言葉に詰まった。だが、それを繕うように視線を床に這わせる。 「え、ええ――そうよ。よく知ったわね、そんな昔のこと」 やっぱりそうなんですか、と感心したような表情を見せるレインは、そんなミューラの一瞬の迷いに気付かなかったようだ。ミューラは内心で胸を撫で下ろした。その事実は、心の表面を爪を立てて引っ掻かれるような想いを呼び起させる。 しかし、何も知らないレインの無邪気な問いが続けて降ってきた。 「昔の学園長って、どんな生徒だったんです?」 あれは、古ぼけて滲んだ、教室や、廊下、窓の外で揺れる木々。その合間の黄色い日差し、むっとする雨の匂い。 またあるいは、星空の下だった。 頭上に散る星屑たちの美しさなど、あの頃は知らなかった。ただ、目の前で起きたことを理解しようとするのに精一杯で――。 飴色に甘ったるく、しかしそれ以上に鮮烈な色が、視界を焼く。 ざわざわと耳をかきならす人の喧噪か、または耳が痛くなるほどの静寂か。 めくられる本のページ。文の羅列を追う瞳。 水色の髪が、揺れていた。そこに、淡い水色の髪が、静かに揺れていた。 「――そうね」 ミューラは、閉じていた瞳を開き、まるで他人の口を喋らせるように語った。 「専攻も違ったし、あまり話したりはしなかったから。でも、成績の良さはよく覚えているわ。成績優秀者の一覧にあの人の名が載らなかったことは、一度もなかった」 そう微笑むミューラの瞳の奥で渦巻くものは、決して表面に出ることはない。年相応に落ち着いた彼女にとって、今はそれも、そっと胸の内に秘めておけるようなことなのだ。 遠い昔にあったことなど、あれは一時の淀みに過ぎない。それに、今の学園長は周囲の者に信頼されて、その立場の者としての使命を遂行している。ならばこそ、そこに不安の一粒を投じることはしまいとミューラは口を噤んだ。 星空の下に立っていた彼の姿。それはもう遠い過去のことなのだ。 Back |